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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第七部 ハーメルンの笛吹き
59/77

ふもとの 村 1

オパールの住む山に続く村にたどり着いた二人。

酷く消耗しているゴルデンを見て、ペルは宿を取ることを提案する。

その1 ふもとの 村 1


 無人駅のホームは霧が漂っており、数歩前を薄く覆っていた。

 早朝の汽車が吐き出したのはたった二人――黒を纏った、子供。

 汽車は二人の降車を待ち、車掌が扉を不愛想に閉めた。

 まもなく汽笛が鳴り、重々しい音を立てて機関車は走り始める。


 二人の子供を、置いて。



 舗装されていない道には霜が下りており、水たまりが張っていると思ったら、それは薄氷である。

 朝の霧はひどく冷たく、外套から出ている肌の部分を指すように凍えさせる。

 村は山脈に囲まれており、山は白く浮き上がっていた。その中に一際高い山が、目指す地なのであった。


 高地の空気は薄く、清い。

 白い息を朝の曇天に吐くと、未だ夜闇の名残を残す暗がりに、それは塊になって立ち上った。

 無人駅から出ると、一本の道が村へと続いており、少し先にゆけば、さびれた商店街が見える。そこに、色あせた布を張ったテントが連なっており、非常にささやかな朝市が開かれているのが分かる。

 

 「行くぞ」

 

 ゴルデンが言い、数歩歩きかけて足を止めた。振り向き、紫の瞳でじっと見る。

 わたしは顔を上げて視線を受けた。

 白い息が我々の間を立ち上り、曇天へ溶けてゆく。


 「顔が赤いな」

 「寒いからだ」

 「……寒い、のか」


 紫の瞳が奇妙に揺れる。

 わたしは思わず身を固くした。下腹の蠢きは、今はない。


 ……そもそも、この蠢きは、ふとした時にしか感じることがない。本当に、ここに「印」が芽吹いているのか怪しくなる程である。

 それでも、確かにわたしの中にはゴルデンの「印」が根付き、意思を持ち始めている。

 魔法の儀式で植え付けられた、魔法の胎児は、もちろん普通の人間のように十月十日で生まれるようなものではない。それは、いつか――わたしが完全に成熟し、最も適切な瞬間に――この世に誕生するのである。


 だから、わたしはいわゆる妊婦ではない。

 ゴルデンが神経を尖らして「無理」を禁じる状態では、決してないのである。

 それは、血玉石からにわか知識を得たわたしよりも、ゴルデンの方が分かっているはずなのだが。


 ……。


 しばらくゴルデンはわたしの目を覗き込んでいたが、ふいに激しい苛立ちが紫の瞳に宿った。怒りの刃が襲って来るかと思われたが、そうはならなかった。

 ゴルデンは溜息を着き、白手袋の手で額を抑えた。目を伏せている。

 とても、疲れているように見える。


 「どうも、俺は誤解されているようだな」


 呟くように言うと、ゴルデンは大きく外套を広げ、わたしの肩を包み込むようにした。上品な香りが立ち込める。

 わたしはゴルデンの外套の中で、肩を抱かれているのだった。


 「……俺にも、怒り以外の感情はある」


 ゴルデンの顎が、見上げたところにある。黄金の巻き毛が額に当たる。

 わたしは、これまで彼に、これほど近づいたことはなかった。

 ふと見ると、肩に回された白手袋の手が、掴むように固く握り、支えている。

 

 温かい――。


 そのまま、我々は歩いた。

 人目には、少年同士が温め合って歩いているように見えるのであろう。

 白い吐息が立ち上り、ふたつの煙が高い場所で合流して、溶けて消えた。

 白い朝もやは濃くなっており、すぐそこの市場ですら、霞んでいる。

 ざくざくと、霜が靴の下で砕けた。


 「『依頼』を受けたのであろう」

 すぐ側で――吐息がかかるほどの近くで――ゴルデンが低く言った。

 わたしは頷いた。

 


 「西の大魔女の、命を頂戴」


 

 世界からの「依頼」だ。

 等価交換の法則に乗っ取った、断る理由のない「依頼」。

 それは今、瓶に詰められてわたしのポケットに収まっている。白い羽根の姿をした、「依頼」。


 「……方法が、あるはずだ」

 わたしは言った。

 方法が。何か他の方法があるはずだ。

 師と命のやり取りをする以外で、「依頼」に応えることのできる方法が――。


 等価交換の法則に囚われず魔法を使えと教えたのは、ゴルデンではないか。

 沈黙が落ちたので、わたしはゴルデンを見上げた。

 ゴルデンは目を伏せ、眉を寄せている。ちらりとわたしを見ると、また溜息を着いた。


 「……こればかりは、どうにもならない」


 ゴルデンはぼそりと言うと、視線を前方に向けた。

 目前の市場ではない。村を通り越し、また次の村を超えた遥か向こう。

 オパール――「母」――の住む場所を、ゴルデンは見据えていた。

 

 朝もやは乳のように濃く、粘りを持つかと思われるほどだった。

 ますます強くなる霧の中で、我々の吐く白い息はもう、見えなかった。

 紫の目は奇妙に強く輝いている。もやを通り越し、いくつもの村を貫いて、真っすぐに目的の場所を見据えている。ゴルデンの瞳には、すでにこれから起きることが映し出されている。

 彼は、全てを見通している――。


 わたしはふいに、息が詰まるように感じた。

 師を――師の命を、わたしが取り上げる。

 馬鹿な。

 

 立ち止まったわたしを、ゴルデンは無言で見つめた。

 紫の瞳に向かい、わたしは言った。

 「……できるはずだ」

 黙り込んでいるゴルデンに、わたしは苛立ちを覚える。大魔女が――東の大魔女が――方法がない、などと。

 「……命を取る以外に、方法があるはずだ。我々は魔法を使うのだ」

 等価交換の法則という縛りがあるにせよ、魔法を使うのだ。魔法は使い手の考えようで、無限に広がるものであるはずだ。

 ……それを、わたしはゴルデンから学んだのだと思う。

 だから、「依頼」に対し、最短最速ではない別の方法を提案することができるようになったのだ。


 ゴルデンの瞳に、奇妙なものが浮かんで揺れた。

 それが憐れみであることに気づいた時、わたしはゴルデンの腕を振り払い、外套の内側から逃れた。

 紫の裏地がもやの中で舞う。


 「師の命を取るなど、どうしてできるか」


 平手打ちが飛んでくるかと思ったが、やはりそうはならなかった。

 ゴルデンは軽く首を振ると、わたしから離れて歩き出した。

 拍子抜けしたような思いと、煮え切らないものに対する苛立ちを抱えながら、わたしはその後を追った。

 やがて我々は市場に入る。

 痩せた野菜や、家畜の乳からできたものが売られている。

 さびれた村のわりに、賑わっているようだ。

 

 簡単な食事がとれる屋台も見えている。

 そこでは、毛皮の衣類を纏った村人が、朝から酒で温まった顔を突き合わせて食事を取っていた。

 温かな牛乳の匂いが漂っている。


 「なにか、腹に入れていくか」


 ゴルデンは呟くと、わたしを見て促した。

 とても食事をするような心境ではなかったが、これ以上ゴルデンに楯突くのは良いことだとは思えない。

 どういうわけか、今の彼は、胸倉をつかんだり、頬を張ったり、怒りの刃を心に突き立ててくるゴルデンではないのだ。……非常にこちらを気遣い、そして疲労している。


 ゴルデンが、疲労している――。


 (世界に関わると、ゴルデンは疲労するように思われる)


 唐突にそんな考えが沸いた。

 わたしの思いに気づいたか、ゴルデンはちらっと紫の瞳に強い光を込めた。ようやくいつもの彼に戻りつつある。傲慢なほどに平然としている、あの表情が見えた。


 それで我々は、粗末ではあるが、温かい朝食にありつくことになる。

 屋台の前に並べられた丸テーブルは、どれも人が座っている。相席することになり、大柄な男たちに混じって我々は食事を始める。

 物珍し気に我々を見る村人に、ゴルデンは「無邪気な子供」を装い、この先の道や宿について聞いた。

 

 ここから先、山脈に向かい、あと二つの村がある。

 山側に行くほどに過疎した村になるという。

 乗り物は、トロッコ列車ならば一日に一回、往復便が出ているがそれだけだ。野菜や水などの品のやり取りと同時に人間の運搬も兼ねている便だという。

 もちろん、乗る人間は滅多にいない――。


 「市場を抜けて、少しいったところに駅がある」

 温かいビールを飲みながら、たくましい山村の男は教えてくれた。

 だが、その眼にはいぶかしげな表情がありありと浮かんでいる。

 へんな子供たちだ、この当りの子供ではないし――。


 「夕方の便になるよ。それまでどうしているんだ、坊やたちは」

 「あはっ、見物して回りますよ。いい土産話になる」


 そう切り上げて、ゴルデンは立ち上がった。

 行くぞ、ぐずぐずするな。

 わたしは食べかけの食事をそのままに、立ち上がって彼を追った。

 

 夕刻までは、ずいぶん時間がある。丸一日を、この辺鄙な村で過ごさねばならない。

 「依頼」はぽつぽつと舞い込んでいるが、例によって契約成立するようなものは見当たらない。それに、封印されているわたしを苛むほどの強烈な念も今のところはなかった。

 ……穏やかな、山間の村。

 その日の生活を懸命に紡ぐ。空気が清らかなのと同じように、村人の心身も穏やかだ。

 魔女狩り法の貼り紙も見当たらないことに気づいた。

 (見放された僻地……)

 取り残された場所。若者が少なく、終末を見据えて生きる人々の。


 ……おいで。


 歌うような声が聴こえた。

 不快ではない。耳の奥を撫でるような声音である。

 ゴルデンは、いつものように大股で歩いたりはしない。背後からついてくるわたしを意識した歩行である。

 彼にも届いているのだろうか、この声が。


 

 ……おいで。ここに。待って、いる……。


 「あの子は、まだ生きているわ。あなたを見守り、待ち続けている」


 唐突に思い出す。

 この歌うような誘うような声で、オパールの魔女はそう言ったことがある。

 「あの子」が誰なのか、その時は分からなかった。だが今ならば理解できる。


 師が、待っている。

 「母」たるオパールの元で、命をつなぎながら、わたしを待ち続けている――。


 

 濃いもやに光が差し始め、夜闇の名残を残した曇天は、薄紫に仄明るくなる。

 白い山の間から鋭いほどの光の帯が表れ始め、やがて山に、村に、日がのぼる。

 我々は市を通り抜け、閑散とした商店街を歩いていた。

 まだ開いていない食料品店がぽつりぽつりと並び、褪せた原色を縞模様に織った、のろしが風に揺れている。

 もやが薄れかけている――。


 「……」


 わたしは、ゴルデンが歩みを止め、白手袋の手を目の上にかざして微かに呻くのを見た。

 黄金の巻き毛は朝日を受け、艶を放っている。仕立ての良い外套がゆるやかに波を作り――彼は、ごく優雅な動きで体をかがめ、その場に膝をついた。


 「……ゴルデン」

 わたしはかがみこんだ彼の背に手を当て、顔を覗き込んだ。

 そして知った。

 

 穏やかな速度の歩き方や、怒りの刃を頻繁に放たなかったのは、わたし(の中の胎児)に対する労わりばかりではなかったらしい。

 彼はひどく――疲弊していた。

 眉をひそめ、額の汗をぬぐい、彼は小さく悪態をついた。ちらりとわたしを見ると、苛立ちを込めた視線を返してくる。


 「わかっただろう」

 ちぎり棄てるような声で、低くゴルデンは言った。

 わたしの手をやんわりと振りほどくと立ち上がり、しっかりとした足取りで歩き始める。横に連れだって歩くわたしに目をくれないまま、ゴルデンは続けた。

 「……だから、俺を翻弄するな。俺のいう事を、きけ……」


 かまどの番人との戦いで傷ついた体と消費した魔力は癒えたはずである。

 なにが彼を消耗させているのか――。

 思い当たるのは、世界のことである。


 わたしは歩く彼の腕に寄り添うと、そっと探って白手袋の手を握った。

 彼は一瞬眉をひそめたが、振り払おうとはしなかった。そのまま指を絡め、穏やかに握り合い、我々は歩を進めた。

 (わたしを、杖とするがいい)

 わたしよりも背の高い肩を、わたしの肩が支える。

 静かな呼吸の中に時折混じる、疲れた溜息を、わたしが受ける。

 ……つなぎとめ、搾取し続けるそのくびきごと、わたしは見つめ、抱える。


 こうして触れていると、ゴルデンの中を読み取ることができる。

 彼は今、意図的にか、単に魔力を抑えているだけなのか、ブロックをしていない。

 わたしの中には彼が流れ込んでおり、その映像がまざまざと見えるのだった。


 

 白い彼の体に幾重にも巻き付いた、黄金の縄。

 それは、三つ編みにされた長い髪の毛である。輝く美しい束縛が彼をつなぎ留め、拘束された部分から、彼自身が少しずつ搾取されている。


 彼は目を閉ざし、穏やかな表情でそれを受け入れている。

 

 対して、髪の縄の持ち主は、彼と背中合わせに、離れた場所で手を組み合わせて祈りの姿勢を取っている。

 世界だ。


 パイプオルガンがらせんのような旋律を奏でる中、世界は祈り続ける。

 だが同時に、ごく個人的な愛着を捨てきれず、嫉妬の魔法を長い間かけ続けてきたのだ。

 (おにい……ちゃん)


 

 

 わたしは思い出す。

 かまどの番人との闘いで傷ついた心身をいやしている間、紫水晶の空間の中には彼の他に、世界の姿が見えた。

 眠りについている長い時間の間、彼はずっと世界に付き添われており――結果、ある部分が消耗している。

 世界が、彼から何かを吸い取り続けている。



 「……ゴルデン」

 わたしが呼びかけると、ゴルデンはこちらを見た。

 まっすぐに視線を受けながら、わたしは言った。


 「少し休もう。宿を取ろう、夕方まで」


 少しの沈黙の後、ゴルデンは視線を逸らし、そして頷いた。

 からませた指をほどき、深く溜息をつく。

 外套を波打たせながら歩くゴルデンの後をついて歩きながら、わたしは悟る。


 


 ゴルデンこそ、くびきを切ることができずに生き続けてきた。

 気の遠くなるほどの年月を、ただ一人で。


 ゴルデン――。



 足元の霜はすっかり消えた。

 商店街を通り抜けようとする頃、ようやく店たちは開店しはじめる。

 我々は、小さな小間物屋を選んだ。

 二階の空き部屋を借り、トロッコ列車が出る夕方まで休むことにする。


 「ここなら、トロッコの駅に近いから」

 人の好さそうな老夫婦が営む店だった。

 干物や漬物の他に飲料、手芸品などがごちゃごちゃと並ぶ店を通り抜け、小さな扉の向こう側の階段に通される。

 しわが寄った目元に笑みを浮かべながら、夫人がわたしの背中を押した。

 「だいぶ疲れているわね……お風呂でも入っていくといい」

 風呂、と聞き返すと夫人は声を立てて笑った。今ではもう村人以外は誰も知らない秘湯なのだが、ここには良い温泉があるのだという。

 「うちにもある」

 夫人は、店の裏に露天風呂があることを説明した。

 村人たちが夕刻になると使いに来るという。無料である代わりに、野放し状態の入浴場だ。庭の中に、ただ風呂があるだけである。


 「……湯治か」

 ゴルデンは呟いた。

 時間はたっぷりとある。これからのことを考えると、十分に体を癒すべきだった。


 

 ゴルデンが湯を使っている間、わたしは閉め切られた部屋を開け放し、外の冷たい空気を通すことにする。

 布団を述べた後、雨戸を開くと、鬱蒼とした屋根ほどもある木が裸の枝を伸ばしており、枝先は鋭く曇天に刺さっている。

 朝のもやで濡れた枝は、どんどん高くなる日差しに輝いており、小さな滴は虹色に輝いていた。

 

 小鳥が囀っている。

 ここからは、閑散とした商店街や、その向こうに広がる田園が見渡せた。

 ぽつぽつと立ち並ぶ民家の中には廃屋も多い。傾きかけた屋根や、朽ちかけた塀などが、そのまま風雨にさらされ時を待っている。


 そして、村を覆うような白い山脈は雪がかぶっており、穏やかな日差しを受けて、得も言われぬ陰影を作っていた。

 オパールの住む山はなだらかな曲線を描いて裾を引いている。一際、高く目を引く山だ。


 (……美しい)


 わたしは、そう思った。

 無心に眺めているだけだった。冷たい風を頬に受けながら無心に景色を眺めるなど、ありそうでなかったことだった。

 

 美しいのだ。この世界は、息を飲むほど美しい。

 風も、自然が奏でる音も、人々の営みも、生も死も、すべてが輝いている。

 あの複雑怪奇な運命の縮図も、まばゆく輝き世界の中で時を過ごすことを謳歌しているではないか――。


 人が嘆き、苦しみ、「依頼」を飛ばし続けているその間も、運命の縮図は光を放ち続けるのだ。

 わたしはそれを、見て来たではないか。


 囁かな滝の音が聞かれる。

 窓の下には、形ばかりの屋根が作られており、その下ではゴルデンが湯を使っているはずである。

 粗末な温泉に熱い湯の滝が注ぎ込まれ、もうもうと湯気が立ち上がっている。

 ことん……と、手桶を置く音が聴こえた。


 彼の状態が、手に取るように分かる。

 目を閉じると、穏やかな鼓動や息遣い、これまでにないほど穏やかな波動が届いてくる。

 東の大魔女の源は紫水晶。

 その紫水晶が、自然の恵みの湯で癒され、充填されようとしていた。


 

 はらり、と白い羽根が目の前に落ちかけて、わたしはゆっくりと振り向いた。

 日が差して明るい部屋の中に、白い少女が立っている。

 鳥に侵された体で、リネンの服を揺らして、紫の瞳を見開いていた。

 この世の日差しに透け、時折消えかけながらも、その幻想はわたしに語り掛けようとしていた。


 「時間が……ないの」


 切実な思いは「依頼」を通し、強く伝わる。一瞬、わたしは眩暈を覚えたが手を胸に置き、軽い防御の姿勢を取った。

 世界の姿と向き合うと、わたしは彼女を見つめる。


 兄への愛着を断ち切れないまま、世界となった少女。

 ……。



 「師の命は、やれない」


 わたしが言うと、世界は悲し気に目を伏せ、ゆるゆると頭を振った。

 

 「……だが、『契約』は遂行する」


 世界は目を伏せたまま、ゆっくりと薄くなってゆき、冷たい空気の中に溶けた。

 その時、部屋の扉が開き、襟元を開いた姿でゴルデンが入ってきた。

 片手には缶入りの酒を持っている。既に開封したそれを口に運びながら、階段を上ってきたらしい。


 既に、非常に、酒臭かった。


 「俺は寝る」

 

 

 きっぱりと言うと、ゴルデンは布団の上に座り込んで酒を煽った。

 夕刻まで、十分に寝る時間はあるだろう。わたしは頷くと、次は自分が風呂に漬かることにする。

 「好きにするといい。時間前には起こす」

 ゴルデンは不愛想に頷くと、空いた缶を枕元に置き、そのまま布団を被ってしまった。


 窓からは、すがすがしい空気が流れ込んでいる――。


 

 「お嬢さん」

 と呼ばれて、しばらくしてから自分のことだと気づいて振り向いた。

 湯気の立つ石づくりの風呂の前で脱衣しかけようとしていた時だ。

 店の老婦人が穏やかに微笑みながらタオルを置いてくれている。

 

 「昼間だから村のもんは来ないと思うけど……見張っているから安心しておはいり」

 わたしは最後の一枚を脱ぎ捨て、白く濁る湯を桶にすくった。

 体に浴びせてから振り向くと、おかみは苦笑している。わたしのことを無防備だと思ったらしい。


 「構うことはない」


 と言うと、老婦人は目を白黒させた。

 「滅相もないことを」

 呟きながら店の中に戻ってゆく。


 わたしは自分の体を見下ろした。

 青白い程の体は相変わらず痩せていたが、体の時は進んでおり、その兆候が表れ始めていた。

 わたしはもう――いつの間にか、であるが――こどもでは、なくなっている。

 師を追い求めて、西の大魔女の舘から旅立った時の自分では、もう、ない。


 この複雑な思いは何であろうか。


 湯につかっていると、足音が近づいてきて、振り向くとやはり先ほどの老婦人だった。

 非常に言いづらそうに、だが心配でたまらないというような顔で湯の淵まで来ると、そっとしゃがみこみ、手招きした。

 わたしが湯の中を掻きわけて近づくと、老婦人は手を口に当てるようにして、小声で言った。


 「……違っていたら気を悪くしないでちょうだいよ」

 湯けむりを上げる滝の音に、かきけされそうな声だった。

 聞き逃さないようにわたしは耳を寄せる。おかみは言った。

 「あんた、お腹に――」


 はっとして見返すと、心から心配する青い目が覗き込んでいた。

 「もしそうなら、長湯しない方がいい。この湯は熱めだからね」


 「どうしてわかった」

 と聞くと、老婦人はおかしそうに目を細めた。


 魔法使いでもないくせに、なぜ分かる?

 わたしの体には、少なくとも外見的な兆候は一切出ていないはずである。

 しかもこれは、人間でいうところの十月十日の妊娠ではない。

 単に「印」が芽吹きかけているだけのことなのだが――。


 「あんたね、優しい空気が出ているんだよ」


 そう言うと老婦人はまた店に戻っていった。

 若すぎる母親だの、相手は誰だの、まさかあの金髪の坊やじゃなかろうか、という、例によって人間の軽薄な思念が聴こえてきたが、不思議と不快感はなかった。

 この老婦人には息子と娘がいるらしい。伝わる思念から、彼らの姿がちらりと覗いたのである。


 湯気のたつ滝に手を触れると、白い飛沫が舞い立つ。

 微かに蠢きを感じ、下腹に手を当てた。


 「母親」は「母親」を識別する――。

 魔女も人間も、ないらしい。たとえ猫の子でも、懐妊していれば分かるような気がする。今のわたしならば。



 湯から上がるとゴルデンが布団で伸びていた。

 まるきり無防備である。

 腹を出しているので、布団をかけてやった。


 まだ、日暮れまでは相当ある。

 わたしは彼の頭の側に腰を下ろし、静かに時を待った。




 旅の終わりが、近づいてきている――。

本当に、本当にささやかなハネムーンです。

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