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「アルマティス様!」
「いけません奥様!!!」
「旦那様!!!」
階段から、ふらりと糸が切れたように転げ落ちるアルマティスを見た瞬間、シュヴィアは走り出していた。
両手を広げ駆け出したその身体を騎士が引き止め、他の騎士が叫び声を上げて走った。
それは、まるで、アルマティスが記憶を失くしたあの日の再現のようで。
シュヴィアは思わず、その場に崩れ落ちた。
「奥様!」
どうしよう。
どうしたらいい?
シュヴィアは、あの日よりもっと、もっとアルマティスを好きになってしまった。
もしも、ああ、もしもアルマティスが目を覚まさなかったら? またシュヴィアを忘れてしまったら?
「旦那様! 聞こえますか旦那様!」
「動かすな、頭を打っている!」
「バートン先生を呼べ! 急げ!!」
シュヴィアは、ガタガタと震えながら、手を伸ばした。
アルマティスの元へ、と這いつくばって移動しようとするシュヴィアに気付き、騎士がすぐに手を貸してくれる。
支えてくれる手にどうにか立ち上がって、シュヴィアは一歩を踏み出した。
早く、早く、と気が急くのに、震える足には力が入らない。
力強い手に引かれ、なんとかアルマティスの元へたどり着くと、シュヴィアはぺたりと座り込んでしまった。
騎士の慌てた気配が伝わるが、シュヴィアにはそれに応える余裕がない。
ぴくりとも動かないアルマティスから、視線が逸らせなかった。
「あ、アルマティス、さま……?」
アルマティスは、目を閉じたまま、動かない。
真っ白い肌には血の気が無く、ピンクブロンドの髪がはらりと顔にかかって、まるで生気がないのだ。
シュヴィアは震える手で、その髪を払った。
頬は、ぞっとするほど冷たかった。
「……お、起きて、起きてください」
そ、とシュヴィアは震える手を、アルマティスの胸に乗せた。
ど、ど、ど、と音がする、と思う。思うのに、自分の心臓の音がうるさくてよくわからない。じわ、と視界まで揺れてきた。これじゃあ、アルマティスの顔すら見えないではないか。
「い、いや、いやよ」
シュヴィアは、くたりと身体を倒した。
アルマティスの胸に、そっと耳を付ける。体重は乗せないように、慎重に、慎重に、耳を寄せる。
と、と、と、と温かい音が、聞こえる、気がするが、わからない。これは幻聴だろうか。シュヴィアの希望だろうか。
わからない。わからないのだ。
「お、置いていかないで……」
もう、どうすれば一人で生きていけるのか、シュヴィアには、わからないのだ。
──二度も貴方を失うなんて耐えられない。
ひう、としゃくりあげるシュヴィアに、「奥様……」と誰かが気遣わし気な声を上げた。
そうだ、シュヴィアはこの屋敷の女主人だ。
アルマティスが動けないのならば、シュヴィアが屋敷を、家門を、取り仕切らねばならない。アルマティスが領主としての責任を重んじて生きていることを、シュヴィアは知っているのだから、狼狽えている場合では無いのだ。
だからシュヴィアは、どれほど不安だろうと、恐ろしかろうと、いつだって笑って、眠るアルマティスを見守ったし、記憶を失ったアルマティスの側にあった。
でも、もう、あの、笑顔を見れないのだとしたら?
もう、シュヴィアに、あの優しい眼差しを向けてくれないのだとしたら?
もう、きっと、二度と、立ち上がれない。
「お願い」
お願い、ともう一度呟いたシュヴィアは、次の瞬間。
ぽん、と頭を撫でられた。
温かくて、大きな手のひらが、シュヴィアの髪をそっと、撫でる。
「……嬉しいな。ようやく、君のお願いが聞けた」
「あ、」
がばりと顔を上げたシュヴィアを、ふ、と目を細めて見詰める、ミントガーネットの輝き。その、憎たらしい程の美しさよ!
ぽろ、とシュヴィアの頬を涙が流れた。
「泣かないで、愛しい人」
「な、」
「な?」
「なんですかそれええええええええええええ」
うわあああん、と子供のように号泣するシュヴィアの頭を、アルマティスは笑いながら撫でた。
笑いごとなものか!
思わずぽかりと、その広い胸を叩いたシュヴィアを誰も責めなかったのは、つまりはそういう事だ。
「俺も武人だからな。身体は丈夫なんだ」
リカルドと騎士によって寝室に押し込められたアルマティスが、診察を終え、たんこぶ一つ無いぴっかぴかの健康体である事がわかると、ようやくシュヴィアは胸を撫で下ろした。
「階段から落ちて、気を失ったついでに記憶も失っていた武人がいたので、心臓が止まる思いでした」
「おや、そんな馬鹿な男は殴っておしまいなさい」
「殴って良いんですか」
「良いよ。いくらでも殴って良い。でも、」
でも、とアルマティスは、シュヴィアの涙を親指で拭った。
「できれば嫌いにならないでくれると嬉しい」
ふにゃん、と眉を下げた情けない子犬のような顔に、シュヴィアは唇を噛んだ。
「ずるいわ。わたくしがその顔に弱いと知ってそんなことを仰るのね」
「おや、それは良い事を聞いた。ではこの顔で縋れば、君は俺と夫婦になってくれるのだろうか」
か、とシュヴィアの頬に熱が差す。
それは、シュヴィアが告げた、シュヴィアの願いだったはずだ。
シュヴィアが唇を噛むと、アルマティスは眉を下げ、くしゃりと笑った。
「すまない。身勝手を許してくれ」
身勝手、などと。誰が言えよう。
ずっとそれを願っていたのは、誰あろうシュヴィア自身なのに。
「……君が、好きだ。どうか行かないで」
「っ」
頬に添えられる熱い掌が、信じられない。
夢にも見なかった言葉に、シュヴィアは頬を包む熱に、そっと震える手で触れた。
「……本当に?」
「本当だ。……俺は、ずっと君が好きだったんだ」
聞いてくれるだろうか、とアルマティスは、まるで祈るように、シュヴィアの手を握り返した。
シュヴィアはこくりと頷く。
ほろほろと、涙が零れ落ちていった。
「貴方の声を聞いていたいの」
アルマティスはぱちん、と光がはじけるように瞬き、うっすらと頬を染めた。静かに広がる、甘い笑顔。
「君は本当にかわいい」
その破壊力に、シュヴィアの涙はひっこんだ。
「嫌な話になるんだが、良いだろうか」
アルマティスは、そう言ってシュヴィアの手を握る、骨ばった手に力を入れた。
シュヴィアは、視線を逸らさずにこくりと頷く。
有難う、と小さく笑ったアルマティスは、すう、と覚悟を決めるように、静かに息を吸った。
「……君と、そして記憶を失っていた俺が予想した通り、俺の両親の死因は真っ当じゃなかった。戦で武功を立てた男にはあまりに不似合いで、英雄の妻にはあまりに滑稽で、けれどあの夫婦らしい、お粗末で醜悪な最期だった」
顔をゆがめるアルマティスに、シュヴィアは、ずっと気になっていたもう一つの疑問を口にした。
「……鍵のかかった部屋に、関係がありますか」
シュヴィアの問いに、瞬きしたアルマティスは、眉を下げて苦笑する。
「君は本当に賢く思いやりにあふれた女性だな。ずっと気にしていながら、その質問をしなかったのか」
「契約上の妻でしたから」
「なるほど、それを言われると痛いな」
ふ、と力なく笑むアルマティスに、シュヴィアは視線をうろ、と彷徨わせた。嫌味のつもりじゃなかった。けど、二度も死ぬほど心配をさせられた恨みが、無い、わけでは無い。
自分の手を握る熱い手を、ぎゅ、と握り返すと、アルマティスは落とすように笑った。
「契約を無かったことにしたい。そう、思えば思うほどに……俺は自分の忌まわしい血を忘れるわけにはいかなかったんだ」
「忌まわしい血?」
ああ、とアルマティスは眉を寄せる。落としてぐしゃぐしゃになったケーキを見下ろして、どうしようもない、と諦めるような、そんな顔だった。
「あの日、両親が応接間で言い争っていた日。そこには、知らない女性が母を罵る声もあったんだ」
え。
シュヴィアの脳が思考を止める。否、思考を加速させた。
そんな。まさか。もしかして。
それは、世に聞く修羅場、というやつでは?
嘘でしょう、と瞬きするシュヴィアに、「その通り」とアルマティスは笑った。
「父は浮気相手を家に連れ込んでいたんだ。そこに、母が鉢合わせた」
「地獄じゃないですか」
「地獄だな。だから二人は死んだ」
「…………え?」
馬鹿々々しいよなあ、とアルマティスは、笑った。
はは、と嗤った。
「俺はずっと、母は父を嫌っていると思っていたが、そうじゃなかった。母は、家を出られないんじゃない、出なかったんだ。あんな男の何が良かったのか俺にはさっぱりだが、母は愛しているのに、と叫んで女を刺して、それで、父は驚いたのか、罪の意識か、自分に向けられた短剣を避けなかった」
嘘みたいに短剣は父の身体に収まったんだ、とアルマティスは目を伏せた。
「……父が母を抱きしめているのを、あの日、俺は初めて見た。半狂乱になった母は、そのまま父にぶら下がる剣で自分の腹を刺した。……あっという間だったし、永遠のようだった。開いたドアの向こうで見えるそれは芝居のようにすら見えて、俺が部屋に駆け込んだ時には、三人は息をしていなかった」
武人は丈夫なのに、とアルマティスは笑った。
「父は、それで死んだんだ。女の細腕が持つ短剣なんかで、家の中で起きた刃傷沙汰なんかで、英雄と呼ばれた男は死んだんだ。恥ずかしくて誰にも言えなかったし、知られるわけにはいかなかった。家の名に傷が付けば、使用人にも、領地の民にも迷惑が及ぶだろう。こんな家に愛着などなかったが、それでも俺はその瞬間、辺境伯となったのだから、家を護る義務があった」
だから、とアルマティスは遠い目で、シュヴィアの見えない何かを見詰めた。冷え切った、薄く張った氷のような瞳で。
「だから、俺は、リカルドや古株の数人の使用人と騎士で結託して、全てを無かったことにした。ああ、バートン先生も共犯だ。家で人が死んで、医者が来ないのはおかしいからな。……皆でカーペットをはぎ、床を拭いて、死体の血を拭い服を着せ替え、ベッドに運んで、それから、葬式をした。二人は階段から転げ落ちたのだということにしたんだ。……父は、母をかばって落ちた。打ち所が悪かったのだ、と。……女の死体は、内密に弔った。彼女には身寄りがなく、探す人はいなかった」
最悪の気分だった、とアルマティスは乱れた前髪をぐしゃりと握った。
「両親を失った悲しみなど、あるはずもない。こんな後始末をさせられている事が惨めで、二人が憎くて、同じ血が流れているのだと思うだけで吐きそうだった。愛だ家門だ見栄だ体裁だと、くだらない。滑稽だ。全部無茶苦茶にしてやりたくて、でも、できなくて、情けなかった」
ぎゅ、と痛いくらいにシュヴィアの手が握られる。
「……両親が死んで、俺は、結婚などするものかと、誓ったんだ。あの二人と同じ顛末を辿らない保証がどこにある? こんな薄汚れた血を繋げるなど、冗談じゃない。跡継ぎなら養子を迎えれば良い。……醜いフォーディア家の血を絶えさせること、それが、」
それが、とアルマティスは、ぽつりと落とした。
「俺ができる、唯一の復讐だったんだ」
くだらない、とアルマティスはわらう。
シュヴィアは笑わない。
笑えるはずがない。
シュヴィアが出会った、4年前のアルマティスは、両親を恥ずかしく思い、けれどいつかは結婚を、と考えていたのだ。家族と責任から逃れられなくとも、彼本来の穏やかさを残し、シュヴィアに好意を向けてくれていたのだ。
なのに、今のアルマティスは、自分が誰かを想うことを、許せないでいる。
それはアルマティスにとって悪であり、罪であり、憎しみのやり場を失う事であったからだ。
「アルマティス様……」
何ができるだろう。
シュヴィアに、一体、何ができるだろうか。
シュヴィアを薄暗い部屋から連れ出してくれたように、アルマティスの手を引いてあげたいのに、シュヴィアは、その身体を受け止める事すらできないのだ。
我が身の、なんと無力なことか。
ぼろぼろと落ちていく涙が止められない。
涙を拭おうと、シュヴィアはアルマティスの手を離そうとして、そして、その手を強く握られた。
はっとして顔をあげると、アルマティスが、シュヴィアを見詰めている。
その緑の瞳は、悲しみと恨みに濡れ、けれどそれでも美しかった。途方もなく、果てなく、美しかった。
「アルマティス様……?」
痛みを抱える瞳を、シュヴィアは不思議な思いで見つめ返す。
――それは、シュヴィアが愛した瞳だった。
いつもどこか遠くを見て、ふと暗い影を乗せて、だけどもいつもシュヴィアを気にしてくれる、少し怒りっぽくて、少し不器用で少し面倒くさくて、誰よりも優しい、シュヴィアがずっと正面から見たいと願っていた、シュヴィアが愛した瞳だった。
「シュヴィア。けれど、シュヴィア。俺は、君といると全てを忘れたんだ。君と生きたいと、君に本当の妻になってほしいと、思った。思ってしまったんだ。君を手放さなければと、おぞましい血に君を触れさせてはいけないと、復讐を誓った自分を忘れるなと、何度も言い聞かせるのに、なのに、俺は、」
アルマティスが、一層、強く、シュヴィアの手を握る。
行かないで、と何よりも雄弁に。何よりも、強く。
叫ぶように訴えかける、その大きくて小さな手を、シュヴィアは握り返した。
「アルマティス様は……」
涙が、愛しさが、とめどなく溢れ落ちてゆくその音に、シュヴィアは目を細めた。
苦しい。
張り裂けそうなくらいに、胸が、苦しい。
シュヴィアは、アルマティスの過去に同情して、自分の過去を重ねて、アルマティスの愛を知って、そして、この痛みに歓喜する己の欲望に呆れて、それで、ただ、もう、好きだと思った。
「アルマティス様は、だから、4年分の記憶を忘れてしまわれたのね」
自分の為に生きることを知らない、ささやかな復讐すらシュヴィアのために捨てたいと願った、人生を決定づけた4年前のその日を忘れたいと願った、やさしくてかなしい、さびしい、ひと。
そんなアルマティスを、ただ、ただただ好きだと、シュヴィアは思った。
「……臆病で間抜けだと笑ってくれ」
「なら、貴方を失う恐怖を思い知って、ようやく好きだと言えたわたくしのことも、臆病で間抜けだと笑ってくださる?」
アルマティスは、きょとん、と幼い顔でシュヴィアを見詰めた。まあるく見開かれた瞳に、シュヴィアは笑ってしまう。
「あの日、貴方の目が覚めるまで気が気じゃなかった。こんなことになるなら言えばよかったと、それはもう情けなく後悔したのですよ」
「知らなかった」
「それはそうですわ。貴方には弱いわたくしじゃなくて、女主人らしい強いわたくしを見てほしかったんですもの」
アルマティスは、首を傾げた。
なぜ、とばかりに眉を寄せる顔が、なんだかおもしろくて可愛らしくて、シュヴィアの頬をまた涙が流れる。
「だって、貴方がつくってくれた、わたくしの好きなわたくしを、貴方に見てほしかったの。その方がきっと、貴方に好きになってもらえると思ったのよ」
「……なるほど。君の手練手管に、俺はまんまと引っかかったわけだ」
ふ、とアルマティスは笑い、シャツの袖でぽんぽん、とシュヴィアの頬を叩いた。優しく涙を拭く手に、シュヴィアは笑う。
「君が、記憶を失くす前の俺の存在を臭わせる度に、俺は嫉妬していたんだから、君の作戦勝ちだよ」
「……あら? わたくしの意図とは違うような」
アルマティスが、嫉妬。
なんと、まあ。単純なシュヴィアの胸はドキドキと音を立て、はらりと涙がこぼれた。
「違わないさ。君がそれだけ魅力的だった、ってことだからな。……ああ、一つだけ訂正するなら、俺は今の君も、初めて会った俺に打算的なプロポーズをする君も、等しく美しいと思っているよ」
「っ」
その言葉にびっくりして、またどっと涙が溢れる。
アルマティスは驚いたように目を見開き、それから、子供のように笑った。
「君の涙はいつ止まるんだ」
「し、知りません、こんなに泣いたことないもの。わたくしだって知りたいわ!」
ぎゅうと目を閉じると、アルマティスは声を上げて笑うものだから、シュヴィアは胸がぎゅうぎゅうと痛んで苦しくて、いよいよ涙が止まらなかった。
好きだ。
シュヴィアは、どうしたって、この人が好きだと思った。
「じゃあ君のこんな泣き顔は、俺しか知らないんだな。記憶を失くす前の俺も、記憶を失くしている俺も知らない、俺だけの記憶だ」
「じ、自分にそんなに嫉妬なさってどうするの!」
「俺の台詞さ。こんなに惚れさせて、君は俺をどうするつもり?」
アルマティスは、記憶を失くしたアルマティスのように、おどけて笑った。
意地が悪そうな、綺麗な笑顔。
けれど、その笑顔が隠している孤独を、冷え冷えとした痛みを、暗く汚れた憎しみを、シュヴィアは知っている。
「生涯、わたくしの傍にいていただきますわ」
「っ」
震える唇が、きっと、何度も血を流したことを、シュヴィアだけが知っているのだ。
「アルマティス様、人は……親を、家を、選べません。時には生き方すら、わたくしたちは選べない」
幼いから逃げられぬ。
金が無いから逃げられぬ。
責任があるから逃げられぬ。
情があるから逃げられぬ。
何もなかったはずの両手に物が増えるたびに、その重さに腕は折れ、足は折れ、立ち上がる事すらできなくなる。
鈍感であれ。
鈍感であれ。
痛みの意味など考えるな。痛みなど忘れろ。
シュヴィアは何度も何度も、擦り切れて見えなくなるくらいに、何度も繰り返して生きてきた。
アルマティスが、そうして生きてきたように。
「だから、わたくしは貴方を選びました。全てを捨てて逃げるために、貴方を選びました。貴方も、あの日、逃げるためにわたくしを選んでくださった」
ああ、とアルマティスは目を細めた。
アルマティスの空いている手も、シュヴィアはぎゅうと握る。
この両手にある物は、決して優しいものだけでは無いのだろう。
血に濡れ、欲望と執着を憎み、恐れを厭うている。
だが、それがどうした。
この世には、綺麗なだけのものなんてない。
何一つ。何一つだ。
美しい物の下には、必ず汚泥がある。
誰かが手を汚し、何かが汚れ、そうした全てを内包し、削ぎ落し、花は咲くのだ。
「わたくしは、今の貴方が好きです。ぜんぶぜんぶ、握り締めて真っ直ぐ立つ貴方が、わたくしは大好きです」
綺麗なだけじゃないアルマティスは、だから綺麗なのだ。
だから、シュヴィアの痛みに寄り添ってくれるのだ。
「……俺の妻に、なってくれるだろうか」
ぽろ、と零れるこの世で一番美しい涙に、シュヴィアは唇を寄せた。
「貴方が、わたくしの名前を呼んでくださるなら」
雨がしとどに窓を濡らし、雷すら鳴る、まあなんと騒々しい日。
アルマティスは「やっぱり呪われている」と肩を落とし、シュヴィアは案外落ち込みやすい夫がエスコートする腕にぎゅうと抱き着いた。
「あら、誰も忘れられない特別な日って感じで素敵でしてよ。青空の下でキス、なんて普通すぎて、誰のパーティーかきっとすぐにわからなくなるでしょうけど、これならきっと一生思い出に残りますわ。ついでに嵐の怖いイメージも変わるんじゃないかしら」
「……君が言うとそう思えてくるから不思議だな」
ふふ、とシュヴィアは笑って、アルマティスはくすぐったそうに笑った。
白いタキシードと、胸に挿した青い花が、その微笑みを惹きたてる。くらくらしそう、とシュヴィアはアルマティスをうっとりと眺めた。
「……シュヴィア、そういう顔をしてはいけないよ」
「そういう顔?」
シュヴィアがきょとん、と見上げると、アルマティスは目を細めて、舌なめずりするように、うっすらと笑った。
ほんのりと明かりが灯された廊下で見せるアルマティスの色香に、シュヴィアの身体が思わずよろめく。
アルマティスは、その腰をするりと撫でるように手を添えた。
それから、真っ白のドレスを着るシュヴィアの唇に、そっと、唇を重ねる。
記憶を取り戻したアルマティスの快気祝いをしよう、と言い出したのはシュヴィアで、ならば白いタキシードとドレスにしよう、と言ったのはアルマティスだ。
結婚式のやり直しをしよう、と暗に言っていることにすぐに気が付いたシュヴィアは嬉しくて飛び上がりそうだった。
教会で愛を誓う、とはいかないが、それでもシュヴィアは構わなかった。
神様なんて信じちゃいないタチであるし。そもそも、立派な結婚式は経験済みだ。あの結婚式だって、いい思い出である。
だから、天気だってどうでも良い。
なんなら誰もいなくたって構わない。
大広間の声が漏れる薄暗い廊下だって大歓迎だ。
愛を誓うための装いで、アルマティスが、シュヴィアに、恐怖を捨てて口付けてくれる。
それだけで、シュヴィアはもうどうにでもしてくれって気持ちになるのだ。
「その顔は、寝室に連れ込みたくなってしまう」
シュヴィアの唇を噛んで、すいと寄せた耳元で囁くその声の甘さといったら!
うっかり頷きそうになったシュヴィアは、背中を向けて、両開きのドアに手をかけるメイドと執事の存在を思い出してはっとした。
あれからというものの、所構わず甘ったるい空気を垂れ流すアルマティスに、使用人のスルースキルは高まり、シュヴィアの何かは擦り減っていく一方なのだけれども。ちっとも嫌じゃないので、困ったものである。
シュヴィアは、ぺちりとアルマティスの頬を叩いた。
「パーティーは今からでしてよ。忘れっぽいのは、これっきりになさってね」
「それは心が痛いお願いだな」
ニヤリと笑う、反省の色が全く見えないアルマティスに、頬を膨らませたシュヴィアは、それをはたと思い出した。
あら? と気になりつつも、パーティーの準備でバタバタしていて、質問のタイミングを逃していたのだ。
「ねえところで、わたくしが探していた家も、かろうじて立っていた実家も、いつの間にかなくなっているんだけれど……ご存知かしら?」
アルマティスが記憶を失う前。
つまり、契約終了が近づいていた時、シュヴィアは、屋敷を出た後に落ち着ける場所を探していた。
治安が良さそうな場所はどこだろう、家庭教師とか住み込みでできるような仕事も良いな、と買い物に出掛けるふりをして、こっそり調べてまとめていたのだが。その書類がなんと、綺麗さっぱり消え去り、すでに住人が決まっていた。
おまけに、シュヴィアの実家は売りに出され、母は厳しいと評判の修道院へ行き、父は太陽照り付ける南の国で労働に明け暮れ、兄は好色と評判の男爵の男女合わせて13番目の愛人になっていた。
誰の仕業か、なんてシュヴィアには心当たりは一つしかないんだけれど。
「さてね」
「もう!」
くっくと笑うこの美男子は、その答えを言う気は無いらしい。
シュヴィアの了承を得ることすらしない、窮屈で過激な愛情を見逃すのは、まあ、今回限りだ。
今後はシュヴィアの持ち物を処分させるのも、外敵を蹴飛ばすのも、しっかり相談をしてもらわねばならない。
「次からは先に言ってくださいね」
「言っても君は反対しただろう?」
「だったら猶更、話し合いをしなくっちゃ。――だって、わたくしたち、夫婦なんですもの」
互いに引いた線は、壁は、無いはずでしょう?
葬った契約を臭わせて微笑めば、アルマティスは、目を見開いた。
「ああ、そうだな」
ふ、と心底楽しそうに笑いかけてくるその美貌。
ミルクをかけた苺のようなピンクブロンドの髪。
「愛しているよ、シュヴィア」
「わたくしもよ、アルマティス」
ああ、キラキラと希望で輝くミントガーネットの瞳よ!
今日もとびきり美しい、愛情がとろとろに溶けた夫の瞳に、シュヴィアはうっとりと微笑んだ。
おわり!
ということで、迷惑な家族に振り回された、はた迷惑なバカップルのすれ違いでした。
勢いばかりで粗もあったと思いますが、最後まで読んでくださり有難うございました!




