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刃金の翼  作者: 山彦八里
二章:ギルド
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24話:静かな音

 最高学年を送り出す卒業式も終わり、数週間後の新たな入学者を待つ春先。

 一足早くやってきた新入生や、彼らに合わせて商品の入荷を急ぐ商人たち。

 ルベリア学園は常とは違う、熱気を孕んだ浮ついた雰囲気に包まれていた。


 ただ一点、学園の中心、学長の居る屋敷を除いて。


「ここはいつ来ても静かですね」


 窓から差し込む陽光を照り返す銀の髪と同色の法衣を翻し、来客たる少女は呟いた。

 美しい少女だった。

 月の光を集めて形作られたような淑やかに輝く美貌に彩られ、目鼻はこれ以上なく整っているが、纏う穏やかな雰囲気が取っつき辛さを緩和している。

 万人を愛し、愛される為に生まれたような少女。

 齢十五にして、その笑みと言葉にて幾万の信徒を導く聖女。


 ――“女教皇”エルザマリア・A・イヴリーズ


 二百代を数える今代の白国教皇は数年ぶりに訪れた屋敷に懐かしさを感じつつ、自分の足音以外の音がしない廊下を彼女は進む。遮るものは何もなく、そのまま、奥まった位置にある学長の書斎に続く扉を押し開けた。

 書斎には踵の埋まる深い絨毯と『教皇宮』に勝るとも劣らない調度品が控えめに配置されている。

 そして、左右を本棚で埋め尽くされたその奥、窓を背にしてこの学園の主たるローザ・B・ルベリアは安楽椅子に腰かけていた。

 ゆったりとしたドレスと床まで垂らされたエルザマリアと同色の銀の長髪、胸には白薔薇を象ったブローチ。

 少女にとっては大伯母――正確には大がもう二つほど追加されるが――にあたるというのに 三十代半ばに見える憂いを秘めた美貌は、突然の来客にも驚くことなく泰然と構えている。


「ご無沙汰しております、大伯母さま」

「久しぶりね、マリア。けど、いいのかしら? 貴女は今、十日後の『生誕祭』に向けて大忙しの筈よ」

「お察しの通りです。その忙しさのお陰でこうして護衛……監視の目を振り切ってここに来ることが出来ました」

「お転婆なのは相変わらずね」


 大伯母のこれ見よがしに吐かれる溜め息は親しさの表れだ。

 数年前、エルザマリアの親族、Aの一等家、つまりは白国貴族の頂点にして白神の係累たる“皇家”が彼女を除いて軒並み病死する大政変があった。

 そして、まだ十歳にも満たない彼女が教皇に就かねばならなくなった時、後見人となったのがローザだ。

 その縁もあって、二人の仲は親族というよりは親子に近い雰囲気がある。


「それで、今日はどうしたのかしら?」

「これから忙しく(・ ・ ・)なるので、その前に一度大伯母さまにお会いしておこうと思いまして」

「……そう。こちらは可も不可もなく、いつも通りよ」

「それなら、いいのですか」


 数年ぶりの再会でも淡白なローザの言葉に女教皇は微苦笑する。

 調子は悪くないらしい、と分かったところで、ひとまず“試し”から入ることにした。


「預けた使徒カイは元気にしていますか?」

「気になるのなら会いに行けばいいじゃない。お忍びとはいえ、そこの彼がいれば可能でしょう」


 何気なく伝えられた言葉にエルザマリアの動きが止まった。

 暫くして、諦めたように大きく息を吐いた。

 自分に交渉術を教えた相手には、やはり勝てる気がしなかった。


「第七位にお気付きでしたか。鈍ってはおられないようですね」

「戯れたいだけなら他を当たりなさい」

「……使徒ジョセフ、外してください」


 女教皇が言葉を発すると、応じるように書斎の壁から滲み出るように帽子で顔を隠した男が現れた。

 十二使徒の一人にして隠密と諜報の達人“顔無”。エルザマリアが穏便に監視を撒くことが出来たのもこの男の手腕だ。

 たしかに、ローザの体内に等しいこの屋敷内では卓越した隠密(ハイド)も見破られてしまう。

 しかし、本来なら“正面から”しか入ることが出来ない多重結界の中に侵入できただけでも、男の能力が隔絶したものであることを証明している。

 男は二人に一礼して再び消えた。その様子を見て、ローザが再び溜め息を吐いた。


「結界の防備、見直そうかしら」

「使徒ジョセフと同じことが出来る者はこの大陸にはいませんよ?」

「その弟子がこの学園に居るじゃない」

「使徒カイが踏み込む時は正面から入るでしょうからご安心ください」

「そんな日が来ないことを祈っているわ」

「私もそう願っています」


 言葉の応酬が一旦終わり、ローザはいつの間にか用意したのか、紅茶のカップをゆっくりと手に取った。

 気が付けば、相対するエルザマリアの目の前にも薄く湯気の立つカップが置かれている。女教皇は気にすることなく口を付ける。

 この屋敷内でローザに出来ないことなどそうそう無いのだ。


 そうして一息ついた後、エルザマリアは徐に居住まいを正した。少女の凛とした横顔に微かな緊張が滲む。ここからが今日の本題だ。


「これから白国は荒れます。中央に戻って頂く訳にはいきませんか、大伯母さま?」

「ないわね」


 間髪いれずに告げられた言葉にエルザマリアは秘かに息を詰めた。

 わかっていた事とはいえ、今となっては唯一の家族に等しい大伯母のにべもない拒絶は微かな痛みと共に心に響いた。

 教皇宮には十二使徒を除けば、女教皇としての味方は居ても、エルザマリア個人の味方はいないのだ。


「……かつて、その類稀なる聖性と感応力の高さ故に『先読みの魔女』と並ぶ未来視の使い手として名を馳せた『聖賢の杖』としての貴女はもういないのですか?」

「ええ。私にはもう未来は視えないわ」

「視えない? 何故ですか?」


 この大伯母が何か理由があって魔力を封じているのは知っていた。しかし、未来が視えないというのはエルザマリアも初めて聞いたことだ。

 ローザはすぐには女教皇の言葉に応えず、カップの中の真紅の表面に起こった波紋を見つめていた。

 絶え間なく起こる波紋はカップを手に持つローザ自身の震えによるものだ。

 幸いなことに、エルザマリアは気付いていない。


「……貴女は英霊がどのように死ぬか知っているかしら?」


 ようやく震えが治まって、ローザは静かに言葉を発した。

 エルザマリアは大伯母の様子に微かに不審を感じつつも、脈絡のない問いに首を横に振った。


「いいえ。存知あげておりません」

「多くの“英雄”は異端として、あるいは妬みによって民衆に殺されたわ。そうでなくても、悲劇が必要な時は殺されるわ。歴代の教皇がしてきたことは知っているでしょう?」

「ッ!? ……はい」


 女教皇は苦しげに、悲しげに、しかし、確かに頷いた。


 それは英雄、英霊によって構成された十二使徒を率いる教皇のもう一つの側面だ。

 英雄もまた人間だ。生きていれば負けることもあるし、不祥事を起こすこともある。

 ならば、綺麗なうちに、偶像として機能するうちに【永遠】にする。

 過去、多くの教皇がその指示を出し、また、逆に同じ理由で原初の海に還されてきた。


「無論、英雄の更に上に座す英霊は有象無象の輩に害されはしないわ。けれど、英霊は英雄と同じか、それ以上に短命なの」

「……何故ですか?」

「私達の死因はね――“衰弱死”よ」

「衰弱? 英霊ともあろう者がですか?」

「いいえ、英霊だからよ」


 ローザはそこで一息つき、ゆらりと視線を上げた。

 どことなく焦点の合わない、しかし、一度捉えられれば心の奥まで見透かされそうな銀の瞳をエルザマリアは意識を強く持って見つめ返す。


「英霊とは人を超え、神に近付いた概念の存在。そこに踏み込む為にはそれだけ多くのものを捨てなければ至れない。生物としての機能を捨てるのは珍しくない話よ」

「けれど、大伯母さまは、その、まだ人間でいらっしゃるようにみえます」

「ええ、よくみているわね、マリア。私がまだこうして生きているのは、能力の大半を封じ、人としての殻に閉じ籠っているからよ」

「……それは何故、ですか?」


 その先を訊くべきか数瞬迷ったエルザマリアは、結局、その問いを口にした。


「私を縛っているのは“恐怖”よ」

「恐怖? ……貴女は未来に何を視たのですか、ローザ・B・ルベリア?」


 問いは最初に戻る。エルザマリアは理解した。

 大伯母は視えてしまった未来への恐怖故に魔力を封印し、未来視を失ったのだと。


 交わっていた視線が解ける。

 ローザはゆっくりと椅子から立ち上がり、エルザマリアに背を向けて窓の外へと視線を移した。

 外は春の暖かさに満ちた大地と、どこまでも澄んだ青空が広がっている。

 けれど、ローザの視線はその先、境界を超えた、別の世界を視ているように女教皇には感じた。



「――――【神】を視たわ」



 そうして告げられる稀代の英霊の言葉は簡潔で、しかし、隠しようのない恐れが混じっていた。



 ◇



「ソフィア、少し出かけないか?」


 ギルドの活動もなく、久しい休日と相成ったその日、ふらりとソフィアの許にやって来たカイは開口一番で斬り込んだ。


「……え?」


 ソフィアは驚いて、危うく手に持っていた本を落としかけた。

 無意識のうちにカイの心を読んで、自分の勘違いでないことを確認する。

 カイも慣れたもので、「買い物に行かないか?」と思考による会話を投げかける。


「ソーニャの斬った杖の代わりを新調しなければならないだろう。それに、お前の読心をどれだけ抑えられるかも確認しておきたい」

「あ……」


 少女の顔がぱあっと明るくなる。

 カイがその概念を知っているかは怪しいが、それは紛うことなきデートの誘いだ。

 無論、カイとしては自分の剣がどこまで“届いた”のか試しておきたかったからだろうが、それでもその心中にソフィアを気遣う気持ちがあるのも本当だ。


「ありがとうございます」

「まだ何もしていない」


 その内心を察した少女が屈託なく礼を言う姿に、侍はふいと顔を背けた。

 少しだけ照れくさそうにする侍に、少女は用意してきます、と告げて寮に戻って行った。にやける顔を押さえる姿はただの年相応の少女のものだった。



 ◇



「イリス、イリス!! どうしましょう!?」

「はいはい、どうしたの、ソフィア?」


 寮の相部屋で寛ぎながら読んでいた料理本から顔を上げたイリスは、いつになく慌てた様子のソフィアを宥めながら事情を尋ねた。

 従者の落ち着いた様子にソフィアは我を取り戻し、その場で深呼吸して口を開いた。


「カイにデートに誘われました」

「今日?」

「はい。今から」

「……ちょっとしばいてくるわ」


 本を置き、壁に立てかけた弓に手を伸ばすイリスをソフィアは必死に押し止めた。

 イリスが本気だと直感したのだ。この従者が本当に怒る時は静かに怒る。


「離して、ソフィア。あの朴念仁には女の扱いっていうのを一度きっちり教えないといけないわ」

「い、今は用意の手伝いをしてください!!」

「ソフィアがそうやって甘やかすからあいつは朴念仁のままなのよ。デートに行くなら何で約束の一つもしてないのよ」


 説教は諦めたのか、怒りながらも、イリスは手早くソフィアの衣装棚からよそ行きの服を選び、懐から化粧道具を取り出した。


「悪いけど、ちょっと時間かかるからカイにはそう伝えておいて」

「わかりました。……イリス?」

「着替えて」

「あ、はい」


 イリスの様子に少し怯えながら、ソフィアはローブを脱いで出された衣服に袖を通す。


「次からはちゃんと約束を取り付けなさい。二人とも子供じゃないんだから」

「はい」

「よろしい」


 そこまで言って、イリスは怒りをおさめ、にっこりとこれ以上ない笑顔を見せた。


「それじゃあ、ソフィアも気合入れなさい。折角のチャンスなんだから」

「はい!!」



 ◇



「それで、どこに行くのですか?」


 寮の前で四半刻ほど待って、カイはよそ行きに着替えたソフィアと再会した。


「まずは学園の商業区を回る。殆ど行ったことはないが」

「……入学時期は一緒ですよね、わたしたち?」

「ああ」

「そ、それなら、わたしが案内する形でどうでしょうか? 一日で全部を回りきることはできませんが」

「……頼む」

「はい、おまかせください」


 ソフィアがぽんと両手を合わせて微笑む。

 カイとしても目的は果たせるのだから問題はない。


「金はいくらか持っている。他に準備はあるか?」

「いえ、特に――」

「ちょっと待った!!」


 こんなことだろうとソフィアの背後で待機していたイリスが二人を押し止めた。


「カイ、アンタまさか、その恰好のまま行く気じゃないでしょうね?」

「おかしいか?」


 見下ろす己の姿は黒ずんだ道衣に腰に刀を差したいつもの恰好だ。

 特におかしなところはない、戦いに赴くなら、であるが。


「ソフィアを見なさい」


 明らかに冷たくなったイリスの声に急かされて、カイはソフィアを改めて見る。


 恥ずかしげに目を伏せるソフィアには薄く化粧が施されている。色白の頬は微かに色付けされ、薄桃色の唇が健康的な色気を醸し出している。

 その身には裾が柔らかく広がった純白のワンピースを着て、肩には淡い水色のケープを羽織り、少女の白魚の如き肌を際立たせている。

 さらに、絹のような金の髪には丁寧に櫛が入れられ、蝶を象った髪留めを付けている。ジルベスターでも付けていた少女のお気に入りだ。

 つまりは、それだけ気合を入れてきたということだ。


 カイは感嘆したようにうむ、とひとつ頷いた。


「よく似合っている、ソフィア」

「あ、ありがとうございます」

「ソフィア、このトーヘンボク借りてくわ。ちょっと待ってて」


 従者はカイの尻尾のように括られた後ろ髪をむんずと掴んで何処かへと消えていった。



 待つこと暫く、改めてソフィアの前に出てきたカイの姿は一変していた。

 適当に纏められていた黒髪は綺麗に整えられ、服装は白いシャツに濃紺のスラックスになっている。

 刀こそ差したままだが、先程よりは遥かに「お出かけ」に適した服装だろう。


「待たせた」

「いえ、お気になさらないでください……イリスは?」

「やるべきことはやった、と」

「そうですか」


 少女は従者の気遣いに感謝した。

 相談した時にはこうなることが予想出来ていたのだろう。


「あの、カイもよくお似合いですよ」

「そうか? こういう服はどうにも慣れないのだが」


 困ったように後頭部をかく男の姿は、恰好と相まって、いつもの老成した雰囲気を和らげ、年相応の姿に見せている。

 多少は楽しみにしていることが伝わってきて、少女もまた嬉しかった。


「それじゃあ、えっと……」

「先に処置だけしておく。“斬る”ぞ、ソフィア」

「…………はい」


 応えるソフィアの声には微かに恐れが見て取れる。

 防衛戦争の時、心技の反動で読心が使えなくなった少女は明らかに怯えていた。

 今まで視えていたものが、聴こえていたものがなくなるというのは確かな恐怖だ。

 とはいえ、その感情にはカイも思い至っている。目を合わせ、「問題ない」としっかりと頷きを返す。


「斬るのは流入だけ。お前からの接触は殆ど制限されない筈だ」


 言葉が終わると共に、カイの『心眼』が開いて魔力の流れを捉える。

 その中から、ソフィアへと周囲の感情を運ぶ(・ ・)流れに狙いを確定させる。


(――斬るぞ、菊一文字則宗)


 心中でひとつ念じ、腰の刀を一閃する。

 ヒュン、と甲高い刃音が少女の耳に届く。

 剣は精緻な弧を描き、切っ先は少女に触れるか触れないかのギリギリを通る。

 狙いは一分のズレもない完璧な軌道を通り、“向こう側”へと刃を届かせ、魔力を断つ。

 そうして、魔力そのものを斬るという大陸の歴史上類を見ない稀有な効果に反し、あっさりと儀式は終わった。


「目を閉じてもよかったのだぞ?」

「信じてますから」


 苦笑しながら納刀する侍に少女はそう言って笑うと、緊張しつつ今まで蓋をしていた“読心”を解放する。


「あ……」


 はじめに耳に聞こえてきたのは木の葉のざわめき。遠くの闘技場からは微かな剣戟の音。空には鳥の声、地には人の声。世界に満ちる様々な音が耳に届く。

 その中で、ずっと脳裡に響いていた、曖昧模糊とした人の感情は聴こえてこない。


「……すごい。世界はこんなに色々な音が聞こえるのですね」

「少々騒がしいくらいだがな、ここは」

「いいえ、静かです。それに……きれい、です」

「……」


 白い手を添えて耳を澄まし、無意識に涙を流す少女を前に侍は唯々、息を呑んだ。

 美しく、しかし、儚げな少女にかける言葉が見つからなかった。


 今までこの少女はどんな世界にいたのだろうか。侍にはわからない。

 しかし、人の醜さなら侍も知っている。

 どのような聖人も悪人も、腹の中に詰まっているのは血と臓物だ。心の中とて、暴いてみれば似たような物だ。美しいだけの心など存在しない。愛には嫉妬が、誇りには傲慢が、優しさには哀れみが往々にして付いて回る。

 ならば、人の心を読める少女の居た世界はどれ程の地獄であったのだろうか。

 それは、少女の心技が、その心の表れが端的に示している。


 心技“デリュージ・オブ・コキュートス”


 コキュートスとは、古いことばで永遠の氷河に包まれた地獄を意味するものだ。

 少女にとって、人の溢れたこの世界こそ凍えるような地獄であったのだろう。


 だが、それも今日までだ。少女は世界に降り立ったのだ。


 陽光は暖かく、微かな春風が二人の髪を揺らす。


「行くか」

「……はい!!」


 少女の涙をそっと拭い、男は手を差し出す。

 剣を振り続けても尚、柔らかさを保つ男の手を嬉しそうに握り返しながら、少女は大輪の笑みを咲かせた。

 青空に映える表情は生まれて初めての一切の悲しみのない笑みだった。

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