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刃金の翼  作者: 山彦八里
幕間
70/144

過去:祈りと笑顔

「――お前は今日からエルザマリア・A・イヴリーズを名乗れ」


 十二使徒の第一位ネロ・S・ブルーブラッドはそう言って少女に真っ白なカソックを投げ渡した。

 家族を一挙に失い、魂を奪われたように放心していた少女は反射的にそれを受け取っていた。


 最高級の布地に緻密な金の刺繍がなされたカッソクは実際の重さとは裏腹に、少女の小さな手にずしりとした重圧を伝える。

 刺繍の意匠は羽を広げた白鳥。白国でただ一人だけに許された頂点の証。

 十字架にも似たその意匠を纏うことは国ひとつを背負うことに等しい。

 まだ九歳の少女にその選択は酷なものだっただろう。


 “その日”が来るまでは、少女は教皇候補の中のひとりだった。一等家という囲いで飼われていた一人に過ぎなかった。

 ロードとしての才能こそ十分に引き継いでいるものの、同年代の一族の中で最年少であり、そして同程度に優れた兄姉たちがいたために、誰も少女に教皇位が回ってくるとは考えていなかった。

 一等家の血を下位の家々に広げるわけにもいかず、少女は必要な教育を施された後は比較的放任されて育った。

 適齢期になれば適当な男を宛がわれて次代を産むか修道院で飼殺しにされる。ただそれだけの存在のはずだった。


 それはおそらく偶然で、もしかすると奇跡であった。


 Aの一等家を襲った新種の疫病。

 原因もわからず、治療方法もわからない病魔は瞬く間に貴人の命を奪っていった。

 エルザマリアはただ一人それに耐えきった。七日七晩高熱にうなされたものの棺桶の端で命を繋いだ。


 本来死すべき運命にあった少女が何の因果か生き残った。

 そのために、運命はふさわしいカタチに姿を変える。

 “戦乱の才”、自己のいる場所を否応なく戦場に変えてしまう戦場常在の運命。

 教皇となることを宿命づけられた少女にはあまりに皮肉な才であった。



 ◇



 数日後、豪奢な法衣を纏ったエルザマリアは塔の最上階で静かに祈っていた。

 その部屋は代々の教皇が生活していた居室だ。

 慎ましいという段階を通り越して、ベッドと机以外に何もない部屋はまるで少女の内面を表しているようであった。


 跪き、ひたすらに祈りを捧げる少女は驚くほど美しい。

 十歳に満たぬ幼い容姿ながら、肩まで伸びた銀髪は月光を塗したかのように輝き、抜けるように白い肌は神が手ずから磨き上げた芸術品のよう。

 そして、何よりも悲劇が少女を美しく彩っていた。


 今は大陸全体が喪に服している。少女はただ祈り続けていた。他にすることを知らなかった。

 やるべきことは既に終わった。前教皇を含む一等家の者たちの国葬、併せて百代目となる教皇就任式も恙なく済んだ。

 数日前までただの子供だった少女に期待している者などいない。

 少女はただ黙って座り、合図されて立ち上がり、事前に覚えた通りの言葉を発しただけであった。

 そこに少女の意思は介在していない。そんなものは誰も必要としていなかった。


 まるで人形のようだと少女は自嘲した。


 誰もが少女を教皇と呼び、敬い、讃える。しかし、誰もが少女がただの子供であることを知悉している。

 そこには憐みすらない。心と表情を凍らせた少女をただ効率的に扱うことだけを考慮した機構があるだけだ。


(神さま、私は何なのですか?)


 貴女のしもべですか、それとも大人たちの人形ですか。

 この生き方は間違っていませんか。拙い頭で考えたのです。私が教皇になるのが一番混乱がないだろうと。世の為だろうと。

 けれど、これで本当によかったのですか――――


「…………」


 祈りに答えはない。当然だ。

 神はただ与えるだけの存在であって、こちらに応える存在ではないのだ。そんなことはわかっていた筈だった。

 だが、少女には神以外には話し相手がいなかった。

 必然、発せられる言葉は問いかけと告解となる。しかし、少女の乏しい語彙では二刻もそうしていれば言葉も尽きる。


 やることがないというのは想像以上に人の精神を病ませる。

 これといった趣味もない少女は白国最高位の、しかし、閑散とした部屋の中で孤独に苛まれていた。


 ――否、正確に言えば、少女はひとりではなかった。


 扉の脇で彫像のように黙して立つ青年。

 年のころは十七歳程度だろうか。後ろで括った黒髪と鋭利な黒目、道衣の上からでもわかる鍛えた体。

 そして、腰に佩いた一刀と背に負った銀の剣。


 最も新しく、そして現時点における最年少の十二使徒。

 第九位、“無間”のカイ・イズルハ。


 教皇になった際にその直属部隊である十二使徒については一通りの説明と面通しは受けている。そのため、エルザマリアもその存在は承知していた。

 上位使徒が手ずから鍛えた一振りの剣。

 唯人が努力と鍛錬によって使徒となった初の事例。

 

 カイが教皇の護衛に就いたのは今日が初めてであった。

 常は使徒の第二位アレックス・ストライフが教皇の護衛に就いているのだが、近衛騎士団長を兼任する彼が部隊を直接指揮する必要のある時は他の使徒が護衛を代行するのだ。


(昨日まではジョセフさんが就いていたのだけれど……)


 こっそりとカイの表情を伺いつつ、エルザマリアは心中で溜息を吐いた。

 単独で護衛を任される辺りに、アレックスの手ずから鍛えた弟子への信頼が窺える。

 しかし、部屋を満たすえも言われぬ緊張感に少女の胃は微かに痛んだ。

 黙して語らず。ただ気配だけを研ぎ澄ます抜き身の剣と同室するのはまだ十歳にも満たぬ少女には辛いものがあった。



「あの……」


 沈黙に耐えかねて、エルザマリアはカイに声をかけた。


「……何か?」


 少し低い声と共に、それまで宙を眺めていた青年の黒瞳が少女に向く。

 あまりに真っ直ぐな視線に少女は喉の奥で悲鳴を呑みこんだ。


「えっと、立ったままではお辛くないですか?」

「問題ない」

「……交代したりはしないのですか?」

「アレックスが戻るまでは自分が警護に就く予定だ」

「……」


 無機質な言葉に二の句が告げられない。教皇に対する態度ではないが、元より完全実力主義である十二使徒に敬意など期待されていない。

 エルザマリア自身も常日頃から警護に尽力してくれている使徒たちに不敬だなんだとつまらないことを言う気はなかった。


(それにしても、この方はちょっと……)


 梨の礫とはこのことだろう。

 予め言い含められていた内容を蓄音器の如く再生する青年は正直、少女には怖いものにみえた。


「気分がすぐれぬのなら席を外すが?」


 だから、その一言は意外であった。

 視線を上げれば、青年は変わらぬ無表情のまま。

 聞き間違いではないかと少女は自分の耳を疑った。


「えっと、いいのですか?」


 少女は小首を傾げる。青年の職務を考えればいいわけがないのだ。

 未だ一等家を襲った新種の病の原因は分かっていない。呪いとも毒とも言われるそれから生き残ったのはエルザマリアだけだ。

 残ったただ一人に何があるのか、あるいは、誰かが襲ってくるのか。厳戒態勢は当然の帰結だ。


「ジョセフから隠蔽の手ほどきは受けている。外部への示威の為に立っているが、姿を隠すことも出来る」

「……なら、あ、いえ」


 カイの申し出に応えようとした瞬間、ネロの冷ややかな笑みが少女の脳裏をよぎった。

 試されている、そう感じた。

 お前の剣を使いこなしてみせよと、そう言われている気がした。


「あの、外出することはできますか?」

「……教皇宮から出ることは許可されていない」

「い、いえ、行きたいのは――」


 意を決して少女は立ち上がった。

 覚悟を決めれば、息苦しかった部屋の空気が僅かに軽くなった気がした。


「――花壇です」



 ◇



 青年に希望を伝えて暫く後、少女はおっかなびっくり階段を下っていた。

 少女が進んでいるのは黴臭く、埃が舞うひどく狭く暗い階段だ。

 光源は自分の手元に起こした『灯火』の術式のみ。左右の石の壁には燭台を置く場所すらない。

 コツコツと響く自分の足音が長く頭の中に残る。前を行く青年の足音が無いのが逆に恐ろしい。

 手入れされていない壁に斑に映る影と先の見えない階段がさらに少女の恐怖心を煽る。


 ここは教皇専用の隠し階段だ。その存在を知っているのは教皇本人と十二使徒だけに限られる。

 だが、何故今この階段を使っているのか、促されるままに付いて来た少女にはわからなかった。


「あの……」


 思わず、少女は数歩前を行く青年の背中に声をかけた。

 灯りも持たずに黙々と闇の中へ下っていく青年の姿があまりに恐ろしかったのだ。


「どうした?」

「ひゃっ!?」


 振り向いたカイの顔にエルザマリアは今度こそ悲鳴を上げて蹲った。

 少女の手にある灯火に下から照らされた青年の顔は、空中に浮かびあがった幽鬼か何かに見えたのだ。


「……」


 数瞬して、さすがに気を悪くしたかと少女が恐る恐る見上げた先には、不思議そうに首を傾げた青年の顔があった。


「休むのか?」

「…………」


 暗闇の中で少女は小さくため息を吐いた。

 気を張っていた自分が馬鹿みたいに思えたのだ。


「……カイさん」


 そのとき、少女ははじめて青年の名を呼んだ。

 あるいは、教皇になってからはじめて、ちゃんと人の名を呼んだかもしれない。


「カイでいい」

「……はい。カイはよく気が利かないって言われませんか?」

「たしかに。師達にも言われたな」

「あ、やっぱり」


 予想通りの答えに少女の口元が小さく綻んだ。

 暗闇にぼんやりと浮かぶ青年の顔はもう怖くなかった。



 ◇



 埃を被りながら半刻ほど狭苦しい階段を下った二人は遂に塔の地上階に着いた。

 先行するカイが静かに隠し扉を開ける。

 階段に籠っていた黴臭い空気が外に流され、併せて暖かな陽光が暗闇に差し込む。

 エルザマリアは大きく息を吸い、眩しそうに目を細めた。


「あ……」


 一歩外に出ればそこは見慣れた筈の教皇宮の景色。

 天を衝く塔も、遠くに立つ白亜の大聖堂も生まれてからずっと見てきた景色だった。

 それが今、こんなにも懐かしく思えるのが不思議でならなかった。


「花壇はどこだ?」

「えっと、むこうです」


 呆けたように周囲を見回していたエルザマリアを情緒や感動とは無縁なカイが急かす。

 少女は慌てて進む先を示した。



「……残ってたんですね。よかった」


 エルザマリアが感慨深げに呟く。

 暫く歩いた先にあったのは、塔の裏手にひっそりと設えられた花壇だった。

 決して大きくないそこには色とりどりの花が咲き誇っていた。

 この花壇の持ち主は既にこの世にいないが、侍女たちがきちんと世話をしてくれていたのだろう。


 花壇の傍らには木で編まれた古いベンチがある。

 かつて、そこには父と母と自分が座っていた。

 たった一度だけの家族の逢瀬の記憶。幸福だった頃の思い出。


 今では、ひとりで軋むベンチに座っても悲しいだけだ。

 少女は取り戻せなくなってはじめてその幸せに気付いた。


「カイ、どうして隠し階段を使ったのですか? あなたがいれば近衛騎士たちも否とは言えないでしょう?」


 じっと花壇を見つめつつ問いかけるエルザマリアに、カイは微かに眉を顰めた。

 気付いてなかったのか、と小さく呟いた声が風に乗って少女の耳にも届いた。


「その顔を他者に見せる気だったのか?」

「……え?」


 慌てて懐から手鏡を取り出す。

 いつも通りの顔の筈だ。生まれてきたからずっと付き合ってきた、教皇になってから変わらない――変わらない筈だ。


「あの、何か変ですか?」

「…………教皇とは慈愛の象徴だ。俺はそう教えられた」


 カイは何を言うべきか迷うように沈黙していたが、暫くしてぽつぽつと語り始めた。


「俺は神を知らない。慈愛というのもわからない」


 青年が道衣の袖を捲る。

 傷だらけの腕。鋼のように鍛えられた腕。

 ただ剣を振る為だけに十数年を費やした武の結晶。

 それだけがカイの存在理由であり、魂を賭けた一念である。


「――だが、今のお前に心はない」


 その言葉は残酷に、真っ直ぐに少女の体の奥まで貫いた。


「かつての俺と同じだ。お前は自分を見失っている」

「私は……」

「俺は刃だ。いつか来るその日の為に振るわれる。俺の意思でそれを為す」

「あなたは……」


 知っている。少女は知っている。

 いつか、狂った仲間を斬る為にその刃は鍛えられた。


「あなたは、お辛くはないのですか?」

「それは斬った後で考える」

「……」


 ――ああ、この人はこういう人なんだ。


 その時、少女は悟った。

 曲がりなりにも皇族であった自分が今まで会った人達とは違う存在なのだ。それにようやく気が付いた。

 裏と表。嘘と真。それは隠すことがあるからこそ生まれるものだ。

 隠すことがない故に、偽りもない。

 気付いてしまえば単純なこと。青年の中には少女の知っていたものがなかっただけだ。


「いつか使徒を斬るのですね?」

「そうだ」

「それを命じるのが私なのですね?」

「そうだ」

「あなたはその日が来ないことを願っていますか?」

「……そうだな」


 少女の顔がくしゃりと歪む。

 家族を失う辛さは少女も知っている。つい先日知ったばかりだ。

 ならば、それを己の手で為すことはどれだけ辛いことなのだろうか。


 だが、その痛みは決して青年だけのものではない。


 慈愛とは遍く全ての者を愛するということだ。

 しかし、その愛ゆえに、時に教皇は非情な決断を下さねばならない。

 犯罪者がいれば罰せねばならない。

 魔物が出れば騎士たちに討伐させねばならない。

 そして、狂った英雄にはこの刃を嗾けねばならない。


 それを命じるのが自分の役目なのだ。


(神さま、愛とはこんなにも辛いものなのですか?)


 少女の頬を涙が伝う。

 それは、これから先に喪われる者達を想って流れた涙だった。


 そんな少女の様子を一瞥したカイは無言で目を閉じた。


「カイ?」

「教皇を任ずるならば、その涙を人に見られる訳にはいくまい」

「……そうですね」


 ――でも、今だけは。


 少女は両手で顔を覆って泣いた。

 声を殺して泣く少女を花壇の花達だけが見ていた。




「……もう大丈夫です」


 泣きやんだエルザマリアが声をかけるとカイは黙って目を開けた。

 まだ目の赤い少女は特に何が変わった訳ではない。

 だが、茫洋としていた雰囲気が確かな形を成して少女を彩っていた。


 カイは何も言わない。

 元より、この少女に自分が何かできるとは思っていなかった。

 同時に心配もしていなかった。

 第一位(ネロ)は他に選択肢がないからと、ふさわしくない者を教皇に据えたりはしない。



「猊下あああッ!! どちらにいらっしゃるのですか、猊下っ!!」


 その時、塔の上から咆哮のような大声が教皇宮に響いた。

 獣人(セリアン)の十二使徒、第二位アレックスのものだ。

 続いて、何かを壊すような音も連続して聞こえてきた。

 心配性な神官騎士が手当たり次第に物理的な捜索を開始したのだ。


「時間のようだ」

「あの、カイ? アレックスを――」

「……」


 振り返った青年は無言でその先を促す。

 頼みごとならエルザマリアでもできる。

 しかし、命令するなら少女のままでは許されない。

 青年の云わんとすることを察した少女は一度大きく息を吸う。


 生まれるのはこれ以上ないやわらかな微笑。

 慈愛をその身に体現した教皇の笑みだった。


「――使徒(・ ・)カイ、あなたに命じます」

「――仰せのままに、猊下(・ ・)


 にこりともしない侍は、しかし、確かに少女を認めて片膝をついた。


「使徒アレックスが無茶をする前に迎えに行ってあげてください」

「了解」


 立ち上がり、腰の刀を抜いたカイに驚きつつも、エルザマリアは笑顔のまま頷いた。


 これから、自分は慈愛の名の下に多くを救い、多くを犠牲にするのだろう。

 何かを守る為に誰かの血を流させるのだろう。

 ならば、せめて彼らがそれを誇れるように自分は笑おう。

 間違いでなかったと、そう信じられるように祈ろう。


 それが教皇エルザマリア・A・イヴリーズの役目であるのだから。



 教皇の命を受けたカイが勢いよく駆け出す。

 その拍子にふわりと吹いた風が花壇の花達を揺らす。

 あっという間に小さくなっていく背中に少女は祈った。


「――あなたの行く先にどうか幸福があらんことを」


 祈りは青年には聞こえなかっただろう。

 だが、それでもいい。

 いつか面と向かって言える日が来るまで歩み続ける。

 己の心がそう決めたのだから。


 遠く響く金属の激突音を聞きながらエルザマリアは空を見上げた。


 新たな教皇の誕生を祝するように、空は雲ひとつなく晴れ渡っていた。

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