22話:十二使徒
日差しも暖かみを増してきた昼下がり、一行は白国の皇都アルヴィスから馬車で半日ほどの場所にやって来ていた。
周囲を見渡せばいくつか森が点在するばかりで、あとは何もない平原が続いている。
近衛騎士が大規模演習に使用する以外に用途はなく、行き来する者も一行の他にはいない。そんな辺鄙な場所だった。
「ホントにここに“十二使徒”の拠点があるの?」
「ああ」
「何もないようにみえるが?」
カイの肯定も彼らの疑問を晴らすには些か説得力が足りていない。
十二使徒とは近衛騎士から選出された最大十二人の精鋭によって構成される教皇直属の対魔、対災部隊である。
実質的には貴族たちの分割統治によって成り立っている白国において、教皇は君臨こそすれ統治はしない。
直轄地は皇都とその周辺の僅かな土地のみ。配下の近衛騎士が皇都の防備を任務としている以上、他の貴族に対する実行力は十二使徒の他にない。
だというのに、肝心の使徒の元には城のひとつも与えられていない。抑止力足りえない。曲がりなりにも貴族の一員であるクルスにしてみれば、多少の不審を感じずにはいられないだろう。
「使徒は貴族達を抑える為に存在するのではない。政治に関わる気もない。有事の際に動けるだけの足と鎮圧できるだけの腕があれば十分だ」
「それは、そうなのかもしれないがな。他の使徒たちはそれで不満ではないのか?」
「ないだろうな」
「報酬いっぱい貰ってるとか?」
「貰った覚えがない。……不思議か?」
「ああ。端的に言って」
「それで成り立っているって異常よ」
名誉もなく、報酬もなく、ただ力として存在する。そんなのは理想だ。
クルスの実家でも兵には十分な報酬を払っている。忠誠心とは普通、目に見える形で購われなければ養われないものだ。
「……そうだな。そうかもしれない」
十二使徒の外に出たことで、カイにもその異質さが理解できた。
“ただ在る”だけの組織。問題を解決するだけの手段、切り札。
侍は「何故、十二使徒があるのか?」という問いに疑問を持ったことはなかった。
あるいは、今ならその問いの答えも出るのかもしれない。
「では、行って来る」
カイが馬車を飛び降りる。ここから先は一人で進む。
ここから先も何もないが、肝心の使徒たち本人が国の重要機密にあたるからだ。
「ガンバ」
「どうか、お気をつけて」
背中にかけられる仲間の声に片手を挙げて返し、カイは一年半ぶりに古巣へと戻っていった。
「いってしまいましたね」
ソフィアがぽつりと呟く。表情には微かな不安。
カイの身を案じている、というだけではない。昔の話を聞く限り多少の危うさはあるが、まさか再会した仲間に問答無用で殺される、などということはないだろう。
カイの裡からもそのような危惧は読み取れなかった。
だから、この不安はソフィアのものだ。
「こわい、ソフィア? カイが戻ってこないかもって、そう思う?」
「イリス。……どうなのでしょう。わかりません」
従者に心中を言い当てられて、少女は頭を振った。他者の心は読めても、自分の心は読めないのだ。
それでも、もし、カイがアルカンシェルを抜けると言ったら、自分は泣いてしまうだろう。それはわかった。
「わたしはどうすればいいのでしょうか?」
「――何も変える必要はない」
クルスはカイの向かった方角をじっと見ながら静かに告げた。
「あいつの道はあいつが決める。それは俺達も同じだ」
「……はい」
空は晴天。平原にはそよ風が吹き、兄妹の金の髪を揺らす。
「さて、いつまでもここに居ても仕方ない。依頼に向かおう。カイはいないが、二人ともいけるな?」
「だいじょうぶです」
「ま、三人での依頼は久しぶりだけど、難易度はそんなに高くないしね」
「ああ。油断せずに――」
行こう、と馬首を返す瞬間、強烈な振動が馬車越しに三人を襲った。
「敵襲!?」
「そんな!! いつの間に!?」
「――きます」
次の瞬間、馬車の横腹を光が貫通し、強烈な爆発が辺り一面を覆い隠した。
◇
クルス達と別れてすぐ、カイは多少の懐かしさを感じながら、記憶の示すままに森の中へと分け入っていた。
使徒の森は鬱蒼として殆ど日が差さず、同じ森でも先日訪れた『神樹の森』とは雰囲気を異にする。
なにより、注意して見れば木々には刀傷や焦げ跡が幾つもついている。カイがつけたものもある。
十歳になる前からこの森で育てられ、鍛えられたのだ。カイにとっては生家に等しい。一年来なかったくらいでは迷うこともない。
そして、生物の気配は少なく、それ故に先客の存在も確かに感じられる。
自然の摂理に従って伸長した木々を避けながらどれだけ進んだろうか。森の最奥、鍛練用に持ち込まれた大岩の上に人型の苔が座していた。
青々とした苔に全面を覆われたその物体は石像か何かに思える。
だが、侍が声かけるより僅かに早く、苔の塊はもぞりと動き出した。
小さく苦笑する。この男は自分が出奔する前からこうしていたのだ。
食を捨て、眠りを廃し、人としての根本を作り替えた超越者。
――第六位、“拳聖”イアル・ワン。カイのモンクの師だ。
「久しぶりだな、カイ」
「……イアル師父」
岩のように硬直した顔を微かに動かすイアル。その姿にカイは今度こそ自分が帰ってきたことを実感した。
老人と言っていい外見の男が立ち上がり、体に付着した苔を払うと、カイと揃いの道衣と背の銀剣が露わになる。
一年半ぶりだが、変わっていない。もしかしたら、髪や髭の長さも変わっていないのかもしれない。
それでも――
「少し老けたか?」
「かもしれんな」
イアルがこきりと一度首を鳴らして大岩から軽やかに飛び降りる。
所作の一つ一つが驚くほど滑らかで、およそ年齢というものが意味を成してない。百を超えていると言われても事情を知らない者は信じないだろう。
「それで、自分は何をすればいい?」
「この剣を“向こう側”に届かせる。俺の知る限り、師父だけがこの方法を理解できる」
端的な問いに、簡潔な答えを返す。
視えないものを捉え、その揺らぎの間を透す。
斬るというだけなら第五位の“剣鬼”に一日の長がある。
だが、カイほどではないにしても、彼の感応力も低い。理解はできないだろう。
「いきなり顔を出したかと思えば、技の修得を手伝えと。ある意味、お前らしい挙動だ」
「師父以外には不可能だ」
「女の為か?」
「仲間の為だ」
一瞬の躊躇いもなく言い切る弟子の姿に、イアルは久々に溜息を吐いた。
あまりに無垢、無知。自らの情動すら弟子は考慮に入れていない。
師達の中に侍に女の扱いを教えた者はいなかった。そのくらい自分で学ぶだろうと高を括っていた。
予想はこれ以上ないほどに外れた。父親にすら予測できなかった事態だろう。
「ソーニャも報われんな」
「何故、ソーニャがでてくる?」
「……いや、いい。気にするな」
それきり二人は沈黙する。元よりどちらも饒舌な性質ではない。
これ以上の言葉は無粋だ。
イアルがすっと腰を落とし、右足が半歩踏み込まれる。まるで散歩に行くような自然さで老人は戦闘態勢に移行した。
師弟の関係など現世の一態様に過ぎない。
武の頂きを目指す二人が向かい合ったのなら、できることはひとつ、やるべきこともひとつ。
「我らを縛る規律もまた、ただひとつ」
緩く握られる拳は、しかし石のような武骨さを具えている。
殴り続けたことで発達した骨と硬質化した皮。拳ひとつで並いる魔物を、果ては竜種をも撃ち抜いてきた証。
「“チカラ”だ。我を通すならば実力を示せ。鈍らは許さん。刃を研いできたというならそれを示せ、カイ・イズルハ、我が弟子よ」
「――――」
カイは無言で腰の一刀を抜き放つ。
顔は能面のような無表情。しかし、発せられる戦意は火が点いたように烈しく、肉体の内側で嵐のように荒れ狂っている。
心が静かに歓喜の声を上げる。
これだ。己が得物で語り合ってこそ十二使徒。
互いに理解し合う為に命を晒す。これまでも、これからも、それだけが唯一つの対話の方法。
合図もなく、カイが一心に駆け出す。
初手から防御を捨て“無間”に至る最大加速。
元より、このイアルというモンクに対して防御力は意味を成さない。
「――飛び穿て」
「ッ!!」
だが、拳が、刀が届くより数歩遠い間合いからイアルが拳を振り抜き、気弾を撃ち出した。
咄嗟に身を翻した侍のすぐ側を衝撃波が通り過ぎる。直感の捉えた致死の感触にチリチリと肌の表面が粟立つ。
このモンクは打撃を“透す”。それが鎧だろうと大気だろうと関係ない。あらゆる媒介を透して攻撃を当ててくる。
より強く、より効率的に相手を殴ることを追求した極致にいる。故に、イアル・ワンは呼ばれるのだ――“拳聖”と。
カイは拳の“射線”を避けつつ森を駆け抜ける。
応じて、イアルも静かに距離を詰める。滑るような動きは速くはないが、おそろしく無駄がない。
「喝ッ!」
呼気と共に再び放たれる拳を横っ跳びに躱す。不可視の弾丸が、射線上にあった木々が紙細工のように消し飛んでいく。
拳聖の一撃は侍にとって当たればそれだけで終わる。それだけの威力を秘めている。
カイは空中で納刀しつつ気を練り上げ、着地点の木の幹を足場に震脚を打ち込み、急速な方向転換をかける。
反動で木が大きく揺れる中、侍は飛翔し、その身を撃ち出した勢いのままにイアルに抜きつける。
しかし、走る剣線に寸分違わず合わせて、イアルが瞬間的に振り上げた手の甲に刀の腹を叩かれ弾かれた。
防がれたと認識するより早く、侍はその勢いを利用して反転、さらに斬り返す。
円を描いて翻った一刀は正確にイアルの頭は断ち割りに走る。
速度は高速。だが、必殺を期した一刀は、その途上で拝むように掲げられた拳聖の両手に挟まれた。
白刃取り。
現実的でも、実戦的でもない技法もイアルにかかれば絶対の防御となる。
そのまま両手の内に力が込められ、ガーベラが圧し折られそうになるが、それより一瞬早くカイが跳び退り、合わせて刀身が風を纏ってするりと抜けた。
真名を取り戻したガーベラは刀気を解放せずとも薄く風を纏っており、刀身に掛かる摩擦を減らし、剣速を加速させている。“雷切”も常に可能だ。
弱体化したカイの中で、その剣速だけは以前より速い。そうでなければとうに見切られていただろう。
二人の間合いが離れる。
間をおかず放たれる破拳を続けざまに避けて、カイは気炎を上げる。
「――狂い咲け、“菊一文字則宗”」
応えたガーベラが風の刃を展開する。
刀気解放による射程延長攻撃。
以前より鋭く、素早い一刀がイアルの横薙ぎに首元に迫る。
「――疾ッ!!」
対する拳聖が気を練り上げ、全身から放出する。
“発剄”だ。もはや衝撃の塊としか形容のしようのない気の波動が全方位に走り、風刃とぶつかり、呑み込み相殺した。
「小手先の技は無用」
「まだだ!!」
「遅いッ!!」
イアルが震脚を踏む。唯のひと踏みに森全体が震動する。
次の一撃の為に鍛え抜かれた全身の筋肉がぎちりと鳴る。
ほぼ同時、震脚の踏み込みの一瞬をとらえたカイが弾けるように跳んだ。
震動の余韻に大気が震える中、侍は宙を水平に飛翔し拳聖の胸元に斬り込む。
旋風を巻いて走る一閃は地に足が着いていないのが信じられないほどの高速。
しかし、イアルもまた達人の武をその身に宿している。
拳聖は踏み込みのまま、胸が膝につくほどに上体を折って、既に視覚では捉えられない域にまで加速した剣閃を潜り抜けた。
鋼刃が微かに風切り音を鳴らす。
その一瞬、空中のカイと地に伏せるイアル。二人の視線が交わる。
カイが宙で身を捻り、瞬間的に二の太刀を斬り下ろす。
イアルが上体を戻す勢いで打ち上げの一撃を放つ。
刀と拳が激突し、火花が散り、金属がぶつかったような高音を森中に響かせた。
刀ごと押される流れに乗ってカイが空中で一回転して着地する。
同様に、イアルもまた弾かれた勢いで僅かに下がる。二人の間合いが離れる。
その時、拳聖の額から血がつと一筋流れた。先の一撃目を躱しきれなかったのだ。
「己の血を見たのは何年振りか」
呟き、手で拭った時には既に流血は治まっている。気の循環で賦活能力が高められている証左だ。
だが、一撃は一撃。かつてのカイでは与えられなかった傷だ。
「いいだろう。全力を出す。ただし、加減はできんぞ」
「元よりその心算だ」
「ふ……」
笑ったのだろう。白髭に包まれた口元は窺い知れないが、カイはそう感じた。
拳聖の笑み。それは自己の全力を出すに値するまでに弟子が成長した故か、あるいはそれだけの相手を前にしたことへの戦意の発露か。カイからはどちらとも判然としない。
だが、きっと自分の口元も同じように吊り上がっている。そう思った。
「――原始の精霊よ、我が身に宿れ」
簡潔な祝詞と共にイアルが精霊を自己の体に降ろす。
にわかに空間が震え出す。森が怯えるようにざわめく。
魔力が視えないカイでも、そこに集う力の大きさは肌で感じられた。
それは巫術の中でも基本にして極致。
魂の領域における精霊との“融合”。
ざあ、と音を立ててイアルの髪と髭が巻き戻る。
雪のように白かった髪が黒々とした濡れ羽色を取り戻す。
合わせて枯れ木のようだった肌が弾力と瑞々しさを取り戻し、老人のそれだった肉体が一回り大きくなる。
精霊という強大な魔力の塊を全て生命力に変えて取り込んだのだ。
結果は“若返り”。そうとしか言いようがない。
年の頃は三十半ばに見える。それがイアルの肉体の全盛期だったのだろう。
そこに百年練り上げた気が加味されるのだ。
結論は単純。身体能力の極限強化。
如何な絶技も土台となる肉体が脆弱では話にならない。
鍛え抜き、磨き上げたその身こそが最強の武器にして防具。それがイアルが百年の鍛錬で出した結論だった。
カイは細く息を吐いて体内の気息を整える。
対面の相手から溢れ出る生命力の強さは先程までの比ではない。
速い、硬い、強い――怖い。生半可な斬撃は徹らないとみるべきだろう。
侍は一瞬も見逃さないように気を引き締めた。
視線の先、イアルがつと、拳を構えたのが見えた。
「――フッ!!」
次の瞬間、連続した時間の合間に滑り込んだかのように、いつの間にかイアルが拳の間合いにいた。
あまりに自然すぎる動きが起こりの機微を外し、隔絶した身体能力によって十メートルの間合いを無にしていた。
「ッ!?」
拳が打ち出された瞬間、カイは直感に従い背後へ跳んだ。
接触面に気による硬化を施した単純な拳打はしかし、絶大な威力を秘めている。それをカイはよく知っている。
跳び退るカイに対し、イアルは右足を送りだして踏み込みを延長しつつ、遅滞なく追随する。
だが、森を抜ける二人の間を遮るように、突如として人の胴体を優に超える太さの樹が立ちはだかった。
カイが狙ったものだ。侍は跳躍しつつ身を捻り、大樹の脇をすり抜ける。
拳を打ち出しているイアルにこれを避けることはできない。阻むこと出来ずとも、多少の障害にはなる、筈だった。
パン、と紙風船を割るような音が森中に響き渡った。
イアルの拳が大樹を打ち抜いた音だった。
豪たる拳は幹を易々と貫き、それでも一切減速することはなかった。
紛うことなき凶器が真っ直ぐ、最短距離を走ってカイの胸元に迫る。
侍は貫かれた樹を蹴ってさらに背後へ跳躍した。拳は直撃する寸前で停止した。
二人の通り過ぎた後、打ち抜かれた大樹が半ばから圧し折れ、むなしく地面を叩く。
イアルが引いた拳を腰まで落とし、残心を取る。
「……」
カイは今の一撃、九割がた回避した。拳自体にも直接触れてはいない。
技もまたあくまで基礎。単純な打撃に過ぎない。
「ガ、ハッ……」
だというのに、拳が纏った圧に掠っただけで肉が抉れ、肋骨を三本砕かれた。
血を吐きつつもなんとか両脚で着地し、チャクラを練って痛覚を和らげる。
イアルは若々しい姿のまま、静かに拳を構えている。
肉体は全盛期。技は現在。その融合。
圧倒的だった。百年を拳の一撃に費やしてきたからこその重み。
相手と自分。同じだけの鍛錬を課してきたのなら、必然、二十年と百年という年月の差が出る。
「どうした? 刀と拳、“剣を振る”、その先の為に教えたものだ。モンクにもサムライにもなりきれない半可通は許さん」
避けているだけでは何にもならん、と拳聖の総身が語る。溢れ出る気が雷鳴のように大気を震わせる。
次は中てられる、と侍の直感が告げていた。
だが、それはこちらも同じだ。
いつかクーニィに言ったことだ――「妖精を斬ったことはない」
そうだ。妖精を、精霊を、元素の世界へと刃を届かせることができれば――
「無論だ。覚悟もなく、此処に来た訳ではない」
カイが身を沈めて、全力疾走の前段階に入る。
これからイアルの中の“精霊”だけを斬る。
失敗すれば――その程度の腕ならイアルが殴り殺すだろう。
故に、後顧の憂いはない。
肺の半ばまで息を吸って止める。
ここから先は呼吸できない。肋骨の折れた状態で無理に吸おうとすれば肺が潰れる。
「覚悟だけでは届かんぞ」
「なら、すべて賭けるだけだ」
「よかろう。――来い、カイ・イズルハ!!」
イアルが応えた次の瞬間、カイの姿が消えた。
減速という概念を捨てた最大加速。木々を足場に、触れる全てを切り裂く刃風となり、縦横無尽に跳ね回る。
残像を曳きつつ、侍は一転して攻勢に移った。
人極たる最大速度を維持されては、さしもの融合状態のイアルでも追いつくことはできない。戦闘速度が違いすぎるのだ。
加えて、
「ム、ヌゥッ!?」
首、腕、足、胸、連続する斬撃が全方位からイアルの急所に襲いかかる。
一瞬の減速もない速度は、そのまま剣閃の鋭さになる。
斬り飛ばされるほどではないが、それでもイアルの気の鎧を抜いて肉体にいくつもの裂傷を刻んでいく。
今の姿でなければイアルとて十合もたなかっただろう。それほどまでにカイの剣は鋭く、イアルの気鎧は強固であった。
削り合うような剣の嵐の中で、覚悟を決めたイアルは最小限の動きで致命傷を避けつつ、詠唱を開始する。
精霊との融合により条件は既に満たされている。
つまりは、勝負を賭けた“心技”の発動に他ならない。
「――此処に阿はなく」
敏捷特化の侍とはいえ、これ程の無茶は長くはもたない。
賦活能力に飽かせて耐え抜き、待ちに徹し、機を窺えば、いつかは自滅する。
「――しかし、吽もなし」
あるいは、発剄のような全方位攻撃を放ってもいい。
掠りさえすれば致命傷になる。分の悪い手ではない。
「――阿吽なく、阿吽に非ざるものもなし」
だが、それでは勝てない。
攻撃を放った直後にこちらも斬られて終わる。一度羽ばたいたカイの剣は殺したくらいでは止まらない。
そう鍛え、カイ自身がそう願った剣は必ず相手を斬る。
故に、求められるは一撃滅殺。
ただ一撃にて塵も残さず消し飛ばす。それだけがイアルの勝利の道。
「――空を穿て、“テトラレンマ・カルナ”」
放たれるは全ての気を練り込んだ拳の一撃。
込められた膨大な気を熱量に変え、拳は小さな太陽となり、放たれる熱波が辺り一面全てを焦がす。
たとえ背後から近付いても、刀の間合いに入ると同時に侍は焼き尽くされるだろう。
その上で、イアルの目は疾走中のカイを捉えた。それでこそ己の全力であるが故に。
英霊に至る武、全盛期の肉体、蓄積された戦闘経験。
それらが完全に噛み合い、刹那をさらに十に切り分けた六徳の速度を駆けるカイを真正面から迎撃した。
◇
白熱する思考の中で、カイは師が心技を完成させたのを感じた。
離れていても感じられる高熱がチリチリと肌を焼く。
拳の先に宿った小太陽。近づく全てを焼き尽くす灼熱。
イアルという個人が鍛錬と瞑想の果てに至った武の結晶。個による到達である為、魔法のように体系立っておらず、防ぐ方法も存在しない。
カイとて一度ならず見たことはあるし、対策も講じていた。
――こちらも心技を使えば届く“相討ち”までならば。
だが、それでは駄目なのだ。
今こそ、その先を目指さなければならない。
高速の視界の中で、いかなる方法か、イアルが振り向き、最大加速中のカイを正確に捉えたのが見える。
構えた拳が、小太陽が振り抜かれる。気の塊には当然、雷切も効かない。
だから、これで勝機はなくなった。ここで至れぬなら、全てが終わる。
(まだだッ!!)
カイの魂が吼える。熱を発し、気を最後の一滴まで絞り出す。
この瞬間まで鍛え続けてきた“武”はこの程度で折れはしない。そう決意する。
故に、それは奇跡でも偶然でもなく、必然だった。
死を前にした瞬間、カイの意識は高次元の何かを捉えた。
どこで捉えたのか。己にそのような機能は――否、あった。
それは、かつて魔力と共に一度は失われた感覚――“心眼”だった。
閉じていた第三の目が開く。
だが、心眼はあくまで直感と経験によって五感の先を視る予測技能。
決してみたことのないものを視る効果はない。無いものは無く、魔力は視えない、その筈だった。
しかし、逆に言えば、僅かでも視たことがあれば話は別だ。
一度経験すれば、心眼は確と効果を発揮する。
カイの変化を敏感に察知したイアルが珍しく驚きを露わにする。
互いの直感が相手の感情を読みとる。
(お主、元素の世界を視たな)
(そうだ。だからこそ――)
だからこそ、コレに思い至った。
激突の直前、一瞬だけ心中をソフィアの顔がよぎった。
ブラッドゴーレムを前に、感応力のないカイに一時、自分の“目”を分け与えた存在。
不可能を可能にしたのはソフィアだ。自分はただ、できるようになったことをやるだけに過ぎない。
たとえ、それが万に等しい確率しかなかろうと、一分、一厘しか可能性がなくとも、できると決意する。
この身は既に一振りの刃金。触れたもの全てを斬り裂く必斬の剣。
ずっと昔に“そう在れかし”と決めたのだ。
だから視える。確かにそこに在る。人と精霊を分かつ境界。此方から彼方へと繋がる魔力の揺らぎ。
捉えた。逃がさん。斬る。
忘我の領域でカイは手の中の一刀を振り切った。
――切っ先は僅かに、彼岸の世界まで届いた。




