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刃金の翼  作者: 山彦八里
三章:暗雲
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6話:闇の腕

 カイ達が赤剣傭兵団を迎えるのと前後して、クルスは昨晩から続けてアウディチ家の帳簿と睨みあっていた。

 華美で高価な調度品に囲まれた他には誰もいない客室に等間隔でページを捲る音だけが響く。


(……おかしい)


 中央に提出された資料とアウディチ家に残された帳簿を見比べながらクルスは心中で断じた。

 実務の経験はなくともクルスもまた貴族の家の当主候補である。必要な教育は受けている。

 その知識と生来の勘の良さが帳簿の違和感を嗅ぎつけた。


(数字は合っている。ここ数年、大きな変動もない。だが、それがおかしい(・ ・ ・ ・)


 まず、昨年はクルスたちも参加した“防衛戦争”があった。

 記憶が確かなら、第二師団にはアウディチ家も参加していた筈だ。

 暗黒地帯から遠い白国南部のこの一帯が直接戦火に見舞われた訳ではないが、出兵に伴う負担はあっただろう。

 加えて、その直後に前当主、ダリオの父親も亡くなっている。葬儀にはクルスの父、イオシフも参加していたので間違いない。


 だが、帳簿に記載された数字の羅列からはそれらの事情が読み取れない。

 まったく平凡な一年であったと書かれているに等しい。


(中央側の帳簿までも改竄されている? 徴税官までも? 有り得るのか?)


 城に来るまでに集めた領民の証言では、昨年から今年にかけてアウディチ家は多大な重税を課していたという。

 クルスは当初、出兵と当主の死による負担の為のものだと考えていたが、どうもそうではないように思えてきた。


(ならば、横領された分はどこかに保管して……いや、横流ししているのか?)


 クルスは頭が煮詰まってきたのを自覚した。

 断片的な情報が多すぎて全体像がみえてこないのだ。

 その時、顔を顰める青年を鎮めるように控え目なノックの音が届いた。


「クルス様、グーウオン将軍がお越しになられました」

「ああ、どうぞ」

「――失礼する」


 クルスの応えに応じて静かに扉を開けた侍女と共に厳めしい風貌の偉丈夫が入室した。

 熱気の籠もっていた部屋の空気に男の纏う戦時の緊張感が混じる。


 グーウオン・アウディチ。

 現当主ダリオの叔父にあたる男だ。

 歳は三十代後半ばだが、見る限りは肉体的な衰えは感じられない。

 ここに来る前から、軍務に専念する為に“D”の等級を返上した大貴族がいるという話はクルスも聞いたことがあった。

 目の前の偉丈夫は前当主の時代から複数の騎士団を束ねるアウディチ家の軍務筆頭として辣腕を振るっているという。

 成程、領各地で反乱が勃発している中でも百人の騎士を確保した手腕は確かなものだ。

 下手な将軍であれば、騎士たちは自己の統括地から出てくることはない。与する利も恩もないからだ。

 そのため、荒廃と激動の時にこそ主従の絆は試される。


 クルスは改めてグーウオンを見遣った。

 大柄な体と顎を覆う濃い髭に、黒鉄の鎧を纏った姿は紛うことなき武人のものだ。

 素の実力は自分に利があるが、対人戦闘の経験は相手に分がある。声に出さず騎士はそう断じた。


 そうして、クルスが沈黙している間にグーウオンは静かに進み出ると腰を折って一礼した。

 鎧の音ひとつ立てない姿は紛うことなき貴族のそれだ。


「戦時故、武装したまま謁見することをお許しください」

「構いません。事情は把握しています」

「感謝します。そして、司令官付きの盾にお会いできたことを一人の武人として嬉しく思います。先の防衛戦争には私も参加しておりました」

「アウディチ家からは貴方が筆頭として参加されたのですか?」

「はい。兄――前当主は治世にこそ力を発揮する男であったので」

「そうでしたか。ふむ……」


 威圧的な見た目の割にグーウオン将軍の声音を落ち着いたものだ。

 疲労からか目の周りに隈が出来ているが、応答に問題ないだろうとクルスは判断した。


「率直にお聞きしたい。帳簿の改竄に心当たりはないですか?」


 機先を制して、クルスは机上に広げられた帳簿を手で示した。

 視線はグーウオンに固定したまま、何か反応が得られないかと感覚を敏に保つ。

 しかし、帳簿に目を向け、かぶりを振るグーウオンに動揺は見られない。


「……いえ、私は内政にはあまり関わっていませんので。ダリオ――失礼、現当主にお聞きした方が有意義でしょう」

「ダリオ殿は当主になってまだ半年。帳簿の記帳は配下の者に任せていたそうです」

「その者は……」

「ええ、貴方の用意した文官です。現在は暇を出しているようですが」

「……申し訳ない。何分、兄が亡くなった時期に手配した者でしたので不備があったやもしれません」


 その一瞬、将軍の目の色が濁ったのをクルスは見逃さなかった。


「……そうですか。こちらこそ辛いことを思い出させてすみません。聞きたいことは以上です」

「わかりました。何か用がありましたらご連絡ください」


 最後まで落ち着いた姿勢を崩さずにグーウオンは退出した。

 微かに影を纏ったような将軍の背にクルスは鋭い視線を向け続けた。




 扉が閉まり、グーウオンの気配が遠ざかったのを確認してクルスは行動を開始した。


(問題は帳簿ではなく消えた文官の方か)


 とはいえ、中央側の帳簿すら改竄する手の込みようだ。既に口封じされている可能性が高いだろう。


「すまない。少し休みたいのだが、どこかに空き室はあるだろうか?」


 クルスは扉を開けた先で待機していた栗色の髪の侍女に声をかけた。

 突然声をかけられた侍女は驚きを顔に浮かべながらも職務に忠実たらんと問いに答えた。


「で、ではすぐにベッドのご用意を――」

「この部屋ではなく、どこか静かな部屋があるといいのだが? あまり人の来ない部屋がいい。そう、貴女と二人きりになれるような」


 侍女の手をそっと取り、クルスは真っ直ぐに目を合わせた。

 騎士の精悍な風貌にじっと見つめられ侍女は俯き顔を赤らめた。

 暫くして、こくんとひとつ頷くと、黙ったまま廊下の奥まった場所にある部屋に案内した。


 そこは老朽化した客室で現在は使われていない部屋のようだった。微かにすえた黴の匂いがする。

 部屋の中は手入れこそされているものの、絵のひとつもなく、古いタンスとベッドがぽつんと置かれているだけだ。

 クルスが先程まで使用していた客室とは雲泥の差だ。


「何もない部屋でございますが……」


 恥じらうような侍女の言葉にクルスは黙って先を促した。


「こ、ここならば人目につくことはございません。本日の掃除も終わっています。それで、その……」


 スカートの裾を握りながら、侍女は上目遣いでクルスを見上げながら口ごもった。

 何かを期待するような侍女の目を見返して騎士はひとつ頷いた。


「周囲に気配は? 先の部屋の周りには盗み聞きしていた者もいたようだが?」

「ありません。人様の情事を覗くなどとても……」

「そうか。なら――」


 クルスは侍女の方へと一歩進み出た。


「――もう演技はいいだろう、イリス(・ ・ ・)


 その一言を皮切りに淀んだ室内の空気を暫し沈黙が支配した。



「……なんでわかったの?」


 次いで発せられたのは聞き慣れた少女の声だった。


「何年一緒に暮らしていたと思っているんだ。姿形が変わった位では見間違えることはない」

「へえ……」


 クルスの応えに対して口元に微笑を浮かべた侍女がさっと顔の前で手を振ると、町娘のような平凡な風貌が元の利発さと美しさを感じさせるそれへと変わる。

 合わせて、栗色だった髪が新雪のような美しい白髪に変わり、瞳に真紅の色が灯る。


 イリスは頬をこねるように軽くほぐすと、いつもの闊達な笑みを浮かべた。


「シオンに会う前のクルスなら騙せたと思うんだけどねー」

「確かに。見事な変装だ。入れ替わり(・ ・ ・ ・ ・)に気付いた者はいないな?」

「今の所は大丈夫だと思う。侍女自体、歯の抜けた櫛みたいにどんどん減ってるし。一応、全員を把握しているクレリア様――当主の側付きには近付いていないわ」

「この城も戦場になる公算が高い。逃げるのも仕方ないだろう」

「だからこそ、私が入れ替わる余地があったんだしね」


 クルスとて、無条件でダリオと彼が提出する書類を信じるような真似はしない。内部調査の為に先行してイリスを潜入させていたのだ。

 本隊に先んじて斥候を出すのは戦術の基本だ。

 今回の革命の鎮圧が“クルス個人”ではなく“アルカンシェル”が担当していることはダリオにも伝えられている。

 彼とて大貴族の端くれであったのだ。戦時でなかったら潜入を許すことはなかっただろう。


「術式はいつまでもつ?」

「あと一週間はもつわ。まあ、私ひとりじゃ複雑すぎて維持できないからソフィアに手伝って貰っているんだんけどね」


 イリスが用いている変装はレンジャーの隠蔽(ハイド)を応用したものだ。

 本来は景色の中に己を滲ませる技能の構成に手を加え、髪色や顔の造形を偽る術式へと変えたのだ。

 隠蔽技能に優れるイリスと、術式の理解と構成に秀でたソフィアの二人だからこそ可能な方法だろう。


「大丈夫そうだな。調査の方はどうだ?」

「ん、まあまあってところね。城内の粗方は調べ終わったわ」


 ひらひらとスカートを遊ばせながらイリスが告げる。

 常は活動的な服装を好む従者だ。踝までかかる侍女服のスカートは珍しいのだろう。

 いつもは日の元に晒しているすらりとした太股も、その本来の性能を発揮することなく衣服の中で沈黙している。


「似合っているぞ」

「そう? ありがと。それで、ここには三日前に逃げた侍女と入れ替わりで潜入したけど――」


 イリスはそこで一度言葉を止めた。

 困ったような様子は自分を気遣っての沈黙だとクルスも察し、わかった上で目線で続きを促す。


「じゃあ言うけど、正直、中はもうガタガタよ。前当主が亡くなった際の混乱で優秀な人材の多くが放逐されてるわ。今残っているのは時勢の読めない欲の皮が張った連中ばかりよ」

「……やはりグーウオン将軍か?」

「確証はないけど、他に出来そうな人がいないわ。ソフィアを“保護”しようって提案したのも将軍らしいけど……」

「当主が必要とされる瞬間にわざと領地から出した、と? それで彼に何の益がある?」

「当主の座を掠め取れるわ」

「彼は自ら貴族の座を退いたのだぞ?」

「貴族を止めたことと野心を持ち続けることは矛盾しないと思うけど?」

「それは……そうかもしれないが、あまりに当主(ダリオ)が報われん」


 クルスは小さくため息を吐いた。

 ダリオを擁護するつもりはないが、己の預かり知らぬ所で全てが打ち崩されていたとなればさすがに哀れだと思う。


「ねえ、クルス。この領地はアンタがどんなに頑張っても駄目かもしれないわ。当主を処断して革命軍と和解することも考慮に入れるべきよ」

「――それは最後の手段だ」


 イリスの言うことも尤もだ。それでも、クルスの答えは変わらなかった。

 救える限りの命を救う。己が身を盾として守れる限りの者を護る。

 たとえ相手が誰であろうと、その信念は変わらない。


「ま、そう言うと思ったけどね」

「すまない。苦労をかける」

「いいのよ。アンタがそういう主だってのは私達みんなわかっているもの。だから、アンタは思うように生きればいいわ」


 イリスは微かに目を細めてクルスを見上げた。


 はじめ、騎士は妹を守る為に力を欲した。七歳の時だった。

 時を経て、騎士は強くなった。そして、強くなった分、その背に守る者も増えていった。

 もしも、騎士がその重みに耐えかねて潰れそうになったなら、一切合財を捨ててソフィアと三人でどこかへ逃げることもイリスは考えていた。

 あるいは、カイ・イズルハに出会わなければ、それは実際に起こり得た未来であったかもしれない。


(私の役目もそろそろ終わりかな)

「イリス? どうかしたか?」

「……ううん。なんでもないわ」


 訝しむクルスを笑顔で煙に巻き、イリスは風に魔力を込めた。


「ソフィアに風声を繋ぐわ。ひとまず情報を整理しましょう」


 イリスが魔力の波を麓の街にいるソフィアまで飛ばす。

 感応力にムラのあるイリスだが精神力自体は高い。いつも傍にいるソフィアの反応ならば、山の一つ二つ挟んでも捉えるのに造作はない。受け取る側のソフィアも同様だ。

 風声を利用した双方への同時視察。クルスが革命を鎮圧する為に打った一手である。


『……この感じはイリスですね』

「そうよ。元気してる、ソフィア? 風邪引いてない? 男に襲われたら氷漬けにしていいのよ?」

『だいじょうぶです。カイも一緒にいますから』


 術式が繋がると同時、数日交わしていなかった分を取り戻すように主従の会話が華やぐ。

 顔は見えずとも、互いが笑みを浮かべていることは容易に想像が出来た。


「二人っきりで? 逆に安心できないわね」

『本当にそう思いますか?』

「……ごめん。想像できないわ。っと、クルスが睨んでるからこのくらいにしときましょうか。カイも聞こえてる?」

『問題ない。先程から聞こえている』

「なら、ちょっとは反応しなさいよ」

『……戻ったら覚悟しておけ』

「そういう反応じゃないわよ!! もっとこう……」

「話を進めるぞ、イリス。ひとまず集めた情報を整理するぞ」




『――状況からして、将軍の疑いが濃いのか』


 一通り話を聞いたカイが淡々と感想を述べる。

 その言葉の裏には秘された戦意が窺える。


「まだ確定じゃないわ。これから調べるの。そっちはどうなの? 赤剣傭兵団はうまくやってる?」

『ちょっと待ってください。周囲の音を拾います』


 ソフィアが術式に手を加えて集音範囲を拡大する。


『やめ、ガハッ』

『ちんたら走ってんじゃねえ!! 死にてえのか!!』

『し、死ぬ……』

『口動かす前に足動かせや!! 殺すぞ!!』

『…………』


 聞こえてきたのは複数の怒声と、それに倍する悲鳴だった。


『……えっと、こんな感じです』

「んー、みんな仲良くやっているみたいね」

「な、仲よく? 程々にしておいた方が、その……」

『問題ない。一週間はもたせる』

「いや、そうではなくてだな……」


 しかし、続く言葉をクルスは持たなかった。

 訓練で地獄を見るほどに実戦での死ぬ確率は下がる。

 傭兵達の施す訓練はクルスの方針と相反するものではないのだ。


『革命軍のリーダー、サルガは話のわからない奴ではない。が、既に後には退けん。規模が大きくなり過ぎて組織が奴の手を離れている』

「こちらも横領された税がどこにいったのかわからない。中央側まで改竄するにはグーウオン将軍だけでは不可能だ」

『背後に何かいる、ということですか?』

「そう考えるのが妥当だろう。そちらも警戒してくれ」

『……斬るか?』

「カイ……いや、まだだ」


 ここでクルスが肯定すれば、カイはそのままグーウオンの首を獲りにいくだろう。

 あるいは、その命を餌に黒幕を引きずり出そうとする意図もあるのかもしれない。

 それでも暴動が治まらないなら、次はダリオの、サルガの首を落とす気だ。

 最終的に革命だの鎮圧だのと言っていられない状況になるのは確実だ。

 事態は収束するだろう。だが、火種は残る。時を経ずに再燃する可能性は高い。


 最善は両者の和解だ。しかし、現状では困難という他ない。

 次点で両者の無力化。こちらはまだ実現の目がある。

 革命軍の足を止めている内に城に籠る騎士百人を打ち倒し、取って返して革命軍も無力化する。

 クルスとイリスだけでは心もとないが、カイとソフィアが合流すれば十分に可能だ。

 憎まれ役を買って出ることになるが、両者の感情の矛先は逸らせる。

 ただし、相応の被害が出ることは覚悟しなければならない。


 まだ手は届く。誰も死なずに事態を収束できるかもしれない。

 おぼろげな希望がクルスを迷わせる。

 そして、風声越しにその揺らぎをカイも察した。


『クルス、己の一事なら即座に決められることも、リーダーとしては判断が付かないか?』

「ああ、その通りだ」

「現状じゃあ、どっちがいいかなんて誰も分からないよ」

『……不確定要素が多すぎて、わたしにも先は読めません。兄さんの心のままに選んでいいと思います』

『もし間違っていたとしても、選んだ後で正せばいい』


 それはある意味で余裕であり、また、ある意味で義務であった。

 力なき意思は戯言に過ぎず、意思なき力は暴力に堕する。

 だが、双方が揃っているならば、それはカタチを成した武となる。

 為すべきことを為す。その決定権が今クルスの手の中にあった。


「俺は……」


 自分達には力がある。意思がある。

 故にこそ、己という従者の手綱を取り違えてはならない。



「俺は……裏切って後悔するくらいなら裏切られて後悔したい。――まだ、手は届く筈だ。和解の道を探る」



 そして、騎士は道を選んだ。


『では、そうしましょう。何も問題はありません』


 はじめに答えたのはソフィアだった。

 もしも開戦すれば最も負担が大きくなるのがソフィアだ。

 その類稀な魔法の行使によって数百人の命を奪うこともありうる。

 それを理解した上で尚、少女の答えは澄んだ水面のような清浄さを保っていた。


「すまない、ソフィア……ありがとう」

『仲間で、家族なんですから当然ですよ、兄さん』

「私もいいわよ。今の段階だと将軍も灰色だしね。処断するのは一切合財暴いてからでも遅くないわ」


 ソフィアの後を継いでイリスが軽やかに笑う。

 全てを捧げた従者にとってリーダーの望みは叶えるべくして叶えるものだ。そこに迷いはない。

 残ったのは、あとひとり。


『……クルス、俺に“敵”はいない』


 暫しの沈黙の後、カイは静かに言葉を紡いだ。


「カイ?」

『俺は斬る対象を(・ ・ ・ ・ ・)選べない(・ ・ ・ ・)。だから俺に敵はいない。いるのは剣を交わす“相手”だけ。そして、刃に触れたならば、誰であっても……お前でも斬る』


 敵とは互いの心情がぶつかりあい、相争う者だ。

 対象を選ばないカイの剣に例外はない。その刃に触れたもの全てを斬ると決意している。

 その心は一方的であり、相手の心情とぶつかることはない。

 誰をも差別しない優しさは、同時に、無差別であることの裏返しである。


『だから、何を救うかはお前が選べ。何を斬るか、選べ』


 この手は既に最も大事な者を斬っている。

 故に、選べない。それは全てを斬ると誓った己の道に反するからだ。


『俺の前に立つと約束したのだ。気概をみせてくれ、我が主(リーダー)

「――無論だ。約束する。必ず答えを出す」


 答える騎士の声にはもう迷いはない。

 誓いに曇りはない。守れる限りを守る。その為に、今は為すべき事をする。


「それじゃ今後の方針も決まったし、今日はこれ位にしときましょう」

「ああ、二人とも無理はするな。不審を感じたらすぐに撤退しろ」

『了解』

『はい、兄さんたちもお気を付けて』


 風声が終わり、感応力に触れていた魔力の気配が消える。


「じゃあ、私はお先に」

「……そういえば、イリス、この城の侍女の中に黒髪(・ ・)の者はいるか?」

「黒髪? 確認した範囲ではいなかったと思うけど?」

「もしいたら……気を付けろ。何かおかしい印象を受けた」

「覚えとくわ。そっちもしっかりね」


 イリスが顔の前で手を振ると、再び変装の術式がその身を覆っていく。

 先の侍女姿に戻ったイリスは稚気を滲ませた笑顔で一礼すると、静かに客室を出ていった。

 従者の様子に苦笑を滲ませたクルスも、気を取り直して己の職務へと戻る。


 部屋には、少しだけ黴臭い空気だけが残っていた。



 ◇



 その日の夜、城の最上階にほど近いグーウオンの部屋に男女の姿があった。

 男はこの部屋の主であるグーウオンその人だ。

 いつ戦いになってもいいように最低限しか鎧を外していない姿は、紛うことなき戦時の騎士のそれだ。

 当主の居る最上階に行くのに傍を通らねばならない部屋を居室としていることからも分かるように、男はそれこそ幼少の頃から忠義と滅私によってアウディチ家に仕えていた。

 将軍職を得てもそれは変わらなかった。満足な武を持たぬ兄の剣となり、その身を守る盾となる為に。

 その為に邪魔となる物は大貴族の位ですら捨てた。


 しかし、今、男が浮かべているのは茫洋とした幽鬼の貌だった。

 どこで何を間違えたのか、男は思い出せなかった。

 ただ、記憶の片隅に今際の際の兄の怯えた顔がこびり付いている。


「兄上。何故、私にそのような顔を向けるのです。貴方の武として私は……わたし、は……」

「――大丈夫ですわ」


 意味を成さない男の呟きに、しかし、閨を共にする女が応える。

 臍の辺りまで侍女服を脱ぎ落とし、夜闇に映える白い肌と細い腕を男の体に纏わりつかせ、紫色の唇で男の耳を食むように吐息を吹きつける。


「前当主さまは貴方を愛しておりましたわ」

「……あ、ああ。そう、だ」


 女の毒色の声音に、男が痙攣するように頷きを繰り返す。

 そうだ。自分は愛されていた。

 だって、兄の血はあんなにも――あたたかかったのだから。


「血? 何故、兄上の血が、わたしに……」

「そう、貴方たち兄弟は死を以て愛を証明したのですわ」

「あ、い……あい、アイ、愛、あい……」


 薄闇の中、女の黒髪が男に巻きつくように揺らめく。


「素晴らしい。貴方も愛を理解されたのですね」

「わたし、は……」

「大丈夫。貴方はただ戦えばよいのです。一人でも多くの敵を道連れにするのです」

「あ、ああ……」

「ふふ、いい子ね」


 そのままうわ言を呟いていたグーウオンは暫くして目を閉じて規則的な寝息を立て始めた。

 女は満足そうな顔でグーウオンの頬を撫でると静かに服を直し始める。



(――これは一体?)


 そんな二人の姿をひとりの侍女が僅かに開けた扉の隙間から見ていた。

 ダリオの側付であるクレリアだ。

 主人(ダリオ)の許に書類を届けようとした途上のことだ。

 幼少のころから仕えていたグーウオンの気の乱れを感じて覗き見てみれば、部屋の中は妖しい雰囲気に包まれていたのだ。


(そもそもあの侍女は誰でしょうか? 私の知らない方(・ ・ ・ ・ ・)です)


 疑いが確たる形をもった瞬間、侍女は足元に這い寄っていた何かに足を取られた。

 地面に手を付き、慌てて視線を足元に移せば、部屋の中から伸びた鎖がその細い足に絡みついていた。

 侍女は咄嗟にスカートの内側から短刀を引き抜こうとして――その手もいつの間にか忍び寄っていた鎖に縛られていた。


「な、これはっ!?」

「――覗き見とはご趣味が悪いですわね、クレリア様」

「ッ!!」


 目の前の扉が軋む音を立てながら開かれる。

 いつからこちらを把握していたのか、きちんと服を着た女が動きを封じられた侍女の前に立つ。

 途端に暗雲が立ち込め、月光が遮られる。

 そうして、灯りのない暗闇の中で女の真紅の瞳が妖しく光る。


「貴女は……」

「ふふ、お側付きがこのようなことをされてはご当主様も悲しまれますわ」

「あ、ぐ……」


 女が言葉を紡ぐ度に言いようもない酩酊感が脳を犯すのを侍女は感じた。

 護衛として鍛えられた経験が危険を発するが、それすらも暗黒に塗り潰されていく。


「あ、貴女は……誰、なの……ですか?」


 侍女は警備の騎士に風声を繋ごうとするが、抗いがたい眠気が術式の構築を阻害する。


「ええ、見られた以上は仕方ありません。貴女には今しばらくご当主様のお守りをしていただきたかったのですが……」

「ダリオ、様……」


 間近に迫った女の細長い指が侍女の頬を撫でる。

 熟れすぎた果実のような甘いかおりが嗅覚から侵入する。

 五感全てを奪われた侍女の意識が少しずつ薄れていく。


「それがお厭というのなら“生贄”など如何でしょう? きっとお気に召しますわ」

(ダリオ、逃げて――)


 既に声も出せぬ中、侍女は意識を失う最後の瞬間まで主のことを想っていた。

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