第2話 歯痛のマカロン②
かじるだけでも、正直言って痛みが酷いと思っていたはずなのに。佳代子がマカロンの端をかじっただけで、まるでミントガムですっと口に広がるのと逆の作用で痛みが引いていくのを感じたのだ。
咀嚼する必要もなく、すっとメレンゲの部分が口の中で溶けていくのも爽やかで。クリームはピンクのを食べたからかイチゴと似た甘酸っぱいジャムが混ざっていて舌を整えてくれる。
その溶けたものを飲み込めば、さらに奥の奥で痛いと感じていた『激痛』が和らいでいくようだった。痛み止めは時間を置かないと効かないはずなのに、これは瞬間的過ぎる。今度は大口で食べてみれば、またさらに痛みは引いていくように感じた。念のために、甘ったるさを無くすためにもとハーブティーを飲めば、こっちは本当にミントが入っているのか清涼で優しい甘さだ。
人前でなければごくごく飲みたい温かさだが、まだ向かいに店長がいたままなので出来るだけ社会人らしく、がっつくのを我慢した。
「……痛く、ないです」
「それはよかった。奥の奥、下手をしたら神経にまで浸食する手前だったかもしれない。お代はたしかにいただきました」
「……どこに、いっちゃったんですか?」
「目の前にありますよ?」
店長がタイの襟止めを指せば、なんだか光っているように見えたけど。まさかとしか思えない。もしくは、これは痛みが酷過ぎて家で寝ている間……夢を見ているのかも。上司に帰宅するように言われたし、明日から少しの間は有給だ。
会社業務には疲れていたし、親知らずの手術で陰鬱になったが痛み止めを飲んだ関係で眠くなったのか。
だったら、こんなにも新鮮で解放感あふれる夢を見てもなんら罰が当たらない。佳代子はもうひとつマカロンを食べようと思ったが、お代分はしっかり食べたからどうしようかと思っていると。いつのまにか、店員が小さな紙袋を持って来て。
「お持ち帰りなさいますか? 手術後の痛みもきっと出てきますでしょうし?」
「いいんですか?」
「ふたつでひとつ。というわけではなかったけど、お姉さんにはその方がいいでしょう。今回はサービスってことで」
「……ありがとうございます」
至れり尽くせりに近いが、夢にしては現実的な対応も混ざっているので拍子抜けしてしまう。紙袋は、なんとなく手で持っていようと落とさないように気を付けてから……店を出て、あの鈴の音に近い風鈴の音が背後に聞こえたかと思えば。
次に、佳代子が立っていた場所は自宅の玄関だった。夢を見ながら帰宅したかと思ったが、靴の散らかりなどは今朝見たのとそのまま同じだったから……あの店にどうやって行けたのか覚えが薄い。
しかし、代金は支払ったらしいし、サービスのマカロンももらってしまった。袋を開けて確認すれば……丁寧に個包装してある菓子の包みが。ここで開けるわけにもいかないと部屋の中に入り、デスクの上に置くことにした。
「うーん。手術は明日だし、有給申請はもうキャンセルしない方がいいけど」
なんとなくだが、生活態度を少し改めた方がいい気になった。部屋は散らかり放題、ゴミもそのまま。アプリで地域のゴミ収集日をきちんと確認してから、家の掃除をしていても歯痛はやはり戻っては来ない。
念のため、鏡で確認はしたけれど。手鏡を使っても奥歯は腫れたままだった。単純に『痛み』だけ抜いてしまったのは本当らしい。
「……なんか、怖いし。明日はちゃんと行こう」
このマカロンはどこかで買ったものと思うしかない、と寝るときもそのままにしておいたが。結局、手術をしたあとは歯茎を開いたあとの痛みに耐えきれずに……飲み物許可の時間帯になってから、自宅であのマカロンを食べることにした。迷信であれなんであれ、自分で買ったものを腐らせたくはないという意識があるだけだ。
そう思うことにして、薄青のマカロンをひと口かじったが。夢とまったく同じ、すっと引いていくような痛みの消え方がそっくり同じ。まだ少し痛かったので、ひと口ずつかみしめて食べていけばまったくと言っていいくらいに……痛みは消え去った。
やはり、これは魔法のマカロンなのだろうか?
「……『痛み』を代金? それで、逆に作る……とか?」
娯楽小説やマンガじゃあるまいし、とは思っても現実になってしまったことには変わりない。しかし、美味しいもので痛みが抜ける『薬』がきちんとあるのなら……難病でも簡単に治るだろうに。そうは簡単にできない仕組みがあるかもしれない。
とりあえず、佳代子は残りの歯医者受診にはうんざりするが、歯磨きくらいはもう少し丁寧にしようと心がけることにした。
*・*・*
「二個目のマカロン分の痛み……届いたね」
店長が月明かりの届く位置に、あの襟止めを置けば。そこには銀色に輝く星の形の襟止めが。
光が落ち着くまで触らないのを基本としているため、中には昨日来た女性客の『代金分の大切な痛み』がたっぷりと溜まっているのだから……下手に触るとあふれてしまう。
「次の客のために、使う分だけ……そこで待ってて、な?」
二代目の『ル・フェーヴ』の店長・真宙は三十半ばでも、パティシエの腕前は良いがこの店自身の経験値はまだまだ先代には及ばない。店員の若葉がいないと、客の受け答えもまだまだ下手な方だ。コミュ障というほどではなくとも、話下手に近い。
そんな彼がこの店を継いで数年。昨日来た女性客は『歯痛』を抱えていたが、同時に『不安』や『ストレス』の痛みを大きく抱えていた。だから、サービスとして二個目のマカロンを渡したのだ。その『痛み』をきちんと代金として受け取った今、次の客へサポート出来る『薬菓子』をまた作らねば。
「巡り合わせは、待ち望んでいても来ない……ね? 先代の資産がなきゃ、この店って普通経営難なのに」
何とか成るで過ごせている今を思うと、真宙を拾って育て上げた先代の店長の言葉を思い出す。
思い出すことで、自分に言い聞かせる。周りをよく見ながらも、客の持つ『痛み』には真摯に応えなくてはいけないのだ。それを間違えれば、すべて自分に戻ってきてしまう。呪いのようなそれは、『まじない』の最悪パターンなのだから。
そのイメージをひととおり繰り返したあと、真宙は光が落ち着いてから襟止めを手に調理場へと向かう。
次の客は誰か。どんなイメージを持って、『痛み』を抱えているのか。わからない先を予測しつつも、また薬菓子なるケーキたちを仕込んでいくのだ。
次回はお昼過ぎ




