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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第七部 ハーメルンの笛吹き
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ハーメルンの笛吹き 2

闇の魔女の「依頼」を受け、契約成立の是非を問うため、眠るゴルデンを置いて村の中に彷徨い出たペル。

吊り橋の元で、依頼者は待っていた。

その5 ハーメルンの笛吹き 2


 この「依頼」が、わたしの魔女の愛弟子としての最後の仕事になるかもしれない。

 「依頼」が契約成立した場合、遂行の最中にゴルデンに拘束されるかもしれない。


 火かき棒で暖炉の灰をかき混ぜ、熾火を起こしながらわたしは思った。

 (それでも、行くしかない)

 ゴルデンの寝息が規則正しく聞こえてくる。

 深い眠りの中をさ迷っている。

 

 カーテンを透かして、まだ夜が明けたばかりのほの白い光が差し込んでいる。

 毛布にくるまり、黄金の巻き毛を白い枕の上に散らかした東の大魔女の上に、冷たい日差しが落ちかかっている。

 

 わたしは、魔女の愛弟子である。

 そうである限り、契約成立可能な依頼を受けたら行かねばならない。どうあっても。命をかけてでも。

 (師よ)

 火かき棒を暖炉にたてかけて置き、わたしは立ち上がると眠るゴルデンの側に行く。

 白い額にこぼれた巻き毛が日差しを受けて輝いていた。

 暖炉前から取ってきた彼の外套を広げると、毛布の上に打ちかけておいた。じきに暖炉の火種は尽きるだろう。この部屋は寒くなるのに違いなかった。


 もぞり、と下腹で気配がある。

 わたしは手を添わせた。胎児が、何かを訴えている。

 非常に稀なほどの力に恵まれたこの子は、既に意思を持っている。彼の思考は恐らくわたしの考えを超えており、思いもよらないことを考えているのに違いなかった。


 眠るゴルデンを見下ろしながら、わたしは胎児に尋ねてみる。

 (危険を冒すことになるが、いいか)

 もぞりもぞりと気配が返ってきた後、目の前に映像が立ち上がる。ぼんやりとした白い光の輪の中に、その胎児は丸まっていた。小さな手を握りしめながら閉じていた目を開く。

 強烈なほど強い紫の瞳が、じっとわたしを見つめるのだった。


 「『彼』が、悲しむよ……」


 彼、とはゴルデンのことであろう。

 わたしは紫の瞳を見つめ返し、そんなわけはないと答えた。

 (悲しまない。ゴルデンは怒り、魔女の愛弟子を剥奪する。それだけだ)

 胎児はじっとわたしを見つめ、何度か瞬きをした。そしてまた目を閉じると、ゆっくりと姿を消した。

 鮮やかな幻影は煙のように消え、貧しいにわか宿の板張りの床に、わたしは立ち尽くしているのだった。


 わたしはゴルデンを一瞥すると、外套をひっかけて部屋を出た。

 封印された状態で、ワンズもない。丸腰の状態で対峙するには危険な依頼主であることは分かっていた。

 それでも、行かねばならないのだ。

 切々とした笛の音が響き、悲壮な声が届いている限り、わたしは。


 (ゴルデンは、おまえが心配でならないのだよ)

 暗くて狭い、足を踏みしめるごとに痛々しい音を立てる階段を降りながら、わたしは下腹部に手を置いた。

 「世界」になる子供。

 今は、ゴルデンの妹がその役割を果たしている過酷な座を、いずれは譲り受けられる、運命の胎児。

 

 ゴルデンは、この胎児が世界の座を譲り受けられる資格を持つことを、いつから感じ取っていたのだろう。

 強烈な力を宿し、すでに意思を持つ存在であるこの胎児は、確かにただ者ではないのだが――。


 (ゴルデンは、もっと多くの事を知っている。感じている。何かを考えている)


 階段を下り、軋む扉を開くと、開店前の飲食店のがらんとした空間がわたしを出迎える。

 無人の店を横切り、わたしは内側から錠を開いた。外に出ると、ほの白い冬の夜明けが村を照らしている。

 薄闇に混じる朝日は空を紫に染め上げ、すぐ迫ったところに広がる雪が積もった山脈を、浮き上がらせていた。

 舗装されていない石ころ道は凍り付いており、用心して踏みしめないと、いつでも滑ってしまいそうである。

 まばらに立ち並ぶ店舗は屋根にまばらな霙を乗せており、つららが細く垂れ下がっているのだった。


 白く息を上げながら、ゴルデンの眠る二階の窓を見上げる。

 濃紺のカーテンがかかっており、細く隙間が空いていた。その隙間から陰気な朝日が差し込んでおり、あのお黄金の巻き毛を照らしていたことを思い出すと、微かに胸が痛んだ。

 

 彼が、悲しむよ……。


 胎児からの言葉が蘇る。

 わたしはかぶりを振る。

 

 行かねばならない。

 行かねばならないのだ――。


 

 ぽたぽたと冷たい滴が屋根から垂れ落ちている。

 まだ光を灯し続ける外套も、つららを下げながら滴を落としていた。

 あちこちでぽとぽとと静かな音が繰り返されている。

 そして、その合間を縫うように、件の笛の音が響き渡るのだった。


 どうどうと、濁流が渦巻いている。

 激しい渦巻きの中で、この世に身の置き場のない者たちが、両手を天に向け、救いを求めるように手を広げながら、飲まれてゆく――。

 (きゃああ……ああああ……あああああ……)


 ごうごう――ごう――ごう……。


 ……。


 ゴルデンから受けた守りの魔法が、未だに力を持っている。

 非常に強烈なはずのその「依頼」に、頭痛やその他の苦痛を感じることなく、わたしは向き合うことができた。


 (抱いて……)

 と、闇を纏う魔法使いの中から悲壮な声は聞こえてくる。

悲壮な声ーー一人や二人ではないーーが、彼から聞こえてくる。彼のなかに、無数の魂が蠢いている。

 笛を口に当て、哀切な調べを奏でながら、彼は「依頼」を送り続ける。



 (抱いて、温めて、そして、許して……)


 ことことと歩き、わたしは宿から離れた。

 店が立ち並ぶ区域を過ぎ、貧しく凍った畑が広がる場所に来ると、わたしはゆっくりを小瓶を取り出し、コルク栓を開いて宙に向ける。

 白い息が綿菓子のように浮き上がり、薄紫とオレンジに染まりつつある空に溶けた。

 「依頼」はたちまち瓶の中を目指して舞い降りてくる。くるくると回りながらそれは瓶の中に納まり、コルク栓を締めると、そこには小さな闇がふわりと転がっていた。

 部屋の片隅にいつの間にかできているような、綿ぼこりのような闇だった。

 それが、今回の「依頼」の象徴なのだろう。


 瓶をポケットに入れる。

 外套の前をきつく掻き合わせ、わたしは足を踏み出した。

 

 わたしは、魔女の愛弟子。

 


 早朝の凍てついた村は、まだ眠りの最中である。

 村人は誰も出歩いておらず、薄く張った氷が石ころ道を覆っている。

 あぜ道の脇には時折、裸の枝を空に伸ばした樹木が生えており、凍り付いたものがわずかに溶けて、ぽたぽたと滴を落としているのだった。 

 やがて日はもどかしいほどの速度で上り、辺りは薄紫から穏やかな黄色を帯びた光に包まれた。

 山の積雪は鮮やかに浮き上がり、尖った峰は日差しを浴びて眩しい程輝いた。

 

 いつしかわたしの耳には、非常にささやかな流水の音が届いていた。

 さらさらという、浅い川の流れは、魔法のものではなく、現実のものである。確かにこの近くに、川が流れているのだ。


 笛の音が、突然途切れた。

 わたしは足を止め、周囲を見回す。

 目の前のあぜ道は、左右に迂回しており、枯れた畑の周囲を巡っていた。

 朝もやが湧き出しており、よく見ないと分からなかったのだが、ほんの目と鼻の先に粗末な木の吊り橋が見えた。

 吊り橋の下が川なのだろう。流水の音は絶え間なく続いている。


 わたしは、吊り橋の欄干に手を置き、こちらを振り向く男の姿を見た。

 笛を口から離し、暗いまなざしでわたしを見つめている。

 闇の力を帯びた魔女――今回の依頼主――が、姿を現していた。


 骨が浮き上がるほどやせた体は、現実ではもう命を失っているのだろう。

 土色の顔をした彼は、ぎょろりとした目をこちらに向け、微かに頷いて見せた。

 その時わたしは、彼の背後に奇怪な運命の縮図を見た。


 複雑怪奇で美しい、難解な縮図は既に闇色に染まっていたが、奇妙な程に穏やかだった。そこにある闇は、ものを喰らい尽くす闇ではなく、抱き包んで温めようとする性質を持つようだ。

 (ぐちゃぐちゃ・・・・・ぐちゃ……)


 わたしの脳裏には、あの闇の腸の中が蘇っていた。

 ほどよく生ぬるく、そのまま眠りに抱き取られてしまいそうな、闇の腸の中。

 闇に身を落としてしまう魔女が後を絶たない理由は、永久に続くかと思われるほどの孤独。

 等価交換の法則はその孤独を癒すことはなく、己の中の人間の残渣を研磨しきれなかった魔女たちは、孤独に飲まれ、あえぎ、そして闇を呼んでしまうのである。


 そうだ。

 人間の残渣を放出し続けなくてはならないのは、魔女の宿命。

 残渣を捨て続け、残ったものが命の結晶である。

 (わたしは胸に手を置き、黒曜石を感じた。迷いのない夜空の輝きが、そこには確かにあるのだ――)

 そうなるまでに、闇に落ちる魔女の多いことよ。


 ……。


 わたしは依頼主と向き合った。

 ポケットから小瓶を取り出すと栓を抜いて、宣告を行おうとした。


 だが、唐突に依頼主が身をひるがえし、橋の欄干から下に飛び降りたのである。

 わたしはその後を追おうとして、背後から腕を取られ、息を飲んだ。


 ゴルデンが、白く息を吐きながら、そこにいた――。


 

 「『彼』が、悲しむよ」

 胎児の声が蘇る。


 わたしは彼の瞳を見上げ、衝撃を受ける。腕を振り払おうとした瞬間、白手袋の手が宙を舞った。

 ぱあん、と頬が弾けてわたしは横を向いた。

 


 「……ばかもの、が」


 頬を一打ちして、ゴルデンが低く言った。

 わたしは、このような彼の瞳を見たことがなかった。深刻な憂いがそこにはあった。それは絶望だった。


 手から零れた小瓶がころころと凍った道を転がり、ゴルデンの足元にたどり着く。

 ゴルデンはそれを拾い上げると、自分のポケットに入れた。

 頬が熱い程に痛い。わたしは片手で頬を覆い、無言でゴルデンを見ていた。

 ゴルデンは額に汗を浮かせている。眉をしかめて無造作に拭うと、改めてわたしを見つめた。

 

 白く息がのぼり続けている。

 

 「……なぜ、俺の言う事がきけない」

 

 白手袋の手が伸びてきたので、本能的にわたしは飛びのいた。そして、凍った石に足を取られ、わたしは後ろに倒れかけた。

 閃光のような速さで彼は動く。

 外套の紫の裏地が翻るのを、わたしは見た。

 道に体を叩きつける寸前で、ゴルデンはわたしを抱きとめ、乱暴に肩を掴んで揺すぶったのである。


 「理解しろ」


 紫の瞳には、必死な輝きが宿っていた。

 張り詰めた表情は、およそ彼らしくはないものだ。

 肩を強く掴まれ、揺さぶられながら、わたしは白手袋の手に爪を立てた。


 どうしても、屈することはできないのだ。

 ゴルデンの叫びは既に哀願である。その哀願を、聞き入れてはならないと、わたしの黒曜石は唱え続けている。


 道の上に両膝をついたわたしを、ゴルデンは突き放した。

 振り子のように揺れながら、わたしはゴルデンと見つめあった。

 「あなたこそ、理解するべきだ」

 わたしは言った。

 ゴルデンは一瞬、眉を寄せて目を閉じた。そして、けものじみた光を瞳に宿し、鼻に皺を寄せた凄まじい表情でわたしを睨みつけた。

 

 ざわざわと空気が振動をはじめ、黄金の巻き毛は逆立ち始める。

 彼が「正体」を現しかけていることに気づき、わたしは立ち上がって後ずさり、指を構えた。


 口元から犬歯が覗きはじめたところで彼は変貌を止め、顔をしかめて大きく息を着いた。

 想像を絶する怒りが爆発しようとしたのを、彼はすんでのところで止めたのである。


 「……聞くのだ」

 

 低い唸り声が混じる声で、ゴルデンは言った。

 わずかに兆候を見せた姿は、ゆっくりともとの少年のそれに戻り始める。

 怒りはなりをひそめ、紫の瞳には冷たい悲しみが漂っていた。ゴルデンは――悲しんでいる。


 わたしは手を握りしめ、彼を見つめた。


 「俺がおまえを危険にあわせたくないのは、胎児のためばかりではない」

 わたしは無言で彼を見つめ続けた。

 ゴルデンは大きく溜息を着くと(彼はやはり、非常に疲れていた)わたしに近づき、白手袋の手でわたしの頬に触れた。


 「どう言えば、かたくななおまえに届くのだ」


 

 例えば、人間同士の恋人がそうであるように、愛していると言いあい、唇や体を交わすことで思いを通じ合わせる。だが、その行為は刹那の命を生きる立場だから意味があるのであり、満足も得られるのだろう。

 我々は、悠久の時を生きる魔女だ。

 言葉や行為は、それほど重みを持たない。

 それに我々は――ひとりである。

 ふたりで寄り添って生きるわけにはいかないのだ。


 ひとり、なのだ。


 ……。


 「確かに、おまえは人間の妊婦とは異なる。十月十日、体を大事にしていなければならないわけではない」

 ゴルデンは白い息を吐きながら言葉をつなげた。

 「だが、おまえが知らないだろうことを伝えておこう」

 白手袋の手は、わたしの頬を離れ、肩を掴んだ。痛い。わたしは唇を噛む。


 「その胎児は、非常な力を蓄えているものだ。胎児ではなく、母体であるおまえの方が、力負けしている」


 ゴルデンは体をかがめ、視線の高さをわたしと合わせた。

 すぐ目の前に、非の打ちどころのない顔立ちと必死に訴える紫の瞳が迫っている。


 「おまえは、今までのおまえではない。命を失いやすい状態であることを、よく心得ておけ……」

 俺は、胎児のことばかりではなく、おまえのことも案じているのだ――。


 紫の瞳が言いようのない思いで揺れていた。

 わたしは――こんなゴルデンを見たことがなかったし、見るに堪えない思いがした。

 その痛ましい表情の原因が自分であることも、耐えきれない思いだった。


 「ここまで噛み砕いて言わなければ、分からないのか」


 吐き捨てるようにゴルデンは言い、わたしから離れかけた。

 わたしは彼の外套を掴んで引き留め、彼の首に両腕を巻き付かせて抱き着いていた。

 こらえきれず、わたしは涙を落としていた。


 「ばかものが……」


 再びゴルデンは呟いた。暗い声だったが、そこには穏やかなものが混じり始めていた。

 

 「いい加減に離れろ。俺は、そういったことを好まない」


 寒さや風雨から、貴様の身を守っていただけなのだ。

 愚かな人間の亭主のように、甘やかしていたと思っていたのなら心外だ、今後は最低限のことしか施さない。この、ばかもの――。


 突き放すようにゴルデンは言い、わたしは素直に腕を離した。

 呆れ切った目で一瞥すると、ゴルデンは踵を返して歩き出していた。

 朝食を摂るためには、店のある場所に戻らねばならないのだ。

 こつこつと歩く彼の後を追い、わたしも歩き始めた。


 だが、背後の川から、再びあの切々とした調べが流れてきたのである。

 

 (抱いて……許して……)


 

 ゴルデンの耳にも届いているはずである。だが、彼は無言で歩き続けた。

 外套が、足取りに合わせて静かに揺れている。

 彼は沈黙のうちに、わたしの思念を読み取っている。そして――絶望し、見限ろうとしていた。


 (行かねばならない)

 と、わたしは思っていた。

 (行って、契約成立の是非を問わねばならない――)


 ごうごう――ごう――ごう……。

 (きゃああああ……あああ……あ)

 ……。


 

 粗末な店が立ち並ぶ様子が見え始めた時、ゴルデンは足を止めずに言った。

 「それでは、貴様に一度だけ機会をやろう」

 

 わたしはその背中を追いながら、はっとした。

 振り向かず、冷たい声で彼は言ったのである。


 「封印を解いてやろう。それほどまでに己の肩書にこだわるならば、なんら危惧感を抱かせないよう、契約を遂行してみるが良い」

 唐突に足を止めて振り向き、ゴルデンは白手袋の手を伸ばしてわたしの外套の胸を広げた。

 黒いリボンが結ばれた襟元に、一本の金色の髪の毛を巻きつける。

 

 苛立ちを含ませた物憂い調子で、ゴルデンは言った。


 「契約の遂行に至るまで、それがちぎれたり、取れるようなことがあれば、俺は即座におまえを捉え――」


 紫の瞳に、けだものじみた光が宿る。

 「おまえの魔女の愛弟子の称号を、今度こそ剥奪する」

ゴルデンの「正体」は、もちろん愛玩動物ではありません。

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