5
次の日――
オリヴィアは彼女に与えられた城の新しい部屋に入った途端に、やれやれと息を吐いた。
広い部屋だ。
そして、調度もかなり高価なものでそろえられている。ともすれば、王太子の婚約者であったときに城に与えられていた部屋よりも豪華かもしれない。
けれども、窓際のライティングデスクの上に、どん! と積み上げられた書類の山だけが、美しく整えられた部屋にそぐわなかった。
「また、ずいぶんため込んだのね……」
王から王太子に割り振られる書類の決裁を頼まれたのは昨日のことだ。だが、オリヴィアはもう王太子の婚約者ではない。よって、書類を決裁する資格はないのだ。それを言うと、王は楽しそうに笑いながら、「私が責任を持つよ」と言い出した。
オリヴィアには迷惑な話だったが、そのかわりに、暇があれば好きなだけ図書館に入り浸っていいと言われて――、それにつられて頷いてしまった。城の図書館は誰でも簡単に訪れていい場所ではない。王太子の婚約者であった頃は自由に出入り可能だったが、現在ただの公爵令嬢であるオリヴィアは、城の図書館の出入りには都度、申請と許可が必要だったのだ。
「まったく、図々しいにもほどがあります! 本来、王太子殿下とレモーネ伯爵令嬢がすべきことではございませんか!」
公爵家から一緒に連れてきたテイラーがぷりぷり怒りながら紅茶をいれる。
オリヴィアは苦笑した。確かにもうこの手の仕事はオリヴィアの手から離れたが、つい最近までやっていたのだから、さほど苦でもない。さっさと片づけてしまえば図書館で読書し放題とあれば、むしろ悪くない相談だった。
「いいじゃない、一か月だけだって言うし」
「でも……」
「まあまあ。じゃあ、仕事を片付けてしまうから、テイラーはその間、お菓子でも食べてゆっくりしていて」
オリヴィアはそう言って机につくと、山のように積まれた書類の一枚目に手を伸ばして、黙って仕事を開始した。
☆
「見ろ、アトワール。仕事がもう片付いた」
「……陛下。人の娘を我が物顔で使うのはやめてください」
大臣たちからオリヴィアに振った仕事と、その完了報告を受け取った国王は、ほくほく顔で宰相を振り返った。
宰相であるアトワール公爵は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、国王の手元の報告書に視線を落とす。
「まったく。なんですか。仕事のほとんどがオリヴィアに回っているなんて……。せめて半分は王太子殿下に回してくださいよ」
「仕方ないだろう。あれに回すと期限までに返ってこないのは、大半の大臣たちも知っている」
アトワール公爵は「無能」という言葉が喉元まで出かかったが、かろうじて飲み込む。国王が何を企んでいるのかは知らないが、オリヴィアはアトワールの可愛い可愛い愛娘だ。王太子との婚約破棄については、むしろ、あの王太子と結婚させれば娘が苦労するのは目に見えていたので、腹は立ったが文句は言わなかった。だがしかし。もう未来の王妃ではなくなったオリヴィアをいまだにこき使うのは許せない。
オリヴィアは我が娘ながら頭のいい子供だった。
そして、彼女は新しい知識を吸収することは好きだが、特にそれをひけらかすことに快感を覚えないたちなので、出しゃばった行動をとることはない。ゆえに、王太子の「オリヴィアは愚か者」という言葉を鵜呑みにした馬鹿どもが、娘を軽んじることにいささかならぬ憤りを覚えていた公爵にとって、まるでティアナの影武者のように扱われる今の状況はあまりに面白くないのである。
第一、王妃教育で忙しいなどという理由が、理由として通ると思っているのだろうか。
そもそもオリヴィアは王太子に妨害されて王妃教育すら受けなかった。教師たちを解雇されたからだ。もちろん、公爵は公爵家でオリヴィアに十分な教育を施したし、彼女が望む教師を用意し、城で受ける王妃教育と引けを取らないだけの――、いや、それ以上の教養を身に着けさせた。オリヴィアはいつも本ばかり読んでいるように見えるが、非常に多忙だったのである。本来遊ぶ暇すら生まれない学習スケジュールの中で、余暇を作り出したのは、ひとえに娘の有能さと勤勉さがなせる業だった。
それだけ苦労してきたオリヴィアは、正当な評価をされるべきだ。
「陛下。約束ですからね。オリヴィアを貸すのは一か月だけです。延長は認めませんよ」
「わかっている」
本当にわかっているのだろうか?
オリヴィアが王太子との婚約を破棄してから今日まで、国王は妙に楽しそうだ。長い付き合いであるアトワール公爵は、王がこういう顔をしているときはたいてい、悪だくみをしているときだと知っている。
「これ以上娘を巻き込まないでください」
思えば、王太子アランとの婚約の時もそうだった。
アトワール公爵は娘に可能な限り自分の意志で結婚相手を選んでほしかった。政略結婚が当たり前とされる貴族社会で、アトワール公爵は恋愛結婚だ。だから、娘にも自由を与えたかったというのもある。それなのに、この国王は、わずか六歳ばかりの娘に目をつけて、嫌がるアトワール公爵を説き伏せて王太子の婚約者にしてしまった。
王は大臣たちからの報告書を大切そうに机の引き出しにしまい込むと、にやにや笑って言った。
「それは約束できないな」
アトワール公爵は無礼も承知で、大きく舌打ちした。











