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刃金の翼  作者: 山彦八里
二章:ギルド
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26話:父親

 ふと気が付くと、ソフィアは見知らぬ森の中に居た。

 思考は鈍く、体の感覚がない。心だけが浮遊している。

 夢の中だ。ソフィアは朦朧とした意識の中でそれを察した。

 見たことのない景色。しかし、においには覚えがある。先日、訪れた十二使徒の森だ。


「――ッ」


 ふと、視界をよぎったのは見知った顔と、見慣れた黒ずんだ道衣。

 木々を蹴って跳ねるように走るカイが、どこか似た顔立ちの大柄な男に向けて剣を撃ち込んでいる。

 凄まじい速度で森中を縦横に駆け巡るカイの体からは微かに魔力を感じる。故に、この場面は自分たちと出会う前のものだろうとわかった。


(では、相手はカイの……お父さま?)


 そう思ってみれば、傷の目立つ顔は、カイに渋みを足せばあのような感じになるだろうと思える位に似ている。

 特に、黒一色の髪と、意志の強さを感じさせる黒瞳はそっくりだ。

 たしか、“ジン・イズルハ”といったと、少女は記憶からその名を思い出した。


 ジンはその場を動かず、両手で構えた無骨な長剣で間断のない連撃を弾き続けている。

 カイも鍛え抜かれているが、ジンはそれ以上にみえる。実戦で鍛えられたであろう傷だらけの体は、しかし、それ故に戦うという事柄に対して完全に適応しているのだろう。

 その場を動かず、運剣の冴えのみで全体重を乗せたカイの怒涛の連撃を完全に捌いている。カイの技量を知るソフィアからすれば信じられない光景だ。


 対するカイは足を止めず、ひたすら斬撃を浴びせかける。

 人極の機動力で常に有利な間合いを確保し、手数で相手を押し込み、崩し、斬る。全ての攻撃が致死に届くカイだからこその戦法だ。

 相手もそれを分かっているのだろう。無理にカイを追わず、確実に攻撃をいなして機を窺っている。

 攻める方が圧倒的なら、受ける方も圧倒的だ。自身に限定した防御性能なら、ジンはクルスに勝っているだろう。


 剣の素人であるソフィアでは趨勢はわからないが、カイの側が若干不利に感じられた。明らかに押しているのはカイだ。だというのに、ジンの体は未だに無傷だ。


「――――」


 さらに数合を経て、互いの剣が鎬を削った一瞬、カイとジンの視線が交差した。

 ここ一番に互いの戦意が研ぎ澄まされたのを離れて見ているソフィアも感じた。

 次の瞬間、カイの体がさらに加速した。既にソフィアの目では捉えきれず、かろうじて影を追える程度だ。

 そうして、高速域に乗ったカイが放つのは無数の斬撃がひとつなぎ(・ ・ ・ ・ ・)になった神速の連撃。しかし、それでも尚ジンは無傷だ。自身を中心にゆるやかな円を描く長剣で襲いかかるカイを完全に捌き切っている。


 互いの精神を削るような攻防はさらに十合続いた。

 そして、十一合目、剣戟を加えながら加速し続けたカイの体がジンの視界から外れた。

 いかな受け太刀の達人とて、剣が届かない位置への攻撃は防げないだろう。


「ッ!!」


 次の瞬間、ジンが遂に動いた。

 背後に振り向きつつ、男の巨躯からは想像もできない早く鋭い一歩を踏む。防御に専念していた筈の剣は、手品のようにいつの間にか振りかぶられている。

 その一歩は恐ろしく正確にカイの間合いを潰した。

 正面に捉えたカイとの間合いは二間を切っている。カイが最高速に至るには一歩足りない間合いだ。


 それでも、カイに回避という選択肢はない。足は踏み切り、体は斬る体勢に入っている。

 故に、相手よりも一瞬早く斬らんと吶喊する。振り下ろされる長剣の下に躊躇なく飛び込む。


「――ッ!!」


 刹那に、交わるように放たれた二つの銀閃。

 ジンの首元に伸びる一刀。カイの面に迫る長剣。十字を描く精緻な二筋の弧は相手に触れる直前でピタリと止まった。


 勝負の結果は引き分けだった。



「これで、今年に入って五勝八引き分けか。お前も成長したな」

「……あと一歩が足りない」


 二人は同時に剣を引き、鞘に納める。

 息の合った動きは、共に過ごした時間の長さを感じさせる。


「時間の問題だろう。お前の剣はまだ伸びる余地がある」

「完成していないだけだ」

「だが、それがお前の最大の長所だ。半端に完成するより余程いい」

「……」


 表情こそ変わらないが、負け越しているカイからは不満そうな気配が漂っている。

 意外な姿だった。そうして自身の感情を気軽に明かす姿をソフィアは見たことがなかった。相手が父親とはいえ、少しだけ妬けた。

 カイなりに甘えているのだろう。ジンも苦笑して息子の頭を少し乱暴に撫でた。


(あれは……)


 子を撫でる父の手は、いつもカイがソフィアにしてくれるやり方と同じだ。

 それが、カイの知る唯一の他者との触れあい方なのだとソフィアは知った。


「最近の調子はどうだ?」


 ふと、父の口から珍しい言葉が漏れた。意味を理解できず、カイが首を傾げる。

 ここ数年、親子としての会話など交わしていなかった。口を開けば、やれ足運びがどうの、握りがどうのと、剣術と戦術に関することしか話してこなかったのだ。


「任務か? 特に聞いていないが」

「いや……そういう訳ではなくてな。なんだ、その……」

「慣れぬことをしなくていい、父さん(・ ・ ・)


 笑おうとするカイ。しかし、久しく動かしていなかった表情筋は強張り、口元が歪むだけだった。

 それを見たジンが微かに悲しそうな表情をした。しかし、それも一瞬で消える。

 森中が突然、二人の発する緊張感に包まれた。

 風声が届いたのだろう。周囲を走る魔力の揺らぎからソフィアは判断した。


「本当に任務になったな、カイ」

「いま動けるのは俺達だけか。すぐに準備する」

「かなり大規模な儀式が行われたようだ。急ぐぞ」


 二人は素早く森を脱し、屋敷へと走っていく。

 その背を見送りながら、ソフィアの心中で思考する。


(儀式、呪術? なら、この記憶は――)


 瞬間、ズキリとソフィアの心を激しい痛みが襲った。

 心が散りぢりになりそうなほどの痛みだ。夢なのに、思わず悲鳴をあげかけた。

 それは――この記憶の持ち主の感じている痛みに他ならない。


(カイ、あなたは――)


 遠ざかる親子の背中。不意にその背が黒く滲んだ気がした。


 ソフィアの意識はそこで途切れた。




「――カイッ!!」


 目を覚ますと同時にソフィアは跳ね起きた。

 皇都にあるヴェルジオン別宅のカイに宛がわれた客室。

 窓の外はまだ暗く、日はまだ昇っていない。

 ベッドには僅かに自分のではない体温が残っている。カイは一足先に起きたようだ。


(あの後に、カイは……)


 少女は頭を振って今しがた見た記憶を追いだす。

 相手の知られたくないことも知ってしまう。読心を持っている中で最も自分が嫌になる瞬間だ。


「がんばりましょう。今日は『生誕祭』なのですから」



 ◇



 白国において中央から遠い北方の領地であるヴェルジオンは、貴族の例に漏れず皇都に別宅を持つ。

 中央との結びつきの弱い現当主イオシフはあまり利用しないが、街並みに合わせた白亜の屋敷は隅々まで手入れがなされ美しい外観を保っている。


「カイ、ちょっと髪伸びたんじゃない?」


 屋敷と同様に手入れのいき届いた庭の端を借りて朝の鍛錬を終えたカイに、中庭に椅子を出していたイリスが声をかけた。


「こっち来て。ソフィアが来る前に軽く整えてあげる」

「任せる」


 カイは刀を外して、椅子に腰かけて目を閉じた。

 本当に任せきりにするつもりなのかと従者が苦笑しつつ、鋏を片手にカイの後ろに回る。近づく従者の体は温かく、微かに花のような甘いにおいがした。

 後ろで束ねていた髪が解かれ、ぱちり、ぱちりと耳元で鋏が鳴って、黒髪を切りそろえていく。


「今日はちょっと暗いわね、アンタ」


 その中で、何てことない風に従者は告げた。疑問ではなく確信。それがわかる程度には従者も侍を見ていた。

 目を閉じたカイの表情は変わらない。ただ、暫くしてぼそりと口を開いた。


「……もうすぐ一年になる」


 何が、とは訊けなかった。否、訊かずとも分かる。

 呪術を受け、魔力を失い、そして――――


 二人とも口を噤み、鋏の音だけが辺りに響く。


「カイはさ、ヴェルジオンに来る気、ない?」

「……クルスの従者、“ナハト”の一族か」


 このときばかりは、従者の気遣いがありがたかった。

 突然、話題が変わったことにも驚かず、カイは問いを返す。


「うん。アイツが当主になった時、私は名目上の義父から継承した『従者筆頭』をしかるべき人に譲ってソフィアの従者に専念するわ。これからのクルスに必要な従者は、たぶん私じゃないから」

「……」

「どう?」


 器用に鋏を動かしながら問う従者に、カイは首を横に振ろうとして、抱きしめられるようにガッチリと掴まれた。散髪はまだ終わっていないのだ。


「危ないわよ」

「失礼。……答えは無論“断る”。俺が従うのはクルスだ。ヴェルジオンではない」

「アンタならそう言うと思ったわ」


 どこか楽しそうな従者の手の中で、最後にもう一度鋏が鳴って散髪は終わった。

 これで終わり、と細長い指が手櫛で軽く髪を撫で、解いていた後ろ髪を束ねる。


「すまんな」

「そこは、ありがとう、でしょ」


 従者の嗜めるような口調に、カイは今度こそ苦笑した。


「……ああ。ありがとう」

「うん。どういたしまして」


 目を細めた控え目な笑みは、手のかかる弟に対するような優しいものだった。


 カイが立ち上がるのを見届けて、イリスはソフィアを呼びに行った。


 出発までにはまだ時間があるが、侍にはすることがない。

 平和の象徴である教皇を祝う祭事であるため、表向き、生誕祭には武器の持ち込みは不可なのだ。

 よって、準備することもなく、文字通り、手持無沙汰だった。


 今回忙しいのは主にクルスだ。

 正式な招待を受けている“ヴェルジオン家の次期当主”は昨日の時点で教皇宮に移動している。追って、当主である父とその家令も領地から来るらしい。

 今回のクルスの義務は、教皇へのお目通り、近隣貴族のへのお披露目、中央との折衝、当主引き継ぎの日程調整等々。目の回るような過密さだ。教皇の誕生を祝っているような暇はないだろう。


(今日で猊下も十六か。早いものだ)


 ふと、かつて剣を捧げた少女のことをカイは思い出した。

 エルザマリア・A・イヴリーズ。ただ一人残った一等家にして女教皇。

 白国の頂点にして、十二使徒の直属の上司。


(はじめて会った時は……たしか九つだったか)


 微かに覚えている、豪奢な法衣と釈杖を手に気丈に振舞っていた銀髪の少女。

 女教皇の護衛は主に近衛騎士団と使徒の第二位“不滅”の騎士が担っていたが、年が近いこともあってカイが呼ばれることもあった。

 尊き生まれと複雑な境遇から同年代の知り合いなどいなかった彼女への配慮なのだろうが、人選を間違っているとしか言いようがなかった。

 会話らしい会話も出来ず、ただ近くに侍っていただけのカイが師達の意図を達成したとは思えない。


「今はソーニャやクラウスもいる。問題は――」


 呟きが途切れる。カイは柄に手をかけつつ、背中越しに感じた気配に振り返った。


「……」


 そこに大柄な男が立っていた。身長はクルスよりさらに頭一つ高い。

 年は五十前半だろうか。白髪の混じった金の髪に、厳めしい表情が印象的だ。

 背筋はピンと伸び、体は筋肉の鎧に覆われているのが服の上からでも明らか。総じて、岩のような雰囲気を持つ男だ。

 真紅のマントを羽織った恰好こそ貴族のものだが、手には身長を超える戦斧が握られ、戦闘態勢に入っているのがこれ以上なくわかる。


「――ゆくぞ」


 こちらも構えているのを確認した後に、掛け声をひとつ残し、男は戦斧を振りかぶり猛然と斬りかかってきた。

 一瞬で間合いを越えて迫る極厚の刃に対し、カイは抜刀したガーベラをすらりと合わせて受け流した。


「ヌッ!?」


 正面から迎撃されるとは思っていなかったのか、男が驚きの表情を浮かべる。

 しかし、それも旋回した戦斧が再びカイに襲いかかる時には引き締めた口元にとって変わっていた。

 今度は横一文字に振り抜かれる戦斧に対し、カイの構えたガーベラが絡みつき、擦過音と共に巻き上げた(・ ・ ・ ・ ・)

 武器の重量差を感じさせない侍の技量に、男はもう驚かなかった。

 巻き上げられた戦斧を全身の力で押し戻し、三度、轟然と振り下ろす。

 しかし、それも軌道に合わせるように斬り上げた一刀に横から弾かれ、目標を逸する。

 その一撃で完全に斬線を外したが、それでもまだ相手の戦斧は死んでいない。地面スレスレで刃が返り、再びカイに向く。


(このままでは埒が明かないか)


 ならば、とカイがさらに速度を上げようとした瞬間、相手の動きがピタリと止まった。

 相手の意図を察して、カイもまた踏み出しかけた足を止めた。


「私の腕ではここまでだな。その細剣で凌がれるとは、オーヴィルの言っていた通りの素晴らしい技量だ」

「もういいのか?」

「ああ。十分みせてもらった」


 男が戦斧を引き、次いで、構えを解いた。

 合わせてカイも刀を納める。元より、相手には殺気がなかった。手の内を見せるだけならば、この辺りが落とし所だろう。


「名乗りもない不躾な戦闘、伏してお詫びする」

「謝罪は必要ない。武によって身の証とする、わかりやすくていい。……それに、律儀な所はクルスが、唐突な所はソフィアがそっくりだ」


 カイの言葉に男は少しだけ驚いたが、すぐに表情を戻して丁寧に一礼した。

 腰を折った礼は貴族にとって格上の相手にのみするものだ。公の場ではないとはいえ、気軽にするものではない。


「私はイオシフ・F・ヴェルジオン。お察しの通り、あの子らの父親だ」

「こちらの名乗りは必要か?」

「いいや、存じているよ、カイ・イズルハ殿。息子と娘が世話になっている」

「礼を言われる程のことはしていない」

「そんなことはない。彼らの表情は家にいた時はまるで違う。得難い経験をしたこと、一目でわかる。特にソフィアは……」


 言葉を濁すイオシフに、怪訝そうにカイの片眉が動いた。


「すまない。私は良い父親ではない。ソフィアにも随分と心労を負わせてしまった」

「俺のことはイリスから?」

「そうだ。あの子はソフィアに近付く者には辛口なのだがな、君のことは随分と買っている」

「聞いても?」

「“これ以上はいない”とのことだ」

「……」


 照れるような年でもない、とばかりにカイは首を横に振った。

 そんなカイの様子に、イオシフも微かに相好を崩した。


「君さえ良ければ――」

「旦那さま。そろそろお時間です」


 再び口を開こうとしたイオシフに斜め後ろから声がかかった。

 几帳面に整えられた執事服の片眼鏡の老人。前従者筆頭にして現家令の“ナハト翁”。年齢は六十に届くが、記録上はイリスの義父ということになる。

 主人の邪魔をせぬよう気配を消していた手管には相応の能力を感じさせる。

 そして、発せられた穏やかな口調とは裏腹に、こちらを見る目には何者か見定めんとする光がある。

 眼鏡越しの重みのある視線が、言葉以上に雄弁に語っている――お前は我が子にふさわしいのか、と。


 都合“父親”二人に見られて、カイは経験したことのない気まずさを感じた。


「すまない。クルスを待たせているのだ。これからもあの子たちをよろしく頼む」

「……イオシフ殿」


 もう一度頭を下げるイオシフに、意を決してカイは言葉を投げかけた。


「何かな?」

「俺もあまり良い息子ではなかった。父親に何も返すことが出来なかった」


 声に混じるのは悔恨。木石に等しい摩耗したカイの精神でも、想いを馳せる程度の情は残っていた。


「親に報いることが出来なかったこと、それは長く残る悔いになる」

「君の父親は?」

「……」

「そうか。無礼な問いだった。……そうだな。今度、皆で食事でもしよう。よければ、同席してくれないか?」

「それを皆が望むのなら」

「楽しみにしている」


 マントを翻し、イオシフはその場を後にする。ナハト翁も一礼してその後に続いた。

 去っていくひとつの領地を負ったその背中にカイは知らず溜め息をついていた。


「……父親、か」


 果たして、自分は父親にどれほどの重荷を負わせていたのか。

 今となっては確かめる術はなかった。



 ◇



「いいの、ソフィア? イオシフ様行っちゃうわよ」

「イリスこそ、ナハトさんになにも言わなくていいのですか? 帰省した時にはお会い出来なかったのでしょう?」


 屋敷の影からカイ達のやり取りを覗いていた二人が、互いに視線を交わす。

 その間にも、イオシフ達はどんどん遠ざかっている。


「ナハトは普通の家族とは違うからねー。お互い親子だなんて思ってないわよ。たまたま私が従者筆頭になっただけよ」

「そうでしょうか? ナハトさんはイリスのこと娘だと――」

「それより、問題はアンタよ。いつまでそうしている気? ……もう自分を赦してあげてもいいんじゃない?」


 従者の口調は軽い調子だが、そこには確かに懇願の響きがある。

 生まれてきたことが罪などと、イリスは決して認めない。それだけは絶対に認められないのだ。


「イリス」

「……ごめん。卑怯なやり方だったわね」


 だが、ソフィアの悲しげな表情にイリスは己の間違いを悟った。

 他人が救われるのを見て、自分も救われた気になるのは誤魔化しでしかないのだ。


「そうね。こんな“ついで”じゃなくて、じっくり話せる時間を作りましょう」

「はい。きっと快い時間になります」

「調整は任せて!! それで、あとはクルスかー」


 無茶してないといいけど、と従者は遠くに見える教皇宮に視線を向けた。

 生誕祭の幕開けはすぐそこまで迫っていた。

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