第二百二十六話 「魔族の襲撃」【三人称視点】
「で、ロベルト伯爵はどこに?」
会議室を出た瞬間、夜の海風が肺の奥まで刺さってきた。
潮の塩気に油と鉄の匂いが混じる。
アベルは肩を回し、背骨をしならせ、こきり、こきりと関節を鳴らした。
どうにも箱の中は性に合わねぇ──と言わんばかりの伸びだ。
「……アーシェ様とセレナ様が魔法大学に入学されまして。入学手続き、教材の手配、住居や勉学環境の整備など……諸々を伯爵自ら。私だけ先に出た、という次第です」
セリエスはため息をひとつ、ネクタイの結び目を少し緩める。
「家族思いなんはええが、うーん……締まらんなぁ」
アベルは凝りをほどくように首を回しながら、肩をすくめる。
グランチェスターといえばロベルトが最上段の看板。
彼がいない会議は、やはりネジが一本足りないのも事実。
二人は砦の縁に立ち止まった。
真下に開ける黒い海は、光に刺されて鱗のように反射し、その上を──森と見まがうほどのマストと帆柱が埋め尽くしていた。
灯台の光が一定の拍で海面を撫で、投光器が舷側だけを白く塗る。
艦首には弩砲の影。
甲板には魔導陣の薄い光。
祈祷師が白墨で符を引き直し、鍛冶の鎚がどこかで金を吐く。
冒険者ギルドの旗と、各商会の印章旗。
そして、いくつもの国章を掲げた軍艦が、潮に列をつくって揺れていた。
「ここに集った三百隻の戦艦と、五千の船員・冒険者──そのお披露目が台無しやっちゅーのな」
アベルは両腕をぐわりと広げ、海を抱くみたいに笑った。
満足気というより、戦の匂いに血が熱くなる笑みだ。
この大兵力は、ここを拠点に絶対安全な輸送航路を穿つための槌。
ついでに教団の船を片っ端から摘発し、魔族の根城を海から炙り出すための網でもある。
グランチェスターとノルダリアだけじゃない。
冒険者ギルドは上位パーティを回し、各国は“表の軍旗”まで用意した。
──それだけ、人は魔族に対して「もう御免だ」と、骨の髄で思い知ったのだ。
「ええ。ヴァレリスの協力が貰えなかったのは残念ですが……それでも十分な戦力です」
「へっ、お互い走り回った甲斐があったな」
海風が二人の声を攫う。
下では甲板員が鎖を引き、投網班が網目を点検し、魔術師たちが結界を試験展開している。
「ところで──あの海賊は本当に来るんか?」
「……キャプテン・クロード、ですか?」
出てきたのは、西方随一の剣にして、海の無冠の王とも言える冒険者の名。
セリエスは一月前、彼にも声をかけていた。
返事は上々。
だというのに──昼の全体挨拶にも、その旗は見えなかった。
「おかしいですね。良い返事を頂いたのですが……」
「昼の顔出しにもいなかったようだし、んー、まぁ……所詮は海賊か」
アベルはやれやれと片手を上げる。
セリエスは慌てて言葉を継いだ。
「い、いえ、彼は“海賊”と名乗ってはいますが、実際の行動はむしろ──」
「失礼します!!」
セリエスの言葉も虚しく、響いた声によって遮られた。
駆け込んできた見張り兵の顔は蒼白、息は刃物みたいに荒い。
全力で階段を駆け上がってきたのが一目でわかる。
「なんだ、どうした」
「はぁ、はぁっ──し、島の裏側に魔族が現れました! 恐ろしく強くて……警備の船ごと、やられてしまいましたっ!」
報告されたのは、魔族による被害のもの。
しかしアベルの眉は、意外なほど動かない。
ため息すら惜しむように、肩だけが小さく落ちた。
「そうか──嗅ぎつけられたか」
この規模が“名もなき島”に集結して、向こうが気づかない道理はない。
問題はどの程度の“挨拶”か、だ。
「数は?」
「い、いえ……闇で詳しくは……。一隻の小型船に見えましたが、あっという間に……!」
「充分だ」
アベルは踵を返しざま、矢継ぎ早に命じる。
「全艦に緊急警戒。船乗りと戦闘員に戦闘態勢をとらせろ!」
「は、はいっ!」
「海戦と地上戦を想定して、停泊している輸送船を守るように陣形を組め!」
「わかりましたッ!」
見張り兵が踵を鳴らして駆け戻る。
砦の内側で鐘が鳴り、信号旗がぱん、と風を噛んだ。
二秒、二秒、四秒──光が海の皮膚を叩く。
「セリエス。三日後の作戦、前倒しになるやもしれんの」
アベルが、かすかに首筋を冷やすように呟いた。
「偵察か、攪乱か、あるいは“腕試し”かもな。いずれにせよ、こっちの喉元を探りにきてる」
アベルの目は笑っていた。
だが、底は冷たい。
商いの兵の目だ。
「行くぞセリエス」
「はい」
二人は踵を返し、砦の渡り廊下を駆ける。
下では、三百隻の艦隊が一斉に身じろぎした。
鎖が鳴り、帆がうなり、祈祷の詠が風に溶ける。
人の手で束ねられた怒りと生存本能が、ひとつの群体になって海の上で目を覚ます。
キャプテン・クロードの旗は未だ見えない。
彼がどこにいるのか──ここで知る由もない。
ただ、灯りは海を舐め、夜がこちらを見ていた。
嗅ぎつけられたなら、迎え撃てばいい。
帳簿でつけられた“損失”に、剣と網で数字を付け直すだけの話だ。




