6
「最高だよ、父上」
王子という身分であまりおいそれと外出できないサイラスは、今日から一か月、毎日のようにオリヴィアが城にやってくると聞いて顔を輝かせた。
なんでも、王太子に割り振られる仕事を、ティアナのかわりに処理するらしい。
「今回ばかりは、ティアナの無能ぶりを褒めたい気分だね」
「……あまり大きい声で言わないほうがよろしいですよ」
護衛官のコリンが苦笑する。
サイラスは今、オリヴィアに会いに行くために廊下を歩いている途中だ。誰が聞いているとも限らない。聞かれてもかまわないと思っているのかもしれないが、それが万が一当人や王太子の耳に入ると面倒である。
オリヴィアにプレゼントする本を大切そうに抱えて、サイラスが彼女の部屋の扉を叩くと、中から侍女のテイラーが顔を出した。
オリヴィアに会いたいと告げると、テイラーは慌てたように彼女に確認を取りに行く。
やがて部屋の中に案内されたサイラスは、書類がたまっているだろうと予想していた机の上が整然と片付いているのに驚いた。
「忙しいかな?」
確認のために問いかけると、サイラスを出迎えるためにソファから立ち上がったオリヴィアが首を振る。
「いいえ。ちょうど片付いたところなんです」
「……へえ」
サイラスは(もう片付いたのか……)と心の中でびっくりしながらも、表面上は微笑んだまま、手に持っていた本をオリヴィアに差し出した。
オリヴィアは差し出されるままに本を受け取って、それからハッと息を呑む。
「これ……『栄華記』の完全版の写本……!」
栄華記は、六百年前から五百八十九年前までの十一年間にブリオール国で起こった内乱について記した戦記だ。この十一年は混沌の戦乱時代と言われ、ブリオール国が大きく四つの小国に分断された時代でもあった。その四つの小国にはそれぞれ、王子や王女が「王」として立った、いわば王位継承のための戦だ。
王の崩御とともに起こった内乱は、各地に大きな被害を及ぼした。
その戦記がどうして『栄華記』と呼ばれているのか。それは、その内乱で勝ち残った第二王子の末裔が現代まで続く王家の当主――すなわち国王を務めているからである。
しかしこの『栄華記』。記したと言われるのが、限りなくその第二王子に近い立場にいた人間であることからか、少々表に出しにくい、いわば汚い内容についても記されてある。よって、貴族を含め、一般的に読むことが許可されているのは、『栄華記』から抜粋した一部の部分のみで、完全版は城で厳重に保管されていた。オリヴィアと言えど、どうやったって手にすることができなかった代物である。
オリヴィアは興奮に目をキラキラと輝かせて、けれどもそういった後ろ暗い背景を知っているからか、伺うようにサイラスを見やった。
「君に貸してあげるよ」
「……いいんですか?」
「うん。一応、父上にも許可を取ったしね。君は将来僕の妃になるのだから、何ら問題ない」
「……まだ、求婚のお返事をしていませんよ?」
「わかってるよ。でも僕も言った。その気にさせて見せると」
オリヴィアはまだ何か言いたそうだったが、目の前の本への興味が強すぎたようで、それ以上は何も言わずに、まるで壊れ物に触れるかのように本の表紙を開く。
「うわぁ……」
まるで幼い子供のように顔中で感激を表現するオリヴィアに、サイラスはくすりと笑った。
(かわいい……)
オリヴィアは無表情というわけではないが、あまり大きく表情を動かさないタイプの女性だ。常に冷静。そのオリヴィアが、宝石のように目をキラキラさせて、わくわくしているのがありありと伝わってくるような表情で本のページをめくっている。
(好感度、一アップってところかな)
オリヴィアには薔薇の花束を二回贈ったが、いまいち反応がよくなかったので、考えたあげくに彼女の好きそうな本を選んでみた。これは正解だったようだ。
本当ならば観劇やショッピング、遠出などにも誘ってみたいが、急いては事を仕損じるとも言う。オリヴィアにとってサイラスは、今のところ、突然ぽっと視界に入り込んできた小さな鳥程度の存在だろう。特別な感情など何もない。ただ求婚されて驚いた。それだけだ。せめて、オリヴィアが好んで会いに行く小鳥くらいには昇格しないと、デートに誘ってもあえなく断られるだけのような気がしている。
「その本を読みたい気持ちもわかるけれど、どうだろう。その本を読むのは後にして、僕と図書館に行かないかな? 実は、図書館の禁書スペースの鍵をゲットしたんだ」
サイラスがこれ見よがしに金色に光る鍵を目の前で揺らすと、オリヴィアが勢いよく顔を上げた。鍵が揺れるにつれて瞳が動いている。……可愛すぎる。
(卑怯だって言われても、どんな手だって使うつもりだからね)
オリヴィアは本に目がない。だから、絶対に食いつくはず。
案の定、オリヴィアは『栄華記』を机の引き出しに収めて鍵をかけると、食い気味に返事をした。
「行きます!」
☆
「さすがティアナだな、もう仕事が片付いたようだ」
アランは休憩がてら庭を歩きながら、ほくほくとつぶやいた。
アランの半歩後ろを歩く補佐官のバックスは、アランが書類のことを言っているのだと悟って、言いにくそうに口を開いた。
「そのことですが……、それらの書類を処理されたのは、レモーネ伯爵令嬢ではなく、オリヴィア様です」
「なに?」
アランは足を止めてバックスを振り返った。
「オリヴィアが? 馬鹿を言うな。オリヴィアが処理できるはずがないだろう。第一、書類はティアナに回すように伝えたはずだが」
「その件ですが、レモーネ伯爵令嬢が陛下に直談判されたそうです」
「は? 直談判?」
「ええ。なんでも、王妃教育で忙しく、書類にまで時間が割けないため、一か月ほどオリヴィア様に代わって処理いただきたいと」
アランは目を丸くしたが、すぐになるほどとうなずいた。
「そうだな、王妃教育は大変だろうから。時間が割けなくとも仕方ない。オリヴィアは遊んでいるのだろうし、どうせ替え玉でも立ててほかのものに書類の処理をさせているのだろう。一か月くらいかまわない」
「……。殿下。オリヴィア様は替え玉など立てておりません。書類についても、すべてオリヴィア様の直筆で、的確に処理がなされていました」
「冗談を言うな」
「冗談ではございません。恐れながら、これまでもすべてオリヴィア様がお一人で処理なさっていました。あの方の仕事は的確で無駄がないと、オリヴィア様に仕事を頼んだものは皆そう申しております」
アランは怪訝そうに眉を寄せた。
「そんなはずは……」
ない、と言いかけたアランは、遠くから「殿下!」と呼ぶ声に顔を上げた。見れば、ティアナの王妃教育を担当している教育官のワットールがこちらへ向かって小走りに駆けてくるところだった。
「どうした?」
ワットールは何かに怒っているようだった。アランのそばまでやって来た彼は、モノクルを指先で押し上げると、まくしたてるように言った。
「殿下。レモーネ伯爵令嬢の王妃教育ですが、私のほかにも一般教養レベルの教師をお付けしていただきたく」
「なぜだ。ティアナはもう十七。一般教養など……」
「習得されておりませんからそう申し上げております。はっきり言って、私が教鞭をとるに値する知識レベルとは思えません」
「ワットール、いくらお前でも不敬だぞ」
「そう思われるのであれば、実際に殿下がご覧になればよろしいではございませんか? ともかく、歴代の王の名前どころか、簡単な算数もできないような方の相手は出来かねます」
「そんな馬鹿なことがあるか。第一、オリヴィアはもっとひどかったはずで――」
「お言葉ですが殿下。オリヴィア・アトワール公爵令嬢には私が教鞭をとる必要がございませんでした」
「そうだろう。オリヴィアは学ぶ姿勢すら――」
「私が教える必要もないほどに、充分すぎる教養と知識を有されていらっしゃいましたから」
「……なに?」
「殿下は何かを勘違いなさっているようですので、この機会にはっきりと言わせていただきます。オリヴィア様は天才です。ティアナ様はオリヴィア様の足元にも及びません。それでは」
言いたいことを言って憤然と去っていったワットールの背中を見つめながら、アランが茫然とする。
思わずバックスを振り返ると、補佐官はため息交じりに言った。
「……恐れながら、私もワットール様と同意見にございます」
アランは沈黙した。











