18話:隠れ島
抜けるような青い空を丸みを帯びた白雲がゆっくりと流れ、肌に触れる潮風が降り注ぐ陽光の熱を冷ましていく。
いつになく晴れたものだ、とカイは岩の上で横になったままひとりごちた。
見上げる視界は常の半分。再生させたばかりの左目を眼帯で保護しているからだ。
大喰らいの討伐を以て依頼を終えたアルカンシェルの一行だが、数日後の今もまだ青国に留まっていた。
理由はいくつかある。
カイの怪我が完治していないこと。
依頼の報酬として得た、レムディースの大図書館に秘蔵された呪術に関する禁書の閲覧がまだ途中であること。
そして、「夏の青国に来たんだからバカンスのひとつでも楽しみましょう」という従者の言。
今、一行はユフェス船長の勧めで彼女が個人的に所有する小島を訪れていた。
「……小島とはいえ個人で土地を所有している、か」
意外、という感想の類を含んでカイは呟いた。
数日一緒にいたユフェスは土地に縛られるのを嫌う海の人間らしい闊達な印象であったからだ。
青国は議会制の国だ。
『賢人議会』と呼ばれる選任制の議会が国政を担い、各地方は首都から派遣された代官が統治している。
そのため、通常は白国の貴族のように領地と徴税権を持つ者はいないが、英雄に代表されるように、とかく個人の実力によって世の趨勢が覆される事例は枚挙にいとまがない。
その際に報償として一代限りで土地を与えることはこの国でも行われている。
目に見える形で恩を与えると共に英雄という存在を土地と国に縛るのだ。
“嵐の歌姫”の功績ならば、与えられた土地もこの小島ひとつではないであろう。
それらは水人の歌姫を陸に縛り付ける鎖であるのか。
(……詮なきことか)
他者の心の裡などわかるものではない、とカイは思考を放棄した。
代わりに、やや難儀しつつ片目の視界で周囲を見渡せば、人の背丈の二、三倍はありそうな岩がゆるやかに四方を囲んでいる。カイが横になっている岩もそのひとつだ。
不思議な形状の島であった。
上空から見れば、中央の窪地の周りを柵か何かのように大小様々な岩が囲み、隠している様に見えるだろう。
中央の窪地には白い砂浜とともに海から滝を作って流れ落ちた海水が水面を形作っており、人目を気にせず泳ぐことが出来る。
周辺海域は浅く、岩礁が乱立しており、潮の流れを読んで小舟で来なければならない。
岩の柵によって島内部が窺えないことと併せて、単なる小島というよりは一種の隠れ場のようなものに思えた。
ユフェスが言うには、元は一つの岩島だったが千二百年ほど前に旅の剣士が酒に酔った勢いで砕いてしまった、などという逸話があるらしい。
その話を聞いた時、カイの脳裡には何故か彼岸の世界で幾度かまみえた仮面の男の姿が思い浮かんだ。
だが、仮にも神に至るほどの武錬を持つ者が酒に酔って剣を振るうなど有り得ないだろうと、使徒として箱入り――地獄の釜の底ともいえるが――同然に育てられた男はかぶりを振って妄想を頭から追いやった。
「……」
そうして、頭を振った拍子に左目を覆う眼帯の存在を思い出し、何の気なしに触れる。
視界が制限されるというのはそれなりに負担がかかる。
外してしまおうかとも思うが、カイに再生魔法をかけた施療院のクレリックの忠告――無茶をすれば本当に失明するぞ、とそんな類である――を思い出して踏みとどまった。
先日の無茶でカイの肉体は大きく損傷していた。
特に左目を中心とした神経系の損傷は酷く、再生魔法をかけた現状でも一週間は絶対安静を言い渡されている。
とはいえ、失明の危険もあったことを考えればその程度で済んだのは幸運であろう。
実際、視力は既に問題なく回復している。
だが、治りたての身体は刺激に弱い。塩水はもちろん、出来る限り日光も避けるべきであるため、わざわざ眼帯を着けさせられているのだ。
当然ながら海に入る訳にもいかない。
つまりは、どうしようもなく暇であった。
「…………」
当然の当然ながら、鍛錬も全面的に禁止されている。
齢二十四にもなってようやく、カイは己が鍛錬以外の暇の潰し方を知らないことに気が付いた。
生き急いできた自覚はあったが、これではクルスを笑えないな、と口の端を歪めて自嘲する。イリス達が無理やりにでも趣味を持たせようとしたのも当然の反応だったのだろう。
何もしないというのも気分が悪いので、一向に上達する気配のない釣りの練習を始めてみたりもした。
が、暇加減がさらに増すだけだった。
カイの釣りの腕が下手になった訳ではない。上達もしていないが、そもそも湖側の塩分が濃すぎて魚が棲んでいないのだ。
他の面子はといえば、ソフィアとイリスは滝壺のあたりで泳いでいる。
クルスはユフェスの酒盛りに付き合った後遺症、つまりは二日酔いで潰れて木陰で休んでいる。暇つぶしに起こすのも忍びない。
そうして、やることがない人間が何をするかと言えば、頭を捻るくらいしかない。
実際、考えるべき事はあった。
――『技能合成』。ファイターの秘匿技術についてである。
亡き父が戦士であり、手ずから教えを受けていたカイはその技能のいくつかを使える。技能合成の基本骨子もそのひとつだ。
各クラスで秘匿技術の習得難度は大きく異なっている。
その中で『技能合成』は他クラスでも比較的習得は容易な方だ。
逆にウィザードやアーチャーの秘匿技術は必要能力が著しく高いため、当該クラスでも習得者は千人万人にひとりとも言われている。
技能合成の習得が容易なのはその性質による。
元より“技”とは実戦で型のまま用いることは少ない。普通は相手と自分の状況に応じて変化させて使う。その際に他の技の動きを足す、というのもよくあることだ。
技能合成はそうした実戦における技の変成それ自体を“技”としたものといえる。
いってしまえば前衛職の誰もが自然に行っていることだ。故にこそ習得が容易であるといえる。
ただし、その性質上、技能合成は幅広く応用が利く為、無数の組み合わせを記憶し、処理できなければ使いこなせない。
人間の有する処理能力を考えれば『雷切』と『技能合成』の内、極められるのは片方だけであろう。
実際、カイが合成可能なのは僅かに二、三種の組み合わせだけ。心技の合成に至っては今まで成功したことのなかった一手だ。もう一度やれと言われて出来るかというと首を横に振らねばなるまい。
弟子の焔切と同様の、博打要素の強い隠し札だ。
それでも、多少の感慨があった。
心技と刀気解放の合成をこの手は為した。かつて出来なかったことが可能になった。
――それは魔力を失う前の自分を超えたことの証明に他ならない
ぞくりと侍の背筋に震えが走る。歓喜の震えだ。
魔力を取り戻せば、おそらく下がった位階も取り戻すことができる。
侍にしては珍しいほどに口元が歪む。
あるいは、この身はかつて届かなかった頂まで――
「カイ?」
ふと、人には見せられない笑みを浮かべていた男に鈴の音のような声がかけられた。
表情を消して声と気配を頼りに顔を上げ、声の主を右目の視界に映し、
「――――」
息を、のんだ。
そこにいたのはソフィアだ。
島を貸し切っている以上それは当然であるし、声と気配からして判断もついていた。
ただ、人目がないのをいいことに少女はまったく服をまとっていなかった。
片目の視界に映るのは細い首筋と薄く浮いた鎖骨。
あるがままに垂らされた金糸が柔らかな膨らみを隠し、呼吸に合わせて臍下へと水滴が滑り落ちていく。
僅かに丸みを帯びつつある白磁の肌は磨き上げられたかのように染みひとつない。
輝かんばかりに美しく、同時に未だ少女の可憐さをも残した奇跡のような一瞬がそこにあった。
「気持ちのいいお天気ですね」
「あ、ああ……」
濡れた髪を梳きながらこちらを見上げる少女の表情に羞恥の色はなく、蒼の瞳には優しい光が湛えられている。
カイとて木石というわけではない。気心の知れた相手が生まれたままの姿を晒していれば驚きもする。
反射的にクルスを探したが、一行の良心は未だ木陰で熟睡中だ。
「この島はとてもいい所ですね。ユフェスさんにお礼を言わないといけません」
「そうだな」
「次にカーメルさんにお会いした時におはなしすることが増えました」
「……ああ、たしかに水晶鈴にとっては嵐の歌姫は憧れだろうな」
「はい。おふたりともとてもきれいな歌声でしたし、また機会があればお聞きしたいです」
一切服を着ずに泳ぐのは爽快であったのだろう。
満足気な表情をした少女は濡れた体を軽く拭いながら浅瀬にあがった。
ゆっくりと歩くたびに芸術的な曲線を描く白磁の肌の上を大粒の雫が流れ落ちる。
正直、かなり反応に困る状況だが、何を言ってもドツボに嵌まる予感がして迂闊に口を開けない。
それに燦々と輝く太陽の下、誰かの“声”に悩まされることもなく、あるがままでいられる時間は少女にとってひどく貴重な時間だろう。
たしかに、カイは読心を断つことは出来る。少女自身で耳を塞ぐことも出来る。だが、そうやって得られるのは断絶にすぎない。
飾らず、むき出しのままでいられるのはきっと今しかないのだ。
ならば、その美しさを損なわせることもない。
何かあれば腹を斬ろうと秘かに決意して男は口を閉じた。
イリスが用意しておいたのだろう。砂浜と水面の境目辺りには厚めの布が敷かれており、そのまま寝そべることも出来るようになっている。
少女はそこに腰をおろし、日陰の桶に氷と共に浮かんだ水筒を手に取った。
蓋をあけて薄桃色の唇を飲み口に寄せる。
嚥下する度に健康的な喉元が小刻みに動き、暫くして、ほっと安堵の息をついた。
「……」
少女の愛らしい姿を何とはなしに眺めていて、ふと依頼の後処理や治療やらに追われて溺れた所を助けられた礼を言っていないことに気付いた。
こういうのは早いうちに伝えておくべきだろう。
カイは岩上から飛び降りてソフィアの前に立つと、僅かに驚いている蒼の目を真っ直ぐ見つめて言葉を紡いだ。
「先日は助かった。礼を言っていなかった」
「そうですね。誰かさんは重傷でしたし」
「……すまない」
他に言いようがなく、不器用に謝る男に少女はくすりと笑みを浮かべた。
男の無骨さを笑った笑みではない。愛おしくてつい零れてしまった、そんな優しい笑みだった。
「冗談です。わたしは仲間として当然のことをしただけです」
「そうか……なら俺も仲間としてこの借りを返そう」
「はい。でも、無茶はしないでくださいね」
「善処する」
「……」
「……」
言葉が尽きて、二人の間には滝の音だけが響く。
少女はやわらかに微笑み、男も小さく口元を歪ませる。
不快な沈黙ではない。言葉にせずとも分かり合えるが故に二人は何も言わず、肩を並べて景色を眺める。
澄み渡った海の蒼さが心を落ち着かせ、晴れ渡った青空が開放感を呼ぶ。
俗世から隔絶したこの小さな世界に争いはなく、訪れた一行をただ在るがままに受け入れていた。
そうして暫く景色を眺めていると、ソフィアが小さくくしゃみをした。
「冷えたのか? 何か羽織る物を持ってこよう」
「だいじょうぶです」
「そうは見えないが」
「なら、カイが暖めてくださいませんか?」
一瞬、絶句したが、ソフィアが両手を伸ばしたのを見てようやく意図を理解した。
向かい合えば、少女は男よりも幾分背が低い。
見上げたままそっと腕を回す少女を、男は抱き上げるようにして懐に迎え入れた。
二人の間で、白い肌に浮いた水滴が形をなくす。
かき抱いた少女の体は同じ人間とは思えないほどに柔らかい。
鼓動が僅かに乱れ、水に濡れた白い肌が腕の中で吸いつくように密着する。
潮のにおいに混じって微かに花のような香りが鼻腔をくすぐる。
(……軽い。それに脆い)
力を入れれば壊れてしまうのではないかと危惧するほど少女の体は華奢であった。
こんなにもか細い体で戦ってきたのかと思うと、男の心にも一抹の感情が湧き上がってきた。
心に熱が灯る。愛おしいと確かに感じた。
男の手が無意識に少女の水を多分に含んだ髪に差し込まれる。
塩気の強い水に晒されても瑞々しさを失わない金糸が男の無骨な指の間をさらさらと流れていく。
少女は気持ちよさそうに目を細めた。
「ソフィア」
「ん、もうすこしだけ」
頬を桜色に染めながらも少女はそうせがんだ。
男の胸元に顔を埋めて、己が安らげる場所は此処だと宣言するように熱い息を吐く。
早鐘を打つ鼓動が二人の隙間を埋めた胸から男の中へと直接伝わっていく。
男も表情こそいつも通りだが、見慣れたはずの少女の姿を何故か直視できなかった。
胸の奥に宿ったのは痺れるような、満たされるような不思議な感覚だった。ずっとこのままでいたいと、そう思った。
「……ん?」
抱き合ってから暫くして、ふと、カイの視線が背後に向いた。
いつから居たのか、イリスが立っていた。
顔を赤らめた従者は隠す気もなくこちらを凝視している。
従者も服は着ておらず、常は胸当てとコートに隠されているメリハリの効いた体を陽光に晒し、銀糸にも似た白髪もしっとりと濡れている。
こちらはこちらで目の毒だ。
加えて、逸らす気の感じられない従者の視線がカイの我慢の限界をつつく。
「………………………………ソフィア」
「えっと、もうすこしだけ」
限界だった。無言で少女の華奢な体を水面に向けて放り投げる。
狙い澄ました投擲は、狙い通り小海の中央に飛沫を巻き起こした。
次いで、何故か期待に満ちた目で見ている従者も放り投げた。
再度大きな水飛沫があがった。
暫くして、二人は泳いで戻ってきた。
「しょっぱかったです」
「楽しかったわ!! お返し……はダメよね。あ、でも足くらいなら大丈夫じゃない?」
「そうですね。きもちいいですよ」
「……」
撤退すべきか、否、どこに逃げるというのか。
クルスを起こすか、いや、さらに混沌とするだけのような予感がする。
一瞬の内に思考が展開し、抵抗は無駄だとカイの脳味噌は判断した。
靴と足甲を外し、裾を捲りあげてふくらはぎあたりまでを海水に浸す。
「……ふむ」
岩壁に遮られて殆ど波はないが、足を漬けてみると底の辺りに緩やかな流れを感じた。
流れる水の冷たさが体温を溶かし、足裏を白砂の細やかな感触がくすぐる。
成程、他では感じられない心地よさが海にあることをカイも理解した。
今の今まで、海と言えば突き落とされた記憶しかなかったため余計にそう感じられた。
「こうしていると夢でみた景色を思い出します」
「夢?」
両手で掬いあげた水が指の間から零れていくのを眺めながらソフィアがぽつりと呟く。
「時々みるんです。自分が蝶になって広い海の中を泳いでいる、そんな夢を」
「……海、ね。もしかしたら“原初の海”かもしれないわね。ソフィアの感応力ならそうであってもおかしくはないわ」
うっすらと日焼けした健康的な肌色に笑みをのせてイリスはそう推論した。
“原初の海”は死した魂の還る場所だ。常人は関知することのできない世界、この世ではない、彼岸の果てだ。
だが、魔力を介して向こう側に干渉できるウィザードならば意識の糸が届く可能性はある。元より、ヒトに原初の海の存在を告げたのはウィザードが契約する黒神なのだ。
「ソフィアの夢の海はどんな感じなの?」
「広々として、澄んでいて、何もかもが満たされた場所です。ずっといたいと思えるような……。ですが、夢の終わりにはいつも何か恐ろしいモノをみるんです」
俄かに少女の表情が曇る。
思い出そうとしても靄がかかったようにあやふやなカタチしか浮かんでこない何か。唯々、恐ろしいと心に焼き付いたその印象だけが残っている。
「……たまに魘されていたのはその所為なのね」
「カイの隣で寝るようになってからは、こわくなくなったんですよ?」
「あら、それはよかったわね」
イリスが苦笑と共に片目を瞑る。
従者の姿には妹を見守るような優しさがある。
心の奥、主を支えるのが自分でなかった、そのほろ苦さは笑みで隠した。
「また海に来ましょう。夢の海はソフィアだけだけど、現実の海ならみんなで来れるわ」
「はい!!」
そうして頷き合う二人の少女の視線が男に向く。
愛おしさと優しさと、未来への期待の籠った表情がひどく眩しかった。
「次はカイも一緒に泳ぐわよ」
「約束、ですよ」
「……ああ、約束する」
男は穏やかな表情のまま頷いた。
それは波間に反射する虹色の光のように、儚くも優しい約束だった。




