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刃金の翼  作者: 山彦八里
二章:ギルド
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14話:愛の証明

 そこは赤国の辺境にひっそりと存在する寂れた山村だった。

 鉱山町として栄えたのも今は昔、地底湖の湧出によって山はかろうじて自然を取り戻したが、同時に魔物も出現するようになったため、多くの村人が出ていった。

 それから五十年が経ち、村は名前も失って久しく、村落として最低限のところまで落ち込んでいた。

 しかし、それは世の常である。辺境で、何もない村を再生させる手立てはない。

 故に、砂地に書かれた絵のように、歴史に残ることなく色あせ、消えていく――その筈だった。



「ふざけんじゃねえ!!」


 夜間、野太い声と共に振るわれた遠慮のない拳が少年を殴り飛ばした。

 痩せこけた六、七歳と思しき少年の体が大人の拳に耐えられる筈もなく、枝葉の如く軽々と吹き飛ばされ、小屋の壁に勢いよくぶつかった。

 コフ、と少年の息が詰まる。手足から力が抜けていき、壁を背にしたまま意識が薄れていく。


 だが、完全に気絶する前に、野太い男の手が胸ぐらを掴んで少年を持ち上げた。

 首が締まり、息苦しさから少年の意識が強制的に覚醒する。


 子供を吊り下げた腕を引き、男が赤らんだ顔をぐっと近付ける。

 浮かべた表情こそ対照的だが、二人は親子らしく、どこか似た顔立ちをしていた。


「今日の稼ぎがこれだけだあ? お前、いくらかネコババしただろう!!」

「して、ない……今日のはこれ、だけだって……」


 吐き出される息に混じる酒精が臭いのか、少年は微かに顔を顰めながら答える。


「嘘つけ!! 昨日よりも銅貨二枚も少ねえじゃねえか!!」


 男が指さした先、テーブルの上には散乱した酒瓶の間に銅貨が数枚転がっていた。

 少年が山で採取した山菜を村の商店で買い取って貰った代価だ。

 実の所、これでも店主が少年の境遇を不憫に思っていくらか色をつけた金額なのだ。

 無論、男がそれを知る由はない。


「このあたりは、も、もうとれないって……」

「だったらもっと山奥まで入ればいいだろうが!!」


 男が怒鳴り散らす。

 まともな神経をした者が聞けば、男の正気を疑ったことだろう。


 山間にあるこの村は確かに山菜と木材の調達で生計を立てているが、山奥まで行く者はいない。

 開拓されていない山は広く、暗く、鬱蒼として迷いやすく、おまけに水源の地底湖には魔物が住んでいる。

 それこそ野伏(レンジャー)の契約をした者以外が山に入れば帰途に着くことすら覚束ないだろう。

 たかが山菜を採る為に山に分け入るなど、どう考えても採算が合わない。


 だが、かつての男ならそれが可能だった。負傷して退役する前は男も一端の国軍の兵士だったのだ。

 男にとって、自分の代わりである息子が、“かつて”の自分と同じことができないなど、許せることではなかった。


 逃避、代償、そして、自由に動ける息子への嫉妬。それらの感情に従い、男は少年を戸外へ投げ捨てた。

 華奢な体は数メートルを飛び、そのまま土の地面を転がった。

 土埃に塗れ、伏せた少年が立つ気配はない。


「銅貨十枚稼いで来るまで帰って来るな」


 父の声に反応して少年がのろのろと顔を上げる。

 苛立ちと共に言い放つ男の奥、調理場で生気のない目をした母親と目が合った。

 だが、すぐに母親は目を逸らし、男の視界に入らないようそそくさと家事をする振りを始めだした。


 そうして、その光景を最後に、バタンと内外を分かつ扉は閉められた。




「山に、いかないと……」


 五分ほどして何とか動けるようになった少年が立ち上がり、覚束ない足取りで山へと向かう。

 丸一日何も食べていない体は空腹を訴えて久しく、疲労の為か視界は夜の闇とは別の暗さに包まれてよく見えない。


 それでも少年は歩みを止めない。驚嘆すべき意志力だろう。

 痩せこけた体を支えているのは家族への想いだった。

 自分がいない時に父の暴力を受けるのは母なのだ。それに、父も振るいたくて暴力を振るっている訳ではないと少年は今でも信じていた。


「さむい、なあ……」


 春を待つ時期とはいえ、夜はまだ冷える。

 ボロ布のような平服しか着ていない少年は歯の根が合わず、身を震わせるばかり。

 そんな少年の矮躯の中で頬の殴られた痕だけがジクジクと熱を持つ。


「もっと力があれば……」


 力があれば、山の奥まで入れる。

 力があれば、父に殴られずに済む。

 どちらの意味で言ったのかは少年自身にも分からなかった。


「力が、あれば……」



「――力が欲しいのかい?」



 ふと、声が聞こえた。

 揶揄するような、蔑むような、嘲うような、そんな悪意しか感じられない声が闇の中から聞こえてきた。


「……え?」


 少年がのろのろと振り向く。

 そこには、いつの間にか、漆黒のローブを着て、目深にフードを被った人影が闇と同化するかのように立っていた。


「力をあげよう。代わりに、君の一番大切なモノが無くなるが」


 声からして男だろうか。低く少し嗄れた声がローブの奥から響く。

 声といい、姿といい、少年には男がおとぎ話に出てくる悪魔に見えた。


 その想像はある意味正しい。

 男の心は純然たる悪意のみで構成されている。

 それ故に、嘘や誤魔化しはなく、契約は正しく履行される。


「さて、どうする? 決めるのは君だ」


 忽然と現れた男の言葉に、しかし、少年は心惹かれていた。

 相手が誰かはこの際関係ない。今の状況を変えられるのなら悪魔にでも縋りたいのだ。


「力を、くれるの?」


 少年の心を満たすのは焦燥だ。


 昔はこんなんじゃなかった。

 怪我をして兵士をやめる前の父は大らかで、母はいつもニコニコして優しかった。

 強い父と、優しい母。今でもその本質は変わっていないことを少年は知っている。

 だから、今がおかしいのだ。何かが間違っているのだ。


 故に、問うてしまった。求めてしまった。


「つよく、なれるの?」

「なれるとも。強くはなれる。代わりに何が失われるかは私の関与する所ではないが」

「……」


 日頃から父の顔色を窺って生きてきた少年は、男の言葉に嘘がないことが分かった。

 とはいえ、男は何が失われるかは分からないと言う。



 そのとき、少年の心の中に浮かんだのはいつかの団らんの風景だった。

 家族三人で暖かい食卓を囲んだ大切な記憶。

 父親も珍しく暴力を振るわず、母親も笑顔を浮かべていた。


(そうだ。あれは僕の七歳の誕生日だった)


 たった数ヶ月前の記憶が、随分と昔のことのように感じられる。

 それでも、目が、耳が、舌が、確かに覚えていた。

 きっかけがあれば、父親も母親も変われるのだ。

 ならば、何よりもまず自分が変わらなければならない。少年は決意した。


「……」


 沈黙していた男は、少年の空気が変わったのを見て取って、口を開いた。


「決めたようだね」

「うん」

「後戻りはできないよ?」

「それでも……それでも、かわらなきゃ、ダメだから――」


 少年は、ローブに包まれて見えない男の目に、しかし、しっかりと視線を合わせた。


「――力が、ほしい」


 そして、力強く頷いた。

 あるいは、取り巻く状況こそ違えば、少年は英雄になれたかもしれない。

 その魂にはそれだけの熱量があった。


「――承った」


 フードの奥の闇がいびつに歪む。

 あるいはそれは笑み、なのかもしれない。


 男が袖の中から黒い魔力結晶を取り出した。

 少年も旅の冒険者が持っていた魔力結晶を見たことがあるが、魔力結晶は赤かった。稀に濃紺のが混じっていたことはあったが、黒色というのは初めて見た。


「それ、何?」

「魔力結晶だ。まあ、多少、私の手が加えられているが」

「……」


 ドス黒く、斑に混ざった黒色は見ていると何故か不安になる。


「えっと……」

「楽にしたまえ。君は特に何もしなくていい」


 男の手にはいつの間にか杖が握られていた。

 二匹の蛇が互いの尾を食む意匠の付いた禍々しくも見事な杖だ。

 少年が今まで見たことのある、辺境に来るような冒険者の持つ武器とは一線を画しているのが一目でわかる。


「では、契約を履行しよう」


 男の体から膨大な魔力が噴出する。

 急に気温が下がったように感じて、少年は己の体を抱きしめた。



「――生まれよ、狂わしの赤き瞳、我は対価にこの者の最も大切とする者を捧げる」



 少年は無論、知らないことだが、それは魔法でも術式でもなく『呪術』だった。


 そして、朗々と呪詛を詠いあげた男の手から独りでに黒い魔力結晶が浮かび上がり、少年の胸の中に――正確にはその心臓へと――吸い込まれていった。


「ふむ、成功かな?」


 恙無く儀式は終わり、周囲に夜の静寂が戻って来た中で、男が自らの為したことをそう評した。

 少年は首を傾げて自分の体を確かめる。


「これで、おわり?」


 特に何が変わったとは思え――


 少年が言い終わる前に、ドクン、と心臓が高鳴り、その続きを封じた。


「あ、あが……」


 突如として、狂おしいほどの熱が全身を駆け巡る。

 次の瞬間、少年の体が急速に膨張し、ギチギチと全身の筋肉が蠢く。

 額の辺りでミチリと肉が割ける感触がして、何かが突き出る。

 そうして、今まで感じたことのない程の魔力がその体から発せられる。


「……」


 一瞬の内に成長と再構成を終えた少年だったモノが、赤々とした瞳で、先程とは逆に男を見下ろす。


 さらに視線を下げる。

 視界に映った己が体は、父のそれよりも遥かに逞しい巨体だった。


 試しに手近にあった大岩を殴る。

 大して力を加えることなく、大岩は三割程度の力で粉々に砕け散った。

 一瞬前の自分では考えられない光景にソレは目を丸くした。


「スゴイ……」

「……正気は保てているようだね」


 男――呪術士の呟きは高揚しているソレには聞こえなかった。


「これで契約は成立だ」

「ソウイエバ、僕ノ大切ナ物ッテ?」

「さあ? それは私にも分からない。君の心次第だ。――それでは、私はこれで」


 男は現れた時と同じように唐突に闇の中へと消えていった。



「……帰ラナキャ」


 少年だったモノはひとまず家に帰ることにした。

 この力があれば山に入るのも訳無いだろう。

 今までより、ずっと楽な暮らしが出来る。


 もう父親が暴力を振るう必要はない。母親がぶたれることはない。

 父も母も昔に戻れるのだ。


 家の前までは文字通りひとっ跳びだった。

 どすん、と地面を凹ませて着地する。


 そうして、昂揚する心のままに家の戸を開ける。

 勢い良く開けたせいで戸が砕けてしまったが些細な問題だ。直すのに必要なお金などすぐに――


「父サン、母サン……?」


 戸を開けた先、家の中では両親がうつ伏せに倒れていた。


 寝ているのかと思い、少々窮屈に感じる家の中を横断し、そっと両親を抱き起こした。


「……エ?」


 両親の目に光はなかった。

 そして、その胸にはぽっかりと穴が、致命的な空隙が生まれていた。


 故に、気付いてしまった。見えてしまった。

 彼らから、そこにあるべき心臓(モノ)が抜かれている。


「僕ノ一番大切ナ物……」


 それは愛の証明。


 どれだけ悲惨な扱いを受けても少年にとって彼らは家族だったのだ。

 たった一つ、少年の中に残っていた暖かな記憶がそれを証明した。

 そして、呪いは、少年の心に従い、確かに契約を履行した。


「――ア、アアアアアアアアアアアッ!!」


 悲鳴が喉を衝き、割れんばかりの慟哭が村中に響き渡った。


 少年だったモノの心の中で何かが壊れた。


 如何なる神の言祝ぎか。

 こうして、幼い少年の願いは最悪の形で叶えられた。



 その日、一夜にして村は滅びた。



 ◇



 赤国の中心である帝都ジグムントでは、春が近付いたことで地方から出稼ぎに来ていた者が帰郷を始めている。

 代わりに、各地で魔物の討伐依頼を受けに来た冒険者が徐々に増えてきている。

 そうして顔ぶれは変われど、帝都を覆う大城壁に変わりはなく、人々は総じていつもと同じ日々を送っていた。


「大分暖かくなってきたわねー」

「そうだな」


 住宅街の中にひっそりと建つ酒場ビフレスト。

 落ち着いた店内の雰囲気に合わせて、カイとイリスはのんびりと食後の紅茶を味わっていた。


「……ふふん」

「どうした?」


 じっと此方を見ているイリスの様子にカイが首を傾げる。

 何もないのに笑いだした従者は少々、いや、かなり挙動不審だが、気にしないで、と楽しげな笑みで告げられてしまい、それ以上問うことを封じられた。

 ややあって、考えても無駄だろうと思索を打ち切り、カイはカップを傾けることに集中する。


 従者の笑みが深くなる。それもそのはずだ。

 数か月前は紅茶という単語の意味すら分かっているのか怪しかったカイが、今ではこうして食後のティータイムに付き合うまでに成長したのだ。

 ここに至るまでの従者の苦労が偲ばれる。


 とはいえ、何も知らないカイに色々と教えることを従者は明らかに楽しんでいたが。


 加えて、自分がいない間にソフィアとカイの仲も多少は進展したことも理由の一つだ。

 ソフィアが倒れたと聞いた時はこちらも卒倒しかけたが、最近の主たる少女の楽しげな様子を見れば、それだけで従者は満足だった。

 勿論、主の体調管理を担う従者として多少の小言は言わせて貰ったが。



「それで、この後はどうする?」


 ソーサーにカップを置いた侍の問いに、従者は我に返った。

 手に持つ紅茶は既に冷めかけている。


「そ、そうね。クルスとソフィア次第かしら。ただ、依頼の報告に連盟本部に行ったクルスはともかく、ソフィアの今日中に合流する(・ ・ ・ ・)っていうのはよくわかんないな」

「何故だ? 合流するのだろう?」

「ソフィアは今、学園にいるのよ。帝都行きの馬車は今日はもうないし、どうするつもりなんだろう……」


 ひとりで大丈夫かな、と心配するイリスの姿はやや過保護にみえるが、それも仕方のないことだろう。

 ソフィアは位階の上昇に合わせて成長した感応力と読心能力が制御できる範囲を超えかけている。

 今では人ごみの中では意識的に“塞いで”いないと、あっという間に倒れてしまう程だ。


「心配している割には好きにさせているな」

「まあね。いつまでもべったりって訳にもいかないでしょう。これから先、流石に閨まで一緒に居る訳にもいかないし」

「確かにソフィアは寝相が悪いが、何か問題があるのか? 寮は同室ではないか」

「お願いだから、そこで疑問を持たないで。ていうか、本当に進展したの?」

「……さてな」

「ふーん?」


 予想以上の手ごたえを感じた従者は口元に小さく笑みを浮かべたが、それ以上の追及はせず、カップを傾けて赤い唇を湿らせる。


「……」

「……」


 語るべきことは尽き、二人の間で会話が途切れる。

 静かな店内は、しかし、無音という訳ではない。

 外の石畳を馬の蹄が叩き、客同士が煩くない程度の音量で雑談し、マスターが調理して立てる音が微かに耳の底に触れている。

 それらの音は不思議と調和し、客に不快な思いを感じさせない。


「やっぱりこの店来ると落ち着くわ」


 だから、イリスがそう言った時、カイは特に意識せずに同意していた。


「カイもそうなんだ。まあ、私は名前に縁があるなって思ったからなんだけど」

「縁?」

「ここの店名の『ビフレスト』は古いことばで“虹の橋”って意味なの」

「ふむ……」

「それで、その、イリスって名前も古い時代の“虹の女神”さまに肖ったものだから、ね」


 古の“知恵の女神”から名付けられたソフィアとお揃いにした、とは恥ずかしくて言えないイリスであった。

 一方、カイはそんな従者の様子にとんと気付かず、頷きと共にどこか納得した表情を浮かべていた。


(だからソフィアはギルドの名前を――)

「ん、どうしたの?」

「……いいや。何でもない」

「そう? まあいっか」


 感慨深げに呟くカイは微かに笑って首を振った。

 仲間の為にしか笑みを見せないというカイの生態にイリスは気付いていた。

 だが、深くは問わず、偶にしか見られない男の笑みを黙って記憶に納めていた。



「そういえば、前にユキカゼが言ってたけど、カイ・イズルハって東方風の名前なんだよね?」


 二級ギルド『アイゼンブルート』から依頼を受けた時のことを思い出たのか、唐突にイリスが尋ねた。


「ああ。師にはユズルハという植物からとった名が、時の経過でイズルハに変化したのではないかと言われた」

「ユズルハ? 知らない植物ね。今度調べてみるわ。もし見つけたらギルドハウスの庭に植えていい?」

「……好きにしろ」


 ふいと顔を背けた侍に従者は笑みを返す。

 表情こそ変わっていないが、嫌がっていないのは雰囲気で分かった。


 だが、次の瞬間、耳に入って来た話に侍の表情が変わる。戦士の顔だ。

 従者もまた笑みを消して耳を澄ます。


「聞いたか、西の村の話?」

「ああ。一夜にして住人がみんな消えちまったってやつだろ。最近こういうの多いよな」

「しかも、出たらしいぜ」

「何がだよ?」

「アレだよ、アレ――」



「……ねえ、カイ。私、嫌な予感がするんだけど。具体的にはベガ支部長の無茶ぶりの予感」

「奇遇だな。俺もだ」


 その時、控えめなベルの音とともに酒場の扉が開いた。


 視線を向ければ、入店した青年、クルスは迷うことなく二人の座るテーブルへと近付いて来ている。

 その表情は緊の一文字で表せる険しいものになっている。


「マスター、勘定ここに置いておくね」

「馳走になった」


 カイとイリスが立ち上がる。

 聞かずとも分かる――仕事の時間だ。



 ◇



「詳細はソフィアが合流してから話すが、今回は連盟直々の調査及び討伐依頼だ」


 ギルドハウスに戻る傍ら、歩きながら簡単に依頼を説明するクルスに、侍と従者は揃って頷きを返す。


「又聞きなんだけど、もしかして西の村がどうこうって話?」

「そうだ。予想以上に話題になっているようだな。いや、当然か」

「当然? 村がひとつ消えたとしか聞いていないが」


 珍しいとまでは言わないが、辺境の村が魔物に襲われて消えるなどよく有る話だ。

 最近は魔物の活動も活発化しており、殊更に取り沙汰される内容とは思えない。


「それも無論、調査の必要なことだが、今回、最も危険な点はそこではない」

「危険? ちょっと待って。調査なのに“二級”依頼なの?」

「そうだ。今回、アルカンシェルが受けた依頼は――」


 そこで一旦区切り、騎士は改めて腹に力を入れて続ける。



「――赤国辺境に出現したと思われる“統率個体”の調査及び討伐だ」




 『統率個体』とは魔物の一種でありながら、魔物を狂乱させ、統率、進撃させる能力を持つとされている。

 そして、防衛戦争の原因でもある。

 あらゆる魔物が一同に会し、まるで暗黒地帯から溢れんと一心に攻め立てる原因は他に見つかっていない。


 また、統率個体という種類の魔物がいる訳ではなく、何かしらの原因で突然変異した魔物が統率個体になるのだろうと考えられている。

 実際、過去に撃破された統率個体は皆、種族の異なる魔物だった。強さもピンからキリまで満遍なく記録されている。

 共通点は赤い瞳であること、他の魔物を率いていること、その二点だけである。


「俺達も参加した昨年の防衛戦争における統率個体はオーガの上位種だったらしい。強さで言えば魔獣級に届かない程度だな。角獣(ソルピード)巨人(ヘカトンケイル)とは比べるべくもない」

「……けど、今回のもオーガだったら積極的に村を襲う可能性はあるわね」

「連盟もそう考えているのだろう」


 オーガは魔物の中でも非常に好戦的な種族だ。

 他の魔物のように決まったテリトリーを持たず、自らの破壊衝動を満たすために流離い、戦い続ける。

 また、これは鬼人種に多く見られる特徴だが、彼らは存外に知能が高い。

 それが他の魔物を率いているならば、一晩で村一つ滅ぼすのも不可能ではないだろう。


「……クルス、本当に統率個体は発見されたのか?」


 そこにカイが疑問を呈する。

 近衛騎士時代からの記憶を掘り返しても、暗黒地帯以外で統率個体が発見されたというのは初めて聞いた話だ。

 果たして、クルスは首を横に振った。


「いや、実際に見た者はいない。だが、軍隊のように統率された魔物の集団がいたらしい。数が多すぎて自分たちの手に負えないと撤退したギルドからの情報だ」

「そのギルドは賢明だったわね」

「――となると、統率個体がいると読んだのはベガか」


 “盤上の魔王”と渾名される赤国支部長の頭脳がその可能性を肯定したのだ。

 相手は統率個体かそれに類する存在だと想定しておいた方がいいだろう。


「ん、ちょっと待って。相手は統率個体なら対軍戦闘になるんじゃない? 私たち四人……シオン入れて五人じゃキツくない?」

「ああ、それは無論――」


 台詞の途中で突然、クルスが顔を上げた。

 次いで、イリスも見知った魔力の波動を感じ、つられてカイも視線を宙に向ける。


 そして、三人の視線の先、地上から約四メートル程の何もない空中に突如としてソフィアが――“現れた”。


「あ」


 その声を発したのが誰だったかは定かでない。

 次の瞬間、転移を完了したソフィアは、本人が状況を把握する前に重力に従って落下を始めた。


「ソフィア!!」

「ちょっ!!」


 騎士と従者が悲鳴を上げて手を伸ばす中、少女の体は一瞬で四メートルを落下し――ぽすんと気の抜けた音を立ててカイの腕に抱き留められた。




 静寂が辺りを支配した。

 主従の二人も手を伸ばした体勢のまま固まっている。


「……何をした、ソフィア?」


 そんな中、責めるでも、驚くでもなく、純粋な疑問を浮かべて侍は少女に問いかける。

 不本意ながら侍は転移術式で大陸中に飛ばされた経験があり、理論はともかくその効果については一家言ある身だ。


「えっと……」


 ソフィアが目をつと逸らす。

 だが、現在、少女は横抱きの体勢で侍の腕の中にいる。逃げ場はない。

 そうして、至近距離から発せられる圧力に負けて少女は恐る恐る視線を合わせる。


 転移は時間や空間の概念が曖昧な元素の世界を経由することで、離れた場所へと瞬時に移動することができる術式だ。

 しかし、術者が実際に行ったことのある場所にしか転移出来ず、転移可能距離は術者の精神力に依存し、距離に応じて魔力の消費も比例的に増えていく。

 これらの特徴から分類上は術式、つまり必要な魔力量と正しい形式さえ準備できれば誰でも使える技術とされているが、肝心要の『元素の世界』への出入り口の設定に感応力が必要なので、実質的には魔法に等しいとされている。


「今の術式、出口の魔法陣が設定されていなかったな?」


 魔力自体は感じられずとも、実際に起きた現象は肉眼で観測できる。

 カイはソフィアの転移方法から、少女が入り口だけ作って転移し、元素のある高次元世界で入口を破棄した後に、此方の座標を軸に出て来たのだろうと判断した。


 成程、この方法なら出入り口を同時に維持しなくていいので術者にかかる負担は小さくなり、転移可能距離は大幅に延びるだろう。

 代わりに、元素の世界から帰ってこられなくなる危険性があるが。


「えっと、カイ……勝手に座標軸に設定したこと、怒ってますか?」

「……」

「そ、それともいきなり頭上から落ちて来たのがマズかったでしょうか? すみません。魔法陣なしだと高さの調整が難しくて……少し高めに設定していないと地面にめり込んでしまう可能性もあったので……」

「……」


 抱き上げられたまま、あたふたと弁解するソフィアを無視し、カイは歩みを再開した。

 ようやく硬直の解けたクルスとイリスも後に続くが、侍が体から発している怒気に思わず口を噤んだ。


「カイ、あの、何がいけなかったのでしょうか?」


 思えば、カイがここまで怒ったのを見たのは少女も初めてだ。

 心を読んでも、怒りの感情が大きくてその理由までは分からない。

 何より、そうやって理由を盗み聞きするのは違う気がして、それ以上は読もうと思えなかった。


 カツカツと侍が石畳を踏む音だけがやけに響く。



「……今すぐ」


 そうして、もう少しでギルドハウスに着くという段になって漸くカイが口を開いた。


「今すぐ、さっきのやり方で俺を学園に転移させろと言ったら、ソフィア、お前はどうする?」

「危険です。まだ手順が安定して……」


 即座に否定しようとしたソフィアの言葉が尻すぼみになっていく。

 代わりにその表情が青ざめていく。少女にも侍が何に怒っているのか理解できたのだ。


「その不安定な術式で転移して来たのはどこのどいつだ?」

「あう……」

「……分かったのならいい」


 カイは落ち込むソフィアをそっと地面に下ろし、武骨な手でその頭を不器用に撫でた。


「完成したら改めて転移を頼む。俺からは以上だ」

「あ、はい!!」


 少女は大輪の笑みを浮かべて侍を見上げた。

 対する侍も微かに口の端を曲げる。


 そして、少女の両肩が兄と従者にがしりと掴まれた。


 笑顔のままソフィアは固まった。

 二人から伝わって来る怒りの感情はカイに勝るとも劣らない大きさだった。


「次は俺からの説教だ」

「その次は私ね」

「…………ごめんなさい」

「謝罪は後で聞こう。悪いがカイは言伝を頼む。今回、俺達が共同するのは――」


 ソフィアの襟首を引きずって連行しつつ、クルスは敬意を以てその名を告げる。


「――『アイゼンブルート』だ」


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