第三十話 レッスン
俺に与えられている翻訳機能はオークには通用しなかった。
想定の範囲内だ。
これまでオークの声を何度も聞いているのに、それが翻訳されていなかったんだから当然だろう。
基本的に、この翻訳機能は俺を呼び出した人々の言語にしか対応していない。
これまでの異世界でも、それ以外の言葉については一々現地で覚えなくてはならなかった。
だから言葉を覚えるのは、いつの間にか俺の得意技の一つになっていた。
だが、今回のオーク語の学習はこれまで以上に難航しそうだった。
第一に、今回は言葉を教えてくれる通訳的存在が全くいない。
そして最大の障害は、オーク語の発話と聞き取りが非常に難しいということだ。
難しいというか、実質不可能だ。
オーク達の声帯は喉ではなく、豚のような鼻の方にあるらしいのだ。
つまり、彼らは鼻を鳴らして会話している。
まず、俺は自分を指さして名前を言った。
それから、同じように太郎――ルマから借りてきたオークにつけた仮の名前だ――を指さして、彼の名前を言うように促してみた。
何度か繰り返すと、俺が言わんとしていることを悟ってくれたようで、彼は何やら複雑に鼻を鳴らしてくれた。
無理やり文字にすると、「フガブールルブブルー」といったところだろうか。
聞くたびに違った音に聞こえるのでいまいち自信がない。
次に、ナイフとリンゴを並べて、同じように指さしてみた。
それぞれ何か鼻を鳴らしてはくれる。
なんとなく違うということはわかるが、聞き分けられるかと言われればかなり難しい。
発話に関してはもう言うまでもない。
見よう見まねで鼻を鳴らしてみたが、まったく通じている様子がなかった。
そもそも、鼻の構造が違うのだ。これはどうしようもないだろう。
幸いなことに、オークの方はこちらの発音をある程度聞き分けられるようだった。
少なくとも、「ナイフ」と「リンゴ」の違いはすぐに覚えてくれた。
*
それからしばらくの間、俺は毎日粉挽小屋に通い詰めた。
どうせ他にすることもなかった。
太郎はとても物覚えが良かった。
もしかしたらこいつは若い個体だったんじゃなかろうか。
小柄だったのもそのせいかもしれない。
俺にはオークの老若の区別はつかないので推測でしかないけれど。
俺は色々なものを倉庫に持ち込んで、その名前を太郎に教え込んだ。
それから、実際にやって見せることでいくつかの動詞を覚えさせることにも成功した。
おかげで「バケツをもってこい」だとか、「石を三つ並べろ」といった簡単な命令を出すことができるようになった。
ルマに俺の教育成果を見せると、彼は目を丸くして驚いていた。
ルマの一歩後ろから、ジョージ君も興味深げに俺がオークに芸を仕込む様子を見ている。
彼は近頃、粉挽小屋でルマの仕事を手伝っていることが多い。
人間不信気味の彼にとって、オーク相手の仕事は他よりも気楽に感じるらしい。
「か、閣下。私もやってみていいですか?」
ジョージが恐る恐るといった様子で俺に声をかけてきた。
最初にここに来たときはオークに近づくことすら嫌がったのにたいした進歩だ。
「いいですよ」
俺の許可を受けて、ジョージはやや嬉しそうな顔で、はにかみながら俺の隣にやってきた。
最近は、こうして少しずつ笑顔を見せるようになってきている。
「おい!バケツを持ってこい!」
ジョージは大きな声で叫んだが、太郎はきょとんとしたまま動こうとしない。
「聞こえないのか!バケツをもってこい!」
もう一度叫んでもやはり動かない。
太郎がジョージの声に少し怯えてしまっているように見えた。
「もっとゆっくり喋ってみたらどうです?
聞き取れなかったのかもしれません」
「はい、閣下。バケツ、もって、こい」
今度は猫なで声で、一語ずつ区切りながら指示を出したが、やはり太郎は動かない。
「太郎、バケツもってこい」
俺が指示を出すと、太郎はすぐに反応した。
先ほどから様子を見守っていたルマが、バケツをもってこちらに駆けてくるオークを見ながら感心したように言った。
「はぁ、さすがは勇者様ですな。一体どんな魔法を使ったんで?」
「いや、特に魔法は――」
あ、そうか。翻訳機能か。
翻訳機能によって、ルマやジョージには俺がこの世界の言葉をしゃべっているように聞こえているはずだ。
だが、翻訳機能が通じないオーク達には、そのまま日本語が聞こえているんだろう。
つまり、オークの太郎が覚えたのはあくまで日本語であって、この世界の人間語ではないのだ。
この無学な男に、このことを説明するのは微妙に骨が折れそうだ。
ちょっとまて、これは使えるかもしれないぞ。
「オークまで従わせるとは、さすがは神より遣わされた勇者様ですなぁ」
そんな俺を見て、ルマはしきりに感心している。
ジョージはやや拗ねた顔だ。
だが、俺の目標からすればまだようやく第一歩を踏みだした程度の状況だ。
最終的には、オーク達と交渉できるよう、俺の言葉を完全に理解できるオークの通訳を育てなければいけないのだ。
現状では、いくつかの名詞と、ごく簡単な動詞を理解できるだけだ。
これじゃオークと和平交渉なんて話にもならない。
だけど、今のところは実際に俺が手にしていモノや、身振り手振りで説明できる動作しか教えることができずにいた。
今のやり方の限界だ。
『国家』だとか『平和』だとかいう言葉も覚えていってもらわないといけないが、そういう概念を説明しながら言葉を教える方法なんて、俺にはさっぱり見当がつかない。
自分の頭の悪さが恨めしい。
さらにもう一つ問題があった。
オークにこちらの言葉を教えることはできたが、俺の方は奴らの言葉を全く理解できないのだ。
発音がうまく聞き取れないのが最大の問題だ。
何度も何度も同じ言葉を繰り返してもらったが、ブーブーフガフガという雑音にしか聞こえないのだ。
もしかしたら、オークと俺とでは聞こえている音の周波数帯が違うのかもしれない。
そうであれば、リスニングの方は完全にお手上げだ。
こちらの話を理解させることができたとしても、相手の言うことが全く理解できないんじゃ意味がない。
文字を使えればなんとかなるだろう。
だが、こちらの文字を教えるにせよ、相手の文字を教わるにせよ、取り掛かれるのはしばらく先になりそうだ。
そんなことを考えていると、こちらに向かってくる蹄の音が響いてきた。
嫌な予感がして顔を上げると、案の定メグだった。
例によって、腰に剣を吊った男装の侍女たちを連れている。
いい趣味だ。
今度はいったい何の用だろうか?
*
「ごきげんよう、勇者様」
メグは馬を降りると、俺に向かって騎士の礼をとった。
目の前の少女が何者かにようやく気付いたジョージが、さっと俺の後ろに隠れた。
多分面識があったんだろう。
だが、もう手遅れだ。
ジョージを目にした瞬間、メグの目がきらりと光ったのを俺は見た。
「今日はいったい何の用だ」
「ただのご機嫌伺ですよ。それと、勇者様が新しい家臣を雇い入れたと聞きまして」
そう言って、彼女は俺の背後をのぞき込んだ。
ジョージがその視線を避けようと反対方向に顔をそむける。
「初めましてでしょうか?
あなた、お名前は?」
メグはニッコリと微笑みながらジョージに名前を訊ねた。
もちろん、わかっていて聞いているんだろう。
「ジョージだ……です」
ジョージが顔をそむけたままぶっきらぼうに答える。
その様子を、何も知らないルマが何か微笑ましいものを見る目で見ていた。
だが、この人の善いおっさんが考えているような場面ではけっしてない。
「ほれ、ジョージ。貴きお方がお声がけくださったのだ。
ちゃんと目を見て答えんか」
ルマがニヤニヤ笑いながらジョージをフォローするが、それがかえって彼を追い詰めているとは気づかない。
「いいですよ。気にしませんから」
メグはそういってから、俺の方に向き直った。
「ねぇ、勇者様。
彼をどうお使いになるつもりですか?」
「特に考えがあるわけじゃない。
当面はトーソンに預けて、何か向いた仕事を見つけさせる予定だ」
「ふ~ん。
それなら彼を私にいただけませんか?
私、この子が気に入っちゃいました」
いい笑顔でそんなことをいう彼女に、ルマが目を丸くした。
ジョージはすがるように俺を見てくる。
「だめだ」
もちろん俺は却下した。
ジョージは渡さん。何に使うかわかったもんじゃない。
そんな風にかわいく拗ねて見せてもダメだ。
すると、ルマがこちらに寄ってきて、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの、閣下……」
「なんですか?」
「畏れながら申し上げます。ジョージのことでごぜますが、こちらのお嬢様が望んでコイツを取り立ててくださるというのなら……このまま粉挽やら帳面やらの下働きを続けるより、将来が拓けるんじゃねぇかと、そう思うんです。それに――」
ルマはチラリとメグの方を見て、それから小声で続けた。
「それに、大変かわいらしいお嬢様ですし……ジョージも嬉しかろうと……」
完全に善意で言っているのはわかる。
分かるが――
「勇者様! 彼の言う通りですよ!
絶対悪いようにはしません!
きっとジョージ君のためになるようにしますから!
大出世させて見せますから!」
「大出世ってどれぐらいだ?
どこぞの盟主ぐらいか?」
「あ~、大体それぐらいです。
男子の本懐ってやつですよね?」
そう言ってメグがニッコリ笑う。
こいつがこう言っている以上は絶対ダメだな。
ジョージを背中にかばいながら、俺はもう一度宣言した。
「絶対渡さん」
これ以上人間同士でもめ事を起こされてたまるか。
「……残念です」
メグは、悲し気に眉を八の字に下げて、がっくりと肩を落として見せた。
ルマも何か言いたそうにしていたが、結局それ以上は何も言わなかった。
背後でジョージがほっと息を吐くのが聞こえた。
「ところで、あれって、そこの粉挽小屋のですよね?
いいんですか? 野放しにしといて」
メグの視線の先にいたのは、バケツを抱えた小柄なオークだ。
ふふん、ちょうどいい。俺の訓練の成果をメグにも見せてやろう。
「あれはただのオークではない。
俺の言葉を理解し、命令に従うオークだ!」
俺が太郎にリンゴを三つ並べるよう指示を出すと、太郎は麦の倉庫に向かって駆けだした。
そして指示通り倉庫からリンゴを三つ持ってきて、俺の前に並べて見せた。
「おぉ! すごいですね!」
「そうだろうとも」
偉いぞ、腹が減っていても食べ物に手を付けないとは。
後でこのリンゴをおやつにやろう。
ちなみにレッスンの終わり際にリンゴを渡すと、太郎はそれを持ち帰って皆に分けているらしい。
こいつは仲間思いの、本当に偉い奴なのだ。
「……で、こいつをどうするつもりなんですか?」
「……」
俺にはオークと和平交渉を行うという遠大な目標がある。
だが、和平なんてものをメグが喜ぶとは思えない。
むしろ積極的に邪魔してきそうですらある。
どう答えたものか悩んでいると、彼女はその沈黙を勘違いしたらしかった。
「……いいですねぇ、勇者様は暇そうで。
私なんて盟主代行として寝る間も惜しんで駆けずり回っているのに……」
「それは好きでしてる苦労だろ。
もちろん、これはちゃんと目的があってのことだ。遊んでいるわけじゃないぞ」
「その目的とやらを聞かせてください」
メグが納得してくれそうな理屈を何とかひねり出さなくては。
「……手勢の不足を補うため、オークを戦力化できないか研究しているんだ」
いかにもこいつが飛びつきそうな完璧な論理だ。
これならば文句はなかろう。
「……あ、あの……手勢が欲しいのでしたら、うちの従士団からいくらかお貸ししましょうか……?」
メグがまるで可哀そうな人を見るような目で俺を見てきた。
誰もいない家の中で、父親がサボテンに話しかけているのを目撃してしまった時のような顔だ。
彼女は、オークを訓練したところで戦わせることなんてできっこないと思っているんだろう。
俺も思っていない。
「いや、いい」
「そうですか。それはともかく、この間のお祭りのせいで、神殿が少しピリピリしてるみたいですよ」
詳しく聞いてみると、オークグッズをヴェラルゴンに焼かせたあの騒ぎが、「勇者様がオークの呪いを鎮めるための儀式を執り行った」とかで近隣で少し話題になっているらしい。
そういえば、堂主も何かそんなことを言っていたような。
「神殿は異教の復活には少しうるさいですからね。
その上、オークと仲良くしているなんて噂が広まったら面倒なことになります。
こういうのは――」
といって、メグは先ほどのオークをちらりと見る。
「――あまり大っぴらにやらない方がいいかもしれません」
俺が何か言い訳をしようと考えていると、頭上を何か巨大な影が横切っていった。
見上げると、一頭の竜が館に向けて高度を落としていくのが見えた。
「あ、きっと王都からの使者ですね」
メグが竜を目で追いながら嬉しそうに言う。
「勇者様! 急いで戻りましょう! 私も一緒に聞いてもいいですよね?」
……タイミングがいいな。コイツ、使者がくることを知ってたんじゃなかろうな。
次回は12/5を予定しています。
久しぶりに黒犬さんも出てきます




