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刃金の翼  作者: 山彦八里
三章:暗雲
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17話:大喰らい

 障壁の強度はその基点となる盾と使用者の性能が大きく影響する。

 いくら障壁を硬く張ろうとも、それを支えるモノが軽く、脆ければ容易く弾き飛ばされてしまうからだ。

 故にナイトは盾と鎧を装備して自身の重量と強度を増やす。己とその背に負った仲間を守る為に。


 だが、今クルスには鎧もなく、その手にあるのは常用している騎士盾の半分以下の性能しかない円盾だ。

 騎士盾も持ち込んでおくべきだったか、と後悔するが今更の話だ。

 この身で、この盾で守る。今すべきことはそれだけだ。


 大喰らいが溜めに溜めた砲撃を発射する直前、クルスもまた全力で障壁を展開した。


「――ッ!!」


 刹那、クルスは自身の体が消し飛ぶ姿を幻視した。


 大量の海水を圧縮した大質量、それを直射して放つ高速度。

 撃ち放たれた“水の砲撃”は文字通りの大瀑布であった。

 障壁が軋む。踏みしめた両足が船体に刻まれた硬化術式の許容量を超えてめり込む。

 それでも騎士は耐えた。肉体がバラバラになりそうな圧力を受けながらも盾を構え続ける。


 大喰らいが放った大河の氾濫にも等しき一撃を見たとき、船員たちもまた死を視た。

 そして、それが船尾に立つクルスを起点に真っ二つに割れて船を避けて行く様に奇跡を視た。


 とはいえ、それも泡沫の奇跡に過ぎない。

 元より限界性能を超えていた円盾には徐々に罅が入り、端から砕けていく。

 大喰らいの攻撃はいまだ衰える気配すらない。あと数秒もせずに均衡は崩れるだろう。


「代わってください、兄さん!!」


 そこにソフィアが間に合った。

 きっかり三十秒。緑杖を構えた少女の前には大喰らいのそれに似た魔法陣が展開している。


 周囲の海水を吸いこみ、収束し、放つ。

 “水の砲撃”は大喰らいの図体の割に小さな脳みそでも展開可能な原始的な術式だ。

 だが、それ故に威力はシンプルに強い。海水の大質量と撃ち出す速度がそのまま武器となるからだ。


 一方のソフィアは大喰らいのように周囲の海水を引き込まない。必要無いからだ。

 大喰らいがその巨体に大量の海水を集められるように、少女には聖性に由来する膨大な魔力がある。

 暴威には暴威を以て返す。

 術式が形を成し、彼岸の世界、元素に満ちる世界から奇跡を呼び起こす。


「――セット、発射(シュート)!!」


 放たれたのは大喰らいのそれと遜色のない水の砲撃。

 魔力を文字通りの呼び水として放たれる大瀑布が鏡映しの軌道を描いて大喰らいの砲撃を相殺する。

 ふたつの砲撃はぶつかり合い、断続的な轟音を響かせて互いを喰らい合う。


「相殺!? ホントに人間かよ……」

「ぼさっとしてんじゃないよ!! 今の内に船を立て直すよ!!」


 驚愕という言葉でも足らない常識外の戦いに動きを止める船員たちをユフェスが叱咤する。

 この均衡は長くはもたないと船長は考えていた。

 ソフィアには精神力と魔力、大喰らいには吸い込んだ海水という限界がある。どちらが先に尽きるかは未知数。

 いざという時に手をこまねいて後悔するのは自分たちなのだ。


 だが、ソフィアの性能はユフェスの想像を凌駕する。


「水の砲撃で同等なら―――」


 ソフィアの澄みきった蒼海の瞳に魔力が通い、合わせて魔法陣がその構成を切り替える。

 戦略級契約者。その称号は伊達ではない。

 術式の変化に応じて齎される奇跡もまたその有り様を変える。

 次の瞬間、少女の展開した魔法陣から放たれる奔流が流水から凍気へと変化し、逆回しの如く大喰らいの砲撃を喰らって凍らせた。


「“氷”ならいかがですか?」


 水の砲撃で同等ならば、氷の砲撃ならソフィアが有利である。氷結属性への高い適性が存分に発揮されるからだ。

 進撃する凍気の奔流は押し返しただけでは飽き足らず、大喰らいの顔面をも削り、その巨体ごとあたり一面を凍らせた。

 舞い散る水飛沫すら凍る極低温の砲撃は巨体の動きを著しく鈍らせる。


「こっちも喰らっときなさい。――貫け!!」


 ほぼ同時にマストに登ったイリスが放った巨矢が正確に片目を貫いた。

 弾け飛ぶ青い血すら凍りつく急激な温度変化に眼球の強度が耐えられなかったのだ。

 そして、どれだけ再生力が高くても矢が刺さったままでは回復しない。大喰らいの視界の半分は失われた。


「手がないことを嘆きなさい、おサカナさん」

「お見事です、イリス」

「そっちもね。凍気の砲撃なんていつ覚えたの?」

「いえ、即興です。わたしができたということは世界のどこかに存在するのでしょう」

「あ、相変わらず無茶するわね」


 世のウィザードが聞けば卒倒するような離れ業も少女にとっては苦ではない。聖性を持ち、生まれついて魔法を使える存在というのはそういうモノなのだ。

 ともあれ、大喰らいの前面部を広く凍結したことで吸い込みと水の砲撃は封じた。

 蓄積したダメージは未だ致死に届かずとも、確実に損傷は与えている筈だ。

 大喰らいも後が無い。野生に生きる本能が、人を殺さんとする狂気が敗北の兆しを過たず捉える。

 故に――


「来るか。ユフェス船長!!」

「あいよ!! 野郎共、ここが正念場だ。気張りなッ!!」


 鋭く発せられたクルスの警告にユフェスが即応する。

 痺れを切らした大喰らいが凍りついた鱗を砕き飛ばしながら突撃をかけたのだ。

 傍目には海を割ってゆっくりと進んでいるように見える大喰らいだが、それは巨体故の錯覚に過ぎない。

 実際は鰭の一振りで彼我の距離が大きく詰まっている。象と蟻の一歩の差だ。

 ちょっとした島ほどもある巨体が象の一歩に乗ってぶつかれば、如何な鋼鉄船とはいえ跡形もなくなるだろう。


 だが、相手の泳ぎにこちらが付き合う必要などない。

 ヴィラーシュは速度と小回りを利かせて突撃を回避しようとして――


 ――船底から不吉な音を立てて鋼鉄船の船足が落ちた。


 嫌な予感がユフェスの背筋を走り抜けた。

 伝声管を開ける指が震えることなど何年ぶりのことだろうか。


「機関室、どうしたんだい!?」

『ダ、駄目です、船長!! 動力機関が停止してます!!』

「チィッ!! ここまで来て……」


 無理をさせすぎたか、とユフェスは己の判断ミスを悔やんだ。

 ヴィラーシュの動力機関は確かに画期的なものだ。その速力と馬力が無ければ大喰らいの浮上すら躱すことはできなかっただろう。

 だが、同時に新型故にノウハウの蓄積が無く、安定性に欠ける。それが最悪の瞬間に表出したのだ。


 ユフェスは憎々しげに船尾に迫る巨体を見つめる。怒り故か青く充血した不気味な隻眼と視線が交わる。


 だが、その視界を遮るように、大喰らいに挑むようにクルスが立ちはだかった。


「……」


 その背に声をかけようとして、しかし、ユフェスは言葉を忘れた。

 ただ息を呑む。騎士の白い背中は声をかけることを忘れるほどに尊く、頼もしいものだった。


「――我が誓いは朽ち果てず」


 クルスは己が心技の一節を心に刻みつける。

 その手に盾はなく、心技“エンブレム・オブ・トリニティ”の発動条件は満たされていない。


 だが、手段が無い訳ではない。


 思い出す。はじめてこの船を見た時のことだ。

 黒鉄の船体には確かに硬化の刻印術式が刻まれていた。

 ナイトにとって、何が盾であるかは本人の意識次第だ。実際、クルスはかつて槍の穂先に障壁を展開したこともある。

 ならば、できる筈だと信じる。一心に信じることは得意だ。


(頼む、シオン)

(――クルス、がんばって)

(すまない。ありがとう)


 心の裡でシオンが己の持つ魔力を解放し、クルスに譲渡する。

 一時的に増幅された魔力で全身を碧色に輝かせながら騎士は甲板に手を触れた。

 意識を切り替える。船一つを“盾”に見立てて全魔力を注ぎ込む。


「――障壁、最大展開ッ!!」


 そうして、船を覆うほどの巨大な障壁と大喰らいがぶつかった。

 大質量をそのまま破壊力に転化した突撃で生まれた激突音が周囲を揺らし、衝突で圧縮された海水が弾けて飛び散る。


「グ、ガアアァッ!!」


 クルスは噛み締めた歯の間から唸り声を上げた。

 大喰らいの突撃は未だ終わっていない。徐々に圧力が増していき、耐えきれず障壁に罅が入る。

 元より制御限界を超えている障壁の大きさと強度の維持に脳が割れそうになる。

 盾とした船が殺しきれなかった衝撃がその身に返り、騎士の全身から血が噴き出した。


「ギ、グッ……」


 その身一つで対抗する負荷は余人には計り知れない。

 裡でシオンがチャクラをかけるがダメージの蓄積が早すぎて回復が追い付かない。

 魔力もまた信じられない勢いで消費されていく。


「このっ!! 止まれ!!」

「――怒れ、怒れ、怒れ!!」


 イリスが残った目を狙って矢を放ち、ソフィアが連続して雷撃魔法を叩き込み、巨体に裂傷を刻んでいく。

 だが、大喰らいは勢いを緩めない。魔物もまたここが勝負どころだと理解しているのだ。


(魔力が足りないか……)


 ソフィア達は呼ぶことはできない。その瞬間に均衡が崩れる。

 二人が攻撃していることで気勢が削がれているのは確かなのだ。


(足りないなら、生命を燃やす)


 クルスは覚悟を決める。何にしてもここで船を落とされれば命はないのだ。

 ずっと昔に護ると決めた。その誓いに今でも一点の曇りもない。

 故に――


「悲劇の主人公気取ってんじゃないよ、クルス(・ ・ ・)!!」


 故に、その姿は余人を惹きつけてやまない。

 クルスの背を熱のこもった手が支え、清冽な声が薄れかけた意識を覚醒させる。

 耳朶に響く声を通じて魔力が体に満ちていくのを感じる。


 バードには音を通じて魔力を受け渡す技能がある。

 削れていく意識の中でふとその知識が騎士の脳裏を掠めた。


「……船長が、指揮、しなくて……いいのですか?」

「短時間ならね。それより今はアンタだよ――アタシの魔力も使え。それで足りないなら他の船員も引っ張ってくるよ」

(――クルス、たすける)


 ユフェスの魔力の籠った声に応じるように、あるいは競うように、心の裡で妖精の輝きが増す。残り少ない魔力を騎士に託す。

 魔力でその身を構成する妖精にとってそれは身を差し出す行為に等しい。

 故にこそ、シオンの覚悟のほどもまた窺い知れる。


「……いいえ、十分です!!」


 騎士はいつの間にか俯いていた顔を上げた。視線は強く相対する巨体を確と見据える。

 魔力が新たに注ぎ込まれ、障壁が輝きを取り戻す。

 罅は消え、軋みすら生じなくなり、遂に大喰らいを確と受け止めた。


「――いっけえええええ!!」


 そして、その瞬間こそが騎士の本領。

 クルスは咆哮を上げて障壁を押し返す。

 規模こそ常と異なるが、それこそは紛うことなきシールドバッシュ。

 島に等しき巨体を押し留める力が攻撃に転化され、大喰らいを弾き飛ばした。


 それがクルスの限界だった。

 障壁が微かな輝きを残して消え行く。

 魔力が尽きて己の血だまりに倒れそうになるその身を慌ててユフェスが支えた。


 その周囲、絶望の縁にいた船員たちから歓声が上がる。

 が、大喰らいが健在であるのを見てすぐに沈んでいく。

 機関室は奮闘しているものの、未だヴィラーシュの船足は落ちたままだ。甲板の軋みも既に限界に達している。


 もう一度攻撃を受ければ沈む。

 誰もがその事実に再び膝を折りそうになる。

 その中で――


「お前の流した血は決して無駄ではなかった、リーダー」


 勝機を心眼に映し、カイは甲板を駆け抜けた。

 “無間”の理に従い、侍の健脚は中型船相当のヴィラーシュの甲板を僅か十歩で走破、その身を最高速度に叩き込む。


「それを、今、証明する」


 そして、一切の躊躇なく船尾を踏み切り、跳躍し、大喰らいの血に汚れた海面へと飛び出した。

 船員たちが唖然として見上げる中、その身は放たれた矢の如く飛翔し、然る後に海中に――没しない。


 海面に浮かぶ小さな波紋を残し、侍は荒れ狂う海面を駆けていた。


 軽身功を練り上げたその身は海面の僅かな反発力を足場に地上と変わらぬ速度を維持する。

 水切り石の如き鮮やかな疾走は数瞬の後に大喰らいを間合いに捉えた。


(やはり、でかい)


 視界に入りきらぬ巨体を前にカイは心中でひとりごちた。

 島一つ。大喰らいはゴーレムや巨人種とは比較にならない大きさだ。

 加えて、急所たる核は海中の半身に隠されている。


 カイがこの巨体を斬り抜くには心技“アメノハバキリ”しかない。

 だが、必斬たる心技の発動条件は『無間による最大加速』。

 海上ではともかく、海中ではさしものカイも速度を維持できない。

 この状況で心技を発動しても海中に入った時点で解除されるだろう。

 大喰いの核まで剣は届かない――常ならば。


(だが、斬る――斬れる)


 右手が静かにガーベラの柄に触れる。

 刃金の魂が主の心意気に応えんと気炎をあげる。


 手に持つのは鋼の名刀。その魂を呼び起こせば不可能は可能に変わる。

 カイはそう信じる。仲間もまたそれを信じている。


 背後から乱れ飛ぶイリスの矢とソフィアの魔法が駄目押しとばかりに大喰らいの動きを押し留める。


「“決めろ”、カイ!!」

「――狂い咲け、“菊一文字則宗”」


 クルスの振り絞った声に背を押され、カイは刀の魔力を解放する。

 無論、これだけでは大喰らいの核まで届かない。さらに一手が必要だ。

 故に、カイはガーベラを鞘内(・ ・)に留め置く。


 鉄鞘が圧縮された風刃に砕かれるまでの数瞬、それが勝負の分かれ目だ。

 覚悟は既に決まっている。採るべき手段もまたひとつしかない。


 この心技はあらゆる守りを突破する神剣、その刃に触れて断てぬ者はない。

 届きさえすれば斬れる。故に、届かせる。


 間合いを定め、最後の一歩を踏みきる。

 極限の集中に瞳孔が収縮する。

 そして、口は静かに詠唱(・ ・)を唱えた。


「【刀気解放】併せ【心技】――ここに成れ」


 すなわち、ファイターの秘匿技術、刀気解放と心技の『技能合成』。

 魔力のない身で、刀の魔力を媒介にして行う離れ業。魔力を失う前でも成功したことのなかった一手。


 だが、今なら出来ると信仰する。

 最初で最後の勝機を逃すつもりはない。


 全身くまなく針を撃ち込まれたようなおぞましい感覚が走る。

 脳髄が燃えるような痛みを放ち、幾つも火花が散る。


 次の瞬間、神経系にかかった過負荷に耐えきれず左目が破裂し、血を噴いた。


 刺すような痛みが眼の奥を蹂躙し、視界が鮮血で半減する。

 相手が巨体なのが幸いした。近づきさえすれば外す気がしない。


「――斬刃一刀」


 大喰らいと一瞬だけ目が合う。

 互いに隻眼、狂気と憤怒に塗れた視線はこちらを射殺さんばかりの強さだ。


「――天目一箇」


 大喰らいが凍った顎を無理矢理に開く。丸呑みにする気だろうか。

 知ったことではない。元よりできることはひとつ。やるべきこともまたひとつ。

 意識の全てを振り捨てて、魂からの一念にて腰の一刀を抜き放つ。



 ―― “大神十握・アメノハバキリ”――



 刹那、有り得べからざる閃光が魔物の体を駆け抜けた。


 振り抜く一閃は六徳に至った物質の最小単位を斬り通す必斬の一太刀。

 鞘を砕きながら抜刀された一刀は長大な風刃を纏い、心技を拡張する。


 然して、風刃と必斬の合わせ技は大喰らいの顔面を斬り割り、そのまま核を断ち斬って尾まで走り抜ける。

 そうして、必殺の一刀は大喰らいの巨体を海ごと(・ ・ ・)縦一文字に斬り裂いた。




「や、やりやがった……」

「……きっちり核を破壊しやがった。手馴れてるね、アイツ」


 奇跡に等しい光景に誰もが目を見開く中、大喰らいの巨体が四散する。

 後に残ったのは海面に浮かぶ真っ二つに割られた濃紺の魔力結晶のみ。


 そして、断ち割られた海が元に戻り――カイが沈んでいった。


「お、おい、サムライの兄ちゃんが浮いて来ねえぞ!?」

「ッ!! すぐにボートを――」

「カイ!!」


 皆が驚き、動き出すまでの一瞬。

 その一瞬で服を脱ぎ捨て下着姿になったソフィアが海に飛び込んだ。

 控え目な着水音とともに少女の姿が荒れ狂う海中に消えていく。


「あの馬鹿娘!! 進路反転、急げ!! 魔力探知できる奴は捕捉!! “仲間”を死なすんじゃないよ!!」

「カイ、ソフィア!!」


 ふらつく体を縁を掴んで支えたクルスは海中を覗きこむが、二人の姿は見えない。

 転移も詠唱も出来ない水中ではウィザードはほぼ無力だ。

 ソフィアの行動は不合理としか言いようがない。


「浮いてこない……クソッ!!」

「アンタまで飛び込むなんて言わないでね、クルス。その消耗じゃ死ぬだけよ。行くなら私が行くわ」

「俯いてんじゃないよ!! 目かっぽじって二人を探しな!!」

「ッ!!」


 慌てて顔を上げ、海面に目を凝らす。

 人が溺れ死ぬまでにかかる時間はどれくらいなのか、クルスは知らない。

 だが、ソフィアが飛び込んでから一度も浮上していないのは確かだ。

 皆が焦り、絶望が心を浸食し始める。


 その時、キン、と響く高音と共に遠くで氷柱が一本天に向かって伸びた。

 無詠唱で放たれた氷柱は構成を維持できず一瞬で崩れ去るが、その役目は十全に果たした。


「この魔力、ソフィアだ!!」


 クルスの声にヴィラーシュが最後の力を振り絞る。


 程なくして、氷に掴まって波間を漂っていた二人は救出された。



 ◇



「ソフィア、自分が何をしたのかわかっているのか!!」

「すみません……」


 あれから暫くして、ソフィアは甲板の上で正座して兄のお叱りを受けていた。

 俯く仕草とまだ若干湿り気を持つ金髪が本人の意志とは関係なく色っぽさを醸し出している。

 その隣で水浸しになった装備の代わりに水兵服を借りたカイも神妙な顔で正座している。

 相変わらず心技発動の度に折れる右腕の治療は済ませた。

 ただ、神経系ごと破裂した左目は治癒術式だけでは足りず、本土に戻って再生魔法を受けねばならない重傷だ。今は止血して包帯を巻くに留めている。


「仲間が危機に晒された時こそ冷静に行動しなければならない。忘れたのか!!」

「カイが死んでしまうかと思うと、いても立ってもいられなくて……」


 クルスはそれがどういう感情なのか問うべきか少し迷ったが、とりあえず置いておくことにした。


「それでもだ。治癒術式を使える者が冷静でいなくてどうする。今回とてカイは重傷、俺は魔力が枯渇していたんだぞ」

「はい……ごめんなさい」

「カイもだ。確かに決めろとは言ったがそのまま溺れてどうする」

「面目ない」


 カイもまた言い訳のしようがなかった。

 実際、着地、着水のことなど考えていなかったのだ。

 とはいえ、仮に何か考えていても心技に集中したら頭からすっぽ抜けていただろう。

 心技とはそういうものである。ある意味でこの結果は必然であった。


「予め言っておいてくれればこちらでフォローもできただろう。そもそも――」

「まあまあ、クルスもそれくらいにしときなよ」

「イリス。だが……」


 イリスは尚も言い募ろうとするクルスの額を軽く小突いた。

 従者の口元は笑みの形にみえるが、赤い眼は笑っていなかった。


「障壁の維持で命削りかけたアンタもどっこいよ」

「ぐ、む、船長に聞いたのか」

「そういう訳で戻りましょう。いい加減邪魔よ」


 そう言ってイリスがソフィアの胸元を指差す。

 一通り拭いたとはいえ、ソフィアの体と下着はまだ若干の湿り気を保ち、白い服の内側から僅かに透けている。

 妖精じみた容貌のソフィアがあられもない格好をしていては、船長を除いて女っ気のないヴィラーシュの船員たちには目の毒であろう。

 現に向こうで作業の手を止めてこちらを見ていた船員がユフェスに蹴り飛ばされている。

 従者としても看過できない状況である。


「……船室で休んでいてくれ」

「私は船の補修とか手伝ってるから、ソフィアは風邪ひかないように気をつけなさい」

「なら、俺も――」


 立ち上がったカイが手伝いを申し出ようとするが、イリスは男の左目を覆う包帯にそっと触れて首を横に振った。

 慈しむ様な表情にはどうにも抗いがたい強さと優しさがあり、カイは続きの言葉を呑み込んだ。


「アンタも暫く安静にしてなさい。それと、ソフィアと一緒にいてあげて」

「……了解」

「それじゃ、また後で」


 イリスは手をひらひらと振って船員たちの間に混ざっていった。


「……ソフィア、お前の行動は褒められたものではない。だが、お前は確かに仲間の命を救った。それは事実で、誇るべきことだ――よくやった」


 クルスはしかめっ面に僅かに笑みを足して妹の頭を撫で、言いたいことだけ言って二人を船室に放り込んだ。


「……」


 限界だった。

 有無を言わさず閉めた扉を背にして、クルスはずるずるとその場に座り込んだ。

 加護によって体力は徐々に回復しているが、全魔力を消耗した疲労が全身を苛んでいた。


 魔力とは空気に喩えられる。

 肉体が空気を必要とするように、精神は魔力を必要とする。

 魂が生成する魔力がなければ精神は輝きを失う。

 魔法や各種技能が使えなくなるという現実的な障害も大きいが、それ以上に在るべき物がないという喪失感が心身を苛むのだ。


 空気が無ければ肉体は機能しない。ならば、魔力が無ければ精神は――


(カイはこんな状況で生きているのか……)


 動くことさえ億劫な倦怠感が真綿で首を絞めるようにこびり付き、肉体ではなく精神が寒さを感じる。

 端的に言って、死体のような気分であった。


 同じく魔力を消耗したシオンも騎士の裡で眠っている。暫くは現界することも出来ないだろう。

 このまま眠ってしまいたい。そう思った。寝て、起きた時には多少は魔力も回復している筈だと。


「なに湿気た顔してんだい、クルス」


 それでも、放っておいてほしい、そう言葉にするのは矜持で噛み殺した。

 見上げれば、手に酒瓶を持ったユフェスが困ったように眉根を寄せた表情で見下ろしていた。


「船の補修も一段落したから祝杯でもと思ったんだけど、そんな感じじゃあないね」

「すみません……」

「いいさ。ほら肩貸してやるからちょっと休みな」


 ユフェスはクルスの隣に座り、ひとりで酒瓶を煽りながらも宣言通り肩を貸した。

 隣り合って座ればクルスの方がいくらか視線が高い。

 こんな細い体でどうしてあれほど通る声が出せるのか、クルスは不思議でならなかった。


「ところで、あんな状態で二人きりにしたら妹さんは毒牙にかかっちまうんじゃないのかい?」

「カイを信頼していますので」

「つまらんね。妹さん、一皮むいたらイイ女になるだろうに。なんだったらアタシが」

「勘弁して……ください……」

「そうかい。……お休み。今日は助かったよ」


 仄かに香る酒精のにおいを感じながら、徐々に落ちていく瞼の向こう、女船長はやわらかな笑みを浮かべていた。

 そんな気がした。

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