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オリヴィア・アトワールは城から戻ってくるなり、ぐったりと自室のベッドの上に倒れこんだ。
「疲れたわ……」
今日はあまりにたくさんのことがありすぎた。
婚約者であった王太子に婚約破棄をされ、その弟から求婚されるなど、いったい誰が想像できただろう。
そもそも、王太子の婚約破棄など、醜聞以外のなんでもない。こんなにあっさり「婚約破棄する!」という一言で破棄できるようなものでもない。王はいったい何を考えていたのだろうか。少なくとも、何かを企んでいる。
オリヴィアの知る限り、国王は物事の大局を見誤るような人間ではない。
つまりは、息子である王太子の婚約破棄という醜聞以上に、王が得られるものの方が大きいということだ。だが、それはなんだろうか。
(……ま、わたしにはもう関係のないことね)
突然の婚約破棄には驚いたが、オリヴィアの中に怒りや悲しみという感情は湧き起らなかった。しいて言えば「あー、やっぱり馬鹿ねぇ」というあきれだろうか?
王太子アランは、何もわかっていない。
王太子という身分で、長年の婚約者を捨ててあっさり別の女に乗り換えるという醜聞が、自身にどういう影響を及ぼすのかということを。
けれども、やはりこれももうオリヴィアには関係のないことだ。
そもそも、アランの婚約者という立場は大変だった。超ストレスだった。バカのふりをしろと言われたけれど、アランが馬鹿をするときに見て見ぬふりはできない。さりげなくアランのフォローに回り、その手柄すべてをアランに譲り渡して、愚者のふりをするというのは、オリヴィアにとって苦痛以外の何でもなかった。
しかもアランは、オリヴィアが陰でいろいろ手を貸していることも知らず、オリヴィアのことを「愚か者」だの「無能」だの「無知」だの声高に言って回るのである。そのたびに隣で「学のないもので……」と謙遜するのは、正直言ってイラついた。
バカはお前だ。
こう言えたらどんなにかすっきりしたことだろうか。さすがに王太子を馬鹿呼ばわりするわけにもいかず、オリヴィアは何度出かかった言葉を飲み込んだだろう。
「でも、求婚なんて……、またどうして」
だから、アランのことはもういい。問題はサイラスだ。彼はオリヴィアに恋していたと告げたが、だからと言って兄の元婚約者に、婚約破棄直後に求婚してくるほど、彼は愚かではなかったはずだ。
少なくともサイラスは、オリヴィアが知る限り、分別をわきまえた男であるはずだった。
国王が許可を出したところを見ると、これも国王の企みの一つなのかもしれないが、王は何を企んでいるのだろう。
「オリヴィア様、ドレスが皺になりますわ」
侍女のテイラーに言われて、オリヴィアは起き上がる。
テイラーに着替えを手伝ってもらって、室内着の楽なワンピースに身を包むと、一つにまとめていた艶やかなプラチナブロンドをほどいて背に流した。
「ねえ、テイラー。サイラス様に求婚されちゃったわ」
「まあ!」
テイラーはオリヴィアがアランに婚約破棄をされたことについては一足先に聞いていたようだった。けれどももともとアランにいい感情を覚えていないテイラーは、むしろ主人がいけ好かない男に嫁がなくてすんでラッキーくらいに思っている様子。
けれども、サイラスに求婚されたと聞くと、彼女はぱあっと顔を輝かせた。
「素敵ではございませんか! サイラス殿下なら大賛成です!」
サイラスは真面目で勤勉。けれども、控えめで目立つような行動はとらず、派手好きな王太子の影でひっそりと息をしているような王子だ。
だが、彼が紳士で、穏やかな性格をしていることは、彼と少しでもかかわったことのある人間ならばすぐに気がつくことである。オリヴィアが登城するときに同行しており、サイラスと面識があるテイラーも、もちろんそれを知っていた。
「いっそ、サイラス殿下が王太子殿下であればいいのにと思っていたところです! それで、お受けになるのですか?」
「まだわからないわ」
オリヴィアが答えると、テイラーはあからさまに落胆した。
「オリヴィア様、たまには勢いのままに突き進むのも大切ですわよ」
なんでお受けしていないんだと、テイラーは口をとがらせて文句を言った。
サイラスがアトワール公爵邸にやって来たのは、王太子アランから婚約破棄を告げられた二日後のことだった。
王太子の婚約者でなくなったオリヴィアは、ご機嫌伺いで城に出向く必要もなくなって、その分を大好きな読書の時間に宛てた。
自室で本を読んでいるときに執事のモーテンスからサイラスの到着を告げられて、オリヴィアは目を丸くした。
事前に先ぶれも何もなかったからだ。
階下におりてサロンに入ると、「まあ、うふふ」と楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
見れば、母である公爵夫人が、まるで少女のように頬を赤らめて楽しそうに笑っていた。
オリヴィアの姿を見つけると、ソファから立ち上がった母はまるでスキップでもしそうな足取りで近づいてきた。
「サイラス殿下がお見えよ。ではわたくしは席を外すわね。……いいこと? くれぐれも、仲良くね」
最後に小さく念を押して、母はご機嫌な様子でサロンを出ていく。
(……なるほど、すっかりサイラス殿下を気に入っちゃったわけね)
サイラスが何を言ったのかは知らないが、それは母を喜ばせるに十分すぎることだったのだろう。
オリヴィアが席につくと、サイラスが花束を手渡してきた。また薔薇。殿下は赤い薔薇が好きらしい。
「ごきげんよう、殿下。本日はどうなさいましたの?」
メイドがオリヴィアの分のティーセットを用意して去ると、オリヴィアはまず、サイラスの訪問の理由を確認しようと思った。
サイラスは微笑んで、それから少し表情を曇らせる。
「君に用意されていた城の部屋があるだろう? あの部屋なんだが、ティアナが使うことになったから、それを伝えにね。ほら、私物もあるだろう?」
「ああ、そのことですか」
言われずとも、オリヴィアはその可能性についてはすでに考えていた。オリヴィアは王太子の婚約者ではなくなったのだから、部屋が撤去されてもおかしくはない。それほど私物をおいていたわけでもないが、捨てられる前に回収する手はずは整えてあった。
「そのことをわざわざ……?」
その程度のことであれば、わざわざサイラスが足を運ばなくとも、誰かに伝達するなり手紙で伝えるなりすればいいだろうに。
するとサイラスは困ったように頬をかいた。
「あー、うん。まあ、建前は」
「建前?」
ということは、まだほかにあるのだろう。
サイラスは「まだ内緒なんだけど」と口元に人差し指を立てて、
「実はね、来月、隣国のエドワール王太子がいらっしゃることになっていてね。歓迎も兼ねてダンスパーティーを開くことになっているんだ」
隣国の王太子の歓迎パーティーであれば、少なくとも侯爵以上には全員招待状が配られる。公爵家であるアトワール家には確実に届くだろう。
(そういうことね)
王太子アランとの婚約は破棄されたが、オリヴィアは公爵令嬢。出席義務がある。けれども、新たな婚約者を伴ってアランが出席するとなると肩身の狭い思いをするだろう。
「……わたしをパートナーにしてくださる、と?」
「もちろん、君が嫌でなければ」
王太子から婚約破棄された女を誘う男はいないだろう。サイラスの誘いを断れば、オリヴィアは一人で出席することになる。兄には婚約者がいるから、オリヴィアの相手をさせて迷惑をかけるわけにもいかない。
「わたしをパートナーにしても、いいことはないでしょうに」
オリヴィアが苦笑すると、サイラスは片目をつむってわざと明るい声を出した。
「言わなかった? 僕は君を口説いている最中なんだよ」
虚を突かれたように目を丸くしたオリヴィアは、直後、まるでゆでだこのように真っ赤になった。











