24話:防衛・中編
「――シッ!!」
短い呼気と共にカイが刀を振り抜く。
高速の一閃が熊型の魔物の脇下から胸にかけてを切り裂く。
分厚い筋肉も硬い骨も侍の斬撃の前では紙切れ同然だ。
侍は致命の一撃から間髪いれず、倒れる魔物の背を踏み台に跳躍する。
一足で数メートルを移動し、落下の勢いを利用して次の相手の頭を叩き割り、その肩を蹴って再び飛翔する。
今、カイは魔物を足場にするという曲芸じみた方法で魔物に埋め尽くされた戦場を駆け抜けている。
侍の防御力では一撃で致死圏内に入ることを考えると、とても正気の沙汰とは思えない戦術だ。
だが、現在、前線は防御を固めた騎士と戦士による圧殺の時間だ。
乱戦では味方を巻き込む英雄級の範囲攻撃は十分に機能しない。その場合、普通は英雄級を下げるのだが、ベガは敢えて彼らを前進させた。
敵陣を正面突破する前進退却。赤国支部長の課した狂気の戦術だ。
しかし、その程度なせずして英雄級を名乗ることはできない。皆が無傷という訳ではないが、現状、英雄級に脱落者はいない。
「騎士部隊はうまく止めたな」
「そのようだ」
陣奥へとひた走るカイと並走してライカを抱えたキリエが飛んでいる。
時折、敵の固まった所にライカを投げ込んで壊滅させては回収して飛んで行くという、向こうからすれば手出しのしようが無い戦法だ。
浮遊魔法が可能なウィザードは少なくないが、飛行魔法を実戦で行使できる者は大陸全体で見ても数えるほどしかいない。
浮遊には維持するだけの多量の魔力があれば足りるが、飛行には更にその運動能力を制御する敏捷性が要求される。
魔力量と敏捷性という両極端な性能がなければ実戦で飛行魔法を使えないのだ。身体性能の低いウィザードには難しいだろう。
半年前の手合わせの時に使われていればおそらく結果は変わっていただろう。カイは心中でひとりごちた。
「範囲攻撃を乱戦になる前に放つのは基本戦術だけど、遠距離攻撃で追い込んでから使われるとは思わなかったわ」
キリエに投げ落とされ、着地と同時に爆撃の如き範囲攻撃で周囲を壊滅させたライカが言葉を漏らす。
魔物の動きをここまで読みきるなど普通はできない。人間と魔物は本質的に理解しあえる存在ではないのだ。
「技ひとつでいつもの倍は巻き込めたわ。さすがは盤上の魔王ね」
魔物を下敷きにしたライカが手を伸ばすと、降下したキリエが素早く回収する。
二人は再び地上の魔物の手が届かない位置まで上昇した。
「こちらも秘匿技術まで使ったのだ。そうでなくてはな!!」
「っていうか、いいのそれ?」
「今使わずいつ使うというのだ!!」
ライカの問いをキリエが拳を握って力説する。
飛行したまま急に片手を離されてバランスを崩した女モンクが落ちかける。
「ちょっとキリエ!!」
「すまんすまん。それはそれとして、カイだって“雷切”を使っていると聞いたぞ。私も秘匿技術使って何が悪い!!」
「悪用されるとまずいからに決まっているでしょ。カイもよ」
「……」
カイは無視して目前のオークが振り下ろす斧を避けつつ逆に頚を落とし、返す刀で横を抜けようとした狼型の足を切り裂いた。
そもそもカイが秘匿技術を習得したのは近衛騎士団在籍時だ。ギルド連盟や学園の都合は知ったことではない。
そうして無心に魔物の群れを駆け抜けている内に、彼らはついに魔物の囲いを食い破った。
前進退却という戦術が成功してしまった瞬間だ。
くるりと踵を返せば、見えるのは一心不乱に前へ進む無防備な魔物の背中。
遠距離攻撃のタイミングから始まり、英雄級の前進退却からの反転まで、一連の策が実を結ぶ。
この瞬間、ベガの悪魔的な発想は芸術的とすら言える包囲殲滅の形となった。
「抜けたか。やってできないことはなかったな!」
「私達が一番手のようね」
「仕掛けるか?」
「少し待て。先に魔法部隊の第二撃が来る。その後で仕掛ける」
◇
強化の切れた戦士部隊が引き、入れ替わるように騎士部隊が前進して突進力を失った敵前衛を押さえ込む。
魔物群も負けじと物量で騎士部隊を押し返そうとする。
結果として両者の足は完全に止まった。
それはつまり――
「……魔法部隊の出番」
どこか眠たげな目のままヴァネッサが呟く。場所はアルキノの城壁上に展開された魔法陣の上。
いつものように箒に腰かけたまま浮遊術式で移動している。
騎士部隊で動きを止めた所に複数人で詠唱した戦術級魔法を叩き込む。
定石だが、同時にここまで完璧に決められる場面を作れる将はそういない。この段まで魔法部隊を温存するという判断がそもそも異常だと言える。
だが、元来、魔法は動いている相手に当てるのは難しい。多くの魔法が対象ではなく座標を起点に発動されるからだ。
反面、範囲や威力の増加は詠唱を長くしたり、増幅用の魔法陣を併用することで比較的容易に行える。
故に、万全の準備を整えた上で、足の止まった敵手に存分に撃ち込めるこの状況はウィザードにとって最善といってもいい。
「教官、合図来ました!」
「うん。じゃあ、みんな、いくよ」
ヴァネッサが懐から取り出した杖を振り上げるのに合わせて、魔法陣上に立つウィザード達が詠唱を開始する。
「――暗雲満たす豪放なる雷霆よ」
「――砕け、砕け、砕け、三叉の切っ先にてその威を現出せしめよ」
「――怒れ、“三重詠唱”、ヴォルテックシュート・ケラウノス!!」
中位魔法を三人三重で詠唱、魔法陣によって増幅された三叉の雷槍が衝撃と共に敵陣を蹂躙する。
収束された雷光が数体の魔物を焼き焦がし、更にその余波が周囲に散って多数の魔物を麻痺させる。
「交代します。詠唱開始まであと三秒、二、一……」
三人組が全部で七組、ローテーションで断続的に極大の雷撃を落とし続ける。
「……順調そうだね」
尖った耳をピクピクと動かしながら魔法陣の調整をしていたヴァネッサは、暫く放っておいても大丈夫だと判断して意識を攻撃に切り替えた。
「ソフィア、いる?」
「はい。こちらに」
「氷の二重詠唱でいこう。おさきにどうぞ」
「はい。――いきます」
ソフィアは蓮杖の先でそっと魔法陣に触れる。
ゆっくりと意識を集中し、同時に肉体という小我を捨てる。自己を魔法を構成する一要素として観念し、より大きな奇跡を呼び起こす為に、より深く意識の糸を伸ばしていく。
「――大気に溢れる無尽の凍気よ」
「――我らは見据え、射抜くフタツボシ」
「――この視線より逃れること能わず、疾く早く氷結せよ」
「――“二重詠唱”、フリーズバイト・ジェミニ」
輪唱のような互い違いの詠唱が完成すると同時、空中に無数の氷柱が形成され、二人が杖を敵陣に向けるのに従って勢いよく飛んで行った。
風を切って城塞から飛来した氷柱は過たず魔物を貫き、先端を地面に埋め、周囲一帯に凍結の波動を迸らせた。
パキンと無慈悲な音が鳴る。
先の雷撃による麻痺で動きの鈍っていた魔物は逃げ切ることができずその身を凍りつかせた。
放たれた氷の矢は二重詠唱ながら、威力、精度ともに四重詠唱に迫るものだった。
それを為した二人の圧倒的な魔力量と精神力は二人が他の者と組めなかった理由でもある。
数で勝っている筈の魔物側は連続する雷撃に続き、至る所に出来た味方の氷像が邪魔で攻撃できなくなった。
敵集団の内側ではトロルやオーガが我慢しきれず暴れ出し、さらに被害を出している。
「……これで半分くらいかな」
「そのようですね」
「でも、ここからが大変」
「はい。がんばりましょう」
魔法部隊の投入で戦局は人類側へ大きく傾いた。
だが、残っている魔物は最初の突撃に間に合わなかった足の遅い、しかし硬い魔物たちだ。
数多の死を感知してより鋭敏になっていくソフィアの感覚は、その中でも特に気配の大きい一体の気配を捉えた。
「――ネッサ教官、地中から敵手が来ます」
「ん、了解。詠唱一旦停止、迎撃準備」
◇
「魔法部隊の攻撃範囲が見えたな。これで誤射される危険はないか」
「みたいね。私たちも行くわよ」
周囲を見渡せば、前進突破に成功した英雄級たちが各々で背中を晒した魔物を撫で斬りにしている。
狂乱し、前に進むことしか頭にない魔物が振り向く様子はない。
戦士たちは存分に大技を放って敵後衛を削っている。
「――シィィッ!!」
キリエの剣が魔物の背中に突き刺さり、切っ先で心臓を貫通破壊。遅滞なく敵を絶命させる。
無駄のない華麗な手際だが、それをなした本人は若干不満そうな顔をしている。
「……初心者のゴブリン狩りの方がまだ緊迫感があるなあ」
「馬鹿言ってないで働きなさい!!」
その隣でがなる女モンクが拳を振り抜く。細身の体から放たれる拳撃は身の丈倍はある魔物を冗談みたいに吹き飛ばしていく。
「今日は質より量の日よ。納得しなさい。私だってもっと殴りがいのある相手がいいのに我慢してるんだから」
「無抵抗な相手を刺すのは血が沸かないんだがな……」
刺殺し、殴り潰しながら言い合いを続ける二人を視界の端に捉えつつ、カイは目の前のオーガの首を切り飛ばした。
晴天に舞う生首には目もくれず、四散する直前の死体を足場に次の獲物へと飛び掛かる。
既に作業と化した一連の動作に淀みはなく、危険性すら感じられない。
――その瞬間までは。
「ッ!? 跳べ、キリエ、ライカ!!」
声に即座に反応して二人は大きく跳び退る。
キリエが素早く飛行状態に移行し、ライカを回収する。一瞬前の言い合いが嘘のような手際のよさだ。
二人はどちらも戦場でカイと対峙したことがある。遺恨がない訳ではない。
だが、実際に戦ったことがあるからこそ、その実力を信用していた。
ほぼ同時に、ちょうど二人が居た辺りの地面が盛り上がり、巨大な魔物が飛び出してきた。
暴力をそのまま形にしたような鋭い爪と硬角を持ち、全身を砂色の外殻に覆われた巨大な角獣種。全長は二十メートルほどだろうか。
「“ソルピード”か!? あんなデカいのは初めてだな」
キリエが何故か愉しそうな声をあげる。
ソルピードは準魔獣級の域に達した魔物である。
主に地中を進み、獲物を獲る時だけ地上に姿を現す。
巨体ながら足は速く、また気配の隠し方が上手い。発見数が少ないことも相まって、過去に地中から強襲を受けて幾人もの冒険者が命を落とした。
角獣はその四肢で地面をがっちりと掴むと他の魔物を轢き潰すのも顧みず猛然と走りだした。
ご多聞に漏れず、その走る速さは目を瞠るほどだ。
「速ッ!? アレまずいわね」
「これがあるから対魔物戦は気が抜けん。前線に被害が出るな」
「俺がいく」
「騎士部隊、戦士部隊に任せてもいいのでは? 私たちが追いついた時には既に乱戦になっている」
キリエはその一瞬で彼我の戦力差を見切っていた。
角獣が前線に与える損害、自分たちがそこに加わって拡大する被害を較量して、前者の方がマシだと判断したのだ。
向こうには魔法部隊もいる。被害は最小限で済む筈だ。
無論、それが分からないカイではない。だが、キリエの知らない事実をひとつカイは知っている。
「問題ない。あちらにはクルスが居る。乱戦にはならない」
あるいはベガはこうなる所まで読み切っていたのかもしれない。
◇
「カイ……?」
視界一杯に広がる魔物の群れを盾で押し返すのに注力していたクルスは、カイの声が聴こえた気がしてふと顔を上げた。
そして、敵陣奥から猛烈な勢いで迫り来る小山のごとき威容の魔物に気付いた。
「……回避も防御も無理か」
一瞬の判断。背後にいるベガを引き連れて避け切るにはどう見積もっても時間が足りない。
また、騎士の肉壁だけで止められるとも思えない。手を打たねば確実に城塞まで抜かれるだろう。
“己の信念、存分に試すといい”――出陣前にベガに言われた言葉が脳裏をよぎる。
元よりとれる手はひとつしかない。騎士は覚悟を決めた。
「――我が誓いは朽ち果てず」
正面から迫る脅威。背後には護るべき者。
この瞬間、クルスの心技使用条件が揃った。
「――この身、この盾、この一心こそ誓いの証」
心技を発動する度にクルスは誇りと恥の感情を得る。
この心技は誰かを守りたいという願いの結晶。己の望みが心からであった証。故に誇れる。
この心技は誰を守るか区別しない。ただ何かを守りたいだけというエゴの証。故に恥じる。
「――来たれ、欠けること無き絶対不落」
しかし、相反するその心こそ己であると騎士は信じる。
故に晒す。故に明かす。この心こそ自分が持つ最高の盾だと。
「――展開せよ、“エンブレム・オブ・トリニティ”!!」
心技が完成する。
宙に巨大な三重の障壁が形成された。
一切の飾りのない無骨な鈍色の障壁、それこそがクルスの魂の発現である。
見上げるほどの大きさの多重障壁は数百の魔物に押されても小揺るぎもせず、騎士部隊全員を覆っても尚余りある。
大隊規模を完全にカバーする広域防御系心技。
その真価は、物理、魔法の両面防御に加えて――
「――ギィイイイッ!!」
三重障壁に全力で突撃をかけた角獣が火花を散らして逆に吹き飛ばされる。
まるで己の攻撃力を返されたかのように、束の間、小山ほどある巨体が宙に跳ねた。
「あれは“反射”か。やるじゃないか、クルス!!」
「カイはこれを読んでたのね――って、あの馬鹿!!」
「――狂い咲け、“菊一文字”」
相手の足が止まったその一瞬を逃さず、最大まで加速、跳躍したカイが幾多の魔物を踏み潰して着地した角獣の頭上へと急降下する。
刀身を優に超える太さの巨体も、刀気解放で射程を延長すればギリギリ足りる。
「ギ、ギィイイイイッ!!」
空中から襲い掛かる侍に気付いた角獣がギョロリと目を回し、小石の如き矮小な存在を串刺しにせんと前足で地を蹴って硬角を突き出す。
狙いは恐ろしいほど正確。落下中の侍に避ける術はなく、相討ちを覚悟する。
つむじをまいて硬角の先端が侍の胸に突き刺さる――
「――“決めろ”、カイ!!」
心技の維持に全てを賭けたクルスが声を嗄らして叫ぶ。
未熟な、しかし確かな熱を持つ声は死中のカイに届き、その背を押した。
カイの体が回転し、突き込まれた硬角に一刀が僅かに触れる。
次の瞬間、角と刀の鎬の間に火花が散り、流れに逆らわず絡め取った刀が角を受け流した。外套の裾が幾らか持っていかれるがカイの体には傷はない。
そうして、巨角が完全に受け流された。
圧倒的な体躯の差が、研ぎ澄まされた運剣の妙によって覆された。
肌の一枚むこうを山がすれ違うような感覚。
巨体に押しのけられた大気が落下中の身を木の葉のように揺らす。
だが、侍の視線は揺るがない。
ソルピードの体が伸びきるのと、カイが再度ガーベラを構えるのは同時だった。
刹那、烈風が巨木のような角獣の首を駆け抜けた。
閃く一刀は外殻の隙間を正確に捉えた。
一瞬の静寂の後、巨体に切れ目が走り、ずるりとその首を落とした。
前線部隊が歓声を上げる。
隊列が整ったのを確認してクルスは心技を解除、ベガが再び突撃の号令をかける。
間をおかず、ソルピードの死体が四散し、その段になって漸くカイが着地した。
着陸地点は魔物側の前線部分。即座に周囲を魔物の群れに取り囲まれた。
魔獣級がやられようとも魔物には恐れも動揺もない。躊躇なく侍に襲い掛かる。
ひとまず斬るか、と侍が刀を構えるより僅かに早く、斬撃と拳撃が群れの一角を弾き飛ばした。
「お前はほんとに突っ込むばかりだな!! 多少は着地後のことを考えんか!!」
「それは貴女も似たようなものでしょう?」
「私をそんな特攻バカと一緒にするな、腹筋女!!」
「言ったわね、脳筋女!!」
二人は言い合いながらもすさまじい勢いで周囲の魔物を掃討し、道を作っていく。
カイは小さくため息を吐いてその後を追った。
士気と戦線を盛り返した前線、英雄級に滅多無性に削られている後衛と、魔物群は大きな被害を受けていた。
そして、その過程で生まれた多くの死が決定打となり――ある心技の使用条件を満たした。
◇
「――あ」
今、大きな力がひとつ消えた。
ソフィアは鋭敏化した感応力でそれを感じた。
格上の準魔獣級すら刹那に刈り取った刃金の一撃。何よりの死の具現。その魂のあり方を自分はよく知っている。
この戦場に散った多くの命が示している。
これが万物全てに訪れる【死】だ。
カチリ、と心の中で何かが嵌る音がした。
◇
交代して魔力を回復していたイリスはよく知る気配に顔を上げた。
同時に違和感に気付き、即座に正解を悟る。予感はあった。
「完成したのね、ソフィア。貴女の“心技”が……」
心技はきっかけを得て目覚める。この戦場こそが少女の魂が求めていた瞬間だったのだ。
どうして、と呟く声は音にならない。
どうして、戦争の中で見つけてしまったのか。他者の死の中に魂のカタチを見出してしまったのか。
あるいは、それこそが少女の運命なのだろうか。
「ソフィア……」
心技を閉じて一旦下がっていたクルスは、背後から感じる妹の魔力の気配で凡その状況を理解した。
「急がないと……誰か、声を飛ばせる者はいないか!?」
「クルス様、どうかされましたか?」
見るからに慌てたクルスの様子に各隊の繋ぎをしていたペルラが声をかけた。
「ペルラさん。緊急の用件だ。すまないがカイに繋いでくれ。敵陣に居る筈だ」
「……お急ぎのようですね。わかりました」
眼鏡の位置を直したペルラが広域探知を開始し、数秒でカイを捕捉。
そのまま意識の糸を伸ばしていく。
「――我が声を届かせよ」
術式が完成し、遅滞なくその声を前線の奥まで届かせる。
「クルス様、どうぞ」
「ありがとうございます」
『――聞こえるか、カイ。一旦退け。ソフィアが“心技”を使う。抵抗力のないお前は余波で死ぬぞ!!』
片っ端から魔物を斬り殺していたカイは突然繋がれた風声に手を止めた。
同時に、自陣奥からソフィアの放つ猛烈な死の気配を感じて微かに顔を顰める。
「範囲は?」
『おそらくこの一帯は全て射程内だ』
「了解」
風声が切れると同時にカイは反転して撤退を始めた。
「下がるぞ、キリエ、ライカ」
「四十八、四十九!! ……殴り足りないけど仕方ないわね」
「四十九、これで、五十だ!! ふふん、私の勝ちだな」
「最後の一体は時間外だから含まれないわよ!!」
「……退くぞ」
カイは二人を無視して自陣へ駆け戻ることにした。二人もあの調子なら問題ないだろう。いざとなれば空に逃げればいい。
走るその途上でまだ息のある者を適当に担ぎ上げて運んでいく。
自陣に近づくにつれ死の気配が増しているが構わず走り抜けた。他に生き残る手立てはない。
◇
「カイはこれでいい。あとは他の前衛の人たちにも」
「それはこちらでやりましょう。クルス様は支部長にご報告ください」
「オレがどうかしたか?」
ベガもまた並外れた読みで何かが起こるのを悟り、事情を知っている様子のクルスの元に来ていた。
いきなり背後から声を掛けられて息を詰めたクルスだが、振り返った時には既に戦士の顔に戻っている。
「ベガ・ダイシ―司令官、後退の指示を出してください」
「いいのか? 前線は今押してる。ここで退いて失敗しましたでは済まねえぞ?」
「構いません。この首に賭けて」
「……クク、いいだろう。全軍“後退しろ“」
クルスをじっと見ていたベガは、数瞬の後に笑みと共に号令を下した。
隣で聞いていた側付きの騎士が絶句しているがクルスは頓着しない。負傷者に肩を貸して撤退を急がせる。
既に英雄級に匹敵するソフィアの魔力と精神力の全てを己にとって最も効率のいい構成で魔法に変換するのだ。
不完全な形で使用した時ですら小山をひとつ巻き込んだ。
それが完成したのだとすれば――
◇
「……つめたい」
心とはこんなにも冷たいものだっただろうか。トランス状態に入った少女の中でそんな感想が泡のように生まれては消えた。
愛で覚醒したわけでも、危機に新たな力が生まれたわけでもない。
契約の原理が示す通り、それは決して新たに与えられた物ではない。それは、ソフィアの中で育まれ、戦争という大量の魂が失われる様を視たことで確定したものだ。
今まではただ形を成していなかっただけで、少女の魂の奥底に、あるいは全人類の魂の底に存在するものだ。
「――世界を覆え、大冷界」
そうして、ソフィアは己の魂を発現させる。
解放した莫大な魔力に呼応して背に魔法陣が展開する。通常の円と記号と文字で形成されたものとは一線を画す、異形の魔法陣。
外形からして既に円陣や星形ですらない。二翼一対の蝶の翅の様な形状だ。翅というイメージ故か、発する魔力だけでその身を宙へ浮かしている。
異常は続き、さらに複数の魔力光が輝きだす。
元素の次元を駆け上がり、さらに高次元の契約すらしていない複数の神への通り道も開けたことで色とりどりのチカラが場に溢れだす。
「――八つの圏を超え、嘆きの大河を此処に」
ソフィア独自の記号や複数の魔力が無造作に、しかし全体としては恐ろしい程に緻密に紡がれ、息を呑むほどに美しい一対の翅と術式が完成する。
溢れんばかりの凍気が周囲の温度を急激に下げてゆく。
余波で大地が凍りついていく中、規模に対してあまりに簡潔なソフィアの詠唱が終わる。
「――堤は断たれ、万象一切、凍てつき砕けよ」
そうして放たれるのはソフィアの心技にして独自魔法、
「――シンの果てまでこおりつけ、“デリュージ・オブ・コキュートス”」
そして、奇跡が産まれた。
ピシリ、ピシリと大気が異音を発している。
はじめ、皆それが何か分からなかった。……暫くして気付く。
それは大気が凍りつき液状化している音だ。
戦場を覆う大気であった液体がソフィアの足元に集っていく。少女の存在を堤防として、溢れんばかりに集まっていく。
堤は満たされ、そして、決壊する。
生まれるのは極低温の大河の氾濫にして暴虐の雪崩。
全てを瞬きに凍てつかせ、魂まで砕く破壊のキセキ。
密集し、足の止まっていた魔物たちに避ける術はなかった。
極大の冷気は眼前の魔物達を周囲の諸々ごと完全に凍らせ、それだけでは止まらず、集結中だった魔物の第二陣にまで到達し、文字通りその全てを呑み込んだ。
「これは……」
ヴァネッサが常の倦怠を消した真剣な表情で心技を発動したソフィアの背を見ていた。
ソフィアの心技は見るからに強力であるが、原理は単純だ。
通常の氷結魔法と同じように魔力を消費して高次元に小路を開き、凍結、流動、破壊が混ざった概念を発現させる。
ただ、その規模が並外れていたというだけだ。多くの者はこの心技の効果範囲に目を瞠っているだろうが、真に着目すべき点は精度にある。
すなわち、大気そのものの凍結。
通常、氷結魔法で凍らせるのは空気中に含まれる水だ。決して大気自体を凍らせている訳ではない。
だが、あの生徒はその常識を軽々と乗り越えてしまった。あの凍気に呑み込まれれば、おそらく地上のあらゆるものは凍りつき、砕かれるだろう。
「学長に迫るね。先が楽しみ、かな」
期待の籠った視線の先、全ての敵を凍てつかせたのか、心技が終了した。
同時に、急激に魔力を消耗したソフィアの浮遊が切れた。本人も意識が朦朧としていて立て直せない。
だが、ヴァネッサが手を貸すより早く、少女の許に辿り着いた侍がそのか細い身体を抱き留めた。
侍は少女が発する魔力によって半身が氷に覆われているが気にも留めていない。
「カ、イ……?」
「問題ない。今は、眠れ」
「……はい」
心技が閉じても平野は一面凍りついたままだった。
地獄を顕わした様な光景に、誰も言葉を発することはなかった。
ただ、この一帯の決着は着いた。誰もが戦慄と共に確信していた。




