ハーメルンの笛吹き 5
紫水晶の塔に閉じ込められたペル。
その元に世界が舞い降り、契約を遂行して欲しいと訴えるのだった。
その8 ハーメルンの笛吹き 5
紫水晶の中に、一点だけアーチ形にくりぬかれた部分があり、それが窓である。そこだけが、わたしが外を眺めることができる場所だった。
もっとも、外とは言ってもここはゴルデンの魔法空間である。全ては幻想であり、今、わたしは完全に現実から切り離された場所に隔離されているのであった。
それでもそよぐ風は緑の香りがしたし、さえずるセキレイは美しい形をして、やや不器用な飛び方をし枝から枝へ渡るのである。羽虫が鼻の前を過ったり、時間がたつごとに移ろう太陽の日差しにしても、ほとんど現実のものと変わらない。
精密な魔法空間は、ゴルデンの力の証でもある。
なすすべもなく、わたしは窓に頬杖をつき、その世にも美しい森の風景を眺めていた。
前髪が風に揺れ、額に触ると、わたしはゴルデンの接吻を思い出した。
「俺が、やる……」
魔女の愛弟子を剥奪しないかわりに、わたしをこのような場所に押し込めてしまい、一人で彼は行った。
笛吹男の契約の方は、恐らく大丈夫だろう。彼ならば、なんなく解決してしまうのに違いない。
ただ、あの胎児の怒りがどこに向かうのかが、わたしには案じられてならなかった。
笛吹男に向かっていたしゃにむな怒りが、攻撃を打ち砕かれたことで、よもやゴルデンに向かいはしないか。
東の大魔女であっても、胎児とまともに向き合い、魔法を交えることは避けるべきである。
あれは、「世界」になる者である。
しかも、まだ世に触れていない無垢なものだ。彼の力を制止できるものなど、いないのである――。
そして――。
(師よ……)
ゴルデンは、今の契約を遂行し次第、オパールの居場所を目指すだろう。
そして、そこで魔女の愛弟子の代理として、西の大魔女の命を摘み取るはずである。
師は無言で命を差し出すか。それとも、愛弟子のわたしではなく、東の大魔女に屈することに抵抗するか。
……。
わたしは、後者だと思った。
「おまえにしかできない仕事」だと、師は言ったのである。
わたしが、しなくてはならないのだ。
ゴルデンでは、だめなのである。
師は、恐らく残る命の全てを使ってでもゴルデンに抵抗する。命が燃え尽きようとしている師と、夜ごと世界に力を吸い取られているゴルデン――東西の魔女は相打ちとなる。
(だめだ)
焦燥に耐え兼ね、わたしは狭い紫水晶の小部屋の中を歩き回った。
見事に何もない場所である。透き通る紫が煉瓦のようにぴっちりとはめてあり、どこからも出入りはできない。扉もなく、ここから飛び出すには、やはり窓から飛び降りるしかないのであった。
平和な森の風景が広がる窓辺に寄ると、改めて下を見た。
紫水晶の塔である。わたしが幽閉されているのは恐らく最上階だろう。草が茂る地面は気が遠くなりかけるほど下にあった。首を出して眺めているだけで軽いめまいが襲ってきそうである。わたしは顔をひっこめ、ずるずると紫水晶の壁に背をつけて座り込んだのであった。
(今は、どうにもできないが……)
下腹に手をやった。
今は、何の手ごたえもない。それでわたしは、少し安堵する。
胎児が怒りをさく裂させ、ゴルデンに刃を向けているような事態にはなっていない。
この世のものにはまだなっていない、恐ろしい程純粋無垢な胎児にとって、感情は一過性のものであり、爆発させた後はあっという間に消えてしまうものなのだろう。今、胎児は目を閉じ軽い眠りの中に入っている……。
とりあえず今は、この子には眠っていてもらうほうがいい。
起こしてはならないのだ。
チチチ、とセキレイの囀りが聞かれる。
ただ平和で美しい風景の中で、わたしは床に腰を下ろし、頭を抱えて目を閉じるしかなかった。
目を閉じていると、無意識に集中していたらしく映像が次々に浮かぶ。
笛の音が高らかになっていたのが、ふいに途切れた。
今、ゴルデンは笛吹男と対峙し、魔女の愛弟子の代理として契約を遂行する宣告を行っている。
笛吹男はいぶかしむようにゴルデンを眺める。すねた目つきだ。
(そんな綺麗な魔法では、何も救えない……)
完全に心を背けている闇の魔女に対し、ゴルデンは無言で魔法陣を描き――そして魔法が発動する。
正確な魔法の使い方だ。
笛吹の魔女の過去にさかのぼり、この、孤独を嫌う、人間を賛美する男が魔女になるべく交わした契約に行きつき、それをたちどころに解除する。
錆びた鎖のようなその契約は、紫水晶の力の前では無力なものだ。鎖は音もなく砕け、闇の中に四散した。
「魔法が、なにかを救うと思っていたのか、貴様は」
……。
(ゴルデン――)
紫の裏地が翻る。
もう命を失っている笛吹男の体は唐突に崩れ、土色の砂のように濁流の中に飲まれた。
そして、彼が纏っていた闇は色を帯び始める。無数の色の粒子となり、柔らかく舞いながら空気の中に散っていった。
闇が色づき、輝きを帯びて消えてゆく――。
人間の残渣で、闇ができていた、ということか。
それとも闇が人間の残渣を排出したのか――。
なすすべもないまま、わたしはそれを見ていた。
蛍のように宙を舞い遊び、儚く消えてゆく人間の残渣は濁流の上に立つゴルデンの周囲を踊っていた。
ゴルデンは無表情でそれらを眺め、側をうるさい程に飛び交ってまといつくものを払いのける間でもなく、全てを見届けようとしていた。
美しい、と思う。
闇の魔女の中に誘いこまれ、取り込まれていた無数の人々の魂は、人間の残渣に混じり、プリズム様の輝きを持ちながら宙に舞い出している。はじめはおずおずと(……ここにいて、いいの?)。だが、やがては勢いよく舞い遊び始め、それらはまもなく空気中の粒子たち――あらゆる生命の命の源となる――に溶け込んで、わずかに温かい冬の日差しに抱かれた。
無数の光の粒子の中でゴルデンの黒い外套は風をはらんでいる。
やがて、不気味な渦を巻いていた濁流は鎮まってゆき、ゴルデンは踊るように身をひるがえすと、川の水の上から姿を消した。
川は穏やかになり、透明になり、凍る前の厳しい程の冷たさを持つ、透明な水をさらさらと流していた。
真昼の光を受けて、冬の川は輝いている。
川の水が放つ光、微かに温まった冬の風は、孤独故に命を絶つことになった無数の命を包み、輝かせ、許し、抱いた側から解放するのだった。
……。
今、契約はゴルデンにより遂行されたのである。
それこそ、ものの数秒の出来事である。いかに彼の魔法が適切か、彼の瞳が真実を見抜くものなのか、見せつけられたような気分である。
魔女の愛弟子と銘打たれていても、わたしはやはり、彼の足元にも及ばない。
旅の間中、彼はどれほど苛立ったものか――。
わたしは無言で床に視線を落とす。
つややかな紫水晶の床に、わたしの足と、そこから覗き込む陰鬱な顔が写っていた。
契約は果たされたのだ。
次に彼は、オパールの元へ向かうはずである――。
ことん、と何かが音を立てたのでわたしは顔を上げた。
床に垂れた外套のポケット、そこに突っ込んである小瓶が当たって音を立てたのだ。
手持無沙汰にまかせ、わたしは小瓶を取り出した。
空になった小瓶、「依頼」が入っていない小瓶。
……。
ふわふわと何かが舞い落ちて来た。
ぼんやりと見上げると、鳥の羽根が舞い込んでいる。
窓から入ったものだろう。わたしは物憂い気持ちでその羽根を視線で追った。
軽く踊りながら、それはもどかしい程ゆっくりと落ちてきて――わたしの目の前で、停止した。
「……」
純白の羽根である。
それが、わたしの目の前で停止し、宙に浮いているのであった。
わたしは首を回して紫水晶の小部屋を見回した。
何もない壁を視線は横切り――違和感を覚えて、今見た場所に、もう一度視線を戻す。
鮮明な幻影の、世界が立っていた。
座り込んだまま、わたしは世界を見上げた。
ゴルデンと同じ顔立ちの、美しい少女は白いリネンを揺らしながらこちらに近づいてくる。
透けるように白い素足が紫の床を踏み、時々覗く膝小僧には、羽毛が見えた。
(もう、だいぶ鳥に侵食されているな……)
背中で畳んだ羽根が、柔らかな音を立てた。
窓から差し込む太い光が彼女の白い体を照らし上げ、リネンは輝くように見えるのだった。
「それ、を」
世界は肘の部分まで白い羽毛に包まれた華奢な腕を上げ、宙に浮いている白い羽根を指さした。
わたしはその羽根を改めて見つめ、それが「依頼」であることを理解する。
世界からの「依頼」が、羽根の形になって舞い降りてきたのだ。
わたしはゆっくりと立ち上がった。
世界は頷くと、静かな声で言った。
「それを、瓶に詰めなさい。あなたは依頼を受けなくてはならない……」
世界の紫の瞳には、今は闇は見えなかった。
これほどまでに鳥に侵食されながらも、未だ気持ちを保つことができるのは、この少女が強いからだろう。
兄へのどうにもならない執着で苦しんでいる他は、毅然としており清らかなままなのだ。
わたしは瓶のコルク栓を抜き、宙に浮かぶ羽根に口を向けた。くるくると回しながら羽根は小瓶に吸い込まれ、踊るように底に沈んで落ち着いた。コルク栓を締めると小瓶をポケットに収め、わたしは世界と向き合った。
「見て」
ばさり、と風が巻き上がる。
世界は背中の羽根を大きく広げており、それはこの狭い部屋を埋め尽くすほどだった。純白の翼は日差しを受けて輝いた。
そうしたうえで、世界は肩で結わえているリボンを取り、ゆっくりとリネンのドレスを脱ぎ落した。
白い肩が露になり、どれほど優美な曲線が見えるかと思われたが、ドレスの下はほとんど羽毛に覆われていた。純白の鳥に侵食された少女は、己の体をわたしに見せつけたのである。
わかるでしょう、もう、時間がないの……。
羽毛に覆い尽くされた二つの胸の隆起に手を置いて、世界は言った。
「迷いをはさむ暇は、ないわ……」
わたしは世界の目を見つめ、やはり彼女はゴルデンの妹なのだと感じた。痛々しい程のやさしさに満ちた紫の瞳は、しかし、傲岸なゴルデンの強いまなざしに通じるものがある。有無を言わせない高貴な空気を、彼女は醸し出していた。
もう、あと僅かな時間で、鳥は世界を完全に侵食してしまうだろう。
世界は病み、命を失うこととなる。
わたしはそっと下腹に手を当てた。
そうだ、未だ、次の代の世界が育っていないというのに――。
「西の大魔女の、命を頂戴」
毅然とした響きを帯びた声だった。
微かにパイプオルガンの旋律が聴こえてくるようである。
らせんを描くような、永遠の響きがわたしの心を締め付けた。
師の命を、絶つ――。
わたしは世界の目から視線を逸らさずに、大きく頷いた。そして言った。
「この『依頼』は契約成立する」
(ああ、師よ)
「これより西の大魔女の代理、魔女の愛弟子が契約を遂行する――」
瓶に閉じ込めた鳥の羽根。
それは、持って行ってと世界は言っている。
(この『依頼』は、わたしからの依頼であると同時に、実は西の大魔女からの『依頼』でもあるのだから……)
師が、自分の命を取りに来るよう、わたしに「依頼」している。
……。
「いいのか」
わたしは問いかけた。
「契約」が遂行されることにより、世界は兄への想いを全て手放すことになるのである。
無意識のうちに幻影を飛ばし、ゴルデンの力を吸い取るほどに強い思いを、彼女は永久に手放そうとしている。
わたしは思い出す。
ゴルデンの思念の残渣の中にちらばっていた、美しく輝く彼の妹の笑顔。
屈託なく、優しく、この上なく清らかで、誰からも愛される笑顔――。
世界は迷いのない様子で頷いた。
己の中の闇と戦いながら、なのであろう。
涼しげな表情は変わらなかったが、白い額が微かに汗ばんでいるのを、わたしは見逃さなかった。
「構わない。さあ、契約を遂行して頂戴」
世界は微笑むとわたしに近づいた。
頭一つ分背の高い世界は、自分の羽根でわたしをくるむようにする。
花のような香りが漂った。
「ここから出る手助けをしてあげるけれど、わたしにできることは限度があります」
身をかがめて、わたしの視線と同じ高さに顔を寄せた。紫のやさしい瞳がわたしを覗き込んで微笑んでいる。
ゴルデンの魔法は非常に強固であり、この結界を打ち砕いて現実世界に飛び出すのには、魔力を相当消耗しなければならない。それは避けたい。
「だから」
と、世界はわたしに顔を寄せると、花の香りのする口づけを唇に施した。
魔法の息がわたしの体内に溶ける。
世界が顔を離した時、わたしは軽い眩暈を覚える。何かが――とても巨大なもの――わたしから分離し、唐突に寂しさを感じたのである。
白い光に覆われた、わたしの胎児が世界の腕の中で心地よさそうに浮き、目を閉じて眠っているのが見えた。
「……その子を」
思わずわたしは手を差し出そうとしたが、ゆるやかな動きで世界がそれを制した。
起きてしまうわ、と言って世界は胎児に目を落とす。未だ表情をつむぐことのできない胎児に、世界は誰かの面影を見たのかもしれない。
「……この子と、ここで待っているわ」
わたしの一部分を塔に置いておかないと、結界を突き抜けて外に出ることができないのであろう。
髪の毛一本、爪の切れ端ひとかけら。
そんなものでは人身御供にはならないほど、この結界は精密であり強固なのだ。
それで、胎児を――。
「大丈夫よ。わたしならば、この子をあやすことができるし、待っている間、色々なことを伝えることもできる……」
自分の後継者である胎児を愛おし気に見つめながら、世界は静かに言った。
一抹の切なさはあったが、子は置いていかねばなるまい。それに、この子を預かることができるのは、確かに彼女だけなのであった。
世界は柔らかく微笑んで、おもむろに片手を差し出したのだった。
そこには、木のワンズが握られている。ゴルデンに取り上げられたはずの、わたしのワンズ――。
「おにいちゃんにできることなら、わたしにもできるわ……」
世界ははじめて屈託ない笑顔を見せた。
わたしはワンズを受け取ると、外套の下で握りしめる。
世界が翼でわたしをくるみ、そこでわたしは現実世界へ意識を集中させた。
最後にちらりと眠る子を見つめ――そして、完全に決意を固める。
行くのだ。
「急いで。それと」
ぼんやりと、白い羽毛がぼやけた。
鼻からつんと抜けるような、耳鳴りがするような奇妙な感覚があり――わたしは紫水晶の塔から「外」へ排出されようとしていた。
現実世界である、あのさびれた村の、砕けちった吊り橋の前に足を降ろそうとした時、世界の声が追ってきた。
「忘れないでね。必ず、必ず迎えに来るのよ」
無事でいるのよ。そうじゃないとこの子もいなくなってしまうことになるわ……。
……。
陰鬱な冬の空、冷たい空気がわたしを迎え入れる。
笛吹男の姿は今はもうなく、あの笛の音も嘘のように消え去っていた。
さらさらと流れる川の音だけが聞こえる。
(ゴルデン)
わたしは神経を集中する。
彼の気配を「読み取る」ことに集中する――。
彼の足取りを、わたしは追う。なんとしても彼の後を追わねばならないのだ。
……見えてくる。
寂しい道、もう誰も通ることのない、廃屋ばかりが並ぶ道を、こつこつと歩く黒い後ろ姿が見える。
揺れる外套の裾。
深くかぶったシルクハット。
彼は、もう見つけている。
はっきりとした足取りで、そこに向かおうとしている。
わたしもまた、向かわねばならない。
砕けた吊り橋以外に、川を渡る橋を探さねばならなかった。
枯草を踏みながら、木々が枝を伸ばす河原を走る。
ゴルデンが通った道を、橋を、わたしも。
向かわねばならない。
オパールの魔女の住居へと続く、魔法の扉の元に。
公開前に、何度か書き直し、大幅に修正した箇所もある回です。
最初は、塔に置いてゆくのは赤ん坊ではなく、分離した自分自身としていました。
これにて愛弟子版ハーメルンの笛吹は幕を下ろします。
次は、閑話を挿入します。
怒涛のラストに入る前に、ほんのわずかな休息を。




