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刃金の翼  作者: 山彦八里
三章:暗雲
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16話:海戦

 鋼鉄船ヴィラーシュは軽快に浪間を走っている。

 舳先にあたって砕けて生まれる白波が甲板に立つクルスの頬を僅かに濡らす。


 海というのはクルスの想像以上に雄大なものだった。

 緩やかに波打つ海面を跳ねるように飛び魚の群れが泳ぎ、それを狙って海鳥たちが騒がしく飛び交っている。

 海中の気配を探れば幾種類の生物たちが生息しているのも感じられる。時折、人間以上に大きな生物の気配も感じたりもするが船に近付いていくる様子はない。

 少々退屈を感じもするが、それもまた一興だろう。クルスは概ね船旅を楽しんでいた。


 他の面子はどうしているかとは視線を巡らせれば、白い服も眩しいソフィアは船の周りを旋回している海鳥にパンクズを与え、その隣でカイは薄く眼を閉じたまま船の縁に胡坐をかいている。

 相変わらず暇のつぶし方に関してこの二人は行き着く所までいっている。苦笑するしかなかった。


 港を出発してから既に一昼夜が経過している。

 特製の推進機関により風の流れに左右されず、ユフェス船長の歌が悪天候を退けるため、航海は想定以上に順調だ。

 たまに襲ってくる雑多な水棲の魔物も、船員が速やかに船に備え付けられたバリスタを撃ち込んで仕留めてしまうのでクルスたちの出番はない。


 元々、“謎の影”の調査または討伐の為の人員であるクルスたちが航海において何かしなければならないということはない。

 だが、仕事中毒のクルスにとって船員たちが働いている中で自分は何もしないというのは少々苦痛だった。

 自分ばかりが船旅を楽しんでいることに後ろめたさを感じるのだ。完全に病気である。


 たしかイリスが船員に縄結び(ロープワーク)を習っていたか、とクルスが自分もそれに加えて貰おうかと思案し始めた頃、騎士の感応力が遠くから断続的に放たれた微弱な魔力を捉えた。


「何だ……?」


 自分より遥かに鋭い感応力を持つソフィアに視線を向ければ、騎士の妹は魔力が放たれたと思しき方角をじっと見つめていた。

 その表情に警戒は浮かんでいない。むしろ、感動に類する敬虔な表情をしている。敵襲というわけではないのだろう。


「いきりたつ必要はないよ、お坊ちゃん」

「ユフェス船長、この魔力は一体……?」

「すぐにわかるさ」


 ユフェスは快活な笑みと共にクルスへ水筒を投げ渡した。

 反射的に受け取ってそろりと口を付けてみればすっと鼻の奥が通るような爽快感がした。オレンジの果汁が混ぜてあるのだ。

 これでも飲んで落ちつけということだろう。

 少々納得のいかない気分ごとクルスが再度水分を嚥下していると、暫くして先の魔力を追うように彼らの頭上を光の帯が駆け抜けた。


 青空に映える美しい一筋の光明。


 思わず目を細める程の眩い光は昼の空でも輝きを失わず、見る者に不思議と暖かさを感じさせた。


「今のは?」

「あれは青神の聖地“水晶灯台”の光跡さ」


 水晶灯台はその名の通り全てが水晶でできた灯台である。

 青神に歌を教えられたという眷族(メロウ)の中でも最も古い血族が守護に就き、数千年を経たその灯台は、沖合にて浮遊し、昼は陽光を、夜は月光を反射して船乗りたちを導いているという。


「船乗りの中であの光に助けられた経験のない奴はいないだろうさ」


 ユフェスが感慨深げに告げる。口元には僅かな苦笑がにじむ。

 歌い手(バード)であった少女がどのような経緯で連盟所属の船長となったかは定かでないが、三十歳を前にしてその地位に就くのは並大抵の苦労ではなかったのだろう。

 彼女もまた朧に消え行く光跡に導かれたひとりなのだ。


「あれが見えたってことはアタシらの仕事現場も近いってことさ。ヘマすんじゃないよ」


 そう言ってユフェスはクルスの肩を乱暴に叩くと自身の配置に戻っていった。

 遅ればせながら気を使われたことに気付いたクルスは船長の背に頭を下げると表情を引き締めた。



 ◇



 調査海域についたヴィラーシュは一旦船を止め、錨を下ろした。

 鎖までミスリルとの合金製で作られたそれは海中に投下されてすぐに返しを引っかけ、船を固定した。

 そのまま船員たちが皆動きを止め、沈黙する。一切の音を立てない為だ。

 状況が掴めないクルス達も、ひとまず彼らに倣って音を消した。


「ちょっと音だすよ。耳塞いどきな」


 怪訝そうな顔をしつつも従うクルス達を尻目に、ユフェスは大きく息を吸う。


<――――――ッ!!>


 次の瞬間、耳を塞いだ掌を貫いて、ひどく澄んだ高音が脳を揺らした。


 イリスは驚いた猫のようにびくりと震え、ソフィアはぐらりとふらついた所をカイに支えられる。

 常人と比べて冒険者の感覚はかなり鋭敏だ。通常ならば人間の可聴域を超えている音も捉えることができる。

 それが音に特化している者なら尚更だろう。


 海面にごく小さな小波を立たせつつ、ユフェスはくるりと一周して声を出し切った。

 “反響探知”と呼ばれる技能だ。

 ユフェスは蝙蝠や一部の水棲生物が行うように自身の“声”を水平方向に収束、反響させて周囲を探知したのだ。


(おそらくはイリスの“森の番人”と同様の海上限定で効果範囲を広げる加護か)


 人が独力で出せる範囲を明らかに超えた能力を発揮するユフェスを見て、クルスはそう推測した。

 戦略級契約者の称号は伊達ではない。

 天候操作能力と広域探知能力。ユフェスがその気になれば海域のひとつふたつ国から切り取って支配することも不可能ではないだろう。


「すまんね。いきなりで驚いたかい?」

「いえ、大丈夫です。結果はどうでしたか?」

「ここら一帯の海上には魔獣級以上の魔物はいない。いるとしたらもっと遠くか、もしくは海中さ」


 胸を張り、断言するユフェスを疑う必要はない。

 海上は彼女の領域(ステージ)なのだ。


「ソフィア、イリス、海中を探ってくれ。カイ、どう思う?」

「……対象が魔物だという仮定になるが」


 問われたカイは白波を伴って揺れる海面を見遣りながら口を開く。

 その表情は妙に険しい。先程から大きな、しかし、漠然とした違和感が脳裡で疼いているのだ。


「この海域が“狩場”なら近くに潜んでいる筈だ。魔物は獲物(ヒト)が来る限り狩場を離れることはない」


 それが現状から導き出した侍の推論だ。

 ある程度以上の魔物との戦闘経験を持つ冒険者ならば、皆賛同するであろう。


 魔物は食事、生殖、睡眠その他生理的行動を一切必要としない。

 獲物に噛み付く、あるいは諸共に呑み込む魔物もいるにはいるが、それらはあくまで自身の形状を効率よく利用し“人間を殺す為”に行っているに過ぎない。

 よって、たとえば、一見捕食しているようにみえる魔物が何か月も“餌”にありつけなくても餓死することはない。

 彼らが狩場を移動する理由はひとつ。人間を殺す為だ。他に理由はない。


「この海域以外では目撃されておらず、かつ、複数の船が行方不明になっている以上、対象が未だこの海域を活動圏にしている可能性は高い」

「やはりそう考えるのが正着か。こちらで把握している限り、前に船舶が行方不明になってからまだ一週間。それまで順調に狩りを続けていたのに移動するのは不可解だろうな」

「だから、まずはここの海中にいるかどうかを調べるべきってことかい。仕事が早いね」


 ユフェスは豪快に笑ってクルスの背を豪快に叩いた。

 その笑みに僅かに苦笑が混ざっているのは仕方のないことだろう。

 クルスは彼女の“反響探知”を一目見ただけでその性質を見抜き、海上から海中への探知を不得手とするところまで理解した上で仲間に指示を出していたのだ。

 騎士の如才なさには女船長も舌を巻くしかなかった。


「……ところで、船長」


 何故かそっぽを向いたままのカイが再度口を開く。

 何だい、とユフェスが若干憮然として問い返すと、侍の指が船体の一点を示した。


「この一帯の海域は底が浅いのか?」

「はあ? そんなわけないさ。お星さま沈めても余裕があるくらいには深いさね」


 伸ばした指の先にあったのは甲板に設置された巻き取り機とそこに巻かれた鎖、ヴィラーシュを固定している錨を吊るしている鎖だ。

 巻き取り機に残る鎖にはまだまだ余裕がある。

 鎖の途中で色が変わっているのは、いつもは海中に沈んでいる部分であるために表面に不純物が付着しているからだ。


「いやいや、待ちな。いつもは沈んでいる尺が何で余ってる!?」

「――兄さん、下です!!」


 ユフェスの疑問と何かに気付いたソフィアの警告、そして、船が大きく揺れたのは同時だった。

 ひどく大きなもので押しのけられるかの如く、船は横転ギリギリまで傾いていく。

 船員たちは慌てて船を制御し、浮上した側に移動して横転を抑えにかかる。


「錨をあげな!! 進路反転!! とにかく離れるよ!!」

「だ、駄目です!! 錨が根がかりを起こしてます!!」

「チィッ!! とにかく発進しな!! ここでもたついたら鋼鉄船だって沈んじまうよ!!」


 船長の怒号が飛び、船の推進装置が唸りをあげ、波を蹴立てて船体を旋回させる。

 応じて巻き取り機が勢いよく回転して鎖を吐き出し、ほぼ直下を向いていた鎖は波を割って徐々に水平に向かっていく。

 此方が離れると共に錨のかかった先が浮上しているのだ。


「総員、手近なものに掴まれ!! 大波が来るよ!!」


 急速に盛り上がっていく海面を見てユフェスがあらん限りの声量で叫ぶ。

 船底まで届いたであろう声に誰もが反応し、とびつくように自身を固定する。


 数瞬の後、マストまで覆いつく巨大な波がヴィラーシュを襲った。

 船底が海面を離れ、船体が大きく浮き上がり、数秒の浮遊の後、着水する。


 横殴りに吹き飛ばされた船体は船員たちの尽力もあって奇跡的に横転しなかった。


「進路そのまま!! 機関室、最大船速保て!! 焼け付いてもいいからケツを叩きな!!」


 未だ降り注ぐ飛沫を片手で防ぎながらユフェスが伝声管を閉じたまま声を船体に叩きつけて伝播させる。

 伝声管を開けば機関室にまで甲板の混乱が聞こえてしまう。今ほど自身の声量に感謝したことはないだろう。

 甲板は阿鼻叫喚だった。ユフェスと共に幾たびの航海を成功させてきた船員たちが驚きと恐怖に震えているのだ。


(無理もないか……)


 遂に尺が無くなり、キリキリと音を立てて張りつめた錨鎖の先に視線を向ける。

 そこにいたのは巨大な魚獣種――と言っていいか迷うほどに巨大な魔物だった。

 一枚一枚が人間の胴体ほどもある灰色の鱗を無数に具え、粘性の液体に保護された不気味な眼球がぎょろりと回転し、こちらを睥睨している。

 海上に見えている部分だけでも大型船どころか、ちょっとした島ほどある巨体だ。海中部分も含めればその大きさは如何ほどだろうか。


 カイが感じていた違和感はコレであった。

 それは、さながらパズルの一ピースだけを見せられたかのように、魔物の存在を感知しながらも、感知範囲を優に超える巨大さ故にひとつの存在として認識できなかったのだ。


 魔物の名は“大喰らい”。

 百年以上前に僅か数度だけ目撃された伝承の中の魔物であった。


「ウルハの野郎はこいつを予想してやがったね!?」


 今更すぎるユフェスの悪態であった。

 最新鋭の鋼鉄船に、二級ギルドと戦略級契約者を搭載するほどの徹底ぶりだ。

 時世と戦術を選べば青国の海軍相手に向こうを張れるだけの戦力を用意した時点で気付くべきだったのだろう。


 大喰らいの実力は魔獣級上位、下手をすれば精霊級に手をかけている。確殺を望むなら英霊級を用意すべき相手だ。

 とにかくでかい。でかすぎるのだ。

 身じろぎしただけで船が沈みかねない巨体だ。竜種や巨人種よりも大きな体はそれだけで強力な武器となる。

 おそらく全ての魔物の中で最大の大きさを持つ魔物であろう。

 いくら魔物が常識外の存在とはいえ、地上ではこのレベルの巨体を維持することはできないからだ。


(とにかく距離をとらないと。奴の身じろぎひとつでこっちは沈みかねないね)

「誰か、鎖を――」


 嵐の中もかくやという揺れと水飛沫の中、ユフェスの声が響く。

 そして、女船長は見た。


「――氷結せよ」

「――貫け」


 歴戦の船員たちが未だ混乱にある中、一瞬の躊躇もなく放たれた氷柱と巨矢。

 波を貫いて飛ぶ双撃はそれぞれ大喰らいの左右の眼球に直撃した。

 しかし、一体どれだけ硬いのか。ソフィアとイリスの攻撃は眼球の表面を僅かに削っただけであった。


 それでも、怒りか、痛みゆえか。大喰らいが悲鳴の混じった耳をつんざくような甲高い咆哮を上げる。

 音波に等しき咆哮に船員が吹き飛ばされそうになる。


 その中を、咆哮に逆らうように張りつめた鎖の上をカイが走る。


「――狂い咲け、“菊一文字則宗”」


 イダテンの加護が侍の身を加速させ、練り上げた軽身功と曲芸じみた平衡感覚で鎖上を走り切る。

 同時に、上段に構えたガーベラに風刃を展開、ギリギリまで間合いを詰めて振り下ろす。

 飛沫を抜けて銀光が走る。

 放たれた一撃は巨大魚の上顎を断ち切った。

 鱗が割れ、牙の数本がまとめて吹き飛び、青い血が噴き出して海面を汚す。

 しかし――


「浅いかッ!!」


 返す刀で鎖を斬り落としつつ、巨体を蹴って跳躍したカイが苦々しげに呟く。

 大喰らいは口元をだくだくと流れる青い血で汚しながらも、不気味な目に変わらぬ狂気を湛えている。

 風刃の間合い一杯を使って切り裂いて尚、大喰らいにとっては大したダメージにはなっていないようだ。


「あー、ミスリル合金製の鎖だったんだけどねえ」

「ここで沈む訳にもいくまい」

「ま、そりゃそうだね」


 船に着地したカイにユフェスが軽口を叩く。

 カイが明確な一撃を入れ、ユフェスが余裕を見せたことで船員たちも徐々に恐慌から立ち直ってきた。

 ヴィラーシュの推進装置は限界まで唸りを上げて大喰らいから距離をとる。

 速度においては巨大魚よりも鋼鉄船に分がある。

 互いの距離が離れ、一行はようやく大喰らいの全容が視界に収まった。


 そして、息を呑んだ。


 深海魚の如く横に広がった小山のような形状。前面の八割近くが口を占める異形。

 怪物、とそう言う他なかった。直視に耐えられなかった者たちが悲鳴を飲み込んで目を逸らす。


「あの大口に呑み込まれちゃあ、そりゃ跡形もないだろうね」


 内心の緊張を表に出さぬよう、ユフェスは殊更に不敵な表情を保って気を吐いた。

 沈没ではなく行方不明。手をこまねいていれば自分たちもその仲間入りだ。

 思い出したように船員たちが甲板に設置されたバリスタを撃ち込んでいく。が、刺さる気配もなく弾かれてしまう。

 元々、低級の魔物相手の装備だ。魔獣級上位など想定してない。


「――怒れ」

「――消し飛べ」


 しかし、魔獣級を相手にする為の存在(ギルド)はこの船にいる。

 ソフィアの放った雷撃が眼球を灼き、イリスの爆裂矢が再生しかけていた上顎の斬痕を割り開く。

 距離が離れた以上、攻撃の主軸はソフィアとイリスの二人となる。


「どこ撃っても中るのは楽だけど、埒が明かないわね」

「相手の再生能力が高いです。一気に押し切る必要があります」

「でも、そんな余裕は与えてくれない、か」


 飛び散る水飛沫にしとどに濡れた二人は、しかし、戦意を翳らすことなく大喰らいを見据える。

 少女たちの視線の先、遂に大喰らいが最大の武器である口を開けた。

 巨大魚の口内は冥府の底の如き、赤黒い奈落。光すら奥まで通さないほどに深く、昏い。

 その奈落に沿って無数の牙の群れが人間を殺す為だけに並んでいる。

 吸い込まれたが最後、跡形もなく削り殺されるだろう。


 そして、大喰らいは単純にして最悪の手段をとった。


 ――その大口で以て全力で吸い込んだのだ


「機関最大!! 突ッ走れぇええええええッ!!」


 半ば本能的にユフェスを指示を出していた。

 背後では見る間に海水が渦を巻いて奈落に呑み込まれ、テーブルクロスを引くかの如くヴィラーシュも吸い込まれていく。

 海中では魚はおろか魔物すら吸い込まれていく中、ヴィラーシュは危うい均衡の上で逃走を続ける。

 速度に乗った鋼鉄船は波と波の間を跳ぶようにして疾走する。


 時間にして僅か十秒。ようやく大喰らいの吸い込みが終わった。

 動力機関が焼けつくほどの走力を叩きだした鋼鉄船はギリギリの所で耐えた。

 脅威はまだ去っていない。

 それでも、船員たちは安堵の息を吐いた――開いたままの大喰らいの口内に魔法陣が展開されるまでは。

 悍ましいほど巨大な魔法陣。ヒトの使うそれとは明らかに形が異なる未知の魔道。


「……水の砲撃(・ ・)がきます」


 蒼眼を魔力で輝かせたソフィアがいち早く魔法陣の構成を読み解く。

 大喰らいは吸い込んだ海水を魔法陣で加速させて撃ち出す気なのだ。


「ソフィア、相殺できるか?」

「三十秒ください、兄さん」

「承知した」


 兄妹は短い応答の中で役割を分担した。

 クルスが船尾に陣取り、大喰らいを正面から見据える。

 その威容を前にすれば、腕に嵌めた円盾(バックラー)が心もとなく思えるのも仕方のないことであろう。

 しかし、守る。守り切る。

 その一心で以て、クルスは両足を踏みしめ、盾を構えた。

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