22話:追憶と邂逅
―― 十年前
鬱蒼とした森を幼い少女がひとり歩いていた。
どれだけの間、森にいたのだろうか。少女の纏う服は千々に破れ、初雪のようだった白髪も今は煤けた灰色だ。
だが、色を失った幼い姿の中で唯一、赤い瞳だけが爛々とした輝きを湛えている。瞳に映る鋭さは獲物を狙う鷹の目であり、猛獣を避ける賢者の目でもある。
森は少女の領域だ。器用に獣たちの縄張りの端を渡り歩き、時に矢を放って飢えを凌ぐ姿は狩人として一端のものだろう。
ただ、その一方で、瞳とは対照的に表情の抜け落ちた幼い顔はまるで迷子のようでもあった。
村を追われ、親を忘れ、野生に返ってからどれくらい経っただろうか。
山林を転々としている内に少女は気付いた。
自分のように矢を生み出させる存在は他にいないこと。
他の獣と比べても自分の傷の治りは異常に早いこと。
そして、同じことができる者は一匹もいないこと。
何故、自分にそんな能力が宿っているのかは知らない。
唯々、生きる。その為に生き抜いていた。
必要な知識はすべて蓄えてある。
獲物は狩れる。火も熾せる。水も探せる。傷も治る。
齢七つにして、少女にはひとりで生きていけるだけの確かな能力が具わっていた。
それでも、孤独は少女の心を苛んでいた。
あるいは生まれた時から独りであったのならそんな感情は生まれなかったのかもしれない。
だが、かつて少女は孤独ではなかった。暖かい家と食事があった。無償の愛を注いでくれた両親がいた。
今は、もういない。
「――ッ」
唇を噛む。痛みに現実を思い出す。
言葉は忘れた。両親の存在も忘れた――筈だった。
心を守るために忘れた筈の“愛”が今も尚、少女の心に棘のように刺さり癒えぬ傷を負わせている。
いずれこの血の流れない傷が自分を殺す。
自らの名前すら忘れた幼い少女はその血に宿る知性によって確信していた。
だが、今やその傷の癒し方すら忘却の彼方にある。幼い心は少しずつゆっくりと、しかし確実に死に近付いていた。
「――?」
その時、悶々と思考を重ねていた少女の耳に微かな水音が届いた。
本能的に気配を探る。森の中なら音の届く距離で取り逃しはしない。
五感を集中し、つつがなく気配を捉え、そして、息を呑んだ。
はじめに捉えたのはひどく儚い“命”の気配。
次いで捉えたのは自分の倍ではきかない極大の魔力。
知らず膝が震え、歯の根が合わずカチカチと鳴る。
この気配の主はきっと高位の魔物だ。そう思った。
あまりに小さな命に、あまりに大きな魔力。自然の中にそんな不自然なモノはあり得ない。自然やその中に生きる獣たちは各々の合理性に従って形作られた存在なのだ。概ね強さと魔力が比例する。
故に、この膨大な魔力の持ち主は魔物のような条理を無視した存在の筈だ。
自分では勝てない。本能と獣性に大きく傾いている思考はそう結論した。
気付かれる前に逃げなければならない。その思考に従い、じりじりと下がる。
その刹那、ふわりと伸びてきた意識の糸が少女に触れた。
「ッ!!」
咄嗟に意識の中で自分に触れようとする糸を振り払う。
気づかれた。相手に気づかれた。思考が焦りとともに加速する。
逃げられない。彼我の距離、相手の魔力量を考えれば射程外へ逃げるまでに三度は死ぬ。
次の瞬間、少女は気配に向けて駆け出した。
相手は強いが“命”の気配は弱い。きっと相手は弱っているのだ。
ならば、勝機はある筈だ。
一心不乱に駆ける中で少女は魔力を手繰って手に矢を生み出す。
矢は短い。弓がないために直接突き立てるのだ。
そして、少女は深い森を抜けた。
眩しい陽光に目を細めたのも極わずか、駆けた勢いのままに獲物に飛びかかり、一気に押し倒した。
そのまま馬乗りになり、矢を突き立てようとして――動きを止めた。
実のところ、その瞬間のことは無我夢中でほとんど記憶していない。
ただ、押し倒した相手が表情一つ変えなかったことだけは覚えている。
「……え?」
久方ぶりに声を発した。喉が引きつったように痛むがそれどころではない。
見下ろす先、鏃が狙っているのは自分以上に幼い女の子だった。
上品な白いワンピース、日に焼けていない白磁の肌、自分の白髪とは全く違う月光の様な美しい金の髪。
おそらく、ひとつかふたつ下だろう。
髪の左右をリボンで結っているのが場違いなほど可愛らしく、不思議そうに蒼い目を瞬かせている。
「アンタ、なに?」
矢を構えたまま困惑を問いとして発した。
こんな魔力を持ったニンゲンが有り得るのか。許されるのか。
明らかに自然の摂理に反した存在。なのに、その衣服からはニンゲンであることを許されているのは明白。
激しい困惑とドロドロとした粘性の何かが心の中に湧き上がる。凍っていた心が理不尽に対する怒りで溶けていくのを感じた。
コレが許されるのなら――村を追われた自分たちは一体なんだというのか。
「…………ゆるされたいのですか?」
「ッ!?」
押し倒した相手から放たれた心の隙間を貫いた問いに、ほとんど無意識に首に手をかけていた。小枝のようなひどく細い首だ。力を入れればすぐにでも折れてしまうだろう。
何故そんなことをしたのか。
幼さ故の嫉妬だったのかもしれない。あるいは“違う”ことがこわかったのかもしれない。
今でもその時の気持ちは分からない。
それでも、首が絞まっているのに相手の妖精のような美貌は歪むことはなかった。
「こ、怖くないの?」
「なにがこわいのですか?」
苦しくないのか。そう聞くのも憚られるほど相手の様子は変わらない。
無垢なままに聞き返す姿にひどく焦る。
自然の中には強者と弱者しかいない。
怖がられないということは相手にとって自分が弱者であるということ。
すなわち、己は今、食われる側にいるということだ。
知らず、手に力がこもる。
「あ、あたしはいつでもアンタをころせるわ」
「……?」
相手は数度の瞬きの後に納得したようにひとつ頷くと、倒れたまま小さな手を森にかざした。
次の瞬間、莫大な魔力があたりを覆いつくし、森が一瞬で凍りついた。
余波の凍気でむきだしの肌に霜が降りて、少女は慌てて女の子の上から跳び退った。
「あ、あぶな……」
「だれでもできますよ?」
「そんなわけないでしょ!!」
スカートの埃を払ってゆっくりと立ち上がった“化け物”は警戒心を露にする少女に視線を向ける。
ひどく澄んだ蒼の瞳。心の奥底まで見透かされそうな色に、少女はごくりと唾を飲み込んだ。
「みんな、なにかをころして生きています」
「ッ!?」
「だから、おなじではないのですか?」
“化け物”が金の髪とともに小首を傾げて再度、少女に問いかける。
そのとき少女が感じたのは畏れだった。
野生に生きていたが故の本能。
自分とはみえている物が違うという確信。
「……ちがうわよ。アタシはみんなとはちがうの」
だから、ふと口から漏れたのは強がりだったのだろう。
冷えた空気を受けて涼風が二人の間を吹き抜ける。
くすんだ白髪と月光の金髪が揃って乱される。
少女は、もう少しだけこの不思議な女の子のことを知りたいと思った。
自分とは違うこの子のことを知れば、孤独も癒えるのではないかと儚い希望を抱いた。
他者と出会ったことで少女の心はカタチを思い出した。
しかし、それは同時に、崩壊寸前で止めていた時を動かすことに等しかった。
「…………」
一方、読心から伝わってくる慟哭を受けて女の子は己の金色の髪を結っていた片方のリボンを外した。
そして、手と爪先を伸ばして俯く少女の白髪を梳いて汚れを落とすと、そのひと房を束ねて外したばかりのリボンで結った。
何がしたいのかわからず、されるがままにしていた少女が視線で問いかける。
丁寧にリボンを結い終えた女の子はどこか満足げに頷いて。
「これで、おそろい。あなたは、ひとりじゃない」
――やわらかに微笑んだ。
労わるような優しい言葉に少女の目が見開かれる。
淡々と紡がれたその言葉は少女が今、最も欲しかった言葉だった。
「アタシは……」
知らず、少女の頬を雫が流れ落ちた。
村を追われ、母と別れてから堰きとめていた涙が次から次へと溢れてくる。
「かえりましょう?」
だから、伸ばされたその小さな手をとったのだ。
その日、少女は知恵の女神と共にある虹の女神になった。
◇
「――リス」
夢現の中で、ひどく懐かしい記憶に触れた気がして、イリスは息を吐いた。
今の自分を形作る基幹の記憶。カイやクルスにも告げていないイリスとしての最初の一歩。
何よりも大事な宝物のような記憶だった。
「――イリス、どうかしましたか?」
「え?」
その段になってようやくイリスは己の名前を呼ばれていることに気付いた。
虚空を漂っていた焦点を合わせれば、目の前に心配だと表情で告げるソフィアの顔があった。
同時に、蹄と車輪の奏でる音が耳に届き、その段に至ってようやく自分たちが馬車に乗っていることを思い出した。
「ぼうっとされていたようですが、だいじょうぶですか?」
「あ、うん。ちょっと昔の夢見ててね」
問いに、無意識に髪に結ったリボンに触れる。
それだけで過去を思い起こす原因となっていた額の違和感が薄れていく。
大丈夫。自分にそう言い聞かせる。まだ、もう少しだけもつ、と。
ソフィアはまだ心配そうな表情のままだったが、イリスに言う気がない――この件に関しては読心すら拒絶されている――のをみてとって、ため息とともに追及の手を緩めた。
「……本当にお辛いのなら、言ってくださいね」
「わ、私よりも今はカイよ。あれ、なんとかしないと」
イリスは背後、カイが乗っている荷馬車のある方を指差す。
後ろ髪引かれる様子のソフィアも、しかし、カイの様子も気になるのかちらちらと視線を外へと移している。
一行は今、ひと月近くかかった緑国での依頼を終えてルベリア学園に帰る途上にあった。
本来、緑国から学園までは普通に馬車を使えば十日以上かかる距離だ。
しかし、二級ギルドとして与えられた権限で都市間転移術式を使ったことで、一行が馬車を走らせるのは白国との国境からだった。
その際、丁度、学園に行くという隊商の護衛依頼を首尾よく見つけてきたイリスの手腕は賞賛されるべきものだろう。
だが、すべてがうまくいっている訳ではなかった。
「――――」
山道を登る荷馬車の上で胡坐をかいたまま、カイは顔を顰めていた。
苦虫をまとめて何匹も噛み潰したような表情と張りつめた雰囲気に、商人や他の護衛も怯えるばかりで近づく者はいなかった。
「カイ、少し抑えるべきだ。馬まで怯えているぞ」
半刻以上顔面を固定していたカイに、見かねたクルスが馬を荷馬車に寄せて声をかけた。
商隊が所有している馬は気性も穏やかで人にもよく慣れているが、それでも今のカイに近付くのは嫌なのか小さく嘶いている。
カイは騎士の声にちらりと視線を向けるが、すぐに虚空に視線を戻した。
見上げる視線の先、燕の親子が軽やかに空を舞っている。
機嫌が悪い、というわけではない。もう短くない付き合いなのだ。クルスにもそれくらいはわかる。
カイはどちらかといえば感情を溜めこむ性質だ。それはそれで心配になるが、少なくとも八つ当たりに走るような性格ではない。
先日、アールキングと自走樹に一杯喰わされたのがよほど悔しかったのだろうか。
日頃はあまり露わにしないが、この男は負けず嫌いだ。負けが即、死に繋がる世界で生きていたのだから当然なのかもしれないが。
(それにしても様子が変だ。苛ついているわけではないとすると……)
「何を焦っている、カイ?」
「わからん」
正鵠を射た騎士の問いに、侍は端的な答えを返した。
虫の知らせとでもいうべきか。先程からずっとうなじの辺りにチリチリとした緊張感が走っているのだ。
だが、その原因がわからない。
侍は左右に視線を配って周囲を確認する。
現在地は緑国と白国の国境を構成する山間部。その中でも比較的なだらかな場所を通した街道を登っている。
護衛を引き受けた商隊は男女合わせて十五人。クルスがいれば山賊や魔物が出た所で守りきることは難しくない。
これまでに何度も確認した。己の探知の及ぶ範囲には何もいない。
だが、感覚は嘘をつかない。経験則としてカイはそれを知っている。
そして、自分がみつけられないのなら仲間に頼るべきだということも覚えた。
「イリス」
「はいはい。ちょっと待ってね」
数瞬前の混乱を感じさせない明朗な声と共に、イリスは窓枠を掴んで逆上がりの要領で馬車に屋根に上がった。
そのまま、窓からちょこんと顔を出して気遣わしげに視線を向けるソフィアに軽く手を振り、気配探知を展開する。
「…………ん、これかな?」
常の索敵範囲では何も見つからず、そのまま慎重に範囲を拡げていき、限界近くまできたとき、意識の俎上に何かがかかった。
遠すぎて詳細は掴めないが、何かがいる。
「この感じは悪意? いいえ、もっと強烈な――」
ただひとつの意思によって透徹され、研ぎ澄まされた気配。
イリスは気付いた。この感情をイリスは知っている。これは――
――“怒り”だ。
直後、彼方から殺意の一撃が飛来した。




