雪ノ下沙耶香の受難②
「逃げますよ、沙耶香さん。戦っても勝ち目はありません」
「わかりました、小野さん……!」
命からがら『神』から逃げ延びた私と小野は、道路を走っていたタクシーを停めて飛び込むように車内に入った。
こちらの最高戦力であった真砂は聖に……『神』によって殺されてしまった。敵前逃亡など情けないが、私と小野だけでは勝ち目はない。
夜は吸血鬼の時間だが……朝になれば動きも弱まるはず。私達は両親がいる雪ノ下家の屋敷に逃げ込むことにした。
「ど、どちらまで……?」
「二丁目の雪ノ下道場までお願いします」
驚いている運転手に行先を告げる。小野が携帯していたスマホで結社に連絡をとって援軍を要請する。
『作戦失敗は把握しています。すでに各所に連絡をとっていますので、そのまま警戒を続けてください』
結社の本部の人間が電話越しにそんなことを言ってくる。
どうやら、すでに私達が『神』の顕現阻止に失敗したことを把握していたようだ。何らかの術によって『神』の力を感知したのだろうか?
吸血鬼の『神』──人類を滅ぼしうる存在が降臨したにもかかわらず、街は相変わらずの様相だった。
不気味なほどにいつも通り。平穏を保っており、何事もなかったように人々は夜の道路を行き交っている。
「小野さん……私達はこれからどうすればいいのでしょう?」
私は思わず弱気になり、そんなことを口にしてしまう。
一緒に戦ってくれた真砂君はもういない。
雪ノ下家が保護していた聖は『神』に身体を乗っ取られて、今や敵になっている。
事態は完全に私達の手を離れていた。いったい、これから何ができるというのだろうか。
「雪ノ下さん、悲観するのはまだ早いです。結社には神格存在に対抗できる戦力もいます。私達は逃げ延びることを考えましょう」
「……はい」
小野が平坦な口調で励ましの言葉をかけてきた。
バックミラー越しにチラチラとタクシーの運転手が視線を向けてくる。どうやら、会話の内容から私達の焦りや不安を察しているのだろう。
そのまま雪ノ下家の道場までタクシーを走らせる。小野がかなり多めの金額を手渡し、運転手の耳元でそっと囁く。
「私達の会話は忘れなさい……&$%‘(#~!_)」
「……はい。ありがとうございました」
耳元で呪文を囁かれた運転手はトロンとした目になって、そのまま走り去ってしまう。
眠そうな顔をした運転手が事故を起こさず無事に帰ることができたかは気になるが……これで警察などを呼ばれることはないだろう。
そのまま雪ノ下家の屋敷に入った私達は両親に戦いの顛末を報告し、家の周囲に結界を張った。
この程度の結界がどこまで通用するかわからないが……時間稼ぎくらいになるだろう。
早ければ明日には結社の援軍が到着するが……それまで生き延びることができるだろうか?
「……死ぬことが怖いわけじゃない。だけど……真砂君がしてくれたことを無駄にするのが心から恐ろしい」
これは推測だが……真砂1人であったなら『神』から逃げ出すことができたのではないか。
真砂が死んでしまったのは私を庇ったから。私という重荷が足を引っ張ったから逃げきれずに敵の攻撃を浴びてしまったのではないか。
「……私が死んだら真砂君の死が無駄になる。それだけはダメだ」
親愛なる年下の友人の死に報いるための方法はただ1つ──生き残って『神』を倒す。
真砂を殺した『神』を倒して人類を救う。そうやって初めて、私が真砂の代わりに生き残った意味がある。
「……そのためにも今は生き残らないといけない」
決意を込めて、私は結界に力を注ぎ入れる。
その夜は一睡もすることなく警戒を続けたが……結局、朝になっても『神』の襲撃はなかった。
『神』も吸血鬼である以上は日光が苦手なはず。器がハーフの聖である以上、光を浴びて灰になるということはないだろうが……多少は動きが鈍るはず。
「警察の仲間とも連絡をとっていましたが……目立った事件は起こっていないようです。例のビルでの爆発はガス漏れ事故として処理されており、警察と消防が駆けつけたとき、その場にはすでに『神』の姿はなかったようです」
「そうですか。聖は……いえ、『神』は何処に行ったのだろうか?」
『神』の目的はこの世界を吸血鬼のものにすること。
てっきり、そのための邪魔になる私達を始末するために追ってくるだろうと思っていたのだが……。
ひょっとしたら、『神』はまだこの世界に降臨したばかりで完全に力を取り戻していないのかもしれない。力を蓄えるためにどこかに身を隠しているのだろうか?
「……そうだとしたら、叩くチャンスだな。完全に力を取り戻す前に倒さなくては」
だったら……まずは『神』がどこに消えたのかを探す必要がある。
危険ではあるが、結社からの応援が来る前に少しでも情報を集めておかなくてはなるまい。
私は小野と一緒に町へ出る。
そして……すぐに異変に気がついた。
「人がいない……?」
いつもの町並み。いつもの風景が広がる町であったが……そこから『人間』の姿が全く消え失せていた。
カラスが電線の上にとまっていたり、野良猫が車のいない道路を悠々と横断していたり……動物の姿はあるのに人間だけが見当たらない。
「……仲間の警察官と連絡が取れなくなりました」
人気が消え失せた異様な町並みの中、スマホを耳にあてて小野が言う。
「県警にいる仲間は無事です。ですが、この町の警察署の人間は……結社のことを知る協力者も一般の警察官も、誰とも連絡が取れません」
「……警察署が襲われたということだろうか?」
「……いえ。おそらくですが、この町で起こっている異変。人間の消失に巻き込まれたのではないでしょうか?」
「……皆さん、何処に行ったのでしょうか?」
「わかりません。ただ、建物に損傷などはないので力ずくで連れ去られたということはないはずです。無事だといいのですが……」
私と小野は不安に瞳を曇らせながら、人間のいない町並みを見つめる。
吸血鬼の『神』が降臨して1日。
着々と迫ってくる『破滅』の気配を背中に感じ、私は小さく背中を震わせた。




