第二百二十五話 「西方連合軍」【三人称視点】
──前日夜。
西方セルベリア大陸・北方都市シュヴェルツ。
そのさらに北西、濃紺の海に点々と島影が浮かぶ群島地帯がある。
ほとんどは無人島。
だが二番目に大きい灰色の島だけは、夜になると灯が生きていた。
島の岬には新設の灯台。
鏡面は最近磨かれたばかりで、油の匂いが潮の香りに混じる。
波打ち際に沿って築かれた防波堤には、投光器と弩砲。
甲板を打つうねりに合わせて、係留された武装輸送船が低く鳴いた。
桟橋の先では、蒸気ウィンチが唸り、人力のクレーンが網籠をゆっくり吊り上げる。
倉庫の壁には海図、信号旗、危険海域を赤で塗った掲示板。
本来ならば──ロベルト・グランチェスター伯爵はここにホテルやカジノを建て、海風を売る観光島に変えるつもりだった。
だが今は違う。
激化した海の魔物から集荷を守るための、即席の武装船団基地である。
砦の中庭では、槍の穂先を交換する水夫と、神官の加護を込め直す符丁師が行き交う。
高台の監視所では望遠鏡が東西を舐め、時折、狼煙の試験が上がった。
「どもー! 邪魔しまっせぇ!」
砦の一室──海図と収支帳とが同じ机に積み上げられた執務室に、賑やかな声が転がり込んだ。
現れたのは若い男。
肩までの黒髪を後ろで束ね、上等な防塵外套の裾を軽く払う。
腰には商人の印章を吊るした皮袋、その反対側には場違いなほど良い短剣。
背後には使用人と護衛、それに帳簿を抱えた商人仲間が二、三。
「アベル=ノルダリアだ。遅れてすまん!」
男の名はアベル。
セルベリアでグランチェスター商人組合と双璧を成す巨大組織──ノルダリア交易同盟の一人息子にして、若手の顔役だ。
商人のくせに装備は一級品。
外套の縫い目には軽い魔除けの刺繍、革靴は滑り止め加工。
旅慣れした足取りに、戦場で鍛えた者特有の視線の速さがある。“儲けるためなら危ない橋も渡る”で有名なノルダリアの実働だ。
「ああ、どうもアベルさん。お元気そうで」
声の主は、グランチェスター家のセリエスである。
伯爵家の財と人を束ねる現場の最高責任者で、使用人の長でもある。
品のいい灰色のスリーピースに、袖だけ捲っているのは現場上がりの癖だ。
「元気にしてたかぁ、セリエス!」
「ええ、まぁ……おかげさまで」
二人は笑って握手を交わし、互いの肩を軽く叩く。
ノルダリアとグランチェスターの若頭格が同じ部屋で肩を並べるのは珍しい。
普段は競合であり、ときに協調する“二本柱”。
そんな二人が島の砦に同席している──それだけで只事ではない。
セリエスは背後に控える使用人たちへ軽く顎をしゃくった。
「席を外してくれ」
戸が閉まる。
茶が二人分置かれ、室内の空気が一段ひきしまる。
「──ロベルト伯爵の命でね」
セリエスが先に口火を切った。
「商人組合における“会”をここで開きます。名目は“海路の復旧会議”。本音は、もう少し血の匂いが濃いですが」
「そりゃ結構」
アベルの口角がわずかに上がったのを合図に、二人はテーブルに身を寄せた。
海図の中央、赤い丸がいくつも塗られている。
「──現在、世界中の港は一通り魔物たちに破壊されました。そのうちのいくつかは復興しましたが、港で働く者たちはまた襲われるんじゃないかと気が気でありません」
セリエスは両肘をつき、正面から言葉を落とす。
頷くアベルは、熱の奥に冷えたものが宿る眼だ。
「あぁ、そんなことは百も承知だ。なにしろ魔物が徒党を組んで世界中の港を襲うなんてのは前代未聞。やっぱり“魔族”が絡んでると踏んでる。うちも同じ見立てだ」
語尾に苛立ちがにじむ。
セリエスは、そこで一度だけ小さく息を吐いた。
元々、俺たちを寄越したのはお前らだろう──とでも言いたげな間合いで、しかし本題を急がせるだけにとどめる。
「えぇ。歴史を見る限り、魔物が凶暴化して“組織”として動く時は、必ず魔族が関与しています。今に始まったことではありません」
セリエスは貴族の端くれに生まれ、若い頃からグランチェスターの近衛騎士として剣を学び、今は家令長として筆を執る。
千年前の大戦の講義は嫌になるほど聞かされてきた。
勝つために何を捨て、負ければ何を失うか──耳にタコができるほど。
「これは、千年前から繰り返してきたことなのです」
そして、そのたびに人族はどうにか勝ってきた。
だからこそ──
「自分たちの時代でも、そうさせてもらおうじゃねぇか……」
アベルの全身からただならぬ闘気が漏れ、若い獣の目がわずかに笑った。
昂りを冷ますように、茶をひと口。
湯気が二人の間でほどけた。
「ふっ。まぁ南のアステリアじゃ、もう二年近く戦争をやってるらしいからな。俺たちも頑張らねぇと」
「アステリア……そうですね」
その国の名に、セリエスの目が一瞬曇る。
脳裏に、以前シュヴェルツへ立ち寄った旅人の横顔がよぎった。
幼い少女を連れ、グランチェスターの令嬢の面倒を見てくれた男──
(……フェイさん達は、無事でしょうか)
「で──」
アベルが身を乗り出す。
商人は匂いに敏い。
ここまで話が進むなら、当然、次の一手があるはずだ。
「わざわざ連合軍を作って、今このタイミングで招集をかけたってことは、当然アテがあるんだろう」
「ええ」
セリエスは頷き、ぽつりぽつりと言葉をつむいだ。
「……船舶の不足は深刻です。物流が滞り、豪商たちも疲弊している。当然、その下で働く者へも影響が出る。職を失った者たちが海賊や山賊に転じるケースも、既に何度か確認されました」
そこで、セリエスは指で海図の別の印を叩いた。
「その隙間に、アルス・マグナ教団が入り込んでいる。職を失った者に声をかけ、入信をすすめる連中です。活動は各地で目撃されていますが──」
「アルス・マグナ教団ねぇ……」
アベルが鼻を鳴らす。
「西方でもよく見る。『この闇の時代に、信じる者だけを救う』なんて謳ってるが……」
「調べたところ、怪しさは“謳い文句どころではない”と判明しました」
セリエスは視線を落とし、別紙をめくる。
そこにあるのは、走り書きの報告書。
「世界中で子供たちが攫われる事件はもうご存知でしょう。そこに、アルス・マグナ教団が関与している“可能性が高い”」
「本当か!?」
「ええ。うちの組合の商人が、彼らの教団員を馬車で運んだ際に見たのです。入信希望者とは別に──大勢の子供たちが縄で繋がれ、船に乗せられていくのを。彼は元々、教団への入信を考えていたのですが、それを見て考えを改め、情報を提供してくれました」
アベルの目から笑みが消える。
拳が自然と固くなり、関節が軽く鳴った。
「シュヴェルツのノクタレス大聖堂の神父が、アルス・マグナ教団と密会している現場も押さえました」
「……腐ってやがる。前々から宗教なんて胡散臭さでしかなかったが、本当にこんなことがありやがるなんてな」
「そして、その子供たちを乗せた船団が向かった先ですが──」
セリエスは海図の、中央をゆっくり指差した。
海のど真ん中。
航路線が避けるように弧を描いている。
「セントラル島……!? あそこは人が立ち入れるような場所じゃないぞ!?」
「えぇ。村も街もなければ、人が生活できる環境もない。あるのは岩と山と吹き荒れる強風。一説には“大魔王派の魔族の拠点”とも」
噂話で済めばよかった。だが現実の手触りは違う。
セリエスは淡々と続ける。
「あながち、間違いではない……そう思わせる痕跡が多すぎる。だからこそ、私も部下を使って調べさせました」
「それで、何かわかったのか!?」
食い気味の問い。
セリエスは目を閉じ、短く首を振った。
「──何もわかりません。誰も……帰ってきませんでした」
室内に、波音だけが入ってくる。
茶の湯気は細くなり、窓の外で鳥が鳴いた。
「だから、ここで線を押さえるのです」
セリエスは海図の上に、碇の印を三つ、指で叩いた。
灯台から伸びる針のような海路。そのすぐ外側に、点線で“別の道”が描き足されている。
「新たに攫われた子供たちを乗せた船が二日後の深夜、この海域を通過する──そういう情報が入りました。ここで待ち受け、拿捕します。沈めるのではなく“捕らえる”。乗組員と護衛を生け捕りにして、吐けるものは全部吐かせる。可能であれば、ノクタレスの神父との繋がりも、その場で押さえたい」
「へっ、なるほど合点がいったぜ。そこで俺たちの力が必要ってわけだ」
アベルがニッと歯を見せる。
茶の湯気が、獣の笑みに沿って揺れた。
ノルダリアは“戦う商人軍団”としても名を馳せていた。
曳航用の小型蒸気船を先導に、盾船で矢面を切り、弩砲台船が帆桁と舵を正確に撃ち抜く。
制圧から押収、目録作成までを手順どおりに片づける。
彼らは賞金と押収品の配当で動く“商いの兵”だ。
商人のくせに、彼は戦の持ち味を心得ている。護衛ではなく“拿捕の手順”を先に口に出すのが、その証拠だ。
「ただ、不可解なことがひとつあります」
セリエスは筆を置き、低く続けた。
「教団の活動は世界中に広がっています。行動力も人員も異常です。そこで問題になるのが資金のはず。すでに攫われた子供は四桁を超えました。彼らをどこかで使役するにせよ、拠点を維持し、人と船を動かすにも金が要る。工房を作るにも、物資を集めるにも、金がなければ話になりません。ならば――いったい、どこから?」
当然の疑問。
だが、アベルの返答は早かった。
「そりゃ、十中八九俺たちだろう」
「えっ」
セリエスの眉が、ほんのわずかに跳ねた。
「元々、商人の金だったってことだ。知ってるか? 最近の魔物は、沈めた船からきっちり金目のものを回収してる。金貨、宝飾、積荷。で、それを“捌いてる”のは馬鹿な人族の商人だ。表じゃ売れねぇから裏に流す。そこから教団に資金が入る」
「ということは……魔族と教団、さらに商人までもが――全部繋がっていると?」
「そうなるな。当然、子供を攫ってる賊どももグルだ。港の情報、出帆の時刻、護衛の手薄。どれも内通がなきゃ回らねぇ」
アベルは腕を組み、数拍、黙考した。
指でひとつずつ折りながら、淡々と並べる。
「まとめるぞ。お前の話と、うちの情報で見えるのはこうだ。――元凶は魔族。教団は資金と人の回線。間にいるのが堕ちた商人と賊。このままだと人族は、やられたい放題」
そして、ふと顔を上げた。
「で、えーっと、セリエスくん? グランチェスターとノルダリア。お互いの被害総額、合わせるといくらだっけ」
セリエスは手元の報告書を捲り、数字の列を追う。
喉が自然と鳴った。
「えー……現在の確定分で――金貨百八十六万三千四百枚。未確定の積み残し、貸倒れ見込みを含めると、二百五十万枚弱……ですね」
桁の感覚が狂う。
室内の空気圧が一段下がった気がした。
「クク……ククククク…………」
アベルは最初、静かに笑った。
笑うしかなかった。
商人において金こそが全て。
その金が、こうも簡単に奪われ続けている。
これが笑わずにどういればいいというのだ。
肩が震え、次に喉が鳴る。
みるみる笑いは大きくなり、最後は怒声と同じ熱で机をダン、と叩いた。
「――まぁ、魔族さんたちには……キッチリ返してもらいましょかァ!!」
セリエスは静かに目を細めた。
彼には分かる。
今の言葉は冗談でも虚勢でもない。
ノルダリアの“若頭”が、組織丸ごと本気で動かすと決めた合図だ。
「作戦は二日後の深夜。月が細く、潮目が変わる刻です」
セリエスは手短に段取りを畳んでいく。
「外洋で待ち伏せ。灯台は二秒、二秒、四秒の“3・4信号”で接近を通達。投光器は真正面に当てず、舷側に角度を振る。先手は投網。舵に鎖。船首側からノルダリアが張り付き、船尾側からこちらが弩で押さえます」
「了解。甲板上の制圧はうちががやる。生け捕り優先、口が固そうなのは骨を折っても連れてくる」
「頼りにしています」
段取りを交わす声は、二人とも平板だ。
感情を外へ漏らさない職業の声。
それでも指先は、どちらもほんの少し汗ばんでいた。
打合せが落ち着くと、アベルは外套を翻し、扉へ向かう前に振り返った。
「セリエス。今さらだが、背中は預ける」
「こちらこそ」
扉が閉じ、執務室に再び波音が満ちる。
セリエスはひとり、窓辺に立って水平線を見た。
夕闇が海と空の境を溶かしつつある。
灯台の光が一定の間隔で海をなでていく。
──アベルには言わなかった。いや、言えなかった。
この作戦には、もうひとつ別の目的が絡んでいる。
アルス・マグナ教団──そしてノクタレスの神父が、あの水平線の向こうにある“とある島”を嗅ぎつけた可能性があるということを。
(間に合ってくれ)
掌に、じっとりと汗がにじむ。
人生で最も過酷な夜になるかもしれない。
港を守るためだけじゃない。
あの島を、あの約束を、未来ごと守るために。




