50.危険な後輩、危険なデート①
今回は難産でした。
お待たせして申し訳ありません。
それはとある雨の日のこと。
6月上旬。5月のカラッとした陽気から一転して雨の続く梅雨に入り、町は今日もシトシトと小雨が降り続いていた。
そんな雨の夜を、一人の男が傘をさして歩いていた。
「やれやれ……今日も疲れたな……」
スーツを着た男はどうやら会社員のようである。遅くまで仕事をしてきたのだろう、その顔にはくっきりと疲労の色が浮かんでいた。
少しでも早く家に帰りたい、横になりたい。そんな気持ちから早足になって、男はあちこちに水たまりができている道路を革靴で歩いて行く。
「ん……?」
そんな男の進行方向上に人影が現れた。街灯に照らされた影は女性のものである。
人気のない道であったが、別に誰かとすれ違うこと自体は気にするほどのことではない。それでも男が怪訝に感じたのは、女性が雨の中を傘もささずに歩いていることだ。
(そんなに強い雨じゃないが……だからといってなあ……)
女はすでに全身ずぶ濡れになっている。長い黒髪も、紺のスーツも水を吸ってビショビショだ。一見して整っていそうな顔つきなのだが、それも髪の毛が顔に貼りついて無残な有様となっていた。
(何かあったのか? 失恋して傘もさす余裕がないとか? 傘を貸してあげたほうがいいのだろうか……いや、あれだけ濡れてたらもう無駄だよな)
「…………」
「…………」
男は声をかけるべきか悶々と考え込みながら、それでもあと一歩勇気を振り絞ることができず、徐々に女との距離が縮まっていく。
彼女がどうして傘もささずに歩いているのかは好奇心がそそられることだが……それ以上にタダごとではない雰囲気を纏っている女に話しかけるのが躊躇われたのである。
男と女は街頭の明かりの下ですれ違い、そのまま離れていく。
「きゃっ!」
「へ?」
……かと思われたが、突然、男の背中に短い悲鳴が突き刺さる。反射的に振り返って、男は背後へと顔を向けた。
「あれ……どこに行った?」
振り返った先に女性の姿はなかった。
2人がすれ違ったのは50メートル以上は続いている長い一本路である。しばらく曲がり角はなく、相手の姿を見失うことなどありえない。
にもかかわらず、まるで神隠しにあったかのように女は忽然と消え失せていたのである。
「おい、マジか……まさかこれって……」
男は茫然とつぶやく。男の脳裏に嫌な予感がふつふつと浮かんでくる。
はたして、自分がすれ違ったのは本当に生きた人間だったのだろうか。
雨の中を傘もささずに歩いていたスーツ姿の女性の正体は、ひょっとしたら幽霊か何かではなかったのだろうか。
(い、いやいやいや! そんなの有り得ないだろ。幽霊なんているわけない!)
錯乱して子供の頃に聞いた童謡を頭の中で歌い出す男。一歩二歩と女性が消えた道を進み、ふと足元へと目を向けた。
「へ……?」
そこにはぽっかりと丸い穴が開いていた。マンホールの蓋が開いていたのだ。
さっき自分が通った時には気がつかなかったが、はたしてその穴はいつから開いていたのだろう。
「えーと……あっ、ひょっとして……落ちたのか!?」
先ほどとは違った意味で、男性は驚きの声を上げる。
心霊現象でなかったことは一安心だが、これは別の意味で非常事態である。マンホールの穴がどれほど深いものかはわからないが、打ちどころが悪ければタダでは済まないだろう。
男は慌ててその場にしゃがみ込み、マンホールの穴を覗き込もうとした。
「アアアアアアアアアアッ!」
「うわああああああああっ!?」
そんな男の手を穴から這い出てきた女の手がつかむ。指先の付け爪が男の腕に突き刺さり、鋭い痛みが脳に向かって走る。
「助けて助けて助けて助けてっ……!」
「や、やめ……離せっ!」
血走った眼でこちらを見つめ、ガッチリと腕をつかんでくる女。
男は正体不明の恐怖を感じて、思わずそれを振り払う。そのまま後ろに転がるようにして女の腕から逃れた。
「嫌あああああアアアアアアッ!」
「うっ……!」
マンホールから這い出ていた女であったが、まるで何者かに引きずり込まれるようにして穴の中へと引き戻されていく。
その姿は怪物に飲み込まれるパニック映画の被害者のようである。
やがて悲鳴が止む。雨粒が道路を打つ音の除いて、路地からは一切の音が消える。
「っ……!」
呆然と座り込む男の視線の先、マンホールの中から細い腕が伸びてきた。先ほどの女性のものではない。老人のように病的に痩せ細った腕である。
腕は穴の横にあったマンホールの蓋をつかんで、ズリズリと音を立てて穴を閉じていく。
やがてカチャリと何かが嵌まる音がして、何事もなかったかのように目の前の異変は消失した。
「ハッ……はははっ……」
たび重なる異変に正常な思考能力を失っていた男は、もはや乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
全ては現実ではない。悪夢だったのかもしれない――そう思い込もうとする男であったが、地面には確かにあのスーツ姿の女性が存在したという証拠が残されている。
地面をひっかいた時に剥がれてしまったのだろう、赤いマニキュアを塗られた付け爪が水たまりの中に浮かんでいるのであった。




