第四十二話 夜間強襲
悪夢を見た。
いつもとは違う悪夢だ。
夢の中で、僕はあの一番最初の異世界にいた。
争いの無くなった平和な世界で、僕はあの娘と一緒に暮らしていた。
もしあの時、あのままこの世界に残ることができれば、あるいは幸せになることができたかもしれなかった。
だけどもう手遅れだ。
どこから見ても非の打ち所がないぐらい幸せなはずのに、今の僕は生きているという実感が得られない。
僕はもうすっかり変わってしまっていた。
あの娘が幸せそうに微笑みかけてくるその傍らで、僕はいつも満たされない何かに苛まれている。
行き場のない衝動が、胸の奥で黒い渦を巻く。
僕の精神は少しずつ飢えていき、
ついに――
――そこで目が覚めた。
いやにリアルな夢だった。
目が覚めた後も動悸が収まらない。
俺は夢の中で、一体何をしようとしていたのだろうか?
思い出せない。
忘れてしまいたい。
俺はベッドの横に立て掛けておいた剣を引き寄せた。
そのずっしりとした鋼の重みで、少しだけ落ち着きを取り戻す。
鞘の金具のひんやりとした感触が心地いい。
だが、どうしてもチリチリとした、浮ついた感覚が収まらない。
なんだこれは。
心当たりがあった。
戦闘が近い。
敵が近くにいる。
危機が迫った時の、あのなじみの感覚だ。
これは夢ではない。
俺は布団から飛び起きると、大急ぎで着替え、剣帯を身に着けた。
鎧は持ってきていない。竜に乗るには身軽な方がいい。
防具といえば、革製の小手と脛当て程度だ。
大急ぎで主塔から飛び出したものの、外はまだ静まり返っていた。
ダムの水面にも波一つ立っておらず、闇の中で黒々と星明りを反射させている。
ところどころで松明が焚かれ、見張りの兵士達が警戒に当たっている。
冷たい風が吹き、すぐそばにあった松明の炎が揺らいだ。
今の所、何一つ異常が起きている様子はない。
だが、間違いなく何かが起ころうとしている。
ひとまず、守備隊長のエベルトのところに行こう。
この時間なら、まだ主塔の自室にいるはずだ。
就寝中のところ申し訳ないが、たたき起こして警戒を強化してもらわなくては。
そう思って主塔に戻ろうとした瞬間、警告の声が上がるのが聞こえた。
声のした方に振り向くと見張りの兵士が城壁の外を指さしながら叫んでいる。
急いで鋸壁に駆け寄り、谷底をのぞき込む。
そこには無数の松明が点々とともされていた。
あちら側に人間がいるわけがない。オーク軍だ。
まったくいつの間にこんなに近づいていたのやら。
竜による哨戒はずっと続いていたが、オーク軍接近の報告が上がったことは一度もない。
恐らく、日中は森に潜み、竜の飛ばない夜にだけコソコソと移動してきたのだろう。
見張り塔の半鐘がけたたましい音を上げ始めた。
先ほどまで静まり返っていた要塞が俄かに目を覚ましていく。
主塔から次々と兵士が飛び出し、あちこちで点呼を受けながら配置に向かって駆けていった。
程なくしてエベルトが護衛とともに姿を現した。
「まずいですな。
魔法障壁の方はどうなっていますか?」
エベルトは開口一番、俺に尋ねてきた。
「今日の報告では、あと一週間ほどかかると」
俺は答えた。
既に魔法陣は薄っすらと光り始めていたが、まだ再起動には至っていない。
これでも予定よりは大分早く進んでいるのだ。
「むぅ……」
エベルトは難しい顔で唸った。
「あの大砲さえなければ、どうにかなるとは思いますが……」
そう言いながら彼は鋸壁の隙間から身を乗り出して、闇の中に目を凝らした。
「閣下!危険です!」
護衛の兵士たちが慌てて引き戻そうとしたが、エベルトはびくともしない。
「邪魔をするでない!
この距離ならまだあたりゃせんわい!」
エベルトの言う通り、松明の群れは城壁から十分な距離をあけて並んでいる。
距離が遠いせいで、敵の様子もさっぱり見えない。
「……何かがおかしいですな」
エベルトは鋸壁の隙間から体を戻しながら言った。
それから、守備兵に指示を出し始めた。
「おい、村にはもう伝令を送ったか?」
「はい!
休暇中の兵も、間もなく戻ってくるはずです」
「竜舎への連絡は?」
「同じく済ませてあります。
日の出る頃には王都ヘ第一報がつくかと」
今日は新月だ。夜間飛行をやらされる竜騎士は気の毒だな。
「よろしい。
それから、地下の神官達に応援を求めよ。
戦儀神官を引っ張り出してこい」
「はっ!」
指示を受けた守備兵は、周囲にそれを伝えるために駆けていった。
「エベルト殿。私はどうすればいいでしょう?」
俺が訊ねるとエベルトは難しい顔をした。
「勇者殿は……ご判断はお任せします。
最も必要と思われる場所に、ご自身でお向かいください」
適当に遊んでいろと言われてしまった。
まぁ、一応”元帥”とかいう肩書もあるし、指揮下に置いてしまっては彼もやりづらいところがあるんだろう。
俺も自由に動けた方がいい。
ありがたく好きにさせてもらうことにする。
まずは敵の動きを見極めなければ。
俺はもう一度谷底をのぞき込んだ。
しかし妙だ。
こんな奥まで灯りなしで忍び込んでおいて、なんだって今更火を使った?
推測ならいくつか挙げられる。
一つ、夜間行軍でバラバラになった序列を整えるため。
部隊の状況が把握できないまま攻撃を開始すれば、かえってひどい目にあうという判断だ。
戦術レベルの奇襲はできなくなるが、それでも事前に接近を把握されていた場合よりは有利に戦える。
二つ、あの明かりの下で、何か作業をしている。
例えば、例の巨砲の設置。
あるいは、放水にも耐えうる野戦築城。
日中に資材を持ち込めば作業が始まる前に流されてしまうが、闇を利用すれば接近することができる。
それでも作業そのものにはやはり灯りが必要だったという可能性。
だが、前回の放水以降、一層足場の悪くなった谷底を、それらの資材をもって夜間行軍などできるモノだろうか?
そしてどちらの可能性も危険な賭けだ。
こちら側が闇に向かって水門を開いてしまえば、全ておじゃんになる。
あるいは、水門を開けさせること自体が目的ということもありうる。
慌てた人類が急いで水門を開け、ダムが空になったところで翌朝以降に本隊が登場する。
十分にありうるな。これが三つ目の可能性か。
そして、四つ目。
あの灯りは囮で、こちらの注意を惹きつけるためのもの。
あんなに目立つ行為、どう見ても囮にしか見えない。
だが、本命はどこからくる?
〈竜の顎門〉の両脇は急峻な山岳に守られている。
ましてや、今は冬だ。
この辺りは雪が少ないとはいえ、とてもじゃないが夜間に十分な兵を送り込むことは――
「クチバシ犬か!」
突然隣でエベルト殿が叫んだ。
「あの忌々しい獣なら、谷の斜面を駆け降りることができる!
あの灯りは我々の注意を惹きつける囮だ!
奴らの真の狙いは〈門塔〉だ!背後から門を開けて、あの軍勢を招き入れるつもりだ!
だが、門さえ守り切ればどうとでもなる!
東側に兵を集めろ!
それから、念のため主塔の水門制御区画も警戒を厳にしておけ!」
エベルトは護衛についていた兵士達を伝令として送り出すと、自身も〈門塔〉めがけて走り出した。
さて、俺はどうしたものか。
エベルトの判断は順当だろう。
だが、俺は疑念をぬぐい切れずにいた。
本当にそれだけなんだろうか?
胸の内で、何かがゾワゾワと騒いでいる。
もう一度谷底を凝視してみるが、敵の様子はどれだけ目を見張ってもわからない。
少しして、西側の小さな見張り塔から、戦儀神官の一団が護衛の兵士たちとともに駆け出してきた。
かわいそうに、大魔法陣の間から、あの階段を全力で駆けあがらされてきたに違いない。
既に息も絶え絶えの様子だ。
ちゃんと儀式はできるのだろうか?
それと同時に、東側で次々と銃声が響いた。
被弾した兵士たちの悲鳴。怒号。
得体のしれない獣の咆哮。
戦闘が始まったらしい。
あれはクチバシ犬の襲撃で間違いあるまい。
エベルトの予想通りか?
それらの音を聞いて、死にかかっていた戦儀神官達の顔が引き締まった。
彼らはその場に跪いて、大急ぎで魔法陣の準備を始めた。
神官の一人が護衛の兵士に護符を渡し、受け取った兵士が〈門塔〉に向けて駆ける。
護衛の兵士たちが、神官の一団を取り囲むようにして警戒体制をとる。
彼らの盾にはすでに護符が貼られていた。
俺はもう一度鋸壁の間から身を乗り出して、谷底を確認する。
揺らめく松明たちは、戦闘が始まったというのにまるで動く様子がない。
もう疑う余地はなかった。
大物の予感がする。
これまでの小競り合いや、焼き討ちとはわけが違う。
久々の本物の戦に血が騒いだ。
不謹慎にも、笑みがこぼれるのを止められなかった。
なに、遠慮する必要はない。
これは正真正銘、人類のための戦いだ。
好きなだけ楽しんでしまえ。
俺は、この戦場のどこかにいるに違いない獲物を求めて駆けだした。
次回は2/27を予定しています




