TURN4 『幸運の』
夢を、見ていた。
夢だとわかるくらいに、優しい夢だった。
すでに太陽は沈み、夜の帳が落ちている。
しかし、幸いにもぽっかりと浮かぶ満月が、辺りを明るく照らしてくれていた。
「シャルロット、ごごにいたのか」
「お兄ちゃん……」
幼い妹は木の虚に小さな身体をすっぽりと収め、その可愛らしい顔一面をくしゃくしゃにして、泣きじゃくる。
ペネペローペは妹に気付かれないように、安堵の溜め息を漏らした。
「帰るぞ、おでも一緒に親父に謝ってやる」
きっかけは今になっては思い出せない。
ただ父と喧嘩をした妹は外に飛び出し、夜まで見つからなかった。
「駄目、父さんは、わだしの事嫌い……」
「そんな事あるはずないだろ。 大丈夫だ、おでが付いてる」
「……うう」
子供らしい不安だ、と齢十も数えていないペネペローペは思う。
シャルロットは父親を怒らせ、嫌われたと思い込んでいる。
愛されていないと、思い込んでいる。
だが一度怒らせた程度で、儚く消えてしまうようなものではない。
それがわかるまで、ゆっくりと経験を積んでいけばいいのだ。
「大丈夫だ、シャルロット。 おいで」
ペネペローペが伸ばした手に、おずおずとシャルロットが手を伸ばした。
その時だった。
「お兄ちゃん!?」
シャルロットのつぶらな瞳に映ったのは、自分のオーク顔とその後ろに現れたゴブリンの姿。
「くっ!?」
すでに振りかぶられた手斧を避けるわけにはいかない。
避ければシャルロットに当たる。
自分の安全は最初から除外し、ペネペローペはゴブリンに飛びかかった。
背に感じた熱と痛みを無視し、ゴブリンの矮躯を押し倒すと、醜く歪んだその顔面に拳を撃ち込んだ。
危なかったが、自分も大したものじゃないか。
まだ命を奪った事のないペネペローペの慢心の報いは、すぐに訪れる。
「ギャァァァァァァ!」
悲鳴にも似たゴブリンの絶叫と共に腹に何かがねじ込まれる感触、熱感、激痛。
視界を落としてみれば、腹に手入れをされた事がなさそうな錆びたナイフが突き刺さっていた。
許容範囲を超えた激痛は、ペネペローペの意識からそれを成した存在を弾き飛ばす。
ゴブリンは自分の上に乗ったペネペローペの身体を押し返すと、お返しとばかりに拳を撃ち込んできた。
握りすらなっていないパンチだったが、体重が乗った拳はペネペローペの脳をしっかり揺らす。
「お兄ちゃん!」
逃げろ、という言葉すら作れず、ペネペローペは無様に膝をつく。
いまいち表情がわからないゴブリンの顔に、はっきりとした優越が乗った。
落としてしまった手斧を悠々と拾い、そいつでこの小賢しいオークの小僧の頭をかち割る。
そういった表情だ。
悔しい、とも思わず、ペネペローペは背を向けたゴブリンをぼんやりと見やる。
手足に力が入らず、背筋には蟻の大軍がまとわりついているかのようなむずがゆさ、ただ腹だけが熱い。
「お兄ちゃん!」
しかし、朦朧とした意識を無視し、ペネペローペの身体は動いた。
「グゴァ!?」
無防備なゴブリンな背にしがみつき、地面に押し倒す。
馬乗りになったペネペローペは、全身の力を籠めてゴブリンの後頭部に拳を振り下ろした。
「死ねぇ!」
生まれて初めてペネペローペは、腹の底から雄叫びを上げた。
「死ねぇ!」
拳が痛い。
まだ幼いペネペローペの拳は、ゴブリンの頭蓋骨を突き破れるほどに出来上がっているはずもなかった。
「死ねぇ!」
だが、撃つ。
シャルロットを守る、その一心で。
びくんびくんと、ペネペローペの下で跳ねるゴブリンの身体に、どうしようもない気持ちの悪さを感じる。
そして、ふと思い出す。
人の身体によく似た構造をしたゴブリン、子供の力では頭蓋骨の厚さと丸みは砕けない。
だが、頚椎なら折れるはずだ、と。
脳裏に描くのは骨格図、環椎と軸椎は大ぶりで強度がある。
ならば、と頭蓋骨よりも指二本下を狙う。
「死ねぇ!」
ペネペローペの振り下ろした拳は、確かにゴブリンの第三第四頚椎の間をへし折った。
骨を折った感触が伝わってくる。
それは、命を奪った感触だった。
「人間、勉強はしておくもんだ……」
意識して学んでいたはずのオーク訛りもかなぐり捨て、ペネペローペは日本語を呟いていた。
そんな事にも気付かず、ペネペローペは振り返る。
「シャルロット、大丈夫だったか?」
「お兄ちゃんこそ大丈夫!?」
「ああ、大丈夫だ」
飛び付いてくる妹の頭を撫でながら、ペネペローペは考えた。
「お兄ちゃんは運がいいからな。 俺は『幸運の』ペネペローペだから」
自分でも何を言っているかわからない誤魔化しの言葉だが、それでいいと思えた。
妹を、守れたのだから。
夢が、終わる。
夢が終われば、そこには味気ない現実が待っている。
「よう、ペネやん。 いい夢は見れたかい?」
「……はっ、失礼しました!」
書類の海で魔王は口端を上げ、皮肉っぽく笑っていた。
慌てて謝罪するペネペローペに、魔王は言う。
「もう少しさ、ペネやん」
「はい」
「もう少しで、全てが終わる」
魔王軍はその数を急速に減らしている。
無秩序な略奪を行う、統制の取れない自称魔王軍共が人間に狩られ、残ったのは魔王とペネペローペの命に従う本物の精鋭達だけになる。
そうなった時、魔王軍は動き出す。
その日は、もうすぐそこに迫っていた。
「とりあえず十日連続で徹夜しなくても済むようになるといいな!」
「無理ではないですかね!」
ギャハハハ、ワハハハとヤケクソ気味に笑う二人のそばで、『水の』ザリニ=ガは静かに泡を吹いていた。
ザリニ=ガ、実に十三日ぶりの睡眠であった。




