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刃金の翼  作者: 山彦八里
幕間
72/144

幕間:帝都狂想曲

サブキャラ回です。

 鉄血の都、ジグムント。

 外壁に翳る帝都のスラム街を追う者と追われる者、二人の男が駆け抜ける。

 悪臭と埃に咽ぶその地区では珍しくもない逃走劇だ。


「この野郎!! 待ちやがれッ!!」


 叫んだのは追跡者、大剣を背負った赤毛の短髪の青年、アンジールだ。

 声の届いた先ではみすぼらしい風体の男が崩れかけた壁を軽やかに飛び越えている。


「だああっ!! すばしっこいなクソが!!」

「へっ!! こっちはそれでメシ食ってんだから当たり前だろうが!!」


 アンジールの悪態を逃走者が嘲笑う。

 幾度か逃走経路を潰されたが未だに追いつかれていないという事実がその背中を後押しする。


 実際、二人の距離は徐々に開いている。

 このままでは追いつけそうにないアンジールは、しかし口角を吊り上げた。


「そうかい。だが、オツムはちっと足りないみたいだな」

「なに――」


 男が疑問に思うと同時、その頭上に影が差した。

 慌てて仰ぎ見れば、廃墟の屋根から飛び降りたカイが間近に迫っていた。


 男の反応は遅きに失する。

 刹那、空中でカイの刀が無数に閃き、着地と同時に鞘に納められた。


「あ、が――」


 斬撃に意識も寸断されたのか、逃走者は走る勢いのままに頭からゴミ溜めに突っ込んだ。

 派手な音を立ててもうもうと埃がたちこめる。

 遅れて追いついたアンジールが鬱陶しそうに顔の前で埃を払った。


「ケホッ……。相変わらずここらは埃っぽいな」

「標的はこれで間違いないな、アンジール?」


 舞い散る埃を気にした風もなく、カイは片腕を突っ込んでゴミ溜めから男を引きずり出してアンジールに確認を取った。


「合ってるぜ。ってか、何回斬ったんだ?」

「加減した。死んではいない」

「それはそうかもしれんけどなあ……」


 見れば、男の体はザンバラに刻まれているが、切り口は鮮やかで出血も殆どない。

 適切に治療すれば後遺症も残らないだろう。


「人間ってここまでやっても死なないんだな」

「急所は外し、出血も最小限度に留めた。死ぬ要素がない」

「……人間って丈夫だなー」


 遠くを見るようなアンジールの物言いにカイは首を傾げた。


「盗賊団の構成員を生かして捕えろという依頼だった筈だが?」

「活け造りにしろとも頼んでないけどな。これ、運んでるうちにもげるんじゃね?」

「……輸送の手間は考えなかった。すまない、次は骨を折るに留めよう」

「お、おう」


 ひとまず切り口をベルトで縛って補強し、アンジールは意識のない男を肩に担いだ。

 そのまま二人は肩を並べて集合場所へと足を向ける。


「しかし、兄ちゃんに帝都のスラム街の顔役と面識があるとは思わなかったぜ」

「前に、依頼で少し」

「そいつは幸運だったな。ここは他所者には厳しいからな」

「……先回りの指示もそうだったが、随分とスラムに詳しいな」


 じろりと視線を向けたカイにアンジールは素直に頷いた。


「オレは此処の出身だからな。日銭稼ぐのに郊外の魔物仕留めてたらギルド連盟にスカウトされたんだ。学園への留学もそのツテだ」

「そうか」

「はは、そこで謝ったり同情しないでくれるのはありがたいよ。まあ、そんなスラムの小僧が今や二級ギルドのリーダーなんだから世の中わからんもんだよな」

「かもしれんな」


 依頼の最中は特に二人の間で交わす会話は長くは続かない。

 しかし、相変わらずカイの相槌は素っ気ないが、アンジールはそこに以前との違いを感じた。


「兄ちゃん、ちょっと雰囲気変わったか?」

「……さてな」

「なーんか余裕を感じるな。ソフィア嬢ちゃんと何かあったか?」

「黙秘する」

「くく、そいつはなんかあったと言ってるようなもんだぜ」

「む……」


 冗談を言っている内に足元が舗装された道に変わった。スラム街を抜けたのだ。

 視線の先、集合場所としていた広場にはアイゼンブルートのメンバーとクルスがおり、彼らの足元には縛られたまま悪態悪蔑を繰り返す盗賊達が転がされている。


「盗賊団はこれで全員だったな、アンジール」

「情報通りならな」


 アンジールが放り投げた最後の一人を見た盗賊達は一瞬前とは打って変わっておとなしくなった。

 そりゃそうだろうと青年も内心頷いた。ついでとばかりにクレリックに応急処置を頼んでおく。


「あとは警備隊に任せていいだろう。あいつ等も信用落ちっぱなしで焦っているしな」

「……まずは増員すべきだと思うがな」


 連絡を受けておっとり刀でやって来ている警備隊を見遣りつつぼやいた。

 自国の首都の警備を冒険者に依頼するというのはかなり末期であろう。

 少なくとも白国の皇都では考えられないことだ。


「スラムは下手打つと報復が怖えからな。顔繋ぎできる奴がいるんだよ」

「……尚、性質が悪いだろう」


 騎士が吐いた溜め息は鮮やかに燃える夕焼けの空に溶けていった。



 ◇



「マスター、エールひとつ!!」

「邪魔をする。俺も同じのを頼む」

「……紅茶を」


 依頼を完了して数刻後、アルカンシェル行きつけの酒場、ビフレストにカイ、クルス、アンジールの姿があった。


「や、やっと休みだ……」

「働き過ぎだろう、アンジール」


 席に着くと同時にテーブルに突っ伏したアンジールにクルスは苦笑と共に言葉を投げかけた。

 今日はアイゼンブルートの手が足りない為にアンジールから二人に依頼を出したのだ。

 大手二級ギルドが手が足りないなど、本来なら有り得ない事態だ。それ程に昨今の魔物の増加とそれに伴う社会不安は深刻な問題となっていた。


「アンタ等に手伝いを依頼して正解だったぜ」

「……卒業は」

「言わんでくれ、頼む」


 マスターが無言で置いていったエールを一息で呷り、アンジールは再び突っ伏した。

 傍から見ても限界が近いように見える姿だ。


「あまり背負いこみ過ぎるのはよくないのではないか?」


 隣で紅茶を啜るカイが「お前が言うな」という目を向けるが、クルスは気付かなかったことにした。

 一方のアンジールは伏したまま手をひらひらと振って大丈夫だと示す。


「下が成長するまでの間だ。新入生が入ればギルドの人員も補充できるしな」

「イリスとソフィアは暫く講義だが、俺達で可能なことなら回して貰って構わんぞ」


 気遣わしげなクルスの言葉にアンジールの動きがぴたりと止まった。


「……じゃ、じゃあちょっと相談に乗って貰っていいか?」

「相談? お前個人のか?」

「ああ、いや、そうなんだが」


 青年がようやく顔を上げた。表情には微かな緊張が見える。

 常とは異なり歯切れが悪い物言いにクルスは確と頷きを返す。


「どんなことでも笑いはしない。出来る限り力になる」

「そ、そうか!!」


 腹が決まったのか、唾を飲み込んだアンジールの表情が真剣なものに変わる。



「――恋愛相談なんだが」



 酒場に響いたアンジールの台詞に、数瞬、カイとクルスの動きが止まった。


「あ、相手は?」

「……ヴァネッサ教官だよ、ヴァネッサ・アルトレングス教官」

「う、うむ。ヴァネッサ教官か」


 思考停止から戻って来たクルスは腕を組んで脳裡に相手の姿を思い出す。

 ヴァネッサ魔法担当教官。錬金術や呪術にも詳しい三角帽子のハーフエルフ。

 いつも眠そうな顔をしているが、講義は丁寧で学生からの人気は高い。

 カイとソフィアが世話になっており、人間的にも信頼できると騎士は考える。

 元より反対する理由もない。馬に蹴られる趣味は無いのだ。


「……クルス、任せる」


 騎士が思索に耽っている内に、紅茶を飲み干して徐に立ち上がったカイが颯爽と酒場を後にした。


「ま、マジで帰りやがった……」

「いや、こういう話ではカイはあまり役に――」


 最近の妹と従者の幸せそうな顔を思い出し、クルスは言葉に詰まった。


 そして、むしろ問題は自分だと心中で焦る。

 同年代との付き合いも浅いクルスはありたいていに言って恋愛下手だ。恋文を貰うことはあってもそれに応えたことはない。

 加えて、他者の感情に敏感な方ではないことも自覚している。メリルくらい積極的に好意を伝えられれば流石にわかるが、そうでなければ気付かない自信がある。


 その鈍感さは、おそらく幼少期の体験に起因するのだろう。

 騎士戦闘に耐え得る魔力量と戦いの才覚を持って生まれたクルスは――ソフィアほどではないにしても――畏れと怖れの視線を受けて育った。

 父親のイオシフも不器用な性質で好意を表に出す人物ではない。


 結果として、他者から好意を向けられるという発想の抜け落ちた騎士が出来上がった。


(誰か適任を紹介……イリスか? いやここで女性を紹介するのはどうなのだ? まずい気がするぞ……)


 そうして、二の句を告げられずにいるクルスの前にやや乱暴にエールのジョッキが置かれた。

 ジョッキの底がテーブルにぶつかった衝撃で、なみなみと注がれたエールの泡が跳ねるように弾ける。


「マスター?」

「男二人が頭突き合わせて湿気た話をするな」


 見上げれば、この酒場のマスターがいつもの仏頂面をさらに顰めていた。

 クルスははっとして己の不徳を悟った。

 視線が自然と酒場の奥で弾かれることなく置かれているピアノに向かう。今は使われていないその楽器は、病没したマスターの妻が生前に弾き語りをしていた名残である。


「すみません、マスター。あの……」

「いらん気遣いだ、クルス。それに――」


 元冒険者のマスターは若い頃の傷痕と鋭さの残る顔を微かに歪めた。


「辛い思い出ばかりというわけでもない」

「……マスター」

「妻は水人(メロウ)の常で短命だったが、人魚の伝承にあるような非恋ではなかった。だから、お前に哀れみを向けられる謂われはない」


 マスターの視線がピアノに向く。弾き語りをしていた妻を思い返しているのだろうか。皺の増えた目が微かに細まる。


「湿気た話になるのは不毛だからだ。男が何人集まったところで女心など到底わからん。気概も足りん。相手をここに連れて来る位の意気をみせてみろ」


 そう言って、マスターはアンジールの背を乱暴に叩くとカウンター奥に戻って行った。

 クルスはその背に頭を下げた。

 意地を思い出す。苦手だからといって逃げ出すようでは騎士失格だ。

 腹を決めたクルスは改めてアンジールに向き直った。


「お前は教官のどこに惚れたのだ?」

「ばっさり斬り込むのな、お前。……この前の試験の時に最終日に滑り込んだオレを文句も言わずに受けさせてくれてさ……それで……」


 ぽつぽつと心情を語り、頬を掻くアンジールにはどこか照れがみえる。

 そこにいるのは大規模ギルドを率いるリーダーではなく、ただの青年の姿だった。


「こういってはなんだが、それだけか?」

「きっかけはな。それから何となく目で追うようになって、気付いたら惚れてた」


 言葉こそ軽い調子だが、本気なのだろう。クルスの感覚がそう告げていた。

 相手が教官だからとか、百歳以上のハーフエルフだとか、そんなことは越えるべき障害に過ぎないのだろう。


「教官のことはどのくらい知っている? 現在の関係は?」

「会ったら挨拶する位だ。考えてみれば、あんま教官のこと知らねえな、オレ」

「なら、まず情報だな。カイが諸事情で定期的に彼女の検査を受けている。連れ戻して――」


「――クルス」


「カイ? 帰った筈では……」


 立ち上がろうとしたクルスの背に先に帰った筈のカイの声がかけられた。

 振り返れば、どこか苦い顔をした侍と――


「こんばんは、クルス様、アンジール様」


 連盟の制服を着て朗らかに笑う眼鏡をかけたエルフ――ペルラの姿があった。



 ペルラはアルカンシェルの担当の連盟員である。

 現在ではほぼ付きっきりで、指名される依頼の選別や事務処理をしてもらっている。

 成程、クルス達の知るエルフの中では最も馴染みのある人物だろう。


「仕事帰りにカイ様にお会いしまして」

「軽く事情を話して協力を仰いだ」

「いや、カイ……」


 ビフレストからギルドハウスまでは連盟本部と職員寮を繋ぐ道とはまったく逆方向だ。

 自分が役に立たないことを知るからこそ、カイなりに適役を考えたのかもしれない。

 不器用な気遣いだと、クルスは苦笑した。




「あらあらまぁまぁ!!」


 一通りの事情を聞いたペルラが眼鏡を光らせる。

 エルフの長寿を考えると、噂好きのおばあちゃんのようなものなのかもしれないと、クルスは僅かな不安を感じながら心中で呟いた。


「ど、どうでしょうか、ペルラさん?」

「そうですね。相手の考え方にもよりますが……」


 言葉を選ぶように悩むペルラはすらりとした白い指を三本立てた。


「エルフは人間種との恋愛に対しては反応が分かれます。寿命が何倍も違う以上、元から同じ長寿のエルフだけを恋愛対象としているか、百年単位で複数の方と付き合うか、一人の方に操を立てるかです」

「種族としての寿命の違い、ですか……」

「はい。ハーフエルフは純エルフよりも多少は寿命が短いですが、それでも人間種と比べればかなりの長さになるでしょう。……アンジール様がいなくなった後の百年をどうしてほしいのか。それは必ずネックになる部分です。よくお考えください」

「……そんなこと考えもしなかったぜ」


 自嘲の笑みを浮かべるアンジールにクルスは何と声をかけるべきか迷った。


「ホント、何も知らなかったんだな、オレ」

「では、知り合うことから始めてみませんか?」

「知り合う?」


 笑顔のペルラは両手を合わせて告げた。


「デートのお誘いをしましょう」



 ◇



 数日後、昼下がりの帝都に私服姿のヴェネッサと、緊張で固まったアンジールの姿があった。

 裾の長いワンピースに薄緑のケープを纏ったハーフエルフと着崩したシャツとスラックスの青年の姿はまさにデートのそれだ。

 二人が並ぶとアンジールの方が頭一つ高く、ヴァネッサの見た目は少女と見紛うほどに若々しい。

 傍からは百歳以上の年の差があるようには見えなかった。


(……ヴァネッサはよく申し出を受ける気になったな)


 気配を隠して追跡しつつ、カイは心中でひとりごちた。

 現時点でカイの予想は完全に外れていた。他者の心理は侍にはどこまでも不可解なものだ。それを再確認する。

 そうしてふらふらと店先を覗いている二人の様子を観察していると、微かな風とともにカイの耳にペルラの声が届いた。


『――こちらペルラ。お二人の様子は如何ですか、カイ様?』

「年の離れた姉弟のようだ」

『ギクシャクするよりは余程いいでしょう。ですが、どこかで印象を変えねばなりませんね。アンジール様に伝言は可能ですか?』


 カイは周囲を見回して、かぶりを振った。利用できそうなものはない。


「ヴァネッサの探知能力は高い。アンジールのみに気付けというのは不可能だ」

『ですが、クルス様や私が現場に赴けば即座に探知されるでしょうね』

『そちらにシオンを寄越す。彼女を中継点にアンジールに風声を繋ごう』

「了解」


 クルスの声から暫くしてカイの隣で小さく光が弾け、シオンが現界した。

 深緑色の髪にエメラルドの瞳が混じりけのない魔力を受けて輝きを放っている。

 活動時間が延びるにつれ、シオンの体も徐々に成長している。今は人間に換算して十歳程度だろう。

 クルスは気付いているだろうか、侍は益体もないことを考えた。


「気配は隠せるな?」

「――大丈夫、お仕事、まかされた」


 シオンがまだまだ薄い胸をどこか自慢げに張る。

 緑神の眷族であった為か、シオンはモンクやレンジャーの技能の一部を使える。

 距離を離した現状なら、ハイドを使えばヴァネッサに気付かれることはないだろう。


 そうして、シオンを中継点にペルラが手短にアンジールにアドバイスする。

 急に風声を繋がれたアンジールが慌てて怪しげな挙動をとるが、こればかりは本人に何とかしてもらうしかないだろう。



「――カイ」


 やるべきことはやったとカイが人心地ついた時、隣のシオンがこちらを見上げていた。

 微風が妖精の頬を撫でる。微かに香るのは大樹の残り香か。


「どうした?」

「――“恋”ってなに?」

「クルスに訊け」

「――それだと、たぶん答えが出ない」

「……」


 人を、感情を知りたいのだろう。

 シオンの碧眼は純粋な色を湛えている。

 だが、真摯に響く妖精の問いにカイは答える言葉を持たなかった。


「対象が動いた。お前はクルスの元に戻れ」

「――――」

「……それでも、お前の問いの答えはクルスと共に出すべきだ。少なくとも、俺は他に適任を知らん」

「――うん、ありがとう、カイ」


 小さく笑うシオンが光になって帰還する。

 相変わらず表情の変化は小さいが、それでも最近は随分と笑うようになった。

 それが誰の影響なのか、考えるまでもなかった。


 侍は視線を戻す。

 アンジールとヴァネッサ。対照的な二人は、しかし、楽しげに露店を回っている。

 カイは無言で追跡を開始した。



 ◇



「アンジ兄だ!! アンジ兄がデートしてる!!」

「よう、坊主ども。元気そうだな」


 ようやくアンジールの緊張もほぐれた頃、いつの間にか二人の周りに幾人もの子供が集まって来ていた。

 どの子供も襤褸を着て、顔を煤や埃に汚しているが、表情は明るい。

 元気、というよりも逞しいという印象が先立つ子供たちだ。


「知り合い?」

「ええ、スラムにいた頃の」


 小首を傾げるヴァネッサにアンジールは苦笑を返す。


「そう。みんな元気ね」

「……ありがとうございます」

「ん?」

「いえ、スラム出身って言うといい顔しない人もいるんで」

「……別に気にしない」


 無に近い表情に反して、ヴァネッサの子供達を見る視線には慈しむよう暖かさがある。

 そして、その視線は同時にこのハーフエルフの送ってきた人生が穏やかなものではなかったことをも感じさせた。


「ねえねえ、お姉さんは何してる人なの?」

「……学校の先生?」

「アンジールとはどこまでいったの!?」

「そういうのじゃなくて……」


 おそれを知らない矢継ぎ早の質問と、足元に縋りつく子供への対応を決めかねている内に、その数はいや増していく。

 あまり人慣れしていないヴァネッサは思わず後ずさった。

 しかし、それがマズかった。


 折悪く、ヴァネッサは背後を歩いていた人にぶつかってしまった。


「あ、すみません」

「ああ!?」


 軽く触れた程度の衝撃だったが、相手はそうは思っていないのは明白だった。

 傭兵か冒険者と思しき荒々しい風体の男は謝るヴァネッサを見てこれ見よがしに怒気を発した。

 反射的にアンジールがその背にヴァネッサを庇う。

 しかし、男の目は変わらずヴァネッサを捉えている。

 視線には微かに殺気すら篭っている。


「なんだテメエ? 亜人か?」

「……何か問題ある?」

「大アリだ!! テメエ、亜人のくせに人間様の道を――」


 直後、台詞の途中で男は後ろ襟を掴まれて角の向こうへと消えた。


 そのまま数秒は男の怒声が続いたが、それもすぐになくなった。

 男が掴まれた際に僅かに見えた黒い道衣に、アンジールは心中で感謝を捧げた。


「えっと……」


 目まぐるしく変わった状況にヴァネッサは目を瞬かせたが、驚いた様子のないアンジールを見て大体を察した。


「……頼りになる友達がいるんだ」

「あ、はい。その、大丈夫ですか?」


 気遣わしげなアンジールの問いにヴァネッサはゆるゆるとかぶりを振った。「慣れている」と小さく口にする様子は、傍からはいつも通りに見える。


 だが、アンジールはヴァネッサの事を聞いて回る中でひとつの噂を聞いていた。


 曰く、ヴァネッサは大陸中に散ったエルフの中でも閉鎖的な部族とそこに研究で訪れた人間との間に生まれたハーフで、その生まれは決して望まれたものではなかったらしい。

 そして、禁術の研究を始めた動機は里からの追手に対応する為であったと。


「……」

「ほんとに大丈夫。……ハーフエルフというだけでどっちからも嫌われてきたから。生まれた時からの付き合い」

「でも、だからって辛くない訳じゃないでしょう?」

「――――」


 わかる、などと訳知り顔なことをアンジールは言うつもりはない。

 それでも辛い時は辛いと言って欲しかった。

 二人の間にはいくつもの壁がある。寿命の違いという解決できない問題もある。

 それでも、まずは言葉にすることから始まるのだと、アンジールは信じていた。


 ヴァネッサは驚いたような顔をしていたが、次いでやわらかな笑みを浮かべた。


「――ありがとう」


 いくつもの想いの籠った言葉がアンジールの胸に響く。

 空気を察した子供達もいつの間にかその場を後にしていた。


(あいつら……後で何か買ってやる)

「ヴァネッサさん、オレは――」

「ちょっと待って」


 青年の言葉を止めたヴァネッサがこちら(・ ・ ・)へと振り向き、唇に人差し指を当ててみせた。


(これ以上は無粋か)


 正確に潜む場所を当てられたカイは顔を顰めながら撤退を開始した。




「それじゃ、改めて」

「は、はい!! オレ、じゃなくて私は、その――」

「――大丈夫」


 緊張がぶり返してきたアンジールの頬にヴァネッサはそっと両の手を添えた。


「ちゃんと聞くから」

「……はい」


 アンジールは数度深呼吸して心を落ち着けると、真っ直ぐにヴァネッサを見つめた。


「ヴァネッサさん、オレは貴女のことが――」



 ◇



「それで、それで上手くいったの!?」


 講義の合間の休憩時間、ソフィア、イリス、メリル、ユキカゼの四人は学園内のカフェで大いに盛り上がっていた。

 いつの世でも知人の恋路ほど話の種になる物はない。


「詳しくは聞いていないのですが、リーダーは嬉しそうでしたよ。暫く仕事が手に付かないくらい」

「だが、まだ恋人未満といったところだな。進展はこれから次第だ」


 メリルとユキカゼは顔を見合わせて笑い合う。

 二人にとっても苦労性なリーダーに春が訪れたことは素直に祝福できることだった。


「ふーん。ウチの鈍感と朴念仁にも聞かせてやりたいわ。ね、メリル?」

「にゃっ!? わ、私からは何も……」

「へー。ソフィアはどうなの?」

「カイにはカイの歩みがありますから」

「そんなこと言ってると誰かに掻っ攫われちゃうわよー」



「――では、お主ら二人でしっかり繋ぎとめておけばよいのでは?」



 冗談めかして言うユキカゼの言葉にすぐには応えはなかった。


 ソフィアは笑みのまま答えない。否、答えは出ている。

 その時まで傍にいる。少女はそう誓ったのだ。


 一方のイリスは僅かに苦笑する。

 何もかもを捧げた従者にとって、自分の感情は慮外のものだったのだ――今までは。


「私は……そうね、いつかは答えを出さないとね」


 見上げる青空を一羽の燕の子が飛んでいる。

 未熟な翼で軽やかに風を切る様は、早春の終わりを告げていた。

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