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刃金の翼  作者: 山彦八里
二章:ギルド
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4.5話:オリオンの射手


 ―― 五年前


 十二使徒の一人であり、先日、十八歳になったばかりの“第九位”にとって、その日は最悪の日だった。

 複数いる師の中でも最も性格の悪さに定評のある男の指導を受ける日というだけで決死の覚悟が要るのに――



「……ここは、どこだ?」



 屋敷に居た筈が、気付けば平野にひとりぽつんと立たされている。

 おそらく扉を開けた瞬間に転移術式で飛ばされたのだろう。傍迷惑な話である。

 気を取り直して、くん、と鼻をならす。かすかに血のにおいがする。気温からして緑国と白国の国境か。


『――聞こえるか馬鹿弟子』


 その時、風声による通信が侍の耳に入った。

 鼓膜を震わせるのは、底知れない怖気の走る冷たい声だ。


 声の主は十二使徒の第一位、ネロ・S・ブルーブラッド。


 ウィザードにしてロード。いくら白国が他国と比して国土の広い国ではないとはいえ、転移術式に加えて風声を中央から国境付近まで飛ばす錬度にはその凄まじい実力の一端が表れている。


「ネロ、任務か? それとも訓練か?」

『今日は任務だ』

「送る前に内容を言え」

『貴様の場合は見た方が早いであろう。そこから西へ七百メートルの位置だ』

「……」


 侍は太陽の位置から方角を計算し、気配を消しつつ移動を開始した。


 対象と思しき存在を四十秒で捕捉した。

 視線の先には小隊規模の兵士の一団が進軍している。白国の兵士ではない。彼らの装備している濃緑色の軍服は緑国の物だ。

 加えて、顔色は蝋の如く青白く、およそ生気を感じられない。どうみても既に(・ ・)真っ当な存在ではない。


「緑国の軍服着た奴らが緑国に向けて進軍している」

『視認したな。では任務だ。――奴らを斬れ、一匹たりとも逃がすな』

「……」


 人間が好きで好きでしょうがないこの師は、決して他者を畜生のように呼んだりはしない。

 そこから導き出せる結論は一つ。彼らの中身は人間から外れているのだろう。あるいは、ここで土に還す方がマシなほどに。


『緑国の正規軍が来たら強制的に転移させる。それまでに片付けろ』

「……了解」


 風声を終えると、侍は外套のフードを被り、そのまま気配を殺して静かに一団の後背に付いた。相手はまだ気付いていない。

 だが、レンジャーでもいれば遠からず感知されるだろう。

 侍の気配探知、気配隠蔽はあくまで『瞑想の完成』の副次効果でしかなく、本職程の精密な効果はない。


「――狂い咲け、“菊一文字”」


 故に、取るべきは先の先。

 侍は間合いに入ると同時に腰のガーベラを抜き放った。


「ん?」


 最後尾の兵士が振り向いたのは果たして幸運だったのか、その逆だったのか。

 どちらにしても、彼が気付いた時には既に手遅れだったことだけは確かだった。


 クサナギの加護を伴う風刃が真円を描き、鮮血と共に十を超す首が飛んだ。


「て、敵襲っ、ガハッ!?」


 その次の瞬間には、体勢を立て直そうと声をあげた指揮官が一挙動で間合いを詰められ、袈裟斬りに斬り倒された。

 返す刀で副官も斬り捨てられ、この時点で小隊の指揮系統は壊滅した。


 怒号と悲鳴が平野に響き渡る。

 混乱する兵達の間を侍は当たるを幸いに切り抜いて駆ける。


 彼らにはふたつ不運があった。

 このような事態に巻き込まれたこと、そして、拉致される前から対少数戦闘の訓練が足りていなかったことだ。


 軍では集団対集団を念頭に置いている為、ファイターやナイトなどの前衛部隊とウィザードやアーチャーなどの後衛部隊は完全に分けて運用している。

 彼らもその例に漏れず、いくらかの護衛――最初に首の飛んだ十人だ――を残して前衛クラスは一団の前半分に居た。

 その為に侍の襲撃に反応するのが僅かに遅れた。


 その僅かが致命的だった。

 彼らが侍への迎撃態勢を整えたときには既に指揮官、副官二名、後衛の護衛十名、後衛部隊二十名が餌食になっていた。


「お、おい、嘘だろ……」

「ボサッとすんな!! 国境まであと少しなんだぞ!! かかれぇっ!!」


 ファイターが瞬間強化をかけて侍に殺到する。

 待ちはしない。侍もまた加速を付けて斬り合いの間合いに飛び込む。


「遅い!!」


 撃ち込まれる豪力の付与された剣撃を受け流し、返す刀で首を落とす。

 同時にその手から鉄剣を奪い取り、こちらに向けて刺突を放ってきた相手にカウンターで斬りつける。

 切れ味の悪い鉄剣はしかし、侍の頬に一撃を掠らせたファイターの腕を斬り飛ばし、即座に跳ね上げた二の太刀が頸を落とした。

 ぐしゃりと生々しい音を立てて死体が自らの血の海に倒れ込んだ。


 人間は魔物と違って死体が消滅しない。

 その為、数十人の命がぶち撒けられた平原は、風でも洗い流せないほどの噎せ返るような血肉の匂いが充満している。

 その中で、周囲に屍山血河を築きながら、侍は即席の二刀流を縦横無尽に振るい続ける。


 左右から迫る斬りつけを刀身を返して鎬で触れる。火花を散らしつつ、両手の剣それぞれで斬撃を受け流す。

 そのまま刀身にかかる力を利用して足の左右を踏み替え、くるりと反転、剣線を払い落され体勢の崩れた二人に両の剣を水平に振り抜く。

 頸が二つ、飛んだ。


「さっさと囲め!! いくぞ!!」


 背中を見せた侍に、体ごとぶつける勢いでナイトがシールドバッシュをかける。

 体重体格と勢いに劣る侍は押し負け、弾き飛ばされた。

 しかし、同時に置き土産に放たれた一刀が弾かれる勢いを利用してナイトの首を半ばまで引き斬っていた。


 互いの距離が離れ、しかし、間をおかず再び血と肉と剣撃で埋まる。

 兵達は文字通り死力を尽くした。

 無数の得物がぶつかり、血肉と命を散らしながら攻め立てる。

 兵達は常に三人以上で侍にかかり、とにかく手数と敏捷の差を埋めていった。

 火花と怒号が前後左右から侍の小柄な体を覆い尽くす。


「……む」


 彼らの努力は報われた。何度目かの首刈りで奪った鉄剣が根元から折れた。

 ガーベラと違い粗悪な鉄剣では侍の剣技に耐えきれず数合で折れてしまうのは必定。それでも五人の首と三本の同種の鉄製武器を道連れにしていた。


「――早駆(ダッシュ)!!」


 だが、隙には違いない。

 敏捷強化を掛けた兵が低い位置から伸びるように勢いのついた長槍を振るう。

 瞬間的な強化が可能なファイターは実戦では能力値以上の戦闘能力を叩きだす。


 やられると直感した侍は咄嗟に折れた鉄剣を投げつける。

 折れて不規則に尖った先端が相手の肩口に突き刺さった。痛みと衝撃によって僅かに速度が鈍るが、それでも猛進は止まらない。


 しかし、その一瞬で侍はガーベラを宙に放り、無手になって素早く気を練り上げていた。


 直後、刹那に迫る穂先を気を込めた震脚が踏み抜いた。

 地面が揺れ、衝撃でへし折れた槍が跳ね飛んだ。


 槍兵が一瞬、槍を手放すか迷った。

 その空白の間に、落下するガーベラを掴み、震脚で得た踏み込みで以って侍が一刀を振り下ろしていた。

 悲鳴すらあげる間を与えず、股下まで真一文字に切り裂いた。


「ば、化け物……」


 左右に分かたれ、諸々が零れ出る死体。

 その返り血を存分に浴びた若き侍。

 全身凶器とはこのことか。視線は身を斬るように冷たく、気配までもが心を砕く凶器と化している。


 あまりに壮絶な光景に殺到しかけた兵士たちの足が止まった。


 だが、侍の足は止まらない。逆に兵士たちの間に踏み込み、思う存分斬り捨てていく。


 一瞬たりとも刀は止まらず、その間を埋めるように血と肉が舞い飛ぶ。

 兵達の剣が槍が斧が黒ずんだ道衣を掠り、黒髪を断ち、薄皮一枚を抉る。

 しかし、斬り込まれることはない。

 心を挫かれた彼らにはその一歩が踏み出せない。


「おい、お前だけでも逃げ――」


 台詞の途中で投擲したガーベラが撤退を促していた兵のうなじに突き刺さり、後ずさる兵士の目前に刃を貫通させた。


「ッ!? い、今だ!!」

「オオオオオッ!!」


 武器を手放した侍を残り少なくなった兵が悲鳴とも付かない雄叫びをあげて襲いかかる。

 一縷の望みを賭けた特攻だった。


 だが、勝算のない特攻に希望などない。

 あっけなく武器を弾かれた彼らは、断頭台に並ぶかの如く一人ずつ頸椎を握り潰されていった。


 彼らは、侍が震脚を放った時点でモンクでもある可能性を考慮すべきであった。

 だが、その凄絶な剣技を見せられたが故に、刀を手放した隙を衝かずにはいられなかった。


 それは特攻に見えて、実際は逃避に過ぎない。

 これでケリが着くかもしれないという誘惑に勝てなかっただけだ。


 そうして、ここまでの戦闘は全て侍の、正確には第一位(ネロ)が侍に叩き込んだ戦術通りに進んだ。

 人間でないが故に人間を理解しようとする男にとって、規律と訓練によって思考のブレをなくした“兵士”という存在は格好の獲物なのだ。



 腰の抜けた最後の一人を前に、侍は死体からガーベラを引き抜き、血を払う。

 その段になって、兵士は侍が自分より十歳は若い外見をしていることに気付いた。東洋風の顔立ちは実年齢以上に若く見えただろう。

 未成熟な子供ならば情に訴えればと、甘えが兵士の脳裏をよぎった。


「み、見逃してくれ!!」

「それは俺の任務ではない」


 ようやく意味のある言葉を発した頭は、熟れた実が枝から落ちるように呆気なく地面に転がった。


 侍が残心を残しつつ刀を鞘に納める。

 人間を斬ると粘りのある感触が後を引く。あまり気分がいいものではない。

 この時の侍はそう感じた――まだそう感じるだけの感受性が残っていた。


 ともあれ、任務はこれで終わり――


「ッ!?」


 ――瞬間、死角から放たれた矢が侍に突き刺さった。



 ◇



(アタ)った――――と思ったんだけどな」


 廃棄された古砦の屋上で、風に吹かれる射手は弓を構えたまま苦笑した。

 完全な不意打ちだった。此方を全滅させて気が緩んだ瞬間を狙った。わざわざ軌道を“曲げて”死角に撃ち込んだ。

 それでも尚、侍は反応した。


 一射、二射、三射。


 合計三矢。

 それぞれの矢が死角を縫うように放ったというのに、一本目は薄皮一枚貫いた所で殴り飛ばされ、続く二本目は刀で切り払われ、防御が間に合わなかった三本目も軸を逸らして脇腹を掠るに留めた。

 中位竜種の竜鱗すら貫く威力の矢だ。一矢でも直撃していれば決着はついていただろう。


「若いのに見事な腕だ。さて、困ったな」


 彼我の距離は八百メートル。

 侍は既に走り出している。隠蔽は発動したままだというのに砦の屋上にいるこちらを正確に捉えている。

 おそらくは“心眼”。一度認識されたら隠れるだけ(・ ・)では逃れられない。一度捕捉を外さねばならない。


 射手は一瞬だけ迷った。


 次弾の生成完了まで六秒。相手の敏捷性を考慮すればまだもう一度だけチャンスがある。

 いや、それは果たしてチャンスと言えるのか。不意打ちでさえ防がれたというのに――


 緑国への義理はこれで果たした。正規軍にも連絡した。

 通りすがりの自分はこのまま聖域の守護に戻っていい筈だ。


 だが、射手の手は淀みなく準備を整えた。自分の敏捷では逃げきれないと理解しているのだ。

 そうこうしてる間に射手の立つ砦に辿り着いた侍が減速せずそのまま壁面を駆け登る。

 常識を疑う光景だが、射手は敵手がそう来ると直感していた。


 ――この瞬間だ。


 タイミングを計って、射手は躊躇なく屋上から飛び降りた。


 手には生成の完了した三本の矢。順に弓に番える。

 落下している最中、耳元で風がごうごうと唸る。

 それでも、互いを繋ぐ射線は空中で天地上下の一直線に結ばれている。

 ならば、足場のない空中であろうと鼻歌交じりに中てられる。それだけの自信と技量が射手にはあった。


 一射。

 即座に前面に構えた剣で切り払われた。弾かれた矢はあらぬ方向へ飛んで行った。


 二射。

 先程みた技量なら、既に中距離を割ったこの間合いでは切り返しは間に合わない。

 しかし、侍は腰の鞘を居合の要領で抜き打ち、二発目を弾いた。


 三射。

 距離は既に近距離に入る。両手を使った侍に防ぐ術はない。

 だが、迫る矢に向けて刀と鞘を手放した侍は気を込めた蹴りを打ち放った。


 ガキン、と鉄同士をぶつけたような撃音が響く。

 相殺するには威力が足りなかったのだろう。

 矢は辛うじて弾いたが、気の鎧を貫かれた侍の足はズタズタだ。


 しかし凌がれた。それが事実だ。


 落下する射手と駆け登る侍の間合いは遂にもつれ合うような至近距離へと入った。

 一瞬の躊躇もなく侍が貫手を放ち、射手が腰裏から引き抜いたナイフで受け止める。


 火花が散り、激突の衝撃で二人の距離が離れる。


 二人の攻防はこれで終わり、ではない。

 “三度”矢を弾かれたことで射手の心技使用条件が整ったのだ。


 射手がナイフを持った手で侍を指さす。

 古来、他者を指さすというのは呪いをかける仕草であったという。


「――舞え、心技“トライ・オリオン”」



 その伝承はここに現実となる。



 次の瞬間、弾いた筈の三矢が勢いを取り戻した。

 重力の縛鎖を振り切り、三矢は天へと飛翔する。

 そして、まるで意思があるかのように縦横無尽の軌道を描きながら再び侍に襲いかかる。


(――来たか)


 対する侍は背の剣に手を掛ける。

 足一本犠牲にしてこの剣を温存したのだ。ここで決めねば後がない。


 不意打ちを食らった時点で誰に(・ ・)狙われているか気付いていた。


 そして、自分の敏捷を以てしても射程外に逃げるまでに三度は死ぬと直感した。

 ならば相手を斬ればいい。その為に最善を尽くすと覚悟した。


 相手の心技は有名だ。三本の矢を放ち、対象が効果範囲内にいる限り追尾を続け、必ず命中させる“外さず”の心技。


(ここまでは狙い通り)


 これを使わせることが侍の第一目標だった。


 侍が心技を先出しした場合、剣線に矢を割り込まれる可能性があった。

 こちらが“必斬”であるように、相手は“必中”なのだ。如何様にも中てられるだろう。


 だが、必中の照準は既に侍本体に向いている。彼の剣を阻むものはなくなった。

 斬り捨てた後に矢に貫かれるかもしれないが、そんな先のことは知ったことではない。


 大事なのはこの瞬間、心おきなく全力を出せること。後先考えずにこの瞬間に全てを賭けられること。


 この身もまた一振りの剣。加速は十分。あとは振りきるだけだ。


「――斬刃一刀」


 意識が集束し、神速の一刀が射手を――


「…………違う」


 斬らんとする直前に、心技を強制停止させる。


 一瞬の判断。

 “こんなに容易く斬れる相手ではない”という信頼にも似た警戒が脳裏をよぎった。

 論理ではなく、直感でも心眼でもなく、もはや本能というべき部分でそれを嗅ぎつける。


(仕切り直す)


 侍が全身を捻り、その身に宿す加速の全てを片足に集中させる。

 魔力を練り上げ、瞬間的な敏捷強化の全てを一瞬、一歩に集中させる。


 次の瞬間、侍は何もない空中(・ ・)を蹴った。


 道衣が風に翻り、その身は再び飛翔する。

 三本の矢が外れ、身体の一寸外を通過するのを感じた。


 改めて気配を探る。

 視点をずらせば、すれ違い、落下している筈の射手の姿が急速にぼやけた。

 レンジャーの『空蝉(デコイ)』、それも本人と見分けがつかないほどの精巧な囮。

 おそらくは貫手を防がれた次の瞬間には入れ替わっていたのだろう。侍の心眼すら幻惑する囮の精度はもはや芸術の域に達している。


(此処にはいない――ならば)


 心身を落ち着かせて、心眼を再起動する。

 五感が視覚に連動し、気配探知が精度を増し、脳裏に蓄積された戦闘経験が解答を叩きだす。


 視線を上に向ける。


 囮のあった位置から直上五メートル。

 隠れていた射手本人が砦の壁にナイフを突き立てて停止し、片手で弓を持ち、矢を番え、口で弦を咥えて引き絞っている姿が“視えた”。


 相手はご丁寧に隠蔽(ハイド)まで掛け直している。その錬度も高く、心眼を閉じたら確実に見失うだろう。


 同時に、視界の端で三本の矢も折り返し、再び追尾を開始しているのもみえる。接触まで幾ばくもない。


「……チィ」


 小さく舌打ちする。自分に対しての苛立ちだ。

 英雄級と相対している自覚はあった。覚悟もあった。

 だが、相手は堅実にその上をいっていた。


 外さずの名に違わぬ必中自在にして必殺の威力を秘めた弓。

 直感と心眼によって対象を見定める侍さえも欺く老練の技。

 何よりも、己の魂の表れたる心技すら囮に使う(・ ・ ・ ・)その心胆。


 あの射手はこちらの相討ち狙いに気付いていたのだ。

 誘いに乗る形で心技を先出しし、その上で整然と詰めてきたのだ。

 端的に言って、戦場での経験値が違いすぎる。



 その時、侍の体が上昇をやめた。時間切れだ。

 早駆で得た加速が切れる。重力に捕まり、落下を始めた侍の剣は射手にはもう届かない。

 空中を蹴る為の加速も先ほど使ってしまった。再使用まであと十秒かかる。


 対して、あちらは心技によって舞う三本に加えて、トドメの一矢まで準備している。

 詰みだ。それは認めなければならない。


 ――だが、この程度で死ぬ存在ならば侍は既に生きていない。


 思考が勝機を求めて加熱する。この身は未だ空中。落下まで後三秒。

 それまでに、一瞬、一度だけでも足場があれば再加速できる。


 そして、足場は向こうからやって来ている――空を舞う心技の三矢だ。


 タイミングを計る。

 自動追尾する心技故に、射手もこちらの狙いが分かっていても止められない。


「――今!!」


 集中し、迫る一矢を靴裏で受け、刺さる直前に踏み台にする。

 三度、侍は跳んだ。

 反動で矢が足の甲まで貫通した。これで両足とも治療するまで使いものにならないだろう。


 背後からは残りの二矢が追って来ている。

 構わない。ここで相手を斬れるならこの命すら惜しくない。

 加速も十分。射手がついに剣の間合いに入る。




 射手もまた覚悟を決めた。

 剣を手に跳んだ黒髪の若き剣士。少年などとは呼べまい。相手は立派な戦士だ。


(命を簡単に捨てる姿はちょっと感心できないけど――)


 歯で弦を切らないよう注意しながら弓を引き絞る。


 勝負の形は簡単だ。

 避けられない距離まで待つ。その上で斬られる前に射る。

 猶予はどれだけか。刹那か六徳か。構わない。狙う一点があるならばこの身は必ず撃ち抜いてみせる。


(さあ来い、戦士よ。勝負だ)


 そうして、放たれる一矢と振り抜かれる一刀。勝敗はここに――



『――悪いが時間切れだ、外さずの』



 決せず、矢が侍の体をすり抜けた。

 標的を見失った心技の矢も力を失っていく。


 侍もまた斬らなかった。否、斬れなかった。

 いつの間にか、侍の姿が魔法陣に包まれ、消えかけている。


(遠隔転移!? どこから発動したのか分からない。どんな射程だよ。人間の精神力じゃないな)


 射手が感嘆ともつかないため息を吐く。ほぼ同時に、遠くに援軍たる緑国正規軍の気配を捉えた。


 “時間切れ”、転移術式を発動した者は確かにそう言っていた。

 本来、あの剣士はここにいてはいけない人間なのだろう。ならば、正規軍に見られてはまずい。


 徐々に薄れていく侍に表情は無い。が、決着が着かなかったことが若干不満そうにも見える。


「何、気にすることは無い。僕は生涯現役だ。戦場にいるならまた会えるさ」


 声が聞こえたかは分からない。

 だが、戦場の先輩として言っておくべきだろうと射手――ウィリアム・ボウは口を開いた。


 最後、殆ど見えなくなった侍が頷いた。そんな気がした。



 ◇



「緑国の生ける伝説はどうであったか?」


 屋敷の一室に戻って来たカイ・イズルハにネロが問うた。

 師の一人たるこの美丈夫は見た目こそ優美な貴族然としているが、腰に佩いた銀の剣が侍と同じ身分を証明している。


 両足が使い物にならないカイは絨毯の上に転がされたまま、脳裏に射手『ウィリアム・ボウ』を思い浮かべ、簡潔な答えを出した。


「怖い相手だった」

「……ほう。それが理解できたなら無駄ではなかった。元は取れたとしよう」


 その解答は師のお気に召すものだったのだろう。

 仕事を押し付けられて悪化していた機嫌が少し直ったのがわかった。


 倒れたままの侍も、今回自分を出撃させた師の意図に気付いていた。

 あの射手との交戦経験が無い使徒で、且つ生き残れるのは自分か父だけだ。

 兵の殲滅自体は使徒の誰でも可能だが、カイより下位の二人では、おそらく生き残ることはできなかっただろう。


「……貸しはどうする? 元凶は白国にいるのだろう?」

「無論、これから取り立てに行く。今度の原因を作りおったド阿呆にはきっちり反省してもらう」


 とある貴族お抱えの錬金術士が他国の兵を拉致し、呪術の実験に使った。

 ――しかも“成功してしまった”。

 再現できるかは不明だが、少なくとも表沙汰にすることはできない内容だ。


「斬るか?」

「斬ってくださいと向こうが懇願するような目に合わせる。まだ聞きたいことが残っている。あの呪術は奴らの独力では有り得ない」


 背筋の凍るような魔力が部屋を支配し、凄絶な笑みを浮かべる男の額で蒼の結晶が妖しく輝く。

 件の貴族の行く末は、語るまでもないだろう。


「……なら、俺はいらないな。ゲンハの所に行って来る」


 両足にチャクラを集中させ――さすがに傷を塞ぐまではできないものの――なんとか歩けるくらいまで回復した侍が立ち上がる。


「む、今日の師匠当番は我ぞ」

「仕事しろ、第一位」

「馬鹿弟子の監督も仕事だ。第五位の所に何をしに行く?」

「……」


 同時に迫る三本の矢。

 切り払うにはこちらも同時に三度斬れねばなるまい。


「――燕を斬りにいく」


 次に相対する時はあの心技を破った上で斬る。そう決意した。



 ◇



「そういえば、そんなこともあったね」


 学園の外れの大樹の下、ウィリアム・ボウは侍を見て過去を思い出していた。

 まだ学長に拾われる前、各国を渡り歩いていた頃の話だ。


「今から続きする? 講義まで時間ないから手早く終わらせないといけないけど」


 目の前に立つ侍は変わった。

 かつてあった血気に逸る気配はなくなり、漏れ出る剣気は鋭さを増している。

 数多の熱と、幾多の悲劇によって鍛えられたのだろう。今なら強敵だと断言できる。


「僕は構わないよ。鏑矢が放たれたのならその瞬間が殺し合いの時間だ。君が魔力を失っていても、加減なく、容赦なく、全力で相手をしよう」


 この大陸は今、おかしくなっている。魔物の異常増加に冒険者の異常成長(・ ・ ・ ・)

 戦場には事欠かないが、それは同時に好敵手の多くが使い潰される可能性を物語っている。

 昔とは違う。あるいは、この場を逃せば――共闘する機会はあっても――相対する機会はなくなるかもしれない。


「いや、遠慮しておこう」


 それは侍も承知している。だが、首が縦に振られることはなかった。


「そう? 理由が欲しいなら作ってあげてもいいよ」

「別に理由があろうとなかろうと関係ない。抜けば斬るだけだ」


 冗談めかしていうウィリアムに、カイは構えを解いていつも通りの無表情で返す。


「なら、どうしてだい?」

「……お前の講義をソフィアが受けている」


 その時、ほんの少しだけ侍が言い淀んだ。理由はおそらく本人にもわかっていない。

 だが、ウィリアムはそれに気付いた。

 老人と言っていい男の年齢にはそぐわない稚気を含んだ笑みが皺すらない若々しい口元を彩る。


「うん、たしかそうだったね。しかし、随分優しくなったじゃないか、九位、いや今は十位だっけ?」

「さてな。依頼は受ける。何をすればいい?」

「そうだね……今日は鬼ごっこの鬼役をお願いしようかな」

「了解」


 それ以上の言葉はなく、侍は射手と共に森の中へと入って行った。


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