21話:古代種
太陽を隠す曇天の下、断続的な雷鳴が辺りに響く。
一面に赤い結晶が敷き詰められた大地が広がり、傍らには黒い結晶の生えた巨大な大穴のある大陸で最も異様で異常な場所。
暗黒地帯、中心部。
そこには文明に忘れ去られた神殿がある。
色あせた巨柱に支えられ、壁に無数の罅の入った古き社。
外観は数千年を経てひどく老朽化している。
しかし、いかなるカラクリか、内部に広がる空間には埃一つない不気味なまでの清潔さを保っている。
神殿内部、床に刻まれた幾何学的な紋様と椅子のみが設置された広間。
空気は乾き、シンとした静けさが場を支配している。
古を偲ばせる広間はひどく閑散としていた。
かつては円座になるように配置されていたであろう席も櫛の歯が抜けるかの如く大半が消え失せ、残っているのは僅かに五席のみ。
五つの座席はともに材質は不明ながらまったく同じ形をしている。
乳白色の磨き上げられた表面と精緻な紋様の刻まれた長い背は、かつて、この神殿を造成した者たちが高度な技術を有していた事を窺わせる。
そうして過去を残した五席の内、四席は各々に座すべき者が座っている。
いずれも額にサードアイを持つ古代種が、金、白、黒、赤と己を象徴する色布を座席から垂らしている。
一方で、残るひとつの空席には剣が突き立てられ、かつてその席次に着いていたであろう者を強烈に否定していた。
「それじゃあ始めようか」
鈴の鳴るような美しい声音が広間に響く。その一言で停滞していた空気が華やぐ。
口火を切ったのは、円座の最奥、金の布が垂らされた席に座る少女。
見かけの年齢は十四、五歳だが、金の瞳に稚気を滲ませ、黒髪に合わせた同色のドレスから覗く真白な裸足にはぞくりと震えるような色気がある。
「各地に撒いた呪術の種は有効に機能しているかな?」
少女は微かな悦楽を孕む言葉を舌の上で踊らせる。
不思議な少女だった。古代種である以上、見かけの年齢と実年齢は当然のようにかけ離れているが、周囲に侍る三人に比べて、少女にはあまり老成した雰囲気がない。
しかし、それでいて少女はただそこにいるだけで自然と他者に膝をつかせる超然とした空気を纏っている。
相反する印象を抱かせる少女だが、その様をたった一言で表せば――“王”と、そう呼ぶほかないであろう。
「アールキングは狩られたけど、やはり緑国の辺境や青国の海洋では発見が遅れるようだね。現状でも十分な犠牲が確保できそうだ」
問いに答えたのは、少女から見て右側、黒色の布が垂らされた席に座る男。
傍らに尾を食む双蛇の杖を浮かべ、フードから零れた金の髪は輝かんばかりの美しさを保つ美青年だ。
二十代にもみえる整いすぎた見た目に反し、しわがれた声には隠す気のない嘲りの色が窺える。
「人間の魔物化、魔物の強化、呪術の付与。色々試せたのは収穫だったよ」
「それは重畳だね、“ニグレド”」
「……フン、まあ面倒な話だよ。ヒトは小突き過ぎるとすぐ数が減ってしまう」
「その分、増えるのが圧倒的に早いのだからこの世は良く出来ている。ボクだってできることなら弟か妹が欲しいさ」
肩を竦める少女にニグレドと呼ばれた男が口の端を歪め、笑みとは呼ぶにはあまりに昏い狂相を主に向ける。
「ご冗談を。この大陸には既に古代種を生み出す余力はないよ」
「ふふ、残念だ」
「まったくだよ……」
微笑む少女に対し、ニグレドの緋色の目が品定めするかのように細まる。
青年の視線には決定的に信頼が不足していた。
生まれによって主従となることは定められたこととはいえ、ニグレドにとって少女は主と仰ぐにはあまりに歪なのだ。
同様に、少女からみてもニグレドを臣下として扱うには少々叛意に過ぎる。ニグレドもそれを隠す気が無い。
仮に少しでも隙を見せれば、この呪術士は嬉々として主たる少女を“杖”の一部にするだろう。
「……よろしいでしょうか、主様」
その時、少女の左、白色の布が垂らされた席に座っていたアルベドがドレスの裾を翻して二人の間に割って入った。
僅かに緊張の滲む持ち主の声に反応して、床に寝そべっていた二条の鎖も鎌首をもたげる。
ニグレドが不快そうに鼻を鳴らし、主が二匹に手を振るのを見ながら、女は意を決して言葉を続けた。
「アルカンシェルについてご考慮すべきと具申いたします」
「ん? あのギルドにかい?」
鎖の蛇から視線をアルベドに戻し、少女が不思議そうに小首を傾げる。
人類の守護者たる英雄や英霊を敵に回すことは彼らの目的にとって意味のないことなのだ。
“戦乱の導”はたった五人の集団である。
たった五人とはいえ、一定条件下では魔物を嗾けることも可能であるため、集団としての戦力は国軍に伍する。
その全力を尽くせば、大陸の四大国すべてを敵に回して立ち回ることも出来るだろう。
しかし、仮に戦端を開けばもう加減は出来ない。人類を一人残らず滅ぼすまで止まれない。でなければ、逆に自分達が滅ぼされると過去の敗戦で学んだのだ。
同様に、人間側も足踏みをやめて、どれだけ非効率的であろうとも暗黒地帯への侵攻を開始するだろう。
そうなれば、勝敗がどうあれ――自分達が敗北しても、あるいは人間が滅びても――彼らの目的は達せられなくなる。
故に、この千年、決定的な決裂を呼ばぬように匪賊の如く辺境や寒村を中心に魔物を送り、あるいは人間同士がぶつかるよう腐心してきたのだ。
だからこそ、アルベドの言葉は不可解であった。
「キミが目的に反する意見を出すとは珍しいじゃないか、アルベド」
「……伏してお願いいたします」
皮肉気に嗤うニグレドを無視し、アルベドは珍しく焦りを浮かべて具申する。
古代種の王たるこの少女は自身を殺せる者をこそ愛でる悪癖がある。今度の提言はその悪癖を深める危険性が高い。
アルベドはそれを承知で尚、奏上した。計画に支障をきたす可能性を許容するわけにはいかないからだ。
知性を残す古代種は裏切り者の一人を除き、この場にいる者で全て。そして、計画の要たる主は代えが利かない。
故に、その玉体を死守する義務がアルベド達にはあるのだ。
「彼らは危険です。特にあの“剣”は――裏切り者が鍛えたあの者は主様の命に届く可能性があります」
「そうは言っても、キミもニグレドも手が空きそうにないし、ガイウスは動かせないし――」
「“ルベド”を向かわせてください」
「……ふぅん。だそうだけど、どうする、ルベド?」
どこか楽しげな少女の問いが、ここまで口を噤んでいた最後の一人に投げかけられる。
やや離れた位置に設えられた赤色の布を垂らされた席に浅く腰かけ、目を閉じた長身の男。
傍らに琥珀色の長弓を立てかけ、古代種の証たる魔力結晶も鬣を思わせる白の長髪に隠した獅子の如き偉丈夫。
二人の視線を感知して尚、その男は微動だにしない。我関せずといった態度を貫いている。
主への不敬に等しいその態度にアルベドは不快気に美貌を歪めた。
「ルベド、主様の前でその態度は――」
「ボクは気にしてないよ。承諾してくれるみたいだしね」
「ですが……」
「それよりも、アルベド、キミの援護はいいのかい? 先日も“蛇”を斬られて危なかったのだろう?」
件の剣によってね、と少女はひどく楽しそうに告げる。笑みが一段深くなる。
少女はこの数カ月、アルベドと顔を合わす度にその話をねだった。
まるで見た目相応の若い娘が古の英雄譚を聞くかの如く、夢見るような表情でせがむのだ。
顔には出さないが、アルベドは主の悪癖にほとほと困り果てていた。
本来、古代種に子供や幼年期という概念はない。
この大地、パルセルト大陸が生み出す――生み出していた古代種は皆“精霊級”の力を有し、成人した姿から変わることのない不老長寿の種族であったからだ。
ルベドも、ニグレドも、アルベドも今と変わらぬ姿のまま誕生した。
だが、二百年前に誕生した“最後の古代種”だけがその理から外れていた。
古代種という存在の駆逐されかけたこの大陸は、如何なる理由からか、この少女だけを不完全な状態で生み出した。
大陸に蓄積された魔力が足りなかったのか、あるいは他の要因が影響したのかはわからない。
ただ、ひとつ確かなことは、古代種として不完全であるが故に少女には“成長”する余地があったということだ。
かつて、少女は人の世で生きていた。古代種では成長という概念を教えられなかったからだ。
だが、そのために主が随分と人間臭くなったのは、アルベドにとって許容しがたいことであった。
それでも、心中の苛立ちを完璧な所作に隠してアルベドは妖艶な笑みを浮かべてみせた。
「ご心配なく。この通り二匹は既に再生しております。私の危険よりも主様の御身が大事でございます。どうかお認めください」
「相変わらずキミは過保護だね」
口の端を歪めて茶化すニグレドに対し、アルベドは流し目と共に言葉の牙を剥く。
嘲りの視線がニグレドを捉え、次いで剣が突き立てられた空席に向く。
「当然です。主様は唯一無二。裏切り者の弟御である貴方とは――」
「その先を続けたら殺すよ、白化者」
刹那、音を立てて空気が凍り、神殿内に緊張が走った。
標本を見るが如き無機質だったニグレドの緋眼に殺意が灯る。
古代種らしいプライドの高さと、己の逆鱗に触れたことへの怒りがローブに包まれた全身から噴出する。
「できるとお思いですか、黒化者」
応じるように、甲高くヒールを鳴らして進み出たアルベドの体からも粘つくような殺気が放たれる。
「主様を除き私達は互角。どれだけ貴方の“杖”が優れていたとしてもそれは変わりませんよ」
「へえ、じゃあ君の柔肌で試してあげるよ。綺麗な悲鳴をあげてくれ」
少女を挟んで二人は睨み合い、その額でサードアイが輝く。
俄かに発せられた二つの膨大な魔力のせめぎ合いで神殿全体が軋む。
“精霊級”たる二人がぶつかれば周囲一帯は容易く焦土と化すだろう。
しかし、幸いなことに、この場には二人の上位者たる少女がいた。
「――そこまでだ、控えろ」
厳として告げた言葉と共に、少女の影がずるりと伸びて二人の発した魔力に喰らいついた。
音もなくアルベドとニグレドの魔力が食い千切られる。
広間を覆い尽くすほどに巨大化した影は瞬きの内に役目を果たし、次の瞬間には少女の足元に消えた。
魂を削られるような痛みに二人は僅かに顔を顰め、しかし、少女の有無を言わせぬ超然とした笑みに渋々と席に着いた。
少女も脚を組み直し、改めてその金色の視線を、未だ不動を崩していないルベドに向けた。
「話を戻すよ。ルベド、アルカンシェルの討伐を頼めるかな? キミの実力なら今度は撃ち抜くことができるのだろう?」
アルベドの援護であった前回とは違う。今度は“狩人”として成果を示せ、と少女は言外に告げる。
その段に至って漸くルベドが目を開けた。
こびりついた隈に縁どられた赤い瞳が無邪気な微笑みを浮かべる少女を射抜かんと輝きを強める。
まるで炎のようだ、と少女は心中でひとりごちた。
「俺は貴様等と慣れ合うつもりはない」
「わかっている。必要な犠牲を払い、ボクらは【神】へと駒を進める。何も変わってはいない」
「クク、それとも今更ニンゲンが惜しくなったかい? なんといっても君の妻と娘はニンゲンだったから――」
瞬間、茶々を入れて哂うニグレドの脳天を飛来した矢が貫いた。
如何にしてか、傍らの弓に触れもせず飛ばしたルベドの巨矢であった。
「……酷いな、まったく。命だって無限じゃないのだよ」
「俺を疑うならば、いいだろう。アルカンシェルとやらの首級を以て証明しよう」
頭部から矢を抜き捨てたニグレドを一瞥を以て視界から外し、ルベドは今度こそ弓を手にとって席を立つ。
そのまま広間を出ようとして、ふと足を止めた。
ちりちりと肌を灼く魔力を纏い、背を向けたまま口を開く。
「ひとつ訂正しておく。たしかに俺の妻はニンゲンで、娘も半分はそうだった。だが、二人を殺したのもまたニンゲンだ」
「ん、キミは人間が憎いのかい?」
「憎い。当然だ」
即答する声に紛うことなき復讐の念を感じて、少女が愉快そうに口元を歪ませる。
ニグレドから施術を受ける前から、この男はその一念で狂っていた。
ヒトを愛していたがゆえに、狂うしかなかった。正気では妻の死を受け入れられなかったのだ。
その一途な在り方は少女が酷く好む気質であった。
「お前は違うのか、我らが王よ? お前を裏切った人間が憎くはないのか?」
「さてね。もう二百年も前の話だ。忘れちゃったよ」
「……」
「いってらっしゃい、ルベド・セルヴリム。今度こそキミの望みが果たされることを願っているよ」
白髪の古代種はそれ以上は何も言わず朽ちた神殿を後にした。
「主様、なぜ彼に自由意思を許しているのですか?」
男が去ったのを確認して、アルベドが気遣わしげに主に問いかける。
それは明らかに裏切りを危惧した言葉だ。
たしかにルベドは紛うことなき古代種の生き残りだが、“戦乱の導”に加わったのは僅かに十年前だ。
人間ならともかく、数千年を生きる古代種にとって十年という期間は忠義を信じるには短すぎる。
「彼の弓の腕は私も承知しております。此度も負けるとは思いません。ですが、彼の心は人間の色に染まり過ぎています」
千二百年前の戦争から十年前までルベドは人間社会の中で生きていた。
同じ時間を古代種として、戦乱の導として生きていたニグレドやアルベドとは事情が異なる。その危惧も当然といえよう。
「大丈夫だよ。ああ見えて彼は義理堅い。一度与したボクらを簡単には裏切れないし、一度ならず矢を向けた人間の輪に戻ることも出来ない」
しかし、少女の笑みは崩れない。
信用や信頼でなく、論理と感情による結論が少女の中で結ばれているのだ。
ルベドが今でも人間を愛そうとしていることを少女は理解している。
妻を殺されて尚、心のどこかで人間を諦められないからこそ、赤化者の名の如く復讐の念はああも燃え盛っているのだ。
その炎の如き情念を、古代種でありながら精霊級を超え、武神級の対極たる“神霊級”に至った少女の感応力は余さず理解している。
「……主様がそう仰るのでしたら、暫くは静観いたします」
ややあってアルベドは頷きを返した。とはいえ、納得したとは言い難い様子である。
女はどれだけ体を重ねても人間が抱く“愛”のカタチを理解することが出来なかった。
アルベド・ディミストにとって愛とは奪うこと。人間とは自らの声に跪かせ、全てを差し出させる存在であり、同時に、多くの同胞を奪った憎き敵を指す。
それ以上でもそれ以下でもない。憎しみは深く、精神の断絶はそれ以上に深い。
「ともあれ、今大事なのは計画の進捗状況だ。予想よりもギルド連盟の手回しが早い。向こうにも優れた差し手がいるよ」
「ですが、場当たり的な対処しかできない彼らの限界は近いでしょう」
「そうだね。彼らが後手に回る限り、ボクらの方が一手早い」
少女が静かに立ち上がる。
それに合わせて、右に侍るニグレドが大仰に腰を折り、左に侍るアルベドが優雅に一礼する。
「さあ勝負の時だ、先生――アルバート・リヒトシュタイン」
少女は幾ばくかの憧憬と哀愁を込めて、ギルド連盟を創設した初代本部長の名を口ずさんだ。
だが、その揺らぎも一瞬で消え、後には王の姿だけが残る。
「ボクたち古代種とあなたの遺したギルド連盟、どちらが正解だったのか。その答えが遠からず出るよ」
強烈な輝きを秘める金の瞳は“原初の海”に還った魂までも捉えられるのか。
決然とした口調とともに戦乱の導は行動を再開した。
◇
朽ちた神殿を出たルベドは指笛を吹いて亜竜を呼び出した。
ややあって、呪われた心臓が放つ鼓動に従って亜竜が降下してくる。
男は硬い皮に覆われた亜竜の顎を撫で、背に跳び乗る――その間際、男の背に強烈な殺気が叩きつけられた。
「……何か用か?」
殺気の源は神殿の入り口で石像の如く屹立する巨体だった。
返り血に染まる砕けた鎧と背に背負った長剣。この十年、変わることのないガイウスの姿だ。
二人は互いに殺気を籠めた視線を交わす。
元より二人は相いれない。対象こそ違えど憎み、憤怒に燃えるその心の働きは鏡の如く同じカタチなのだ。
つまりは、同族嫌悪の類であった。
膨れ上がる殺気に亜竜が頓死しかける中、ガイウスが口を開く。
「……死した者は何も為せない。お前は生きていない」
「自明の理だな、武神。たしかに、俺の魂は十年前に死んだ」
目を閉じれば今も脳裏に浮かぶ。
狩人として村を離れていた内に妻子を奪われた十年前のあの日。
火をかけられた我が家。血の海に倒れ伏した妻。それらを囲む村人たちの悪鬼の相貌。
正気はその瞬間に喪われた。
気付けば、村人全員を殺し尽くし、その全てを焼き尽くしていた。
ヒトの身勝手な差別に対し、ルベドはその総力を以て決然と復讐を果たした――筈だった。
「だが、あの日の炎は未だ俺の中で燃えている。何故だ?」
「……」
「知れたこと。これは人類すべてへの復讐の炎だからだ。俺達の生の営みすら否定した奴らを滅ぼす炎だからだ。その想いすら擦り切れたお前にはわかるまい」
ルベドは言い捨てて亜竜に跳び乗った。
既にガイウスの存在は意識の外にあった。この男は既に対象ではない。殺すべきは人間。
【神】の呪いを受け入れた心臓が疼く。
全てを射抜き、焼き尽くす。それだけが己が魂の残り火。
そう自身を確定する。それ以外の思考を捨てる。必要ないからだ。
亜竜が羽ばたき、風を巻き上げて飛び立つ。
ガイウスは黙して見送る。刃金はこれ以上、語る言葉を持たない。
死した者は何も為せない。ならば、生きる者はどうか。
復讐と狂気にその身を委ねたルベドはついぞ思い出せなかった。
十年前のあの日、果たして己は“娘”の死を確かめたのか、と。
――赤の狩人はその先にある邂逅をまだ知らない。




