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刃金の翼  作者: 山彦八里
三章:暗雲
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26話:赤と青

 荒野と化した戦場に火の粉混じりの風が吹く。

 ひどく静かだ。虫や鳥すらも戦場から逃げ出しているのだろう。大気に混じる殺気はそれだけで彼らを殺しかねない濃度に達している。

 それ故、戦場にあって動くものと言えば、風になびくルベドの燃えるたてがみだけである。


 他に動く者のない荒野で、しかし、狩人は長弓“盲目のアース”を構えた。


「……隠蔽(ハイド)はやっぱり効かないのね」


 真紅の視線の先でうっすらと景色が滲む。

 一瞬前まで誰もいなかったその場所にイリスが現れた。

 表情には僅かな苦笑。鷹の眼に喩えられる優れた索敵能力を持つ弓兵に気付かれぬまま近付けるとはイリスも思っていない。

 今いるこの位置まで近付けただけで十分。

 従者はおもむろにその身を隠していた濃緑のコートを脱ぎ捨て、さらに幾度となくその命を守ってきた不朽銀の胸当ても外してしまった。

 残ったのは心許ない守りの皮の軽鎧のみ。手には得物もなく、限界まで軽量化した姿だ。

 それでも、イリスの心におそれはなかった。


『相手の魔人形態は殲滅力が高い。対多数戦に特化しているのだろう』


 脳裡にカイとの会話が思い起こされる。


『遠間では押し切られる。中距離では手数が足りない』


 ここに立っているのは本来カイの筈だった。

 死傷覚悟で相手の命数を削りに行く。帰り道のない攻勢の筈だった。


『故に、勝ち目があるのは――』


 役目を譲ってもらった以上、無様は晒せない。

 イリスは静かに息を吸い込んだ。肺を満たす熱が己のカタチを自覚させる。


 今のイリスはまだ不完全だ。

 あらゆる矢を生み出す『魔弾生成』だけでは足りない。

 あらゆる矢を放てる『射手』とならなければならない。

 弓と射手まで一体化してこそ、その真価は発揮される。

 それこそがアーチャーの秘匿技術『魔弾の射手』の第一歩。


(勝つ為に、私が捨てるのは――)


 緊張か武者震いか、震える指が髪を結んでいたリボンに触れる。

 躊躇ったのは一瞬だけ。

 固く結んだ筈の結び目が不思議なほどにするりと解ける。

 そのリボンは、あの日、ソフィアが付けてくれたニンゲンの証だ。

 証を外せば、イリスはいつかの迷い子に戻る。


「隠しててごめん」


 その言葉は誰に当てたものであったのか。


 それでも、あの魔人とは己が相対せねばならない。

 悲壮な覚悟と共にイリスは敢然と視線を上げて口を開く。



「――貴方をここで終わらせるわ、父さん」



 万感の想いを込めた声と共にその身を莫大な魔力が包み込む。

 肉体の許容量を超えた魔力が髪を真白く輝かせる。


 今こそ、己の魂を明かす時。


 イリスはそう決めた。今まで抑えていた全てを解放する。

 こめかみの痛みが消える。代わりに形成されるのは紫色の魔力結晶(サードアイ)

 蕾が花開くが如く、古代種の青色とは異なる可能性の証が明かされる。


 ――其は一つの命を育む(ヒト)

 ――其は魔力を糧とする(アーキ)


 人でありながら魔力結晶を持つ者、赤と青の血が混ざる可能性の結実。

 すなわち、人と古代種の“混血”。

 それこそがイリスという存在。その全てが今、露わになる。


『……サードアイ』

「そうね。私はニンゲンじゃないわ。でも、貴方の敵よ」


 茫洋としたルベドの声にイリスは感情を押し殺して牙を剥く。

 応じるように、紫のサードアイが輝き、少女の周囲に二つの小さな魔法陣が展開する。

 構成は四重の同心円。中心には矢――露わになった“飛翔精(フィルギア)”がゆるやかに少女の周囲を旋回する。


 『魔弾の射手』に至ったばかりのイリスでは二つとはいえ宙空を飛び回るフィルギアの制御はおぼつかない。

 故に、両の手の甲に重ねるように装着する(・ ・ ・ ・)

 腕に触れた四重の魔法陣が肘までを包み込むように展開し、中指を照準に射線が定められる。

 腕と連動させたことで射角は制限されるが、フィルギアの操作に意識を割く必要は殆どなくなる。

 ここからは一手として失敗できないのだ。意識野の空きはあればあるほどいい。


「……撃ち抜く」


 軋む精神とは裏腹に、抑制から解き放たれたイリスの肉体は軽やかに両手のフィルギアを構える。

 互いの距離は遠距離と中距離の間。歩数にして二十。


(この距離では保って10秒……)


 こちらは人外の階段をひとつ登ったが、魔人と化したルベドはさらに三、四段上にいる。

 遠距離では弾幕に圧される。中距離ではたてがみが凶器となる。

 ならば――


『――勝ち目があるのは、至近距離だ』


 記憶に焼き付けたその声が踏みだす勇気を結実させる。

 両の“弓”を射るのと同期して、イリスは駆け出す。

 放たれるは目にもとまらぬ四連射、そして、四矢を追いかけるように少女の体が疾駆する。

 本来の性能を明かした四肢は人間の限界を優に超え、疾風の速度を叩きだす。血に宿った魔力がそれを為す。


『――オ、オオォオオオオオッ!!』


 イリスの突貫にルベドが咆哮で応える。

 たてがみを振り、内蔵された無数のフィルギアが火矢の弾幕を張る。数えるのも億劫なほどの火矢の群れが空を覆う。

 先の攻撃でその効果は割れている。分裂、貫通、炸裂だ。誘導がないのは多数の浮遊砲台の制御に意識を限界まで割かれているからだろう。


 イリスは舞うように両手の弓を連射し火矢を迎撃しつつ、ルベドの真正面へと飛び込んだ。

 古代種の血で滾る肉体はいっそ軽やかなほどにイリスの身を運び、ヒトとして鍛え上げた武芸は弾けるような肉体性能を破綻しないギリギリの一線で制御する。

 生まれるのは技と体がせめぎ合うような激しい武踊。

 しなやかで、獰猛な、世に二つとない“死の舞踏”が展開される。


 断続的に放たれる矢は少女に当たる火矢だけを狙い撃ち、誘爆させる。

 空中にいくつもの花が咲き、烈しい熱風が互いの白髪を揺らす。


『――貫ケ(ヘーズル)ッ!!』

「ッ!!」


 火の花に視界が遮られた瞬間、巨矢がイリスの頬を掠める。咄嗟に迎撃して軌道を逸らさなければ直撃だっただろう。

 魔人化したルベドは意外なことに正面が一番弾幕が薄い。

 代わりに長弓から放たれる矢で正確に狙われる。殆ど理性が残っていないにもかかわらず、その狙撃は正確無比だ。

 つまりは、正面に弾幕を展開する必要がないのだろう。

 竜尾の如き炎のたてがみが絶え間なく弾幕が形成する周囲か、殺し間と化した正面か。どちらを抜けるにしても命は幾つあっても足りない。


「けどね、撃ち合いなら望む所よ!!」


 混血としての性能を発揮したイリスは頬の傷が急速に再生していくのを感じつつ、チャージした両腕の弓を撃ち放つ。

 抜き手の早さは最早余人には捉えらぬ速度。

 放たれた魔力の矢を曳く二条の矢は一息に弾幕を突破し、狙い違わずルベドの胴体を貫いた。


(避けない? ……そう、ここで決着をつける気なのね)


 周囲を飛び交う矢を避けつつ、イリスは歯を噛んで怖れを殺した。

 ルベドは自ら矢で以て足の甲を貫き、その両足を地面に縫い付けていた。

 それは縦横に振り回すたてがみを制御する為の括り(アンカー)であり、不退転の覚悟の意志の表れだ。


 胴体に空いた二つの穴は見る間に骨肉が覆い尽くして塞がっていく。

 半端な攻撃では殺せない。急所を貫かねばならない――無論、相手も急所は防御してくるのだろうが。

 残る命はいくつか。未だ父親の底は判然としない。


 本来、古代種同士の戦闘は千日手になるように出来ている(・ ・ ・ ・ ・)

 その身に宿した莫大な魔力による抵抗力と賦活能力。さらには複数の命を貯蔵することによる自動蘇生。

 元となる性能が同位である古代種同士では相手の攻撃を凌ぎつつそれらを削ることが出来ない。

 互いに争っても埒が明かない。その諦観は古代種が古の栄華を築けた理由のひとつだ。


 半分しか青い血を宿していないイリスはその域にいない。

 精々負傷が癒える程度、命はひとつだけしかない。

 だが、それでいい。少女はそう決意する。

 このひとつきりの命が何よりも生きている証なのだ。


 距離が近づくことで避けきれない攻撃が増えてくる。

 致命傷だけを選んで弾き、あるいは身を捻って躱す。

 足が止まることはないが、負傷を得れば、無論、痛みはある。

 それでも、イリスは歯を食いしばって前へ前へと進んでいく。


 ルベドの許まであと十歩。


『――砕ケロオオオオオオォッ!!』


 だが、中距離に入った瞬間、弓兵はたてがみの先端をイリスに向けた。

 砲口のような先端、収束した魔力量にイリスの背筋がぞくりと震えた。


 やはり中距離で撃ってきた。カイの予想通り。

 収束砲撃。避けきれるか。否、薙ぎ払われるだけだ。

 迎撃するしかない。イリスが両手の弓を構えるのと同時、轟然と束ね連なった火矢の洪水が放たれた。

 単純なまでの大質量による圧殺。瞬時に予想以上の殺傷力を見て取った。


(やば、死――)

「“止まるな”、イリスッ!!」


 イリスが死を覚悟した瞬間、目の前にクルスが転移し、砲撃の前に立ちはだかった。

 騎士は構えた盾に多重障壁を展開し、両足を障壁杭で地面に縫い止め、迫る矢の洪水を正面から受け止めた。


「ギ、ガァアアアッ!!」


 騎士が吼える。障壁に弾かれた火矢が周囲に散らばり爆散する。

 盾が軋み、鎧を貫いて矢が突き刺さりながらも、クルスは倒れない。

 守る。イリスのサードアイには気付いている。それでも、守る。

 騎士は暴威の奔流を受け止める盾と、決して挫けぬ背でそれを示した。


 そして、その意思は騎士だけのものではない。


「やれ、ソフィア!!」

「――氷結せよ、“単独二重詠唱”、ダイアモンドダスト・アクイラ」


 ルベドの砲撃が前方に集中した隙にソフィアがその背後に転移。

 既に展開されていた氷翼を解放、無数の氷槍を射出した。


『――散ラセ(ホテルス)ッ!!』


 対するルベドは正面への砲撃を継続しつつ、片手で長弓を後方に向けて射撃。

 魔弾の射手の理に則り、放たれた拡散矢が氷槍の雨を迎撃し、打ち砕く。

 ぶつかって生まれる矢と氷の破片が儚く宙を舞い、魔力に還る。


「――“連弾”、ダイアモンドダスト・アクイラ」


 ここが自分の賭け所だ。覚悟を秘めてソフィアは虎の子の連弾詠唱を発動。

 詠唱を省略し、再度、氷翼を展開する。

 刹那、ギョロリと蠢いた憤怒の瞳がソフィアを射抜いた。


「ッ!! ――連、弾、ダイアモンド、ダスト、アクイラッ!!」


 背筋を走る死の予感に、本能が禁断の三度目の連弾を決意させた。

 限界を超えたソフィアの中でぶつりと意識の切れる音がする。

 だが、四対八翼に集った氷槍は一瞬とはいえルベドの手数を上回った。

 無数の氷槍が火矢の弾幕を突き破り、弓兵の体を刺し貫き凍結させる。

 一回殺した。薄れゆく意識の中でソフィアはそれを感知した。


 だが、次の瞬間、少女はその細い肩を火矢に貫かれて吹き飛んだ。

 命ひとつを犠牲に、敵をひとり排除する。

 ひどく単純な引き算でルベドはソフィアを撃ち抜いた。


「ソフィア……ッ」


 イリスは叫ぼうとして、しかし唇を噛んで耐えた。

 撃たれた位置からして死んではいない。ならば、自分がすべきは声を挙げることではない。

 心臓が凍りつくような恐怖を呼気と共に吐き出し、両足に気力を叩き込む。


(行け、イリス)

(……ありがとう、クルス、ソフィア)


 砲撃を受けきって倒れるクルスと視線を交わし、遂にイリスは近距離に踏み込んだ。

 ルベドまであと五歩。凍りついていた父の体は既に纏う炎に溶かされている。

 イリスが両腕から連射する矢も弾かれて魔力に(・ ・ ・)還らぬ(・ ・ ・)まま(・ ・)辺りに散っている。

 それでも、二人が稼いでくれた時間が少女の身をここまで辿り着かせた。


『――噛ミ砕ケ(ヴァルガンド)


 だが、あと少しという所でルベドのたてがみが五つに割れた。

 まるで顎門の如くイリスを呑み込まんとする五本の牙。

 狙いは明白、避けようのない近距離での範囲攻撃だ。

 自身の負傷を勘案する必要のない古代種だからこそできる捨て身の一撃。


「ッ!!」


 イリスが息を呑んだ瞬間、五つの牙が猛然と撃ち込まれ、周囲一帯を巻き込む爆撃が放たれた。

 立ち昇る炎が空を焦がし、衝撃が地面を舐め尽くす。

 回避を許さず、防御も意味を為さぬ隠し札。

 自身も多少の負傷を得つつもルベドは敵の消滅を確信した――筈だった。


 刹那、イリスが爆炎を抜けて跳びかかった。

 レンジャーの秘匿技術『隠し身』。

 イリスは己の存する位相をずらす秘技で爆撃を回避したのだ。


 ルベドが驚きに目を見開く。

 それは、それだけは弓兵の慮外の事象だった。

 狩人として生まれたならば狩人にしかなれない。生まれついての精霊級、古代種とはそういうものだ。

 故に、サードアイを持つ(ムスメ)を古代種だと認識していたルベドには、鉄火場で“弓”以外に己を託すことを予想できなかった。


 そして、予想を凌駕した可能性が最後の一歩を踏みこんだ。


 距離は至近。よく似た真紅の瞳に互いが映る。

 本能的に死を直感したルベドは短剣を突き出していた。

 イリスはその一撃を避けなかった。

 受け止めるように広げた右の掌を短剣の刃が刺し貫く。

 刃はすんなりと手の甲を貫通し、飛び散った赤い血がルベドの顔を汚す。


「――捕まえたわ、ルベド・セルヴリム」


 言葉と共にイリスは右手を刃ごと握り込み短剣を固定する。

 同時に、左腕のフィルギアに装填したままの矢を突き込み、ルベドの弓持つ右腕を縫い止める。

 流れる青い血が矢を伝ってイリスの腕を染めていく。

 互いの賦活能力が刺さったままの傷口を歪に癒す。こうなっては簡単に抜けることはない。


 掌を貫く痛みと、至近距離でルベドの発する魔力の炎を浴びて体が焼け焦げる痛み。二種の痛みがイリスの精神を削っていく。

 焦げた端から再生するものの、一秒ごとに魔力が消費されていくのが分かる。精神も長くは持たないだろう。

 だからこそ、視線を強く、心に勇気を。


「もう……逃がさない」


 殺意すら削れ、笑みすら浮かべそうな混じりけのない決然とした宣告。

 場違いなほど清浄な感情を受けて魔人の動きが僅かに硬直する。


 そして、この瞬間、イリスのもうひとつの心技の条件が満たされた。


「――輝け、甕星(ミカボシ)、我が道行を照らせ」


 七本の矢を展開していること。

 相手の動きを縫い止めること。

 そのふたつがこの心技の条件である。


「――瞬け、天魁杓、我が敵を照らせ」


 周囲に散って、しかし、魔力に還らず残っていた七本の矢が上空へと昇る。

 ルベドが離れようともがくが遅い。両腕は縫い止められ、至近距離ではたてがみの射角も通らない。

 ここはもうイリスの領域なのだ。


「――我は七矢を以て七命を砕く弓」


 イリスのこめかみでサードアイが紫の輝きを放つ。

 混血として得た莫大な魔力の全てを七本の矢に注ぎ込む。


 それは一切の制御を放棄し、威力のみを突き詰めた流れ星。


「――射殺せ、七天魔弾“フライシュッツ”!!」


 次の瞬間、天より降り注ぐ七つ矢がルベドを撃ち貫いた。




 巨大な鉄槌に打ち潰されたが如き激痛が弓兵の全身を走り抜ける。

 その刹那にルベドは“四度”死んだ。

 天の七星を模した、一矢一矢が古代種を殺すに足る威力を秘めた七矢の逆落とし。

 三矢を上空に向けて展開したたてがみを犠牲に防いだものの、残る四矢は直撃した。

 肉体はごっそりと抉られ、再生が追いつく様子はない。

 特に――イリスが誘導した結果であるが――サードアイを直撃した一矢が決め手だった。

 身体維持とは独立した攻撃用の術式器官であり、もうひとつの心臓ともいえる魔力結晶(サードアイ)は魔人変化を司る根幹部分だ。これを砕かれては魔人化を維持することはできない。

 サードアイの再構築にも再生能力を多く割かねばならない現状、賦活速度は大きく低下している。


「……」


 だが、それはルベドの目の前で俯いている(ムスメ)も同様だ。

 さすがに己の心技が直撃することはなく、サードアイも無事ではある。

 だが、この距離では余波だけで体中傷だらけだ。両手のフィルギアもすでに消えている。

 魔力も枯渇しかけているのだろう。賦活速度も目に見えて遅い。

 魔弾に貫かれた際にルベドの両腕の拘束も外れている。この状態、先に動けるようになるのはまだ命を二つ残すルベドだ。


 その時、ようやくイリスが顔を上げた。

 意識を失っていたのだろう。真紅の視点は定まっていない。

 だが、朦朧とした意識の中で、少女は口元に不敵な笑みを浮かべた。


「――カイッ!!」


 意を込めた声に応じて、イリスの後方、岩盤の割れ目を潜行していたカイが飛び出した。

 ルベドは反射的に弓を構えたが、正面に立つイリスによって視線を遮られ、ほんの僅かに捕捉が遅れた。

 魔弾の射手は“狙いを付ける”動作によって弓を射る。故に視界に映らぬ相手を撃つには他の五感と連動する為の一瞬の間を要する。


 その一瞬に、銀の刃がイリスの体を貫いてルベドの胸に突き立った。


『ア、ガッ……!?』


 心臓の真ん中を抉る一穿が狙い違わず命脈を断つ。

 これでルベドに残された命はあとひとつ。

 だが、今、弓兵の脳裡を占めているのは別の事柄だった。


『貴様、仲間ヲ盾ニッ!?』

「みなさい、バカ親父……」


 父の糾弾に応えたのはイリスだった。

 胸下を剣に貫かれながらも少女は気丈に微笑み、両手を広げた。

 その段に至って漸く、ルベドも気付いた。


 二人を貫いた刀身には青い血しか付着していなかった。


 如何な妙技か。カイの一撃はイリスの骨、内臓の隙間を通すように放たれていた。

 僅かなズレも許さぬ正確さと鋭さ故に、引き抜かれる銀剣に赤い血は付着していない。

 人体の構造を空恐ろしいまでに理解しているからこその一撃であった。


「これが私達のカタチ。傷つけても、信じてる、愛してる。わかるかな? かつては貴方もそうだったんじゃないの?」



 ――でなければ、私は生まれていないでしょう?



 震える唇が紡いだその言霊がルベドの全身を雷のように貫いた。


 そして、理解する。娘はひとりで此方と対峙した時からこうするつもりだったのだと。

 命を預ける約束を交わした二人の間にどれほどの信頼があったのか。

 己が身を盾にする者に、仲間をその手で刺し貫く者に、どれほどの覚悟があったのか。


『コレガ……』


 これがニンゲンの姿か。


 目の前の娘を通じて涼やかな風が心に吹きこんで来る。

 優しさの中に強さを秘めたその視線に過去を、最愛の妻の姿を思い出す。

 何故忘れていたのか。何よりも大事な者であった筈なのに――。


 ルベドは心の中で荒れ狂っていた炎が鎮まっていくのを感じた。

 憤怒の炎は消えることはない。だが、全身を焼き尽くすほどの熱はもうなかった。


「――俺の、負けだ」


 言葉と共に、全身に纏っていた炎も徐々に小さくなっていく。

 髪は元の白髪に戻り、真紅の瞳を曇らせていた憤怒も鳴りを潜めている。


 肉体の限界だった。魔人化が解除される。

 サードアイを砕かれ、全身に受けた傷は塞がりかけのまま青い血を流している現状では心臓の再生も間に合わない。

 放っておいてもルベドの体は数分で“最後の死”を迎えるだろう。

 イリスにできることはもうない。それでも、少女は言葉を紡いだ。


「やり直す気、ある?」

「もう手遅れだ、イリス(・ ・ ・)。お前たちは強かった」

「……ッ」

「それに、俺は止まれない。憤怒を以って呪いを受け入れた。人間を滅ぼすこと、それが存在理由となった」


 父親がゆるゆると(かぶり)を振り、娘は小さく息を呑んだ。

 ルベドが困ったように苦笑する。どこか泣いているようにもみえる表情は、別れのそれだ。


「だが、俺はもう人間を撃てない。その理由をお前が思い出させてくれた。だから、これでいいんだ」

「…………トドメ、いる?」

「いいや、ケリは自分でつける」


 ルベドは弓を置き、自ら生成した矢を己の喉に突き刺した。

 僅かに残っていた青い血が飛び散り、じっと父親を見つめるイリスの頬に触れた。


「これが、最後のひとつ」


 父親の矜持故か、ルベドは立ったまま。

 しかし、その体は徐々に薄れて光に溶けていく。


「この弓、“盲目のアース”……形身、持って……れないか……」

「……うん、大事にする」

「ありがとう……これで……アイツ、ところへ………」


 男が娘に向けた笑顔はまるで年を経た老人のように儚い。

 不老であることと摩耗しないことは別だ。

 数千年の間、見送る側であった者の終わりがそこにはあった。


「達者、で……」

「ッ、父さん!!」


 堪え切れず伸ばした手は虚しく空を切る。

 そうして、ルベド・セルヴリムは笑顔のまま光の中へ消えた。


 後には澄んだ蒼色の魔力結晶と形身の弓だけが残された。

 曇りのないその蒼は、ルベドが今際の際に憤怒を捨てることができたことの証明なのだろう。

 魔力が尽き、こめかみのサードアイも消えたイリスは、震えながら両手で魔力結晶を拾い、そっと抱きしめた。


「……できるなら……怒り、捨てられるなら、初めからそうしなさいよ、バカ親父……」


 もっと言いたいことがあった筈だった。

 だが、一番伝えたかったことは伝わったのだろう。

 空を見上げて涙を堪えるように目を閉じるイリスを剣を納めたカイが支えた。


「イリス」

「……ごめん、カイ……少しだけ」

「――――」


 外套の無事な側で隠すように、カイはイリスを懐に招き入れた。

 傷だらけの体は血の気を失ったように冷たい。

 それでも、孤独を癒す縁が、砕けかけた少女の心を辛うじて繋ぎ留める。


「泣けるのなら泣くといい。誰も咎めはしない」

「……」

「あの時、俺は泣けなかった。お前は違うのだろう?」



「う、うう……うわあああああ!!」


 男の言葉が最後のひと押しだった。

 堰を切ったように涙の雨が降り注ぐ。

 言葉は尽きて、ただ別れの悲嘆だけが空に木霊していた。



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