15話:出航
長く、たゆたうような潮騒の音が耳の奥を流れていく。
耳を澄ませながら、クルスは目の前の大海原を飽きもせず見つめていた。
不思議な光景だ。
クルスの知る流水とは高所から低所へ流れるものだ。
しかし、水平線まで続くこの海は波が寄せては返すを繰り返し、砂浜を侵食する様子はない。それを海辺の民も当然のものとして受け入れている。
海は何も語らず、ただ緩やかに波を立たせ、浜辺に打ち寄せている。
青国の海都パルナース。
それが今、一行が訪れている街の名前だ。
主都レムディースとともに青国が“双子の国”と称される理由である海運都市は、さすがは首都の双子と言われるだけあって大陸から突き出た港湾部を丸々使用した大都市である。
面積的には各国首都よりひとまわりほど小さいのだが、一方が海に面していることから四方を防壁に囲まれている他の都市と比べると大きな解放感がある。
街路を歩く人々も多種多様で、大陸外から来たと思しき者も散見される。
もっとも、彼らからしてみれば、竿や筆も持たずに海を眺め続けているクルスの方が奇異に見えるだろうが。
「いつまで見ているつもりだ?」
「……カイか。いや、すまない。どうにも圧倒されていた」
苦笑するような響きと共にかけられた声にクルスは我に返った。
気付けば半刻以上も海を見続けていたのだ。カイでなくとも声をかけたくなるだろう。
クルスが“海”を見たのは初めてだったのだ。
また、それはソフィアやイリスも同様だ。
二人もまた先程まで隣で呆けたように海を見続けていたが、はたと気付いて注文していた船上用の装備を取りに街に戻っていった。
「ソフィア達が戻ってきたら依頼に行く」
「ああ、わかっている」
頷くクルスもまた常の不朽銀の鎧を宿に預け、白の水兵服に着替えている。
腰には錆止めの油を塗った長剣。腕に嵌めた円盾は表面に水を弾く加工をした小ぶりな木製だ。障壁用の刻印術式も最低限しか施せず、命を預けるには少々軽い。
とはいえ、金属盾ごと海に沈む訳にもいかない。船上用ということを加味しての妥協であった。
「カイはそのままでいいのか?」
依頼内容を思い出したクルスが振り返れば、カイは外套を外した黒ずんだ道衣のままこくりと頷いた。
「訓練の一環で、この格好のまま海に落とされたこともある。問題ない」
「問題があるのは訓練方法ではないのか……」
どんな状況になれば海に落とされるのが訓練になるのかクルスには想像もつかないが、考えてみれば、カイは元々速度重視の軽装だ。
その気になれば海上を走ることも出来る人物相手にあれこれ言う事もないかと、続く言葉を呑みこんだ。
「あ、いました。カイ、兄さん!!」
「一歩も動いてないじゃない、まったく」
その時、ソフィアとイリスが手を振って駆けてきた。
見れば、二人とも買ったばかりのお揃いの服に着替えている。
袖と裾を絞った丈の短い白の上下。もしもの時に海上で見つけやすくするためか、袖周りに赤色の刺繍が入っている。
ソフィアの方にはきちんと戦略級契約者を示す紋様を入れている辺り、イリスのオーダーはぬかりない。
「とりあえず着替えてきたわ。お金もかなり貯まってたし奮発しちゃった」
小さく舌を出すイリスは生来の闊達な雰囲気に少年のような格好が良く似合っている。
何だかんだと言って生まれて初めて海に出るのを楽しみにしているのだろう。
胸当てを外したことで、常はその下に押し込められている女性的な丸みも見受けられるようになっているが、本人が気にしていない為か下品な感じはしない。
「特殊な繊維を使って水を弾きやすくしているらしいです。水中では位置情報が取りにくくて転移は機能しませんし、最低限溺れないようにする備えは必要だと考えました」
普段着は丈の長い衣服が多いソフィアは六分丈のズボンに慣れないのか時折裾に触れている。
常は流している金の髪も後ろでひとつに結って、綺麗に整えられたうなじが露わになっている。
白神のローブの神秘的な雰囲気から一転、爽やかな夏の色気がにおいたつような姿だ。
「二人とも船に乗るのは初めてなんだ。備えるに越したことはないだろう」
「良く似合っている」
「ありがとうございます」
「……ア、アリガト」
ふとした拍子に先日の湖での一件を思い出したのか、イリスは恥ずかしそうにカイから視線を逸らした。
事情を察したソフィアがほほ笑み、朴念仁は首を傾げた。
「イリス、不調か?」
「……何でもないわ。気にしないで」
苦笑と共に息を吐けば従者にもいつもの調子が戻る。
こちらばかりが意識するのも不条理だ。いちいち反応しては身がもたない。
いつか反撃することを心の内で決意して従者は手を叩いた。
「よし。依頼にいきましょう!!」
「海上とはいえやるべきことに変わりはない。油断せず行くぞ」
場を締めるクルスの一言にそれぞれ応えを返し、一行は移動を開始した。
◇
「それにしても、白国とは随分と雰囲気が違いますね」
きょろきょろと左右を見回しながら、ソフィアが嬉しそうに笑う。
街道には白国では見たこともない料理や、小さな貝をあしらった雑貨を売る露店が立ち並び、時折、歌い手を象った石像が飾られている。
知らない物が溢れているこの光景は少女にとって楽園に等しいのだろう。
今も砂浜に沿って街道を下る一行の横を荷車を曳いた小型のゴーレムがすれ違った。
これも他国では見られない光景である。
ゴレームは生成に時間がかかり、維持と制御には精神力を大きく消耗する。そのため、限定的な防衛に使われるのが基本であり、運搬に使うなど一般には考えられないことだ。
「ゴーレムを日常的に使うなんて、流石は知識の国、青国ね」
「耐久性や精密性を落として消費を減らしているようです。魔力については魔力結晶を埋め込んで代用していますね」
「ある意味、魔物の構造を真似てるってことね。面白いじゃない」
通り過ぎたゴーレムを目で追ってソフィアとイリスが頷き合う。
魔術の質ではルベリア学園が勝るだろうが、生活や経済に根差した魔術の発展という面では国家規模で研究している青国に軍配が上がるだろう。
青国は知識、技芸を司る青神ディルムスを主に信仰していることもあり、首都にはこの大陸のすべての書物を蔵しているとも言われる大図書館や各種研究機関などもある。
時にヴァネッサのように研究が行き過ぎて指名手配されることもあるが、ともあれ、国家単位での知識の探求という点では他国の追随を許さない。
「レムディースの大図書館にいけなかったのは残念です……」
ソフィアが名残惜しそうに呟く。
知恵の女神に肖ったその名の通り、少女は長い時を経て蓄積された知と書に会える事を楽しみにしていたのだ。
「そう気落ちするな。依頼の後でも行く時間はあるだろう」
「んじゃ、その方向で予定立てるわね」
「ありがとうございます!!」
「だが、まずは依頼の完遂だ。はしゃぎすぎて海に落ちるなよ」
言葉こそ若干軽い調子だがクルスの顔は真剣だ。
応じるように、他の面子の表情も引き締まる。
「“謎の影の調査”ねえ。巷では幽霊船だ、なんていわれてるけど」
服を買いに行くついでに情報を集めていたイリスは肩を竦める。
眉唾もいいところだ。自分たちに依頼が来ていなければ、イリスもそう考えただろう。
「依頼を出せる程度には相手の確証があるのだろう」
「海賊相手でないことを願うばかりだな」
いつもと変わらぬ調子で告げるカイとクルスだが、純前衛の二人は船上では接舷戦闘以外で仕事がない。
乗船する意味あったのか、などと言われないよう精々励まねばならないだろう。
四半刻ほど移動して、一行は目的地の船着き場に到着した。
大きく張り出した船着き場には木枝のように無数の桟橋が渡され、大小様々な船舶が停泊している。
多くは商業船であるからか、荷を満載した台車もひっきりなしに行き来している。
「さて、“見ればわかる”と言われてきたのだが――」
「んー、あれじゃない?」
持ち前の視力と観察力を発揮したイリスが船着き場の片隅を指さす。
細長い指先の示す先を目で追って、クルスは思わずぎょっとした。
そこに停泊していたのは黒鉄でできた船だった。
艶消しされた表面は錆のない黒色。船体に刻まれているのは硬化術式だろう。
大きさは中型船程度だが、発せられる圧力はまるで一振りの剣のように鋭い。
微かに感じられる魔力から鉄と不朽銀の合金製だろうとクルスは推察した。
そして、成程、黒鉄船の帆にはギルド連盟所属を示す『鐘の絵』が描かれている。
他にギルド連盟所属の船は見当たらない。多くは商人ギルド所属である。
やはりあの強烈な雰囲気を放つ艦船がクルス達が同乗する船だろう。
「鉄の船? 学園では開発中って聞いてたけどいつの間に実戦配備されたのかしら」
「ミスリルとの合金製なら余計に重くなると思われますが……いえ、合金製なのは外部装甲だけ? それにしてもどうやって水上に留まって――」
「――アタシの船“ヴィラーシュ”に何か用かい?」
各々疑問を挙げる一行にぶっきらぼうな声がかかる。
視線を向ければ、腰に手を当ててこちらを睨めつける長身の女性がいた。
年は二十代後半か。日に焼けた肌と手足を大胆に晒したラフな格好に、幅広のカトラスを腰に佩いた姿は船乗りというよりも典型的な“海賊”を想起させる。
(……クルス)
(大丈夫だ、カイ。この方は――)
クルスは相手の素性に察しがついていた。
女性の胸元、シャツから覗くそこに『鐘の紋章』の刺青がされているからだ。
それはソフィアと同じく世に七人しかいない戦略級契約者の証であり、連盟に所属している証に他ならない。
女性の方もソフィアの服に刻印された紋章に気付いたのか、にやりと口元を歪めた。
「他の戦略級契約者に会うのは久しぶりだよ。ってことは、アンタらがウルハの紹介で来た“アルカンシェル”だね?」
「肯定です。ユフェス・フェーン船長、ですね?」
「そうだよ。しっかしウルハも戦略級を協働させるなんて随分ムチャしたもんだね」
ユフェスはそう言って視線の圧を緩め、豪快に笑った。
傍目にも支部長を呼び捨てにする姿には付き合いの長さが感じられた。
「支部長とはご友人なのですか?」
「元はアイツもアタシも軍属さね。怠け者と嫌われ者だったのさ」
どっちがどっちだったのかは聞かぬが華だろう。
クルスは神妙に頷き、懐から依頼書を取り出してユフェスに手渡した。
ユフェスは二度三度読んで間違いが無いことを確認すると、依頼書を丸めてベルトと腰の間にねじ込み、顎をしゃくって一行を己の船へと誘った。
「クルス、カイ、ソフィア、イリス、ね。アタシの船にようこそ、お客人。大したもてなしはできないが快適な船旅は約束するよ」
「お世話になります」
「……ハンッ」
律義に頭を下げる貴族をユフェスは変な生き物でも見つけたような目で見るが、兄の後ろでソフィアが「こういう人なんです」と視線で告げると納得したように笑って船に飛び乗った。
「乗りな。ひとまず調査対象が目撃された地点まで出るよ。――野郎共、錨を上げろ!! 出航だよ!!」
突然の大声に船に乗り込んでいたクルス達は驚くが、船員は慣れたもので各々野太い声で応えを返し手際よく出航準備を始めた。
「……水人か」
矢継ぎ早に指示を出すユフェスを何とはなしに見ていたカイがぼそりと呟く。
クルスも失礼にならない程度にユフェスを観察して気が付いた。
緩くウェーブした茶髪に隠れているが、ユフェスの耳の先は僅かに広がってヒレ状になっている。“フィン”と呼ばれる水中で音を聞き取る為の器官だ。
成程、とクルスは納得した。
水人は青神の眷族であり、水中活動に適応した種族だ。成人のメロウは一息で何十分も潜水できるという。
そして、その優れた心肺機能と生まれついての歌い手適性を用いた歌声は海の果てまで届くとも言われている。
ユフェスのよく通る声も本人が適性を理解し使いこなしているが故だろう。
「メロウって悲恋とかの言い伝えが多いけど、なんか印象変わったわ」
「かっこいいですね」
慌ただしく働く船員の邪魔にならないよう一行が甲板の端で待機している内に、ヴィラーシュはしっかりと帆を張り、出航を開始した。
ゆっくりと、しかし、力強く進む船の姿に一行の間で小さく感嘆の息が漏れる。
特にソフィアははじめ足元が動いている感覚に戸惑ったり、船体側面に当たって砕けた海水の飛沫の塩辛さに驚いたりしていたが、すぐに表情を輝かせて船の縁から身を乗り出して行く先を見だした。
「これが船。これが海……すごい」
「ソフィアが楽しそうでなによりねー」
「イリスだって口元がにやけてますよ」
「仕方ないわ。私も船乗るのは初めてだもの」
隣で一面に広がる海を見ていた従者が茶目っけたっぷりに言うと、少女もお返しとばかりに従者の口元をつつく。
遮る物のない船上ではぎらつく日差しに肌が熱を持つが、代わりに船が進むことで生まれる風が熱を浚って清々しさを残していく。
「……二人とも依頼だということを忘れるなよ」
クルスは一応注意はしておいた。
傍目にはじゃれあっている二人だが、既にソフィアは魔力探知、イリスは気配探知を起動している。
余裕はあっても油断はない。それだけの経験を積んできたことは共に戦ってきたクルスもよく理解している。
それに、調査対象の“謎の影”と遭遇するまでにどれだけかかるか分からない以上、気を張り過ぎてはもたないのもたしかだ。
むしろ出航直後から何故か俯いて足元を注視し続けているカイの方が問題と言えば問題だろう。
風に黒髪をかき乱されながらも、侍は微動だにせず直立したままだ。
「カイ、何か気になることがあるのか? 酔った訳ではないだろう?」
船の不規則な揺れと鼻の奥にツンとくる潮風を感じながらクルスが問うと、カイは漸く顔を上げた。
「船の進みが直線すぎる。それに、船底辺りから振動がする」
「振動?」
カイの答えに疑問符を浮かべながら、クルスは甲板に手を当てて意識を集中した。
離れた場所の魔物の足音すら感知する侍の感覚は頭抜けて正確だ。
クルスも船の揺れや船体の軋みとは別に規則的な振動があることに気付いた。
「これは……?」
「おそらく特殊な動力機関だろう」
「よく気付いたね。さすがは二級ギルドってことかい?」
船員に操舵を任せ、一通り指示を出し終えたユフェスが苦笑しつつ話に加わる。
カイが気付いたのはまだ他国に明かしていない青国の新開発だ。ユフェスもまさか出航から数分で感づかれるとは予想していなかった。
女船長は「ここから先は秘密にしといてくれよ」と前置きして、船尾を指さした。
「最後尾に魔力結晶を利用した推進装置がついているのさ。それで水を押しのけて進んでいるんだよ」
「水を、押しのける?」
「原理は櫂と同じさ。ま、詳しい説明はできんがね」
それより、とユフェスは表情を仕事用に切り替えた。
「目標海域には二日で到着する予定さね。それから一週間ほど粘って対象が現れなかったら一旦帰港する。アンタらには客室をひとつ貸すからそこで寝泊まりしな」
「ご配慮感謝します」
「別に乳繰り合ってもいいけど節度は保つんだよ。海の上ってのは意外と不便だからね」
「そのご配慮は無用です。あとは天候次第でしょうか?」
「いいや、それについちゃあ問題ないよ」
にやりと笑ってユフェスは親指で己の胸元の紋章を指さした。
「アタシがいる限り天候を心配することはないよ」
◇
ユフェスの言葉が証明されたのはそれから半日ほど経った時だった。
「船長、前方に船が!!」
マストに登って監視に就いていた船員が声を張り上げる。
ユフェスは海図から顔を上げて割に整っている眉根を顰めた。
遮る物のない海上でははるか遠くも見通せる。前方約一里に暗雲、そして高波に翻弄されていると思しき小型船が見えた。
妙に乗員の数が多い小型船は既に操舵不能になっているようで、傍目にも暗雲下を抜けるのは難しそうだ。
「ユフェス船長、あの小型船を救助することは可能ですか?」
「そんな余裕があると思うかい?」
「ええ、十分にあるように思えます」
断言するクルスに対しユフェスは大げさに肩を竦めた。
実際の所、ヴィラーシュは推進装置により中型船でありながら大型船並みの積載量と小型船並みの速力を持つ。
性能的には小型船ひとつの乗員を丸ごと助けることも十分に可能だ。
「この船の方針を決めるのはアタシだ。あんま客が口出しするもんじゃないよ」
少しずつだがヴィラーシュの周りの波も荒れ始め、船の揺れも強くなっている。
徐々に暗雲の領域下に進入しているのだ。
クルスは尚も口を開こうとして、しかし、ユフェスの様子を見て口を閉じた。
睨むように遠くの小型船を見つめる姿はまるで戦い赴く戦士のようだ。
戦場こそ違うが、騎士はユフェスを軽んじるつもりはない。故に、今は口を出すべきではないと感じたのだ。
「……よし、そろそろ届くかね」
そう言ってユフェスは勢いよく立ちあがり、胸を張って敢然と船首に立つ。
皆が緊張と共にその背を見つめる中、船長は一度喉を震わせ、調子を整えると大きく息を吸い、
<Ra――――>
次に瞬間、荒れる海面にひどく澄みきった歌声が響いた。
ユフェスの快活な外見からは想像もつかないほどの真摯に心を打つ響き。
まるで天にまで届くかのような単音の、どこまでも伸びていく声。
それは祈りの歌声だった。
一瞬の出来事だった。
声の届いた範囲の暗雲が晴れていく。
高波も落ち着き、遠くの小型船も制御を取り戻したのか、反転して離れて行く。
「嵐避けの歌、ですね。しかし、この効果範囲の広さは普通のバードでは……」
「――“嵐の歌姫”」
驚きと共にイリスがその二つ名を告げる。
それは十年以上前に青国で偉業を残した伝説的バードのものだ。
四大国間で小競り合いが続いていた頃。
赤国が電撃的に大船団を派遣してパルナースを占領しようとしたことがあった。
大陸西部の赤国から東部の青国を攻めようとすると、必然、白国か緑国の領内を通って大陸を横断せねばならず、現実的ではなかった。
だが、大陸外延部を半周して船団を派遣するというのも陸路よりかはマシとはいえ十分に無茶の範囲内だ。青国も全く予想していなかったという。
この暴挙をきっかけに赤国では前皇帝とその側近が退位に追い込まれたが、彼らの真意は未だに不明である。
そして、パルナースでは赤国の大船団が港に迫った時、一隻の船とひとりの少女がその前に立ちはだかった。
少女は澄んだ歌声で港を覆うほどの嵐を呼んだ。
大嵐は赤国の大船団を散々に打ちのめし、遂に撤退まで追い込んだ。
その天候すらも従わせる天上の歌声に敬意を表し、少女は“嵐の歌姫”と呼ばれるようになった。
未だその人気は高く、いくつもの書籍でその二つ名が語られ、街道に設置されていた石像の中には彼女をモチーフにした物もあるほどだ。
そして、その類稀なバードの能力が嵐の歌姫こと、ユフェス・フェーンが戦略級契約者に選ばれた原因である。
海上限定とはいえ、彼女が本気で歌えば声の届く範囲の天候は自由自在だ。その気になれば国ひとつの海運を機能停止に持ち込むことも出来る。
確実に、一国が独占できる域を超えた存在であろう。
「まさかこんな所で伝説のバードに会うなんてね」
「色々あったのさ。それに、もう姫なんて呼ばれる年齢じゃあないからね」
ユフェスは照れくさそうに肩を竦めた。
先の真剣な様子は嵐避けの歌の効果範囲に小型船が入るのを待っていたものだったのだろう。今は元のぶっきらぼうな船長の姿に戻っている。
ともあれ、ひとまず小型船は助かった。クルスは安堵の息を吐いた。
「……小型船を追わなくていいのか?」
だが、そこにカイが爆弾を投げ込んだ。
「カイ、どういうことだ?」
「あれは海賊船だ。乗員も搭載武装も多すぎる。どう見ても荷を積めない」
「多少の通行料をとるか、船ごと奪うかするから荷を積む必要は無いんだろうさ」
遅滞なく応答を返すユフェスをカイはじろりと睨んだ。
「やはり気付いていたか」
「当然さね。船員で気付いていない奴はいないよ」
自信満々にユフェスがはちきれんばかりの胸を張る。その周囲、何人かの船員は冷や汗をかきつつ視線を逸らしているが、クルス達はみなかったことにした。
数秒して、諸々の空気を察したユフェスはこほんと咳払いした。微かに頬が赤い。
「ともかく、攻撃してきたとか、討伐依頼が出ているとかじゃないなら海賊も基本見逃すのがアタシの流儀さ」
青国近海では海賊自体は珍しいものではない。
パルナースを出て二刻。この辺りにはまだ小島も点在している。
海賊が拠点にすることのできる島もいくつかあるだろう。
「連盟としては海賊は取り締まる対象ではないのですか?」
「弱点がはっきりしているからさ。あいつらの多くは沖合の島々の村民、最近の魔物の活発化で食い詰めた漁師たちだよ」
(魔物の増加はこんなところまで影響しているのか……)
海の魔物の討伐は陸と比して困難が多い。少なくとも船とそれを操る人手がいる。
討伐自体も海中へと逃がさない為の戦術か、さもなくば逃がす隙を与えないほどの実力がいる。決して低くないハードルだ。
「成程。ウルハ支部長が船団を増強するのにどこから人員を補充したのかと思いましたが……」
「察しがいい奴は嫌いじゃないよ。まあ、あまりに海賊が増えすぎるのも困るからね」
雇用の創出というやつさ、とユフェスは得意げに言っているが意味を理解しているかは不明である。
とはいえ、それで納得できるほどクルスの性格は融通がきくものではない。海賊が法を犯していることに変わりはないのだ。
おそらくウルハ支部長も労役という形で彼らに罪を償わせているのだろうが、心情的に納得しがたい部分があるのも事実だった。
「こういう手管は嫌いかい、お坊ちゃん?」
「……いいえ。現状、海賊になる予定はないので」
「将来なんて誰にも分からないさね。まあ、この船に乗ってる間はアタシの流儀に付き合ってもらうよ、お客人」
暗雲は去り、後には皮肉なほどに晴れた青空と透き通った大海原が広がっていた。




