20話:真なる火
どれだけ時間が経ったのだろうか。
クルスはふと目蓋に光を感じて目を覚ました。
「……ここは?」
痛みを訴える半身をなんとか起こし、ぼんやりとした頭で周囲を見渡す。
木造の質素な小屋だ。幾つか木彫細工が置かれている以外は特別何もない。壁際に掃除道具があったりと生活感のする部屋の中、騎士の身は窓際の小さめのベッドに寝かされていた。
意識を覚醒させつつ、改めて自分の体を確認する。
鎧はなく、包帯の巻かれた両手足が目に入る。加えて、体の各所に残る鈍痛から小さくない負傷を受けていたことがわかる。
記憶をたどれば、ワイバーンの襲撃を受けて谷底に落下したことは覚えている。
その後、何とか落下速度を抑えようと、以前にオオワシに浚われたメリルを助けた時のように、薄く張った障壁をわざと破り、そして、谷底に流れていた川に落ちた。
記憶はそこでぷつりと途切れていた。
(此処は記憶にない場所だ。治癒術式が使われていないということはカイ達と合流した訳でもないだろう)
「――シオン」
そっと内なる妖精に呼び掛けてみる。
が、反応がない。胸の内の暖かさから居るのは分かるが、どうやら力を使い果たして眠っているようだ。
たしかに負傷に対して体力の減少があまりに少ない。シオンが限界まで体力回復をかけたのだろう。
(起きたら礼を言わねばならんな)
と、その時、戸外に人の気配が近付くのを感じた。騎士は咄嗟に警戒する、が体がついてこない。
騎士が黙って見つめる中、ギイ、と古めかしい音を立てて戸を開けたのは年端もいかない少女だった。手には水の入った桶を抱えている。
「あ、起きたのね、よかった!!」
「えっと……」
そう言って朗らかな笑顔を向ける少女をクルスは失礼にならない程度に観察する。
少女の肌は赤みがかった褐色。服装は簡素ながら色鮮やかな布で丁寧に作られた織物。
やや癖のある豊かな黒髪は後ろで緩く三つ編みにされている。
「君は? それにここは?」
「待ってて。いまジジサマよんでくるから!!」
クルスの問いには答えず、少女は桶をその場に置くと元気よく戸外に飛び出していった。
「……」
騎士がどうするべきか悩んでいる内に、少女はひとりの老人を連れて戻って来た。
老人は少女と同じ赤茶の肌に年季の入った厚手の織物の衣装を着て、豊かな口髭をはやしている。
おそらく、この人が少女の言うジジサマなのだろう。
老人は黒真珠のようなくりっとした瞳でクルスをじっと見つめると、口元に笑みを浮かべた。
「よく生きておった。汝の内に宿る精霊の御力かのう」
「ッ!?」
笑みを返そうとした矢先、クルスは相手の発言による動揺を隠す為に固くならざるを得なかった。
ジン、とは精霊や妖精を指す古いことばだ。
つまり、クルスの中のシオンの存在に気付かれているということ。
ソフィア程の感応力があっても、発現していない妖精に気付くのは難しい。
ならば、自分が寝ている間に何か――
「そう固くならんでよろしい、お若いの。年寄りというのは意外と目端の利くだけ。汝に何かした訳ではない」
「……失礼しました」
クルスは気を取り直してベッドから降りて立ち上がり、二人に向けて深く頭を下げた。
全身に鈍い痛みが走ったが、歯を食いしばって表情には出さなかった。
「自分はクルスと言います。まず、手当の礼を。命を救われました」
「気にすることはない。我らは汝が生きようとするのを手助けしただけ。今、生きておるのは汝自身とジンの御力よ」
「それでも、負傷への対処と寝床を貸していただいたことには変わりありません」
「固いお人だ。そうまで言うなら礼は受け取っておこう。だから、顔を上げておくれ。ニッキィが困っておる」
言葉に従って頭を上げると、老人は笑みのままだが、その隣の少女がどうすればいいのか分からずに、忙しなく二人の顔を交互に見ている。
ニッキィというのは少女の名前なのだろう。
「自分はどのくらい気を失っていましたか?」
「一晩といったところであろう。この子が川に水汲みに行った時に見つけたのだ」
「そうでしたか。ニッキィ、でいいのか? ありがとう。君のお陰で自分は助かった」
「うん!! クルスも元気になってよかったね!!」
先の困った顔から一転、少女は無邪気な笑みを騎士に向けた。
クルスにとって、少女は掛け値なしに命の恩人だろう。
シオンの回復があったとはいえ、鎧を着込んでいたクルスが川底に沈まなかったのは奇跡以外の何物でもない。
ニッキィが見つけていなければ、流されるまま遠からずその命は泡沫の如く消えていただろう。
「ふむ、食欲はあるかな、お若いの」
「あ……はい」
言われて初めてクルスは空腹を自覚した。
考えてみれば、丸一日何も食べていないのだ。
「では、服を貸そう。それから朝食としよう。ニッキィ、服を出しておくれ」
「はいっ!!」
◇
(やはり、ここは……)
織物の服を着て、小屋を出たクルスははじめてみる景色に静かに息を呑んだ。
背の低い小屋が点々と連なる村は、遠くに大山脈が見える山間にひっそりと作られた隠れ里、そんな印象を受ける。
そして、行き交う人々は皆、老人やニッキィと同じ赤茶の肌と細く豊かな黒髪を湛え、背はクルスの肩か胸くらいまでしかなく、しかし、それに反して服の上からでも分かるほどに筋肉が発達している。
「“ドワーフ”の里は初めてかな、お若いの?」
「あ、はい」
老人の問いにクルスは素直に頷いた。
『鉄人』は赤神ザーレストの同胞を祖とする種族であり、あらゆる人種の中で最も石工、金属加工に優れた人種である。
また、背は低いが膂力に優れ、魔力への感応力は低いが、代わりに刻印術式や魔導兵器のような物質に術式を付与する技能を持つ。
人里よりも鉱山や洞窟を好み、種族としての人数が少ない為に大量生産や大規模建築では人間に劣るが、逆に一点物の品を作らせれば並ぶ者はいないと言われている。
そして、ドワーフの分布は良質な金属が採れる赤国に集中しており、クルスも旅のドワーフに会ったことはあっても、こうして里に足を踏みいれたのは生まれてはじめてだった。
「実際はドワーフだけという訳ではないのだが、こんな辺鄙な所まで来る物好きはそうおらんからのう」
「それは……たしかに」
クルスとしても、カイに誘われなければ大山脈の中腹にあるこの里を訪れる機会などなかっただろう。
「積もる話はあるであろうが、まずは腹ごしらえとしよう」
「すみません。お世話になります」
「気にせんでよい。客人をもてなすのは年寄りの数少ない楽しみでな」
老人の先導でクルスは周囲と比べても比較的大きな造りの食堂へと足を踏み入れた。
中では数人のドワーフが食事をしており、彼らの座るテーブルの間を縫って給仕をしていた女性がこちらを気付いて一礼した。
「今、いいかの?」
「お話は聞いております。どうぞお寛ぎください、長老」
気さくに話しかける老人に、女性は笑みを返し、奥のテーブルへと案内した。
「先程、長老と呼ばれていましたが?」
席につきながら、クルスはふと疑問に思ったことを尋ねた。
「ジジサマは里で一番えらいんだよ!!」
ちゃっかりクルスの隣に座ったニッキィが笑顔で問いに応える。
「無駄に長生きしておるだけよ。畏まらんでいい」
「……はい」
しばらくして運ばれて来た食事は簡素ながら、山菜をふんだんに使った味わい深いものだった。
食事が始まった途端に勢い良く食べ始めたニッキィも今は落ち着いて、足をぶらつかせながら長老が食べ終わるのを待っている。
「お若いのには足りなかったかの?」
「いえ、そんなことはありません。知らない味が多く、興味深いものでした」
食事を終えた長老に声を掛けられて、クルスは首を横に振った。
実際、冒険者としての生活をしていると食事の時間がしっかりと取れないことも多く、いつしか少ない量でも活動できるように体は作り変わっていた。
それはソフィアやイリスでも変わりないだろう。
それはさておき、とクルスは心中で区切りをつけて食事を終わらせた。
ここからは、今後の相談だ。
「先にこちらの事情をお話しします。この里とも無関係ではないかもしれません」
クルスは仲間と共に鍛冶士を訪ねて来たこと、橋を渡っている時にワイバーンに襲われ、谷底に落下したこと、包み隠さず話した。
一通り聞いた長老は顎ひげを撫でて、ふむと頷いた。
「何十年振りのワイバーンが出たというのは若い衆からも聞いておる。彼らは遠目に見ただけのようだがの。橋の修理もしておきたいが、亜竜を退治しなければ危険であろうな」
「この辺りで鍛冶士、それも刀を鍛えられる者というと」
「うむ。この里くらいしかなかろう」
「……カイ、という名に覚えはありますか?」
「ほう!! あの子の仲間であったか!!」
意を決して切り出したクルスに、長老は小さな黒瞳を目一杯に見開いて驚きをみせた。
やはり、とクルスは心中で確信を得た。
長老の手は節くれ立ち、村にいた若者と比べても筋肉は発達しており、肌はつるりと焼けている。長い間、鎚と鏨を手に文字通り火に焙られた結果だろう。
鍛冶士にとって、年月の長さはそのまま経験の豊富さにつながる。
何より、分野こそ違えど、目の前の相手が達人と呼ばれる領域に立つ人物であることは肌で感じられた。纏う空気に芯が通っているのを感じるのだ。
「あの子に仲間か……」
感慨深げに呟く長老にクルスは改めて提案を切り出す。
「おそらくカイ達は自分を追ってこの里に辿り着くでしょう」
「であろうな。無理に動くよりも、ここで養生して待つといい」
「ありがとうございます。お礼といってはなんですが、ワイバーンの退治はこちらで請け負います。もちろん、御迷惑でなければですが」
「折角拾った命、あたら無闇に捨てるものではないぞ」
「一人では危険でも、仲間と共に戦えば大丈夫です」
間髪いれず断言したクルスに、長老は目を細めて笑みを返した。
「信頼しておるのだな」
「はい。彼らは自分の誇りです」
「……戦士の目であるな。勝手で悪いが、鎧も修理している所だ。ゆるりと待たれよ」
「ご迷惑をおかけします。ありがとうございます」
クルスは深く頭を下げた。
すぐにカイ達と合流したいところだが、傷はまだ癒えていない。この状況でワイバーンと遭遇すれば今度こそ命はないだろう。
せめて戦える状態まで回復しなければ。
◇
(しかし、何もすることがないというのは思ったより苦痛だな)
長老たちと別れた後、クルスは広場のベンチに腰かけて道行くドワーフをなんとはなしに眺めていた。
水汲みに行く子供、畑に行く男性、織物の糸を運ぶ女性。
また、姿は見えないが、微かに金槌の音も聞こえる。鍛冶の音だろう。
決して裕福とはいえないこの里は、皆で協力することで成り立っているようだ。
その中でベンチに腰かけたまま何もしていないというのはどうにも座りが悪い。
しかし、体力回復と傷の完治が目的である以上、体を休める以外にすることがない。
一宿一飯の恩は返したいと思い、長老に手伝いを申し出たら逆に休んでおけとやんわりと断られてしまった。
だからといって腐っているのも性に合わず、何かできることを探そうかと考えたその時、ふわりとクルスの肩にあたたかい光が触れた。
「――クルス」
「起きたか、シオン」
光が弾け、現世に出現したシオンが騎士の肩にちょこんと腰かける。
クルスに合わせてか、恰好はドワーフの織物になっている。
エルフ似の少女にドワーフの衣装というチグハグな組み合わせだが、まるで異国で衣装を借りて着た子供のようで愛らしく感じられる。
そんな、妖精のいつも通りの様子にクルスは安堵の息を吐いた。
あるいは、シオンの方で気を遣ったのかもしれないが、ひとまず顔を見れたことで人心地ついた気分だった。
「無理をさせてしまったようだな、すまない」
「――クルス、生きてる。だから、いい」
「そうか。ありがとう」
そっと深緑の髪を撫でると、シオンはエメラルドの瞳を微かに細めた。
彼女独特の喜びの表現だ。それでも、受肉した当初よりも随分と人間味がある。
以前は薄かった生死観についても理解が進んでいる辺り、シオンなりに経験を糧にしているのだろう。
まるで娘の成長を喜ぶ父親のような気分だが、悪い気のしないクルスであった。
そうしてクルス達が和んでいると、いつから居たのか、ベンチの後ろからひょっこりとニッキィが現れた。
水桶を持っているのを見ると、川まで行ってきた帰りなのだろう。
「本物のジン様なの!?」
少女は黒瞳を無邪気に輝かせながらシオンを見上げている。
クルスは苦笑して、シオンをそっと自らの膝の上におろした。
「ああ。一応、になるのかな」
「――半分くらい?」
「すごい!!」
少しだけ自慢げなシオンはニッキィにぺたぺたと触られても嫌がる素振りを見せず、逆に自分と違う肌の色をした少女の頬をつつき返す。
表情こそ変わらないが、この状況を本人なりに楽しんでいるようだ。
「ジン様がいる!!」
「ホント!?」
その頃には、ニッキィの声に反応した他の子供たちも突撃してきて、二人はあっという間に囲まれてしまった。
子供たちは皆、目を輝かせてシオンを見て、触れて、声をかける。
外と隔絶されている為に、この里では五色神の信仰が原初に近い形で残っているのだろう。
「お名前はなんていうの?」
「――シオン」
ベンチが満員になった為にクルスの膝上に移動したニッキィの問いにシオンは心なしかぶっきらぼうに答えた。
特等席を半分取られて少しむくれているようだ。
「シオン、可愛い顔が台無しだぞ」
「――ん」
だが、クルスが笑みと共に告げるとシオンは一度頷き、いつもクルスがするようにニッキィの頭を撫でた。
優しく触れる白い手の感触にニッキィはえへへと相好を崩した。
そのうち、他の子も遠慮がなくなってきて、結局、二人は一刻ほどその場を動けず、子供たちのなすがままになった。
◇
日が沈み、里のあちこちに松明が灯された頃。
子供たちの猛攻から解放されたクルスは相変わらずベンチに腰かけたまま、一番星の輝き始めた空をひとり眺めていた。
シオンも疲れたのか、今は騎士の内に帰っている。
「そう険しい顔をしていては傷に響くぞ、お若いの」
「長老」
仕事明けなのだろうか、首にかけた布で汗を拭った長老がクルスの隣のどっしりと腰掛けた。
「この里の子たちは元気ですね」
「面倒を見て貰ったようですまない。あの子らは刺激に飢えているからのう」
「いえ。シオン……自分と共にあるジンも喜んでいました」
「そうであるなら幸いだ」
「……」
ふと会話が途切れ、二人して空を見上げる。
言葉はなく、松明にくべられた薪の割れる乾いた音と、遠く聞こえる金槌の音だけが辺りに響く。
「失礼を承知で御訊きしたい。村を外へ開けばもっと豊かな暮らしができるのではないですか? あなた方には鍛冶の腕がある」
視線を長老へと戻し、心に浮かんだ問いをクルスは口にした。
瞼の裏には昼に見た子供たちの笑顔が浮かんでいた。
「ふむ、お若いの。豊かさとは何を以って言う?」
「それは……例えば食事だ。もっと色々な物が食べられる」
「我らは飢えておらんし、日々の食事に満足しているよ」
「で、では、他国の品や、服飾、発見、様々なものが……」
言っている間に自分でも分からなくなった。
慎ましく、しかし静かに暮らす彼らの生活はここで完結している。ある意味で満たされているのだ。
そこに何を足しても不純物に過ぎない、というのはクルスの考え過ぎだろうか。だが、あながち外れているようにも思えなかった。
「汝は旅人であるな。汝の目には我らはひどく不器用に生きているように見えるだろう」
「いえ、そういう訳では……」
「ホッホッホ。少しこの老いぼれに付き合って貰えるかな」
迷うクルスに、歳に似合わない茶目っ気のある笑みで老人は告げた。
里の中を先導されて着いたのは里の一番奥、もっとも山に近い場所にある祠だった。
かすかに残る熱せられた土と金属のにおい。周囲を土の壁に覆われたそこは炉こそないものの鍛冶場のように見える。
そして、場の中心には赤々と燃える火が五本の柱によって囲まれ、祀られている。
「これは……」
火種もなく燃える火を見て、クルスが驚きを露わにする。
話に聞いたことはあった。赤国の大山脈には白神の『聖なる丘』や緑神の『神樹の森』のように聖地があると。
赤神ザーレストの聖地『真なる火』
神代の時代から絶えることのなく燃え続ける聖火である。
「で、では、あなた方は聖地を守る防人……」
「そのような大層なものではないよ」
そう言って長老は謙遜するが、クルスは言葉を続けられなかった。
赤神の聖地を見守るドワーフの一族。
それはもう数少なくなった、赤神が手ずから鍛冶の技術を教えた直弟子、眷族の中でも本流たる者達の末に他ならない。
「我らはこの火を護りながら慎ましく暮らしている。それで十分なのだ」
火はただそこにあり、静かに燃えている。
猛らず、揺らめかず、暖かく燃えている。
「触れてみるといい」
長老の言葉に応じて、クルスはそっと手を差し出した。
素手で火に触れているのに火傷する様子はない。暖かな温度だけが手に残る。
「この火は誰も傷つけない。鍛冶の時に金属に我らの思いを伝えてくれるだけだ」
「……思いを、伝える熱」
「そうだ。我らはそれで十分なのだ」
クルスはぎゅっと掌を握り込んだ。
腕を伝わり、胸の奥に励ますような熱が流れ込んで来るのが分かる。
そうして、火から伝わった温度は騎士の心の深い場所に長く残り続けた。




