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アランはイライラと爪先で机をたたいた。
目の前に山になっている書類はすべて、アランの決裁待ちの書類たちだ。
「おい、どうしてこんなにあるんだ」
アランが補佐官であるバックスを睨むと、彼は禿げかかった頭を撫でながら、言いにくそうに口を開いた。
「ですが殿下、書類はいつもこのくらいありましたよ……?」
「馬鹿な! いつもはこの十分の一くらいだったはずだ!」
「それは……」
バックスは口ごもると、意を決したように続ける。
「書類のほとんどは、その……、アトワール公爵令嬢が片づけてくださっていましたから……」
バックスが言いにくいのには訳がある。アランの仕事が遅く、書類がたまっていく一方で弱り切っていた時に、それとなく手を差し伸べてくれたのがオリヴィアだったからだ。彼女は的確に書類を分類し、王太子の婚約者という立場の彼女が処理できると判断できた大半の物を手元に引き取ってくれていた。王太子の手に残ったのは、特にややこしくもない、わずかばかりの書類だけだ。そのわずかな書類でも相当な時間をかけていたアランに、どうしてこの秘密が言えようか。王太子が遅いから婚約者様に泣きつきましたなんて、言えるはずがない。言ったは最後、矜持を傷つけられて怒り狂った王太子の手によってバックスの首が飛ぶ。
「オリヴィアが!?」
よほど驚いたのだろう。アランが執務机から立ち上がった。
勢いよく立ち上がりすぎたせいで、積み上げていた書類がばらばらと床に散らばる。
「馬鹿な! あの女にできるはずがない! あの女は王妃教育も受けていない無能ものだぞ!」
「ええっと……」
バックスは返答に困った。無能はお前だと言いたかった。もちろん言えるはずがない。
どういうわけか、アランを含め、城で生活している大半の使用人たちはオリヴィアのことを愚者だと思っているが、とんでもない。バックスをはじめ、アランに困らされていた一部の人間からすれば、オリヴィアは女神のような女性だ。彼女がいるから、今まで仕事が回っていたのである。
バックスがどう説明したものかと悩んでいると、突然アランが手を叩いた。
「そうかわかったぞ! オリヴィアめ、誰か頭の切れる人間を雇ったな! そうに違いない!」
どうしてそうなる。
バックスは頭を抱えたくなった。オリヴィアがアランのために誰かをこっそり雇う理由がどこにある。それならアラン自身に雇わせればいいだけだ。馬鹿馬鹿しい。第一、アランの手元にある書類に決裁できる人間は限られる。誰でもいいわけではないのだ。どこの誰とも知れない人間を雇っても、その人間が決済できるものではない。というか、目に入れるのも問題だ。
「バックス! 今すぐにオリヴィアの雇った人間を探し出せ!」
そんなものがいるはずもないのに、アランは無茶を言ってくれる。
バックスはだらだらと汗をかきながら、遠慮がちに告げた。
「恐れながら殿下、それらの書類は、殿下か殿下の婚約者様、陛下、王妃殿下にしか決裁できない書類でございます……」
「……それもそうだな」
さすがにそのあたりの「常識」は理解してくれたらしい。ほっと胸を撫でおろしたバックスだったが、次のアランの発言に目を剥いた。
「わかった! では、ティアナに手伝ってもらおう」
やめてくれ! バックスは叫びそうになったが、寸前のところで口を押えて必死に耐えた。
☆
レモーネ伯爵は凍り付いた。
楕円形の机が中央におかれた会議室のことである。
上座に国王、その隣に宰相であるアトワール公爵が座している。
レモーネ伯爵は本日の進行役で、立ち上がり本日の議題を読み上げている最中だった。
会議はスムーズに進み、アトワール宰相が射殺さんばかりの視線でこちらを睨みつけてくる以外は、特に問題もなく会議を終えるかに思えた、その時だった。
「陛下っ!」
悲鳴のような声とともに、会議室の重厚な扉が開け放たれた。
レモーネ伯爵は何事だと叱責しようとしたが、口を開いたままその動作を止めた。無礼にも飛び込んできた人物が、自分の娘であったからだ。
レモーネ伯爵の愛娘で、先日アラン王太子の婚約者となったティアナ・レモーネは、興奮しているのか、顔を真っ赤に染めていた。
レモーネ伯爵はあまりのことに思考を停止させ、その隙に何を思ったか、ティアナは国王の座す上座の方へと駆けて行ってしまう。
「ティ、ティア――」
状況を理解できないままに震えた声で娘を呼ぼうとするも、途中でつっかえて最後まで言葉を紡げない。
会議室にいる要人たちが皆唖然とする中で、国王ただ一人がにこやかに微笑んでいた。国王が微笑んでいるから、注意したくとも誰も言葉を発することができず、会議室には奇妙な沈黙が落ちる。
「陛下! お願いがございます!」
ティアナは自分が何をしでかしているのか気がついていないのか、国王に詰め寄った。
王は微笑みを浮かべたまま、「何かな?」と続きを促す。
レモーネ伯爵はひとまずほっとした。国王は怒っていないようだ。
ティアナはまくしたてるように続けた。
「殿下がわたくしに書類の決裁を手伝うようにとおっしゃられました!」
「ふむ。王太子の婚約者であれば、王太子の補佐をすることも当然出てくる。それがどうかしたか?」
「はい。もちろんわたくしも、それについては理解しております。けれどもわたくしはこれから妃教育で忙しくなります。お仕事をお手伝いしている暇はございません」
「なるほど」
「でも、殿下はお忙しいようで、お一人ですべての仕事をなさるのは難しいとおっしゃられました!」
「それで?」
王はにこにこと微笑んだまま頷いている。その隣で、アトワール公爵が舌打ちでもしたそうな表情を浮かべていた。宰相だけではない、会議室にいる、レモーネ伯爵を除くすべての貴族がだ。ティアナの行動は無礼以外のなにものでもない。会議中に許可なく乱入し、国王に勝手に話しかけたあげくに、ともすれば王太子の能力を疑うような発言。というか、会議室の前の衛兵は何をしているのだ。どうしてティアナが会議室に飛び込んでくる前に取り押さえない。
国王が笑顔を浮かべているから誰も叱責しないが、皆、怒りを抑えているのがありありと伝わってくるような顔をしている。
ティアナは冷え切った会議室の空気にまるで気がついていないのか、続けた。
「ですので、わたくしが本来お手伝いするべき仕事を、どうぞオリヴィア様に回してくださいませ!」
「いい加減にしろ!」
とうとう、アトワール公爵の怒りが爆発した。娘を王太子の婚約者の座から蹴落としたあげくに、自分の仕事をさせろだの、図々しいにもほどがある。
ティアナはアトワール公爵に視線を向けて、どうして公爵が怒っているのかわからないとばかりに首を傾げた。
「どうして怒るんですか? オリヴィア様が今までされていたということは『オリヴィア様程度』でもできる仕事なのでしょう?」
「無礼な――」
「宰相」
アトワール公爵が怒りのあまり、ティアナを会議室から引きずり出しそうになったとき、国王が穏やかに、けれども有無を言わさぬ声で遮った。
国王は変わらぬ微笑を浮かべたまま、ティアナに言った。
「いいだろう。それらの仕事は『オリヴィア』が適任だ。けれども、いつまでもオリヴィアにその仕事をさせ続けるわけにはいかない。よって、一か月――、一か月の間だけ、私からオリヴィアに頼むことにしよう。だが、一か月後からはそなたの仕事だ。それでいいね?」
「もちろんですわ。一か月もすれば、王妃教育にも『慣れ』ますもの。オリヴィア様程度ができる仕事など、その余暇にいくらでも対応可能です」
「それは頼もしいな」
国王は機嫌よさそうに笑って、会議室にいる大臣たちに視線を向けた。
「そなたたちも、これから王太子の決裁が必要になる書類はオリヴィアに回すように。ただし、どの書類を回したか。どれほどの量を回したか、きちんと書き留め、それを私に報告しなさい」
大臣たちは顔を見合わせて、それから怪訝そうな顔をしながらも頷いた。
王は最後にアトワール公爵に向き直り、笑顔のまま言った。
「すまないが公爵、少しばかりオリヴィアを借りるよ?」
アトワール公爵は忌々しそうにティアナを睨みつけた後で、肩をすくめた。











