色彩と黒曜石
オパールの扉に追われるペル。
紫水晶の空間に逃げようとするが、背後に迫る扉はゆっくりと開いた。
その3 色彩と黒曜石
黒曜石の空間の中を、わたしは無我夢中で走る。
様々な扉とすれ違いながら、黄金の扉を探した。
背後からオパールの扉に迫られ、とっさにわたしが考えたことは、向き合って反撃することよりも、最も安全な場所――ゴルデンの空間――に飛び込むことだったのである。
「ゴルデン」
叫び声が黒曜石の柱にぶつかり、夜空のきらめきを集めたような異空間の中でこだまする。
視線を左右に走らせて、あの扉を探す。……そしてわたしは見つける。
遙か前方に、燦然と輝く黄金の扉を、わたしは見つけたのだ。
おい……で。
ここに……おいで……。
歌うような誘いの声が、幾層にも重なるように耳に寄ってくる。
気が付くとわたしは息を切らせていた。
封印を解かれた状態であったとしても、あの得体の知れない力に対抗する自信は、わたしにはなかった。
色の粒子が渦を巻き、全てを飲み込んで同化する(おい……で)。その一方で、巻き込まれて同化されることに心地よささえ感じてしまう。
そんな力には、抗う手段など、ない(ここに……おいで……)。
絶対に扉の中に飲み込まれてはならない。
オパールの元に行くには、その扉を使ってはならないのである。
その扉を開くことはすなわち死を意味している。
あらゆる色の粒子が舞い飛ぶ不可解な渦の中に取り込まれ、わたしの黒曜石の黒が失われてしまうのである。
絶対に、扉の中に入ってはならない――。
わたしは息を切らしながら黄金の扉に駆け寄り、手を触れて開こうとした。
だが、ほんの僅かに早く、背後に迫る不可思議な扉が、軽い音を立てて開いたのである。
たちまち、ぐるぐると渦を巻く光の粒子が足元を掬い、わたしは宙に浮きあがる。不安定な姿勢になり、もはや身構えることすらできないまま、わたしはそれを見た。
「母」の扉が、すぐ目の前で大きく開かれているのを。
そして、瞬くような無数の色の粒子が渦を巻きながら、わたしを取り巻き、抱き上げているのを――。
足が宙に浮いている。
(……ゴルデン)
得体の知れない力を前にし、わたしはただ、無力であった。
取り込まれる寸前であるという恐怖は、しかし、扉の向こうからあふれ出る色彩の世界の穏やかさに塗りつぶされた。扉の向こうは幻想的であり、美しく、温かいものに抱かれるような安心感がある。今すぐにでも飛び込み、その中で眠りにつきたい衝動にかられるほどだ。
おいで……ここに……おい、で。
歌うような声は体を心地よく揺さぶり、ゆりかごの眠りを思わせる。
体に、意識に、執拗に纏いつく色や歌声に、わたしは唇を噛んで耐えねばならなかった。
そうしている間にも、わたしの体は横になったり、逆さになったり、くるくると宙を舞い遊んだ。
自分で姿勢を維持できないのである。これでは魔法陣を描くことすらままならない――。
「愛弟子、ペル」
ふいに艶やかな声がした。
扉の中から、色の粒子のもやに包まれ、女が歩み出てくる。オパールの魔女だ。
様々な色の粒子を周囲に浮遊させ、ゆるやかな衣装を纏い、肌も露な――あのオパールが、不思議な瞳でわたしを見ていた。
無数の色を纏う彼女が黒曜石の空間の中に足を踏み入れると、そこは一際明るくなり、黒曜石との対比が際立つのだった。
「……あなたを取り込んだりは、しない」
だから、安心して良いのです。
オパールはそう言うと、肉感的な唇に微笑みを浮かべた。だが、その眼は憂いを帯びている。
浮遊して宙を舞うわたしに手を差し出し、その手を優雅に下へ降ろす仕草をする。
すると、その動きに合わせてわたしの体は下降し、やっと両足は黒曜石の床を踏みしめることができた。
わたしはすぐさま指を胸の前で構え、いつでも魔法陣を描ける姿勢を取った。
構えたわたしに対し、オパールは無防備である。銀の髪は色彩の粒子を舞い散らしながら優雅に流れており、滑るような透ける衣装には、同じように様々な細かい色の粒子が舞い遊んでいた。
はじめて間近でオパールを見た。
オパールは、やはり生々しく妖艶な女の姿をしており、同時に――わたしはそれを認めることができた――胸にすがりつきたいほど、懐かしいものを醸し出していた。馥郁とした優雅な香りは、こちらの緊張した神経を一気にゆるめ、体の力が抜けるようである。
……泣きたいような、眠りたいような、不可解なけだるさがわたしを襲う。
彼女は「母」なのである。魔女の「母」なのだ。
無言で見上げるわたしに、オパールは言った。
「あなたは、選択することができる」
色の粒子が細かく舞う不可思議な瞳は、憂いに満ちている。穏やかな微笑を浮かべながらも、「母」は何かを憂えている――。
「現在か、未来かを、選択することができる」
オパールは歌うように言い、じっとわたしを見つめた。
謎かけである。わたしはぐっと唇を引き結ぶと、構えの姿勢を変えずに相手を睨み返した。
オパールの言葉はまだ続いた。
「繋がれ、地を這うような現在と、自由に空を舞い、新たなものを探す未来と――」
「分かるように言え」
わたしは低く言った。
オパールは優雅に手を胸に置き、首をかしげてわたしを覗き込んだ。演劇めいた動きである。見るものによっては、ひどく女らしいと思うのだろうか。
オパール独特の仕草を見るにつれ、わたしの脳裏にはあの日のことが強烈に浮かぶのだ。
師がオパールに連れ去られた、あの日のことが――。
「……あの子は、あなたを待っています」
あの子。
……西の大魔女。わたしの、師。
わたしはオパールを見返す。
既にオパールの体は透け始め、黒曜石の空間に吐き出された色の粒子は巻き戻すように扉の奥へ吸い込まれようとしていた。
「あなたを待っているのです。命をあなたに差し出すために、未だ消えることができずにいます」
消えることが、できずに――。
(師よ)
「そして、わたしも、あなたを待っているのです。わたしも、あなたに差し出すものがある――」
あなたならば、きっと……。
「あなたは『母』になる――」
耳の奥でこだまするようなオパールの声は、わたしの芯を揺さぶるようだった。
わたしは目を閉じ耳をふさぎ、オパールの魔力に耐えた。
やがて、纏いつくような空気が薄れたように思い目を開けると、オパールの姿は薄れて行き、無数に散り、舞い遊んでいた色の粒子たちは扉の向こうへ渦を巻きながら舞い戻っていった。
軽い音を立てて扉は閉まり――ふと気が付くと、わたしは自分が現実の世界――あの宿の店の前――に立っていたのだった。
店の中からは、人々の談笑の声が聞かれ料理の匂いが漂って来る。
(オパールの魔女が、わたしに接触した)
茫然と、わたしは真昼の日差しを浴びて立っている。
……。
ふいに世界の言葉が蘇った。
「あなたが、『母』よ……」
それは、どういう意味だったのか。
「あなたが、『母』になるの」
そっと下腹に手を当てる。ここにある、ゴルデンの印。
否、世界の言葉はこれを指しているのではない。
わたしが、「母」になる。
オパールから引き継がれて「母」になる――。
両手を広げた。
この手で、師の命を取り、そして、オパールから「母」を引き継ぐ。
そうすれば、「自由に空を舞い、新たなものを探す未来」を選択することになる……。
強い力で肩を引かれて、わたしはぎくりとした。
振り向くと、紫の瞳に異様な光を帯びたゴルデンが立っていた。眉を吊り上げ、鼻に皺を寄せている。
動物的な怒りが彼の全身を包んでいた。
「なにが、あった」
両肩を白手袋の手で掴まれ、引き寄せられながらわたしはゴルデンを見上げた。
怒りの刃を放つ寸前の瞳は激しく輝き、巻き毛は白昼の光の中で逆立っている。唸り声まで聞こえてきそうなほど、ゴルデンは怒っていた。
その怒りを押し殺している――。
無言でいるわたしを見て、ゴルデンは「くっ」とうつむくと、視線を逸らした。荒々しくわたしの腕を掴み、店の中に入る。
かきいれ時の店内はごった返しており、村人たちは一瞬、こちらを見たがすぐに興味を自分たちの食事に向けた。満席の間をすり抜けるようにゴルデンはわたしを引っ張ってゆき、狭い階段を上がって部屋の扉を開いた。
わたしは荒っぽく部屋の中に突き飛ばされ、二、三歩前のめりに歩くと立ち止まった。
ゴルデンは扉を閉め、猫のような俊敏さでわたしに向き直る。わたしは本能的に相手との距離を目で測り、指を胸の前に構えた。
「……ばかものが」
溜息をつくようにゴルデンは言うと、力なく頭を振った。黄金の巻き毛が揺れている。
激しい怒りは唐突に姿を潜めた。
改めて見ると、ゴルデンは襟をゆるめた服装のままだった。きっちりとボタンを留め、身だしなみを整える彼が、寝ていた時のままの状態で飛び出してきたことが分かる。
わたしは息を飲み、思わず――手で口を押えたのだった。
ゴルデンは、未だ疲れが取れない様子である。
何度も溜息をつきながらくつろげた襟元を指で弄び、髪をてぐしで整えながらこちらに近づいた。
わたしは構えた指を解き、彼が近づくのを待った。
「オパールに呼ばれたのだ……」
すぐ前に立った彼を見上げて、わたしは言った。
ゴルデンは眉をひそめて頷いた。
そして、まじまじとわたしを見つめ、少し考えるようにし――ゆっくりと手を伸ばして、わたしのあごを上向かせた。
口づけ、であろう。
魔法をわたしの中に吹き込むための。
(おまえの『魔女の愛弟子』の称号を、俺がはく奪する……)
ゆっくりと近づいてくる紫の瞳と上品な香、柔らかな吐息に、わたしは目を見開いた。
ふいに、今までのことが蘇る。
接吻――。
そうだ、今までも接吻のような行為は何度かあった。
だが、それは接吻であって、接吻ではない。
魔法の力を注ぎ込むための手段である。今回もそうだ。
非常に近い距離で、わたしとゴルデンは見つめあった。
今、彼の接吻を受けたならば、わたしは彼の意図する魔法を吹き込まれることになる。
わたし(の中の胎児)が、師やオパール、世界に関わる危険に一切合わないために、ゴルデンが意図する魔法。
それは、『魔女の愛弟子』の肩書を、わたしから奪い取ることである。
それさえ消滅すれば、わたしは師と命のやり取りをすることはなくなる。世界からの「依頼」を受ける義務がなくなるからだ。
もう一度、わたしは言った。
「オパールに呼ばれたのだ。わたしが自らあの扉に近づいたわけではない……」
わたしはゴルデンの紫の瞳を見返し続けた。一瞬も目を逸らしてはならないと感じていた。
ゴルデンは至近距離でわたしの目を見つめ続け――やがて溜息と同時にあごから指を離すと、顔をそむけた。
わたしは脱力し、その場で座り込んだ。極度に緊張していたのである。
(ゴルデンは、いとも簡単に、わたしから『魔女の愛弟子』の称号を奪うことができるのだ……)
「自分から危険に迫ったわけではない」
わたしが言うと、ゴルデンは沈黙の後、静かに頷いた。
だが、次に彼が放った言葉は重たく強く、絶対に逆らえない力を帯びていたのである。
「自分から危険に迫るようなことをした場合――次は、容赦しない」
寝乱れたベッドに腰を下ろし、窓から差す光の逆光となったゴルデンは、瞳を冷たく輝かせているのだった。
「おまえの中に宿る『その者』は、おまえの想像を絶するものだ。万一それを失うことがあれば、この世界は計り知れない損失を受けることだろう……」
太陽はやがて傾き、西に落ちて行き、深紅の夕方がやってくる。
山間の村の夕暮れは赤い。太陽は山に落ちる間際、非常に大きく膨らみ、形を歪ませる。
昼と夜の間の頃、村のトロッコ列車が出発した。
日中が比較的あたたかだった分、急激な冷え込みのために夜露がふんだんに落ちている。
頬に当たる風はひどく冷たく、トロッコは荒々しく揺れるのだった。
膝が触れ合うほどの狭い車両内で、我々は向き合って座っている。
裸の枝が絡みつくような荒野を抜け、下には冷たい川が勢いよく流れている鉄橋を渡り、やがて夕暮れは夜闇に変わる。
その夜は、晴天だった。
非常に高い場所で星々が瞬いており、その下をトロッコは不愛想に駆け抜ける。
時折衝撃で飛び上がりながら、我々は無言で次の村を目指していた。
「酷い乗り心地だが、これが最後だ」
ゴルデンは不機嫌そうに言った。
わたしは頷く。
そうだ、これが最後のトロッコ列車だ。
次の村で最後なのだ。次の村から、徒歩の旅が始まる。そして、オパールの母の住居に繋がる魔法の扉を探すのだ。
激しく揺られながら、わたしは目を閉じた。
(おい……で)
妖しく優しい歌声に混じり、わたしにはもう一つ、まるで別のものが聴こえていたのである。
それは、笛の音。
研ぎ澄まされ、ひどく孤独な――冷酷なほどに孤独な――甲高い笛の音なのだった。
その笛の音には闇の魔法が絡みついているのだが、奇妙に穏やかであり、胸の奥を揺すぶるのである。
時折、鳥が鳴くように笛は高く響き渡り、心の芯がびりびりと痺れて麻痺するようだ。
ふいに映像が現われる。
落ちこぼれた子供。男に捨てられた女。家族に先立たれた老人。
そういった者たちが立ち上がり、目の色を変えて歩き始める。
ばらばらと、てんでに家から出て、着の身着のまま、彼らは求める。
笛の音を。
……。
(分かって、いるだろうな)
鋭く貫くような、ゴルデンの思念が飛んでくる。
見ると、夜闇の中でも猫のように輝く紫の瞳が、まっすぐにわたしの目を射ぬいていた。
わたしはゴルデンから視線を逸らした。
トロッコが何度目かの鉄橋にさしかかり、凄まじい音を立て始める。
……闇の魔法を、放置しておくわけにはいくまい。
それに、「依頼」も届いているのだ。契約成立が可能な「依頼」が――。
ゴルデンは、関白。




