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アルマティスは、本当に何も思わなかったんだろうか。
こんなにも、かなしく、やさしく、いとおしいひとを側に置いて、何も思わなかったんだろうか。
本当に?
『シュヴィアは今日も可愛い。あの青い瞳を真っ直ぐに見詰めることができればどれほど良いだろうか。きっと、とても美しいに違いない。けれど、そんな事をすれば俺は何をするかわからない。彼女は俺を良いビジネスパートナーくらいにしか思っていないのに。考えてもみろ。自分は何とも思っていない相手に、それも、ビジネスパートナーだからと心を許している相手に、突然言い寄られるなど。しかも相手は一つ屋根の下で共に暮らす男だ。恐怖でしかない。堪えるのだ、アルマティス・フォーディア。それでもお前はシュヴィアの夫なのだから』
何も思わないわけなかった。
むしろ重かった。想いだけに。うるせえ。
「くっ……気持ちが悪いぞ……! 俺…………!」
うなだれるアルマティスを助けてくれるものは、無い。
事件は、アルマティス一人の執務室で起きた。
仕事の合間。両親の死について、リカルドにさてどう切り出そう、と眉を寄せたアルマティスは、デスクに一つだけ鍵のかかった引き出しがあることに気が付いた。
今のアルマティスには、鍵をつけた記憶が無い。
ということは、両親の死後、4年の間にアルマティスがつけた鍵、ということになる。
両親の死について、シュヴィアとの関係について、何か手掛かりがあるのでは、とアルマティスは考えた。
鍵はどこだろう。
アルマティスなら。
アルマティスなら、人に見られたくないから、或いは重要だから、と施錠しているのなら、その鍵もこっそりとしまっておきたいと考えるだろう。
そして、ブツはデスクの引き出し。ということは、日常的にこの引き出しを開けていた可能性がある。
ならば、鍵も手の届く範囲に、こっそりと置いておきたいと思っただろう。
「花の図鑑?」
デスクを見渡したアルマティスは、目に付いた図鑑を手に取った。見覚えの無い図鑑だ。
もっとも、今のアルマティスにとっては自分の所有物であっても、見覚えの無い物ばかりなのだが、これはその最たる物だった。なんというか……違和感が凄い。
俺が。
図鑑。
……花の?
この時点ですでに、アルマティスは嫌な予感がしていた。
開けてはならぬ扉を開けるような、そういう、嫌な予感があったのだ。
だが、人とは秘されているものを知りたいという衝動に勝てぬ生き物だ。
それが自分に関する事ならば、猶のこと。
アルマティスは、嫌な予感に抗うように手を伸ばし、その図鑑を開いた。
ぱか、と自然に、鍵を挟んでいるページが開かれる。
ところで、この国には「希望の箱」というおとぎ話がある。
魔王がこの世の理を封じ込め、海に沈めた箱の封印を、勇者が解く話だ。
箱の中には、人々の感情や幸福も入っていたが、厄災や不幸も入っていた。
たちまち世界に暗雲が立ち込めるが、箱に最後に残った希望の力で、厄災と悪魔を箱に封印する、というおとぎ話である。
そんな希望の箱を開けるような心持ちで、アルマティスは引き出しに鍵を差し込んだ。
カチャリ、と鍵を回し、引き出しを開けると、書類に隠すように一冊の本があった。
一見重要そうに見えて、実は全くそうではない書類を詰めているあたりに己の性格が出ていて、アルマティスは一層、嫌な予感が強くなった。
取り出した本の1ページ目には、日付が書かれていた。
「日記……?」
アルマティスに日記をつける習慣は無い。
あまり物事が続かない、いわゆる飽き性なのだ。
剣術が続いているのは、奇跡的に性分に合っていた、というよりも家を背負う責任からだろう。釣りもカードゲームも読書も、すぐに飽きてしまう。
そんなアルマティスが、日記をつけていた。
ちらり、とアルマティスは、鍵を挟んでいた図鑑に視線を向けた。
開いているページには、青い花が描かれている。色のついた図鑑など、高かっただろうなあ。などと、白々しい。
この時点で、おおよその想像はついていたのだ。
だが、想像と現実では、実感が異なるというものである。
『シュヴィアとは契約結婚だ。これを知るものは、シュヴィアの他いない。だから、俺はこれを誰にも言えない。人に言えばボロがでるかもしれないし、本人に言えと言われてしまうだろうからだ。けれど、どうしても我慢ならないので、日記をつけることにした。子供の頃以来だろうか。あの時は2日で飽きた記憶があるが、断言しよう。今回は飽きることなど無い。
なぜならば、これはシュヴィアへの愛を綴る日記であるからだ』
「気持ちが悪い!」
バタン! と日記を閉じて、アルマティスは頭を抱えた。
本人に言えばいいじゃないか!
シュヴィアはきっと、笑わないし、突き放したりもしないだろう。
日記に一人で綴るなど、とんだナルシストではないか。何を悲観ぶっているのだ。
君を愛せない、とか。格好つけておいて。こんな物をどの面を下げて書いているんだってこの面か!
つまりは、とっくにアルマティスだってシュヴィアに恋をしていたわけである。
シュヴィアを無用に悩ませ傷つけるなど、馬鹿にもほどがある。言えよ。さっさと。
そうすれば今頃、俺だってシュヴィアとちゃんと夫婦だったのに!
八つ当たりめいた気持ちを吐きだすように、アルマティスは深いため息をついた。
「……シュヴィアに、言うべきだろうか」
だが、今のアルマティスは、アルマティスであってアルマティスではない。
記憶を失くす前の俺も君を想っていたらしい、と曖昧な言い方をするのは気が引けるし、この気持ちの悪い日記を見せるのはありえない。
シュヴィアは、こんな男の何が良かったのだろうか。
アルマティスは、なぜシュヴィアを悩ませていたのだろうか。
気持ちが悪いが、これにはその答えがあるかもしれない。
吐きそうになりながら、アルマティスはひとまず後ろの方のページを開いた。
『今日は観劇にシュヴィアを誘った。彼女は観劇に行った事が無いのだと言う。もっと早く言ってくれれば、いくらでも連れて行ったのに。気付かなかった自分が恨めしいが、劇にはしゃぐシュヴィアはとても愛らしかった。いつもより着飾っていて、いつも以上に美しい彼女が、楽しそうにする姿はとても良い。さすがは俺の妻だ』
腹が立ったので閉じた。
「……こいつ、腹が立つな」
まあ、アルマティス自身なのだが。
ふうと気を取り直し、アルマティスは再び日記を開き、続きを読んだ。
『それにしても、王都にいて観劇の経験がない、などと。彼女の実家には怒りを禁じえないが、だが、そんな家だったからこそ、彼女と出会えたのだと思うと感謝の念が湧きそうになるので腹が立つ。あの家はいつか潰したいが、そうするとシュヴィアの帰る場所が無くなる。
いや、そもそもシュヴィアをあの家に帰すべきなのだろうか。シュヴィアはどう思っているのか。怖くて聞けない自分が情けない。
契約の終了まで、あと数か月しかない』
日記が始まったのは、約半年前。
つまり、アルマティスは半年ほど前からシュヴィアを想っていたわけであり、半年間うじうじとしていたことになる。
馬鹿だな。
アルマティスは、パラパラと日記を捲った。
日付がごく最近のものだ。
『契約の終了まで、1週間を切ってしまった。彼女は家には帰らない、行く当てがある、と言う。一体どこへ行くのだろう。聞いても、曖昧に笑うだけだ。
最近よく出かけているが、恋人ができたのだろうか。だとしたら、俺は彼女を見送らなくてはならない。彼女を縛るものにだけは、なりたくない』
「……恋人?」
何を言っているんだろうか、こいつは。
シュヴィアにあれだけ想われて、本当に何も気づかなかったのか。
言うに事欠いて、恋人、などと。
契約だったとしても、しっかりと妻として仕事をこなしていた彼女が、そんな不義理な事をすると本気で思っているのか。
不安に追い込まれた自分の馬鹿さ加減と情けなさに、アルマティスはいよいよ頭を抱えてしまった。
「……頭が痛い……」
記憶を失くす前の自分と今の自分が同一人物だと思いたくないアルマティスは、日記を戻そうと、引き出しを開けた。
それで、ふと、気が付く。
よく見ればその書類は、応接間のカーペットを張り替えた請求書だった。
屋敷の模様替えなど、新しい女主人を迎えた屋敷ではよくある事だ。これもまたこの1年の変化の中の話だろうと、本来ならば気にも留めなかっただろう。
でも、なぜ、その請求書を、自分は引き出しにしまっているのだろう。
いや、請求書があること自体は、良い。別に良いのだが、なぜ、この請求書だけを?
ど、とアルマティスの心臓が音を立て、嫌な汗が滲む。
日付は、今から4年前。
両親が死んだという、年だ。
気持ちの悪い違和感に、アルマティスは書類を裏返した。
そこには、間違いなく、アルマティスの筆跡で、まるで己に言い聞かせるように。戒めるように、短い言葉が並んでいた。
『忘れるな。流れる血を、復讐を』
その文章を読んだ途端、ざわ、とひどい吐き気がアルマティスを襲った。
ずきんと、背後からぶん殴られたように頭が痛む。
なんだこれは。
思わず口元を押さえ、それでもアルマティスは立ち上がった。
よろ、と力の入らない身体を引きずり、廊下を歩く。
「……そうだ」
いつかの、あの日。あの日? あの日とは、いつだ。わからない。わからないけれど、あの日、あの日もアルマティスは廊下を歩いていた。
なぜ?
そう、そうだ。怒鳴り声が、響いていたのだ。
母の涙に濡れた金切声。
父の怒鳴り声。知らない女が、母を侮辱する声。
止せ、と思う。
それはあの時の記憶だろうか。今のアルマティスの思いだろうか。
わからない。
ただ、止せと、止めろと、行くなと、強く思う。頭が痛い。吐き気がする。
けれどアルマティスの足は止まらない。
記憶をなぞるように、慣れ親しんだ屋敷の階段を、一歩、一歩、降りていく。降りていく。降りていく。
それで、声のする応接間のドアを開けようとして、ガチャリ、とノブが硬い音を立てた。
鍵がかかっている。
応接間に? 鍵?
そう、そうだ。
応接間に、鍵をかけたのだ。
誰が? アルマティス自身が。
もう二度とこの部屋には足を踏み入れないと。決めたのだ。
部屋ならいくらでもある。改装する金だっていくらでもある。
だから今、この屋敷の応接間はここではない。
リカルドが整えた、落ち着きのある、品の良い部屋が、別にあるのだ。
アルマティスは、震える手で鍵を持ち上げた。
無意識に握りしめていた、鍵を。
自身の体温でぬるくなった、アルマティスがわざわざ職人を呼びつけて、引き出しに応接間と同じものを付けさせた、あの鍵を持ち上げた。無茶苦茶で意味の分からない注文に、職人は不思議そうな顔をしながらも、何も言わなかった。
だから、アルマティスは、
日記を入れるために鍵を付けたのではない。
鍵のある場所に、たまたま日記を入れたのではない。
あの引き出しだから、日記を入れたのだ。
ガチャ。
鍵が、回る。
アルマティスは、細く、息を吐き出した。
ぽたりと、汗が顎を伝うのが不愉快で、ぐっしょりと濡れて張り付くシャツが気持ち悪い。
吐きそうだ、とアルマティスはノブを回した。
「アルマティス様」
ふうふうと階段を上り終わったアルマティスは、その声に振り返った。
シュヴィアが、アルマティスを見上げている。
まとめた茶色の髪と、青い瞳が美しい妻が、アルマティスを見上げている。
「少し出掛けてきますね」
「ああ……行っておいで」
「はい、行ってきます」
にこ、と微笑むシュヴィアの笑顔は、愛らしく、美しい。
――そうだ。
あの日も、ここで、アルマティスはシュヴィアを見送っていた。
どこに行くのだ、と聞けず。
行かないで、と言えず。
帰ってきてくれるだろうか、とその笑顔を見ていられなくて。おかえりと、言わせてくれるだろうかと不安で。
明日はもう、行ってきますも、行ってらっしゃいも、無いのだと、シュヴィアを失うことが恐ろしくなったのだ。
「アルマティス様? どこか、お身体が悪いのですか?」
それで、シュヴィアはやっぱり、そんな風にアルマティスを心配してくれた。
綺麗に化粧を施した顔に不安を乗せて、アルマティスの名を呼んでくれた。
それが、アルマティスは嬉しかったのだ。
ずっと、嬉しかったのだ。
ずっとずっと、一人ぼっちのような、心許なさを抱えて生きてきた。
実際のところ、リカルドや師匠がいたし、メイドも執事も料理人たちも庭師も馬番も、みんなアルマティスに良くしてくれた。アルマティスを思いやってくれた。
でも、アルマティスはずっと、誰かの一番じゃなかった。
それがどうしたと思う。思うのに、いつも一人、違う場所にいるような、足元が不安定に感じるような、そんな心許なさがあったのだ。
そんな日々の中に、シュヴィアはある日突然現れた。
シュヴィアとの日々は、光り輝いていた。
アルマティスを見て、アルマティスの名を呼んで、日に日に美しく、生き生きとした輝きを増すシュヴィアの人生に、自分が存在している事が、アルマティスは誇らしくて、泣きたくなるくらいに嬉しかった。
そうだ。
ぐらりと、身体が揺れて足を踏み外す。
あの日も、シュヴィアを引き止めたくて、叫びだしたくて、アルマティスは情けなくも階段から足を踏み外したのだ。
受け身を、手すりを、と思って、けれど、階段の下でシュヴィアが両手を広げている。
「アルマティス様!」
まさか、自分よりも体の大きな男を、受け止めようとしているだなんて!
なんて健気で考え無しの妻だろう。
なんて、愛おしいのだろう。
己よりもアルマティスを優先してしまう、そんなひとはもうきっと、二度と現れない。二度と出会えない。
そう思うのに、ぎしりと、アルマティスの心を、どろどろと血に濡れた過去が捕まえた。
ぬるりと、錆の臭いがアルマティスをうっそりと抱きしめる。
『忘れるな。血を、復讐を』
ああ、馬鹿な真似をしてはいけないとシュヴィアを叱らねば。
それが、アルマティスの最後の記憶だった。
できるなら全てを忘れてもう一度君と出会いたい。
それが、アルマティスの最後の願いだったのだ。




