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刃金の翼  作者: 山彦八里
三章:暗雲
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7話:縛愛の鎖

 夜が明けて早朝、イリスは城内の調査を再開した。

 外はまだ薄暗いが城内では何度か武装した騎士とすれ違う。

 戦時である以上、朝晩の区別なく警戒を敏とするのは当然であろう。


 しかし、それはあくまで外敵に対する警戒に過ぎない。


 侍女というのはこういう時に都合がいいと、イリスは澄ました顔ですれ違う騎士に頭を下げながら心中で呟いた。

 侍女は城内のどこにいても――それこそ誰も来ないような奥まった場所であっても――違和感が少ない。掃除用具でも持っていれば完璧だろう。

 練兵場や会議室などの騎士団の首脳部に近付けばさすがに不審がられるが、それすらイリスは朝夕の食事の配膳の際に必要な情報の収集に成功していた。


(四等家でこれとなると、六等家(ウチ)だとどうなるのかしら?)


 ヴェルジオンには防諜と護衛の専門としてナハトの一族が控えているが、当主を補佐するという点に特化した少数精鋭だ。領地の騎士団すべてを監視することはできない。

 帰ったら養父に相談しようかとイリスが考えていた時、ふと背中に視線を感じた。

 イリスがいるのは城の一階の奥、何もない行き止まり。掃除や巡回以外で人が来ることはない場所だ。

 従者は僅かに緊張しつつ、不自然にならないようゆっくりと振り向き――


「おい、お前」


 そこに居たのはこの城の当主であるダリオだった。

 一瞬、変装がばれたかと焦ったが動揺は外には微塵も出さない。

 ダリオはやや早口な口調と共にイリスの肩を掴んで強引に振り向かせる。らしくない様子にはどうにも焦りがみられる。

 一方、肩を掴まれたイリスは反射的に払おうとする己の体を押し留めていた。

 従者は元より――極一部の例外を除き――他者に触れられることを好まない。それが見知らぬ者であるなら尚更だ。


「当主様、何か御用でございますか?」

「リア……クレリアを見なかったか?」


 単刀直入に尋ねられたその名は当主のお側付きの侍女の名だ。

 没落した元貴族でダリオの幼馴染であり、割と気難しい性質のこの当主の世話を一手に引き受けていた人物である。

 成程、よくみればダリオの灰色の髪は整えられておらず、服の着方も随分と雑だ。

 従者的には注意したい所だが、さすがにそんなことを言う訳にはいかない。


「クレリア様でしたら昨日の夕方からお見かけしておりません」


 自然な仕草でダリオの手を解きつつ、代わりに告げた言葉は事実だ。

 潜入における当然としてイリスは城の古株とは接触を避けている。ダリオやクレリアもその一人。特にクレリアは有力人物の欠けた現状、城内の侍女と従者全員を把握している唯一の人物だ。

 また、レンジャーのクラスを持っておりイリスがどれだけ外見を精巧に偽っても見破られる可能性があったのだ。


(当主様がこんな所に来るのは想定外ね。けど、お側付きがいないって――)

「やはり逃げたのだろうか?」

「……申し訳ありません。私からは何とも」


 ダリオの言葉にイリスは意外さを感じながら頭を下げた。

 側付きの逃亡を疑うダリオはどこか安堵した表情を浮かべていた。そこに怒りはない。

 つまりは、戦端が開かれる前にあの侍女が去ったことは彼にとって安堵に足ることであったということだ。それが従者には意外だった。

 今の今までイリスにとって、ダリオはいきなりソフィアを呼びつけて自領に拉致しようとした卑劣漢という印象しかなかった。


(そんな表情が出来るならどうして最善を尽くさなかったのよ)


 微かに肩を落として自室に戻っていくダリオを見送りながら、イリスは微かに顔を顰めた。

 とはいえ、ダリオばかりを責めるのも公平ではない。

 今回の暴動において仕掛け人は殆ど完璧に事を運んでいる。

 放逐された内政官、当主(ダリオ)の把握していない課税、改竄された帳簿。そして、短期間で領地全域に拡散した反乱。

 何もかもがきっちりと嵌まり過ぎている。

 仕掛け人の狙いがアウディチ家の衰退ならば、その目的は既に達成されている。


(仕掛け人は随分と神経質な性質みたいね)


 思考しつつ、周囲に人目が無くなったのを確認して、イリスは城の内壁の一部をずらした。

 途端に、内部で微かに魔力の反応がして壁が透けるように消える。

 中には、ぽっかりと開いた穴のように地下へと続く階段があった。

 素早く階段へと身を翻しつつ、イリスは仕掛けを再度起動して偽装の壁を元に戻す。


 従者は潜入当初からレンジャーとしての探知能力を駆使し城の全域を探索していた。

 故に、ここに隠し階段があることも初日の時点でわかっていた。

 ただ、その先がどこまで続いているか分からなかった為に他の場所の探索と情報収集を優先したのだ。


「あと調べてないのは此処だけなんだけど……」


 呟きつつ、イリスは暗闇の中、膝をついて階段の表面を調べる。

 まともに掃除もされていない階段には長年の埃が堆積し、そして、足跡と何かを引き摺ったような跡が確かに残っている。


(足跡は大きさからして女性、もしくは小柄な男性。埃の積もり方からしてここ数日で数回の往復あり。歩幅から身長は私より高くてカイより低い、か)


 おそらくは女性だろうとイリスは見当をつける。

 条件にあてはまる男性が城内にいないからだ。そして、何度も利用しているとなると、部外者である可能性よりも自分のような潜入者か内部犯によるものと考える方が無理がない。


(で、次は何を引き摺ったのかよね)


 引き摺った跡は形からして階段を下りた際に付いたものなのは間違いない。

 つまり、この城内からこの先へ何度も持ち出しているモノということになる。


(城の中から減っているのって、税とあとは――)


 慎重に階段を下りつつイリスは思考を展開していく。

 そして、警戒しつつ終点にある古い扉を静かに押し開けた。



「――あとは、侍女だったわね」



 扉を開けた瞬間、噎せ返るような血臭が鼻孔を犯す。

 イリスの鋭敏な嗅覚はそれが何のにおいか過たず認識した。


(ソフィア達が遭遇した呪術士は血で描いた魔法陣で罠を隠蔽してたんだっけ)


 従者は吐き気を堪えつつ暗闇に目を凝らす。

 元は拷問部屋か何かだったのだろう。部屋の隅にはそういった用途の器具が並んでいる。

 だが、その程度の狂気は今や無意味なガラクタに堕していた。


「……」


 部屋中を覆い尽くすヒトの血で描かれた幾何学的な術陣。

 歪な眼球のような意匠が、壁、床、天井のすべてを覆っている。

 それは狂気でもって狂気を上書きするが如き所業であった。

 狂える意志をカタチにしたソレは従者の記憶にない形状だが、まっとうなモノではないことだけは確かだろう。


「……壊そう」


 イリスの本能がこれはあってはならないものだと結論付けた。

 魔力を殆ど感じられないことからまだ起動状態にはなっていないのだろう。


 ――今なら、まだ間にあう。


 己の思考に従い、イリスは脳内で魔弾生成を起動する。


「ん?」


 警戒心を深くしたイリスはふと部屋の隅に転がされている人影を見つけた。

 さして広くもない部屋でイリスが人の気配を見逃すなど常なら有り得ない。それ程に人影の気配は弱々しいものだった。

 イリスは懐からナイフを引き抜き、慎重に人影に近付いた。


 そして、ようやく顔が判別できる距離まで近づいた時、その人影がクレリア――昨晩から行方不明になっていた侍女であることに気付いた。


(逃げたんじゃなかったのね)


 クレリアは侍女服こそ所々破れているが、外傷はなく、命に別状はないようにみえる。尤も、呪術をかけられていた場合はその限りではないが。

 ひとまずイリスは侍女の手足を繋いでいた鎖を外し、血の気ない頬を軽くはたいた。


「……う、あ」


 暫くしてクレリアがようやく目を覚ました。

 だが、術式で眠らされていたのだろうか、開かれた目は茫洋とするばかりで抱きかかえたイリスと合うことすらない。


(幻惑魔法? でも、レンジャーに効くようなものはなかった筈だけど……)


 他者の精神に作用する魔法は存在する。が、その多くは魔物除けのような知能の低いものを対象としたものだ。

 イリスの知るそれらの中に人間、それも契約を得て心身を強化した者に効くほどのものはない。

 仮に、そんな術があっても薬物でも使った方が遥かに効率的であろう。

 不可解だ。その疑いがイリスの脳に警鐘を鳴らした。


 だからこそ、その攻撃に対応できた。


 突如、暗闇から伸びてきた一条の鎖がイリスを襲う。

 飛びかかる蛇を思わせるそれを従者はクレリアを抱えたまま紙一重で回避した。


(こんなときに!!)


 心中で舌打ちしつつ、戦闘状態に移行したイリスの変装が解ける。

 抑えていた気配が露わになり、薄闇に己の色を取り戻した白髪が映える。


 そして、警戒に目を凝らせば、数間先にぽつりと二つの赤い瞳が灯った。


「――あらあら」

「ッ!?」


 闇を割って現れたのはぞっとするほどの美女だった。


 整い過ぎた美貌に匂い立つような色気を漂わせ、ゆらりと闇の中から歩み出る姿は幻想に語られる夢魔のそれか。

 すらりとした一糸まとわぬ白磁の肌、腰まで届く黒髪が各部を隠し、細い両腕から地面へと鎖が垂らされ、艶然と微笑む紫の唇と真紅の瞳はまるで男を狂わせる為に形作られたような魔性を帯びている。

 そして、前髪を上げて晒された額に象嵌された蒼い魔力結晶(サードアイ)が女が人ならざる者――古代(アーキ)種であることを雄弁に告げていた。


「この場所は秘密にしておきたかったのですが、残念ですわ」

「――ッ!!」


 女の紫唇から発せられた艶めかしい声音が酩酊感となってイリスの脳を犯す。

 が、常人はおろか近衛騎士すら一瞬で意識を奪うソレに従者は唇を強く噛んで耐えた。特筆すべき精神力だろう。


「……アンタは、何?」


 体がふらつく。脳の奥がずきりと痛む。

 たった一言を発するだけで己の精神が音を立てて削れていくのを従者は感じた。

 魔物を前にした時とも異なる別種の、あるいは別次元の威圧感。

 脳裡を撤退の二文字が駆け巡る。足元のクレリアがいなければ即座にそうしていたであろう。


「クレリア様にはまだ御役目があります。返していただけませんか?」

「断るって言ったらどうするの?」


「――命じます(・ ・ ・ ・)、“返してくださいまし”」


「ッ!!」


 それはイリスの本能だった。

 意識が目の前の女に従属するよりも一瞬早く、スカート裏から短弓を引き抜き、待機状態にしていた矢を手の中に生成、幾戦幾万と繰り返した動きに従って撃ち放った。


 薄闇を貫いて飛翔する矢が女に中る――直前、ギン、と鈍い音を立てて火花が散る。


 見れば、女の手からひとりでに動きだした鎖がイリスの放った矢を叩き落としていた。

 同時に、イリスの体は本能的に女から距離を取っていた。


「私の“支配”に抵抗した?」

「お生憎様。仕える人はもう決めているのよ」

(……マズいかしらね、これは)


 イリスの背筋を冷や汗が流れる。先程から寒気が止まらない。

 従者の感応力が女の纏うおぞましいほど密度を保つ黒い魔力を捉える。

 あの霧状の魔力が女の言う所の“支配”――おそらくは精神操作系の魔法なのだろう。

 距離を離したことでその効果圏内から離脱することはできた。


 しかし、それでも尚、本能は最大音量で危険を訴えている。

 古代種たる敵は確実に“精霊級”だ。

 イリスが精霊級を目にするのはこれで二度目。

 一度目、十二使徒のネロと会った時の経験がなければ、女の支配に抵抗することはできなかっただろう。


「――――」


 従者は深く静かに意識を研ぎ澄ませる。

 勝つ為ではなく生き残る為に。この場は既にそういう戦いの場となっていた。

 離脱する際に拾っておいたクレリアを後ろ手で部屋の隅に押し込む。

 とはいえ、現状では見捨てることも視野に入れなければならない。それほどの実力差が彼我の間には横たわっていた。


「この部屋の魔法陣。呪術の一種かしら。趣味が悪いわね」

「主の為に手を汚すことを厭う従者はおりませんわ」

(……主ってことはコイツが頭じゃないのね)

「――んふ」


 こちらの内心を見透かしたような女の笑声に従い、鎖の蛇がその足元を這い回る。

 鎖の先端、蛇頭を模した突起が鈍く光る。

 魔導兵器の一種なのだろう。禍々しい魔力と真新しい血の匂いが感じられる。


「こんなことするのにキレイ好きなのね、アンタ」


 言葉を交わしながら、イリスは女からジリジリと距離を離す。

 室内での戦闘ならば弓よりもナイフを使うのが常道だが、今回ばかりは女に近付くこと自体が危険に過ぎる。

 それに、勝てないかもしれない敵に全力で挑まなければならない状況では弓こそが己の武器だと従者は信仰している。

 必ず射抜く。その一心で震えと怖れをねじ伏せる。


 互いの間合いはおおよそ十五歩。

 槍ですら簡単には届かない距離だが、自律駆動する鎖という未知の武器に警戒が先立つ。

 この距離で仕留める。覚悟と共に魔弾生成を再開する。


「主サマとやらはアンタの行動を知ってるのかしら?」

「ええ。けれども、主に下等種(・ ・ ・)の血で汚れた姿など見せられませんわ」

「……へぇ」


 女が艶然と嗤う。

 瞬間、袖内に隠して生成した矢をイリスは抜き打ちで放った。

 狙いは女の顔面。様子見する余裕などない。一射目から殺す気で射った。


 しかし、鎖が矢の接近を感知し、素早く立ち昇り、一瞬の内に絡み取りあっけなく圧し折った。

 役目を果たせなかった矢が魔力に還る。

 女が動いたり、操作したりした様子はない。

 思考操作か、自動迎撃か。ともかく鎖蛇の防衛能力は高い。

 だが、それは既に先の一射目でわかっていたことだ。イリスは驚かない。


 故に、さらに連射を重ねる。

 弦を引き、矢を射ち放ち、番えるより先に再度弦を引く。

 そして、引き絞った弓に直接矢を生成して、即座に矢を射る。

 魔弾生成を持つイリス独特の連射方法だ。


 だが、一心に放つ無数の矢は女に当たらない。

 踊るように回る女の動きに従って鎖が変幻自在に胴をくねらせ、次々と矢を叩き落としていく。


「――ッ!!」


 イリスはひたすらに矢を放つ。

 息を吸う間もなく、弦に擦れた指先が血を撒き散らしても止まらない。


「んふ、多少は期待していたのだけれど、この程度かしら?」


 それでも女には傷一つない。

 見れば、女ははじめの位置から一歩たりとも下がっていない。

 その場所こそが正しいラインであるかのように舞い続ける。


「そこっ!!」


 しかし、いつまでも続くかと思われた応射は唐突に終わりを告げる。

 矢の弾幕と鎖の防御が互いの視線を遮った瞬間、イリスは壁を蹴って跳んだ。


「――射抜け!!」


 女の死角へと跳躍したイリスが背中からここ一番の矢を短弓に装填。

 連射しつつ溜めた力を注ぎ込み、渾身の矢を放った。


 風を切り、魔力の尾を曳いて巨人すら貫く矢が女に迫る。

 しかし、従者の渾身の矢も女の周囲を三重に巡った鎖の多重防御圏を突破できない――正面からは。


「あら?」


 イリスを追っていた女の視線が背後に向く。

 見れば、女の背後、丁度イリスとは対角線上を飛翔する二射目が女の後頭部に向けて走ってきていた。

 イリスが跳躍する直前に予め放っておいた、曲射で大きく迂回させた一矢だ。


「賢しらな手管ですわね」

「矢が一本ずつだなんて言ってないわよ」


 前後から迫る矢は既に直撃軌道だ。女の手が今までにない速さで振られる。応じて、迎撃に鎖の蛇が弧を描いて走る。

 女の体に巻き付くようにして前から迫る重撃を打ち払い、背後から迫る矢を絡め取ろうとする。

 しかし、それはただの矢ではない。


「――曲がれ!!」


 鎖の蛇に捉えられる直前、イリスの制御に従い、矢の軌道がかくんと変わる。


「んふ、逃がしません」


 しかし、追いすがる鎖も空中で直角に機動を変えて追い縋り、先端の突起が矢を噛み砕く。


(振り向きもしなかった。舐めてくれるわね)


 イリスは確信する。今の迎撃は女の手管ではない。あまりに自動的過ぎる。

 であるならば、鎖自体に獲物を追跡する機能があるのだろう。成程、数千年を生きる古代種の装備ならば遺失技術によるものでも不思議ではない。


 そこまではイリスの予想通りだった。


(今の内にっ!!)

「散れ――」


 トドメを――そう思考するイリスの足にいつの間に忍び寄ったのか、もう一条(・ ・ ・ ・)の鎖が絡みついた。


「くっ!?」

「ふふ、鎖が一本だけなどと言った覚えはありませんわ」


 動揺したのは一瞬だけ。

 しかし、鎖はその一瞬でイリスの体をかけ昇り、服の上から全身を拘束する。

 手足はおろか従者の細首にも鎖は巻きつくが、直前に短弓を差し込んだことで首の骨が折られることは回避した。

 しかし、鎖の蛇の圧力は強い。軋みをあげて短弓が急速に歪んでいく。


(マズ。急に体が重く……)


 全身を捕らわれたイリスが鎖の機能に気付く。

 ――否、飛翔する矢を絡め取れる時点で気付くべきだったのだ。

 相手を縛り付け、行動不能にする。それがこの鎖の蛇の真の機能だ。


 縛られた従者の骨肉が軋む。

 徐々に圧力を増していく鎖の拘束は獲物を絞め殺す蛇のそれか。


「貴女は愛を知っているのかしら?」

「ア、グ……」


 さらに、苦しむイリスに対して、なぶるように女が一歩一歩近づく。

 その身に纏う暗い魔力がイリスの意識を犯す。

 まるで動けぬ獲物を前にした捕食者のような余裕。

 呪いにも似た“支配”に捕えられた従者の精神が再び暗黒に落ちて行く。


「愛とは奪うこと。相手の全てを奪い、啜り、己の物とすること。そうして世界はひとつとなる」


 女の白い手がイリスの頬を慈しむように、穢すように撫であげる。

 奪うことで愛する。

 その言葉通り、赤い瞳と額の結晶が“支配”の名の元にイリスの心を籠絡する。


「貴女はどっちの側にいるのかしら?」

「あ、い……」

「そう、愛ですわ。貴女も愛を理解したかしら?」


 女の口元が楽しげに歪む。

 愛、とそう告げた際に捕えた少女の脳裡に浮かんだ人影、それを魔的な鋭さを持つ感応力で感知したのだ。

 浮かんだ人影は三つ。信頼、忠義、そして――恋慕。


「さあ、認めなさい。そして、自らの手で【愛】を証明するのです」


 蠱惑的な響きを伴う声に、イリスは――



「――それを愛とは認められないわ」



 ただ一言、拒絶を返した。


 イリスにとって愛とは与えることだ。

 己の全てを以て仕え、尽くし、いつか花咲く主の支えとなる。

 それこそが己の愛だと信じているのだ。

 故に、女の甘言を受け入れる余地は寸毫もない。


「その愛は偽り。すぐに貴女も理解しますわ」


 だが、至近距離で嗤い続ける女にイリスの言葉は届かない。

 支配者として生まれた女には従者の想いは理解できない。



 ――故に、この“敵”は自分が殺さねばならない。



 徐々に薄らいでいく意識の中でイリスはそう覚悟した。

 女の纏う“支配”の魔力はカイの天敵だ。抵抗力のない侍には防ぐ手立てがない。下手すれば洗脳される。

 鎖の蛇も厄介だ。拘束することに特化した縛鎖は“障壁ごと”相手を縛りつける。クルスとは相性が悪すぎる。


 そして、なによりもこの敵の心は危険過ぎる。

 その言葉が、挙動が、その身に纏う魔力が他者を狂わせる。

 他の者に殺させては狂気が感染する。特に感受性の強いソフィアはマズい。

 誰かが穢れなければならないのならば――それは自分がなるべきだ。


(だから――)


 鎖がさらに絞まっていく。

 胸を縛る圧力によって呼吸は既に封じられている。

 そして、殊更に鎖が絞めあげ、首元に差し込んだ短弓が砕ける瞬間、イリスは“隠し身”を発動した。

 存在をずらした体が拘束を脱し、素早く後方に跳び退る。


「ふふ、弓を失って尚、抵抗いたしますか?」

「弓は無くても矢はあるのよ」


 視界に入るのは部屋中に散らばった無数の矢。

 従者が放ち、女が防いだことで散ったものだ。


 魔力で生成された筈のそれらは役目を終えて尚、形を残している。


 女の表情から笑みが消えた。


「……貴女、まさか」


 イリスが音を立てて袖を振る。


(死ぬほど痛いだろうけど我慢してね、クレリア様)


「――消し飛べ!!」


 瞬間、全ての矢が起爆し、衝撃と共に閃光が暗闇を駆逐した。

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