劣勢のタクティクス 1
お気に入り登録、評価などありがとうございます!
バーバラは宣言通り、手早く荷物をまとめると、大勢の兵士を連れてレプシーラ侯爵領へ向けて出立した。
バーバラの出立にも、謀反の嫌疑が駆けられているレプシーラ侯爵家にも、ジュールは一切の言及をしなかったという。
その様子を、静観というよりは、無関心と感じてしまったのはオリヴィアだけではないはずだ。
現にサイラスは苛立たしそうにこう言った。
――父上は完全におばあ様側についたということかもね。
妻であるバーバラではなく、母であるグロリアを取った。オリヴィアにも、そう見えた。
なぜならジュールは、レプシーラ侯爵領へ向かうバーバラに一言もかけなかったそうだ。
バーバラもそれが当然と言う顔をして、ジュールを振り返ることなく馬車に乗り込んだ。
まるで夫婦の間に、大きな亀裂が生まれてしまったかのように、二人は互いに視線すら合わせなかった。
その様子は、ジュールがバーバラを見限ったようにも、その逆にも見えて、オリヴィアは今朝の様子を思い出すだけで胸が痛い。
どんよりと重たい空気がサイラスの部屋に落ちている。
オリヴィアも何と声をかけていいのかわからずに、ただ彼に寄り添った。
「僕はたまに父上がわからなくなるよ。……どうして母上を守らなかったんだろう」
今回の件で、サイラスはジュールに大きな不信感を抱いてしまったようだ。
気持ちを切り替えないといけないのはわかっているが、オリヴィアもちょっと冷静になれない。
オリヴィアが知る中で、バーバラは国で一番頭のいい女性だ。賢くて、凛としていて、度胸もあって ――オリヴィアが完璧だと思う女性。
その完璧な人が、策に嵌められた。
困ったときにオリヴィアを導いてくれる存在を奪われて、どうしていいのかわからなくなる。
なんだろう、すごく強いチェスの打ち手と勝負して、その完璧なタクティクスを前に手が止まってしまったときに似ていた。冷静になりたいのに焦って、間違った手を打ちそうになる、そんな感じ。
冷静にならなくてはと思うのに、思えば思うほど余計に焦って、まるでもがけばもがくほど沈んでいく底なし沼に足を取られてしまったようだった。
(これと似た感覚、知っているわ)
本気のバーバラとチェスを打った時、似たような気持ちを味わったことがあった。
焦燥に駆られるオリヴィアを前に、バーバラはゆったりと構えている。そういう時は、相手が余裕であれば余裕であるほど焦りが生まれて、それがさらに相手を有利にさせることを、オリヴィアは知っている。
(落ち着かないと。まだ大丈夫)
オリヴィアは何度も自分に言い聞かせる。
バーバラと言うクイーンは奪われてしまったが、まだチェックメイトではない。冷静に駒を進めれば、きっと相手のキングが見えてくるはずだ。
「サイラス殿下、アラン殿下がお見えです」
コリンの声にハッとした。
オリヴィアとともにサイラスの部屋を訪れていたティアナを、テイラーが慌てて扉の影になる場所に移動させる。アランはティアナがここにいることを知らないのだ。
コリンがティアナが移動したのを確認して扉を開けた。
「辛気臭い顔をしているな」
「兄上。……それは?」
アランの手はチェス盤を持っていた。
そのチェス盤には見覚えがあった。バーバラの部屋にあったチェス盤だ。バーバラのチェス盤の側面には、アランとサイラスが子供のころに描いた小さな落書きが残っている。使っているうちに落書きも薄れて、よく見ないとわからないくらいになっているが、バーバラはその落書きを「思い出」と言った。大切な思い出だから、買い替えたり、落書きを落としたりせずに使い続けているのだそうだ。
アランはチェス盤をテーブルの上に置いて、オリヴィアを見た。
「母上からだ。オリヴィアにこれを渡しておけと。よくわからんが、冷静になるにはチェスが一番だと言っていたな。あとそれからこの紙もあずかっている。ええっと、この配置でクイーンが取られた状況に並べろだそうだ。黒がお前だ」
黒――すなわち後手がオリヴィア。
チェスの勝率は後手よりも先手の方が勝率が高いと言われている。その状況でクイーンまで奪われた後手は、見るからに劣勢だ。
「普通のチェスとは打ち方が変わるが、相手がどこに攻め込んでくるか見ながら動かしていけ、だそうだ。チェスと現実は違うが、相手の動きを冷静に把握するにはうってつけだそうだぞ」
「なんで母上が兄上に伝言を?」
「母上が出立する前、ちょっと用があって母上の部屋に行ったからな。そのついでに言付かった。あとそれから、お前たちはしばらく書類仕事をしなくていい。私に全部回せ」
(え?)
オリヴィアは思わず自分の耳を疑った。
ちょっと前まで、書類仕事がものすごく嫌いで、適当な理由をつけてはさぼっていたアランである。最近はまじめに仕事をしているが、嫌いが好きに変わったわけではないだろう。どういう風の吹きまわしだろうか。
驚くオリヴィアとサイラスに、アランはものすごく不満そうな顔をした。
「なんだ、私が仕事をすると言うのがそんなに珍しいのか」
「うん」
サイラスが素直に頷くと、アランのこめかみに青筋が浮いた。
だがアランには珍しく怒鳴り返したりせず、紙に書かれている通りにチェス盤に駒を並べているオリヴィアを見て肩をすくめる。
「おばあ様が動いていると聞いた。オリヴィアの世間の評価が問題にされているんだろう? ……それなら、私にも責任があるからな。だからお前たちが自由に動けるように手助けくらいはしてやる。私に出来ることは限られるがな。それに、お前たちにも振り分けられている仕事は、もともと王太子が一人で行う量だ。お前の婚約式の時に身分を返上するとはいえ、私はまだ王太子だからな」
「でも兄上、全部自分で引き受けたら、大好きな剣術の稽古も馬術の稽古もする暇がなくなると思うよ」
「ぐ……。どうせお前たちの婚約式までの話しだろう。そのくらいなら我慢できる。それに、宰相も珍しく私に協力的だからな」
「お父様が?」
「ああ。娘に迷惑をかけたのだからそのくらいして当然だとかぬかしやがった。俺一人でもぎりぎり処理できる程度に仕事は調整してやるとも言っていたな。嫌味か?」
「そ、それは……父が申し訳ありません」
イザックもなかなか怖いもの知らずである。宰相とは言え、王子に対してその口の利き方はどうだろうか。だが、言い方はともかく父がアランに協力的なら、アランに回される仕事の方は大丈夫そうだ。アランに回さない分、ジュールにそれとなく上乗せされるだろうが。
「だからお前たちはおばあ様の相手に集中してろ。さすがに今回は、私も我慢ならない。ただ私がおばあ様に真っ向勝負を挑んでも勝てないからな、その相手はお前たちに任せる。その代わり、父上が下手に手出ししないように見張っていてやる」
「兄上には無理だよ」
「お前はたまには兄を敬う気持ちを持ったらどうだ⁉ 心配しなくても、これでも父上の性格はお前よりも知っているつもりだ」
「そうなの?」
「知らないだろうが、俺はオリヴィアと婚約を解消する前も、父上に幾度となく立場を追われそうになっているんだぞ。母上と結託して阻んでいたがな。だから行動パターンくらいわかる」
(そんなことがあったの?)
オリヴィアが唖然とすると、サイラスもあきれ顔を浮かべた。
「それでよくオリヴィアと婚約を解消しようとしたよね。まあ、僕としては願ったりだったけど」
「あのときはあれが最善だと思っていたんだ! ……あと、多少のことがあっても母上が何とかするとも思っていた。いちいち蒸し返すな!」
「……今更だけど、僕たちって母上を当てにしすぎだよね」
「父上の腹の中が真っ黒だからな。父上を頼ると必ずと言っていいほど火傷することになるから、何かあれば自然と母上を頼っていたんだ。仕方ない」
「それについては異論はないけどね。僕も結局、兄上の婚約破棄騒動のとき父上を頼って、今こうして追い詰められているわけだし。ま、後悔はしていないけど。ただ、一度ぎゃふんと言わせてみたいよね。どうしたらやり込められるんだろう」
「そんなものは簡単だ。父上に痛手を負わせようと思えば、母上が父上に離縁を突きつければいい。多分立ち直れないくらい落ち込む。下手をすれば自殺するんじゃないか?」
「今回おばあ様側についておきながら?」
「言っただろう、父上は腹の中が真っ黒だと。まあ、私も確証があるわけではないが、あれはたぶん、おばあ様についたというよりは、もっと別のことを考えている。それに父上にしては珍しく機嫌がよさそうじゃない」
「父上の機嫌に何の関係が?」
「知らないのか? 父上は何かを企んでいるときはいつもニヤニヤ笑っている。私もそれに気づいたのは最近だがな」
(言われてみたら確かに……)
アランが婚約破棄騒動を起こしたあの日も、ジュールはニヤニヤ笑っていた。けれども今回、全然笑わない。むっつりした顔で考え込んでばかりだ。
(陛下も、思い通りに事が運んでいないということかしら?)
ジュールは、多少強引な手段を取ってでも物事を自分が望むように仕向けるタイプだ。
そのジュールが思い通りにいかないなんて――今回の件は、まだ裏に何かあるのかもしれない。
「とにかく父上は私に任せて、お前たちはお前たちがすべきことをしろ。いいな」
アランはオリヴィアが紙に描かれている通りに組み立てたチェス盤を見下ろして、ぽつりと「次で相手のクイーンを狙ったら負けるぞ。取らずに逃げろ」と言って去って行った。
オリヴィアはチェス盤を見下ろして、「逃げても三手先で負けるのよね」と、息を吐きだした。
ブックマークや下の☆☆☆☆☆にて評価いただけると嬉しいですヾ(≧▽≦)ノ











