15
オリヴィアはサイラスの部屋を訪れた。
彼の部屋に入ると、サイラスと、それから彼の護衛官であるコリンの姿もあった。ソファとソファの間におかれているローテーブルの上には、紐で閉じられた冊子が山になっている。これはオリヴィアが頼んでサイラスに用意してもらったものだ。
「ごめんなさい、お手数をおかけして」
「いや。僕も王子としてこれは見過ごせないからね」
サイラスが神妙な顔で答える。サイラスに用意してもらったのは、フィラルーシュ国のウィンバルの町と国境向かいにあるブリオール国の町を含む一帯の領地を管理している貴族の帳簿だ。
領地を管理している貴族は、毎月、国に自分の領地の収支を報告する義務がある。なぜなら、彼らが税として回収した領地の収入のうちの一定割合が国に治められるからだ。国は貴族から提出のあった帳簿をもとに、その貴族から回収する税を計算するのである。
オリヴィアはソファに腰を下ろすと、さっそく一番上の冊子を手にした。
「君の言う通り、過去十年の帳簿を持ってきたよ」
本来これらの帳簿は、王族と税務大臣及びその部署で働いている人間しか目にすることはできない。オリヴィアには当然、目を通す権利はないが、サイラスが王に特別許可を得たと聞いている。
オリヴィアが帳簿を調べはじめると、サイラスも別の帳簿を開いた。
外部の人間に見せることができない帳簿であるため、サイラスの護衛官であるコリンがメイドに頼んで用意してもらった紅茶を、ティーカップに注いでくれる。
そしてコリンは、誤って帳簿の中身を目にしないようにと、少し離れたところの椅子に腰を下ろした。
ぱらぱらと紙をめくる音が響く。
十年前から最近まで、年を遡るように読み進めていたオリヴィアたちは、すべて読み終えると、ふうと息を吐く。
「殿下、『おかしな部分』はありましたか?」
「いや、ない」
「そうですか。わたしが調べたところもです。どれも、多少の差はあるものの、同じ程度の税収が記録されていました」
オリヴィアはすっかり冷めてしまった紅茶で喉を潤すと、にっこり微笑んでいった。
「やっぱり『変』ですよね」
コリンは離れたところで二人の会話を聞きながら、おかしな部分がないから「変」とは一体何なのかと、首をひねった。
☆
ティアナは茫然としていた。
目の前に積まれている書類、書類、書類!
これはいったいどういうことだろう。
机の上に雪崩が起きそうなほど積みあがっている書類は、すべてティアナが処理すべきものだという。
(なんなのよ、これ!)
このすべてに目を通し、サインして分類しろと? 無理に決まっている!
試しに一番上の書類を手に取って見たが、何が書かれているのか、ティアナにはさっぱりわからない。
これら書類を、昨日までオリヴィアが処理していたのだろうか。本当に?
(嘘に決まっているわ! だって、わたくしでもわからないのに、どうしてオリヴィア様に理解できるのよ!)
きっと、約束の一か月が経って、ティアナが処理をするとわかったから、わざと難しい書類を大量に回してきたに違いない。
ティアナは無意識に爪を噛みながら、この書類をどうしたものかと考えた。
普通に考えて、ティアナに処理しきれる量ではない。いや、「サインだけ」はできるだろう。そうだ。サインすればいいのだ。こちらに回されたということは、ただサインをしてほしいだけだろう、いちいち分類などしなくてもいいはずである。
(なるほど、そういうことね! オリヴィア様だってサインくらいならできるわよね。なぁんだ、簡単なことじゃないの)
ティアナは賢いから、つい「難しく」考えすぎたようだ。ただサインすればいいだけなら楽勝である。
ティアナは椅子に座ると、さっそく書類の下に自分の名前をサインしていく。このおかげで用意されていた勉強の時間は半減した。ただサインするだけであの鬱陶しい教師たちの顔を見なくて済むのであれば、最初から引き受けておけばよかった。
ティアナは鼻歌を歌いながらサインし続け、書類が片付くと大きく伸びをした。
「あー、終わった! でも納得だわ! サインするだけなら、オリヴィア様だって午後からのんびり図書館で本を読むくらいの時間は作れるわよねぇ!」
ティアナはサインした書類を受け取りに来た事務官に渡すと、メイドを呼んでお茶とお菓子を用意させる。
(勉強の時間は夕方から一時間だけだし、さぁて、何をしようかしら?)
☆
約束の一か月を終えたオリヴィアは、父である公爵に許可を取って「旅行」に出かけることにした。
行先は、ブリオール国とフィラルーシュ国の国境付近にあるデボラという名前の町だ。デボラはフィラルーシュ国のウィンバルの町と川を挟んで隣にある。
「殿下までついてこなくても大丈夫でしたのに」
ガラガラと車輪の音が響く馬車の中で、オリヴィアは苦笑を浮かべた。
オリヴィアの対面には、サイラスが座っている。オリヴィアがデボラへ向かうと聞いたサイラスは、国王に許可を取ってついてきたのだ。
オリヴィア一人で馬車で十日ほどかかるところまで旅に出ることを心配していた父公爵も、サイラスが行くというと二つ返事で了承した。サイラスがいけば護衛官のコリンをはじめ、何人かの兵士が供につくからだ。
「君にもしものことがあったら大変だからね」
サイラスはそういうが、デボラは治安の悪い場所ではない。ブリオール国とフィラルーシュ国の国交も正常なので、もちろん紛争地帯に行くわけでもない。国境付近に近づけば問答無用で取り押さえられるような、厳重な警備もされてない。何も心配することなどないだろうに。
「それに、宿に泊まるよりも王家の別荘の方が快適でしょう?」
「それは、そうですが」
そう、デボラの町から馬車で二時間ほどのところに、王家所有の大きな別荘があるのだ。宿をとるよりもそちらですごす方が快適なのは間違いない。
別の馬車に乗っている侍女のテイラーは、サイラスがついてくると聞くと歓声をあげたものだ。テイラーはサイラスとオリヴィアをくっつけたくて仕方がないらしい。
「それに、証拠を押さえるなら僕がいたほうが都合がいいでしょ」
それも間違いない。
「あとは、ただ単に僕がついて行きたかっただけ。君と二人きりの旅行なんて、楽しくないはずがないでしょう?」
正確には護衛官たちもいるから二人きりではなく、遊びに行くわけでもないのだが、サイラスがそんなことを言うからオリヴィアは思わず笑ってしまう。
サイラスに求婚されてからおよそ一か月。この間、彼は特別、強引に迫ってくるようなことはなかった。だからだろうか、オリヴィアは徐々にサイラスのそばが居心地よく感じはじめていて、本音を言えば、彼がついてきてくれてよかったとも思っている。
(……求婚だって、本当はお受けしてもいいんだけど)
前々から思っている通り、サイラスとの結婚は、現在オリヴィアが考えうる限りの可能性の中で「最良」だ。これ以上ないくらいに。だから断る理由がない。だがその理由でサイラスの求婚に返事をするのは失礼なような気がしている。
サイラスはオリヴィアが「望んで」求婚を受けてほしいらしい。その「希望」は、家の立場や都合ではなく、彼女の意志を差しているのだと思う。
サイラスのことは嫌いではない。この一か月、彼が優しい青年であることは充分すぎるほど理解できた。一緒にいて楽しいとも思う。だけど、それでは「駄目」なのだ。彼の望む答えではない。
オリヴィアはふと、以前テイラーが言った言葉を思い出した。
――オリヴィア様、たまには勢いのままに突き進むのも大切ですわよ。
勢いとは何だろう。衝動的に行動を起こしたことは、オリヴィアは自分で覚えている限り一度もない。
もしかしたらその「勢い」が答えなのかもしれない。
オリヴィアは馬車の座席においていた本を手に取って開きながら、この旅行中に何らかの答えが出るだろうかと考えた。
(出ればいいな……)
そう思っていること自体、自分の中に小さな変化が起こっているとオリヴィアが気がつくのは、まだ少し先のことになる。











