第十七話 竜騎士の誇り
風が荒れ狂っていた。
冬の竜骨山脈には、常に激しい乱気流が渦巻いている。
カイルは温かい羽毛に伏せていたいという誘惑を押さえつけ、顔を上げて前方を凝視した。
凍えるような雪混じりの風が彼の顔を引き裂くように通り過ぎていく。
その時突然、下降気流に叩かれて彼の竜は大きく高度を落とした。
次の瞬間には右翼を激しく持ち上げられる。
煽られて左に旋回しそうになるところを、逆方向に重心を傾けてかろうじて抑え込む。
山の気流は気紛れで、一瞬たりとも気を抜けない。
左右を飛ぶ僚騎達も編隊を組むどころではない。
正直なところ、針路を維持するだけで精いっぱいだった。
竜の疲労も激しい。
本来なら、野生の竜だってこんな高高度を飛んだりしない。
そもそも、野生の竜であればもう冬眠に入り始める季節なのだ。
この時期に竜骨山脈を飛び越えようだなんて、そんなことを言い出す人間が正気とは、カイルには到底思えなかった。
だが、前方を飛ぶそいつは、この嵐のような気流の中にあって微動だにしていない。
「化け物め」
その姿を見つめながら彼は忌々しげにつぶやいた。
カイルの父も竜騎士だった。
そして祖父も竜騎士だ。
竜騎士の素質は血筋に依存しない。
三代続けて竜騎士が出るのは非常に珍しいことだ。
祖父は多くの冒険譚を持ち、今も竜騎士団長を務める偉大な竜騎士で、同じく竜騎士団長であった父もあのヴェラルゴンを乗りこなす天才だった。
周囲が彼に期待の目を向けているのは知っていたが、彼自身はまだ何者にもなれていなかった。
それでも、いつかは父と同じ、あの白竜に乗ることを夢見て、ひたすらに努力を重ねてきたのだ。
しかしヴェラルゴンは、ある日突然現れた男に横取りされてしまった。
祖父のリーゲルはいつも彼に厳しかった。竜騎士の素質があるとわかってからは、誉められた記憶は数えるほどしかない。
その祖父が、あの男だけは神から使わされた勇者だとベタ誉めするのだ。
祖父ほど神を信頼していないカイルにとってそれは理解できないことだった。
あの男に、父の竜だけでなく祖父まで取られたような気がしていた。
カイルはブンブンと頭を振ってそんな考えを振り払った。
あの男の実力については否定のしようがない。
この乱流の中を平然と飛ぶのもそうだし、何よりあのヴェラルゴンを実際に乗りこなしてみせたのだ。
竜は神殿が認定した胡散臭い肩書を気にしたりしない。
不意に体が持ち上がり、数瞬後に再び強力な下降気流に叩かれる。
失速したかのように急速に高度が落ち、森林限界をとっくに超えた高山のむき出しの岩肌が目の前に迫ってくる。
重力が消え、体が鞍からはなれかけたところで、かろうじて命綱に救われた。
コントロールを取り戻すと同時に竜の首を上げ、翼を羽ばたかせて上昇を試みる。
竜の疲労は大きくなるが失った高度を少しでも回復さなければならない。
「集中しろ。気が緩みすぎだぞ」
カイルはそう呟くと、気合を入れなおした。今は飛ぶことに集中しなければ。
あの男の竜が高度を上げ始めた。
前方にはひときわ高い稜線がせまってくる。
あれを越えれば平地が見えるはず。
もうひと踏ん張りだ。
カイルは高度を上げるため、竜にさらに強く羽ばたくよう合図を送る。
カイルは強い疲労を感じた。
自身の感覚によるものではない。
これは竜の疲労だ。
いまだ一心同体の境地には程遠いカイルでも感じとれるほど、竜の疲労が濃くなっているのだ。
(だけど、これだけ苦労したってのに――)
山の向こうに待っている任務のことを考えると、どうにもやる気が起きなかった。
恐らく、彼の同僚たちも同じだろう。
こんなのは竜騎士の仕事ではない、というのが彼の認識だった。
会戦に際して空から敵を襲撃し、その戦列を焼き尽くす。
それが竜騎士の本来の務めなのだ。
もっとも、ここ十年程の間に竜騎士がこの『本来の仕事』をする機会はなかった。
偵察、連絡、哨戒、そんな名誉とは無縁の任務ばかりさせられている。
そして今回、竜騎士に新たな雑用が押し付けられたのだ。
(たかがオークの村を焼くだけだなんて――)
あの誇り高い、竜騎士の鑑とも謳われた祖父がどうしてこんな任務を引き受けたのか、カイルには全く理解できなかった。
*
「オークの村を焼いてもらいます」
俺がそう告げた時、リーゲル殿はとんでもなく渋い顔をしたものだった。
御前会議が終わってすぐ後のことだった。
「オークの村を焼くだけですか?」
他の参加者は既に退出し、部屋に残っていたのは俺とリーゲル殿だけだった。
そのがらんとした空間にリーゲル殿の悲しげな声が響いた。
「はい、それから荷車も」
俺は簡潔に答えた。
「……なぜでしょうか?」
それを聞いたリーゲル殿が問いを重ねてきた。絞り出すような声だった。
「正面からでは勝てません。ですから、敵の兵站を攻撃し撤退に追い込みます」
「無論、吾輩も勇者殿の意図は理解できます。
奴らとて、糧食を断たれれば退かざるを得ないでしょう。
しかし、なぜ我らなのですか!」
リーゲル殿が何を言わんとしているかが俺には分からなかった。
そこまで分かっているならあとは自明のことじゃないか。
「もちろん、これが竜騎士にしか成し得ないことだからです。
谷の出口を塞がれている今、オーク軍の頭上を飛び越えて後方を襲撃できるのは竜騎士だけです」
竜騎士だけ、という部分を強調してリーゲル殿に訴えかける。
俺は形式的には国王陛下から指揮権を任されたものの、実際に竜騎士団を動かすのはリーゲル殿だし、竜騎士たちが従うのも彼だろう。
この老騎士を説得するのは重要だ。
「おっしゃることはよくわかります、勇者殿。
しかし、オークの村は諸侯の収入源でもあります。
ただ焼くだけというのはいかがなものかと。
来年以降の収穫に支障が出ることも考えられます。
またこの場合は〈竜の顎門〉からの出撃となりましょうが、そこから飛べる範囲にはめぼしい村もすでにないでしょう。
鍛冶屋草も安くはございません。
なにより――」
リーゲル殿は少しだけ言いよどんだが、すぐに先を続けた。
「竜騎士の本分は、会戦時の強襲にこそございます。
オークのねぐらを焼いて回るなど……そのような放火魔の真似事など、誇り高き竜騎士のすべきことではございませぬ!
その程度のことに竜騎士を用いられるのは、真に不本意であります」
いろいろ理由を並べてはいるが、たぶん本当に問題視しているのは一番最後だけだろう。
声に込められた力が、明らかにそこだけ違うのだ。
つまりこれはリーゲル殿の――というより竜騎士の――矜持の問題というわけだ。
それなら説得のやりようはありそうだ。
「確かに、本来の仕事に引き比べればつまらぬ任務かもしれません。
しかし、そのつまらない任務がもたらす結果を考えてみてください」
リーゲル殿の力なく下がっていた眉が少しだけ動いた。
「もし竜騎士の働きによって、オークの大軍を引き下がらせることができたとすればどうでしょう?
諸侯連合軍と神殿騎士団が束になっても成し遂げられなかったそれを、竜騎士団が単独で成し遂げたとすれば?」
リーゲル殿は額に皺を寄せて唸った。
それからひとしきり考え込んだ後に言った。
「……無論、その功績は大でありましょう。
しかし、竜騎士の誇りは……誇り高き者は、その力をみだりに振るわぬものです。
敵軍に向けてならまだしも、オークとはいえど手向かいせぬものに火を吐きかけるのは……」
「武装していようがいまいがオークはオークです。
オークを討ち滅ぼすことこそ、騎士に与えられた使命なのではないのですか?」
「いかにも、神は騎士にその役目をお与えになりました……」
「ならば、その軍だけではなく、根を絶たねばなりません。
竜騎士を用いるのは糸を斧で断つようなものかもしれませんが、神の前で恥ずべきような行いでは決してありません!」
「う、う~む……しかし……」
リーゲル殿は完全にうつむいてしまった。
しかし、だいぶ揺れているようだ。あと一押し。
「どうか、オークどもの前に倒れていった者たちのことを思い出してください。
リアナ姫も、谷の出口にオークどもが居座り続けることをよしとするでしょうか?」
リアナ姫の名を聞いた瞬間に、リーゲル殿の肩がビクと動いた。
やっぱりこの老人を動かすポイントはここか。俺は一気に煽りにかかった。
「オークに討たれたのは、姫殿下だけではないでしょう。
彼らのためにも、復讐をなさねばなりません。
竜騎士の炎による復讐が必要です!」
確かリーゲル殿は息子をオークとの戦で亡くしていたはずだ。
「神の怒りを! 燃えるような怒りを奴らに思い知らせてやるのです!
復讐の炎で奴らの地を焼き尽くすのです!
あらゆる場所を焼き尽くし、恐怖を植え付けてやりましょう!
火を見るたびに我々を思い出すようになるように!
空に浮かぶのは雲ではなく、竜の群れだ!
輝く太陽は竜の炎だ!」
もう自分でも何言ってるかわからなくなってきた。
「勇者殿!」
突然リーゲル殿が立ち上がった。全身を小刻みに振るわせ、まっすぐに俺を見据えている。
「やりましょうぞ! この空に我らありと!
きやつらに思い知らせてやりましょう!」
その眼には、竜の炎が宿っていた。
しかしこの爺さんちょろいな。逆に心配になってきたぞ。
投稿時刻を少しだけ変更してみました。
次回は9/5を予定しています。
8/27
第五話の一部を変更
→主人公のスレットに対する言葉遣いを丁寧に
第八話の一部を変更
→シェザリス城までの移動時間を「竜で一日」から「竜で二日」に変更
竜での移動速度は、今後も物語の都合で調整するかもしれません




