~閑話~血玉石 1
体の不調に参るペル。
しゃがみ込む彼女の前に、穏やかで力強い波動を持つ魔女が現われる。
第五部 いばら姫
その1 ~閑話~血玉石 1
師が消えた部屋で、わたしは立ち尽くしていた。
(再び、師はわたしの前の姿を現すことができるようになった)
……その事実だけが、心のよりどころとなる。
ふと視線を走らすと、ゴルデンが恐ろしい目つきで、今しがた師が消えた場所を凝視している。その表情はいつもの破裂するような一過性の怒りではなく、腹の底からこみ上げる憎悪を抑えるようであった。
「母」の元で、師は待っていると言った。確かにそう言った。
(待っている、と。わたしを……)
複雑な思いが渦を巻いていた。待っている、という言葉には様々な解釈があると思う。なるほど、師にはわたしに対する思い入れが――きわめて人間的な意味での思い入れが――皆無であろう。自分の側に置く弟子としてわたしを選んだ理由が、わたしが「愛着を求めない子供」だったからだ。「母」オパールとの契約があったから、そういう人材に限られたのだろうが、師自身、そういったものを好まない魔女であることは、わたしがよく知っていた。
(怒り、嘆き、苛立ち……愛)
師は、そういったものを寄せ付けなかった。
「魔法を使う上で、判断を誤る最も大きな原因は、人間の残渣による感情なのだ」
いつか、師がそう告げたことがある。その一言はわたしの中に深く浸透した。
師は、無機質なわたしを道具のように好んだが、もしわたし以外で、似たような性質を持つこどもがいたならば、果たしてわたしを愛用し続けたであろうか。
(……その自信は、ない)
師に待たれているということは、重かった。「東の大魔女のものになった」わたしは、もはや魔女の愛弟子であるのかどうかすら怪しい。しかし、師はわたしの変化には全く触れず(というか、興味を示さず)、ただ、時間がない、待っている、と告げた。
ぐるぐると回る思考は、激しくなった倦怠感とまじりあってわたしを苛んだ。
ふらり、と眩暈を感じてわたしはテーブルに手をついた。
「俺が西ならば、怒りで俺と魔法を交えるところだが」
ぼそりとゴルデンが言った。
燃え上がるような憎悪の色は瞳から消え去っている。いつもの彼に戻っていた。
座れ、とゴルデンは椅子を引いてわたしを休ませた。抵抗する気力すらなく、わたしは椅子に倒れこんだ。
「仮にも愛弟子と呼ばせている対象を『喰われた』のだからな」
喰われた。ゴルデンに……。
人間のそれと異なり、生々しい行為こそなかったが、今までの一連の「儀式」が意味することを、わたしは改めて悟る。
わたしは――喰われた。
ありていに言うと、もはやわたしは童女でもなければ乙女でもない。
この状況を目の当たりにしても、師は取り乱すことはなかった。
師にとっては、わたしから離れる理由がなくなった、というだけのことなのだろう。
ゴルデンは――東の大魔女は――自分ならば、怒ると言っている。それを聞いた瞬間、わたしは白い少女の姿を、まざまざを思い出していた。
白い、鳥に侵されかけた少女……「世界」。ゴルデンの、妹であり、恐らくは最愛の存在。
かつて「世界」は、ゴルデンの側で、大魔女の片腕として働いていたという。師とわたしのように。
「俺が西ならば……」
ゴルデンの放った言葉は、不自然なほどわたしを刺激した。胸が締め付けられるような感覚を覚える。
……どうしたことだろう。わたしは、酷く不安定だ。
冷ややかにわたしを見下ろし、懐中時計をちらっと見て、ゴルデンは言う。
「西の役割も気質も、俺とは相容れぬ。西が『ああいう状態』でなければ、俺のほうから吹っかけてやったところだが……」
「ああいう状態」という言葉に、わたしは顔を上げた。
もの問い顔のわたしに、ゴルデンは眉をしかめた。
「おまえには、自分の状態を見せなかったのか、西は」
独り言のように呟くと、不機嫌そうに舌打ちをする。
「……愛弟子に対しては、用件だけ伝えれば、そのほかの事は必要がない、ということか――」
くたびれ果てたように上を向いた。
迷惑な奴だな、これでは俺が全部背負うようなものではないか――。
微かにそう聞こえたような気がした。
ゴルデンは再度懐中時計に目を戻し、ふいに穏やかな声で言った。
「だいぶ、痛むか」
これまでに聞かれたことのない、いたわりが込められている。わたしは戸惑いを覚えたが、素直に受け入れるべき好意だと、本能的に感じた。
(ゴトゴト……ゴト)
遠いところから、せわしい音と衝動が響いてくるようだ。
ゴルデンはテーブルを回ると、静かに椅子を引き、わたしの正面に腰を下ろした。
赤い金魚草がいけられた花瓶をはさみ、我々は互いの顔を見合うことになる。
ふいにわたしは顔が熱くなるように思い、目を逸らした。怒りの発作が唐突に解けた後の気まずさが、私を揺さぶっている。まるで、自分に似つかわしくない感情の発作だった。
(本当に、どうしたことだろう)
もどかしいような、腹がたつような、逃げたいような。
自分で自分が掴めずに苛立ちながら、膝の上で拳にした両手を見つめ。うろたえながら、わたしは言った。
「……そ、そうだな。だいぶましになっては来たが……」
不本意にも、どもっている。……どうにもならない。
(ゴトゴトゴト……)
沈黙が落ちる。
わたしは視線をさ迷わせ、どうしたものかと悩んだ。ゴルデンも視線を外してくれれば良いのにと祈った。
ゴルデンは疲れたような溜息をつくと腕を組み、ゆったりと背もたれに状態をゆだねる。目の下に疲労の色が見えていた。
一瞬、白い影のようなものが彼の横に座るように見えたのだが、すぐに消滅し、なんの気配もなかったので、わたしは気にしないことにする。
ゴルデンは、さっきから、酷く疲れているように見えた。
ここではじめてわたしは、彼が病み上がりであることを思い出したのだった。
「そうか――次の駅で降りたら、手当てできるよう薬屋にでも寄る。後は、衣服だな」
「手当てなど、いらない……」
にたり、とゴルデンは笑った。意地の悪い笑い方であったが、そこにはどこか甘さがあった。やはり、これまでとは何かが違っている。
(……わたしが、自分のものになったから、か)
ゴトゴトゴトゴト……。
ゴトゴトゴトゴト……。
キシャアアアアア……。
……。
はっとした。
夢から覚めたような思いで、わたしは窓の外を眺めた。
車窓は白みかけた空と、うっすらと光を受けている荒野を映している。我々は、汽車に乗っている。
幻想はこれで終わりらしい。
ゴトゴトゴト……。
「良かったな、上から下まで黒ずくめで」
と、ゴルデンは言った。意味が分からずにいるわたしを見て、ゴルデンはついに笑い出す。
ククク、と押し殺した笑い方をして状態を折り曲げるゴルデンを、わたしは黙って見つめた。
……。
沈黙の後、わたしは思い当たった。
女特有の赤が、今、こうしている間にも。
「困る。あなたのせいだ」
呟くと、ゴルデンは鼻の頭をかいて、窓の外に目を逸らした。
照れているらしい。
(ゴルデンも、こういう顔をするのか――)
車窓の風景は変わる。
果てしなく続くような荒野は次第に様々な植物が現れ始め、薔薇科の蔓性のものがはびこる様が見えた。様々な色の花は季節に関係なく咲くものであるらしく、他の植物か茶色に枯れたり、葉をすっかり落として来る季節に備えようとしている中、異様な艶を放ちながら、咲き誇っているのだった。
この茨は、この地方に特有の植物なのだろう。他では見ることのできない種類だ。
すっかり明るくなり、次の駅が近くなった。
様々な思念が強烈に飛び込んでくる。ただでさえ痛む頭に、それはがんがんと鳴り響くようなのだった。
以前となんら変わることのない「依頼」の嵐である。
西の大魔女に叶えてもらいたい「依頼」が、相変わらずわたしめがけて飛んでくるということは、わたしはやはり、魔女の愛弟子なのだ。師の片腕たる魔女の愛弟子……。
師の愛の対象から外れた、という事実を、自分が受け止めきれているのか分からない。
だが、少なくとも師はわたしを愛弟子の地位から降ろしてはいないし、まだ我々の師弟関係は続いている。
「嬉しそうだな」
ゴルデンが言った。わたしは頭痛をこらえながら、頷いた。
あきれ果てたようにゴルデンは肩をすくめ、窓枠に頬杖をついて外ばかり眺めた。
「あんな西の、どこが良いんだ」
なにか聞こえたような気がしたが、気に留めるほどのことではない。数々の「依頼」は、相変わらずわたしを苛み、もとから弱っていたわたしは激しい眩暈で目を閉じなくてはならないほどだった。
わたしは安堵していた。舞い込み続ける「依頼」に、緊張の糸がほどけたようだった。
魔女の愛弟子。
この肩書を失ったら、わたしはどうなるのであろう。
師よ。
やはりわたしは、あなたを追い続けねばならぬ。
しかし、容赦のない「依頼」の渦は、今のわたしには重すぎた。
封印されているだけではなく、体が変化を起こしているのである。額に汗を浮かべながらわたしは駅に降り立ち、そのままホームに崩れかけてゴルデンに引っ張り起こされた。
片腕をゴルデンの肩に回し、ひきずられるようにして歩く。
改札を済ませ、駅を出ると、晩秋のオレンジ色を帯びた早朝の日差しが斜めにさしていた。ぬるい汗をかきながら、わたしは薄目を開く。荒い息の向こう側に、赤く日に焼けたとんぼが直線を描いて過った。
……女が欲しい。
あいつが嫌いだ、目の前から消し去りたい……。
依頼は、羽虫のようにわたしに取りついた。
朦朧としながらも、わたしは選別をかけている。今のところ、契約成立するようなものはない。
それに、師の気配も感じ取れない。
この街には、我々の求めるようなものはないと思われる。
それでも師の気配に集中しようとして、わたしははっとした。試すべきことに思い当たったのだ。
ゴルデンに引きずられながら、わたしは言った。
「ここで一泊するのだろう」
ゴルデンが答えるのを待たず、わたしは言った。
「オパールの扉が開いているかどうか確認したい」
わたしの黒曜石の異空間にある、オパールの扉。今までは入ることを拒絶されていたのだが、今はどうだろう。
宿に着き、部屋が取れたらすぐに試してみたい。人目のつくところではできないことだから。
わたしは意気込んで言ったのだが、ゴルデンは黙って歩を進めた。歩道では、時折自転車乗りがベルを鳴らしながら、我々を避けて走る。
「やめておけ」
ゴルデンはぼそりと言った。
わたしがものを言う前に、もう一度、怒りを含んだ声で彼は言った。
「絶対に、それはやめておけ。おまえには荷が重すぎる扉だ」
いいな、と彼は念押しした。
乗合馬車の数は少なかったが、農家のものらしい荷馬車がよく通りかかり、けたたましい音を立てて我々の横を走り抜けた。
すぐ側が、農業地帯になっているのだろう。
走り抜けてゆく荷馬車を横目で見ていると、時には牛乳の入った大きなタンク、時には野菜が積み込まれていた。駅前に卸売りがあるので、そこを目指しているのだろう。
この町には、自給自足のささやかな気配がする。新鮮な牛乳や自前の小麦で作ったパンなどが人々の生活を支えているようだ。
「そら、薬屋だ」
唐突に立ち止まり、ゴルデンは言った。がくんと前に倒れかけ、わたしはゴルデンに支え起こされる。眉をしかめて、ゴルデンは覗き込んだ。
息を切らしているわたしを見て、ゴルデンは不機嫌そうに溜息をついた。
金貨を握らされる。眩暈と痛みで歩くのがやっとだが、ゴルデンは背中を向けていた。俺は、嫌だぞ。……わたしは彼の助力を諦めて、ふらつきながら店内に入った。
(なんて面倒な……)
女とは。
そうだ。わたしは女になった。女に……。
店から出ると、ゴルデンがいなくなっていた。
わたしは店の壁に凭れ、そのまましゃがみ込んで息を整える。
次第に上ってゆく太陽が穏やかな日差しを投げかけており、時折そよ吹く風が冷や汗をかいている額を通り過ぎた。今日が悪天候でなくて良かったと心から思った。
(……この心細さは、なんだろう)
体の状態に左右される、内面。
琴線が敏感に震え、微妙で複雑な音を奏でるように、わたしの心は細かく移ろう。
恥じらい(そうだ、わたしは確かに恥じらいを覚えていたのだ)、微かな喜び、不安、心細さ。
……ゴルデンは、どこに行ってしまったのだろう。
がらがらと音を立てて、荷馬車が目の前を通り過ぎた。
卸売場への配達が終わったのだろう。来た道を戻っている。
次々と荷馬車が走りすぎた。
空になった荷台を軽快に引きながら――。誰も、道端にしゃがみこむ「少年」を見ることはない。
つ、と頬に伝ったものがあったので指でぬぐうと、涙だった。
(なぜ、泣く)
うろたえている間に、涙は次々と零れた。茫然としながら涙を落としていると、突然目の前の光が遮られる。
顔を上げると、知らない女性が屈みこんでいた。
はっとする。
ひどく穏やかだがゆるぎない――例えるならば大地のような――力を感じる。
同じ黒い瞳でも、この女性の瞳は温かで情熱さえ感じられた。豊かな下唇が印象的だ。
(魔女、か)
黒を基調とした服を纏い、ゆったりとしたスカートには大きなポケットがついていた。
女性はわたしの額に手を伸ばし、ほどよく冷えた掌で包んだ。
「微熱よ」
低い音程の声だった。
ゆりかごが揺れるような響きを持っている。
柔らかな青空を背景に、ゆるくウェーブがかかった黒い髪が微風に揺れていた。
「……そして貧血ね」
魔女は屈みこむと、じっとわたしの顔を見つめた。無条件の微笑みが唇に刻まれている。
「黒曜石のお嬢さん……朦朧としているけれど、わたしの石が分かるかしら」
血玉石、とわたしは乾いた唇を動かした。
魔女は大きく頷いた。
「そう。だからわたしは、この役割に最適な魔女。あなたにはいろいろと必要なものがある……」
わたしが、授けてあげる。
血玉石はそう囁くと、わたしに手を差し伸べた。ふわり、と懐かしい香りが漂う。
これは何の香りだろう。
血玉石の表情がゆっくりと変わり、彼女はわたしから離れると立ち上がった。
ゴルデンが彼女の背後に立っており、どこか神妙な顔つきでこちらを見ている。
血玉石はゴルデンを見て驚いたようだった。
「……あなたは……東の……」
ゴルデンが何者であるか一目でわかったらしい。黒い瞳を大きく見開き、わたしとゴルデンを見比べている。
ゴルデンは頷くと、 血玉石に何かを渡した。腕で抱えるほどの紙の包みである。
「適任の魔女がいてくれて、大助かりだ」
心の底からそう言っているらしい。
血玉石は紙包みを受け取り、目を見張った。ゴルデンは一瞬、ひどく気まずそうな顔をした。それは、母親にいたづらを隠す子供のような顔だった。
「……明日の早朝の汽車で、発つ。それまで、あなたにこれを預けたいのだが、よろしいか」
わたしは驚いてゴルデンを見上げた。
今までわたしの力を封印し、鎖でつなぐように監視していたはずのゴルデンが、人にわたしを預けるという。
すっかりいつもの冷然とした表情を取り戻したゴルデンは、わたしに一瞥をくれると血玉石に頷いてみせた。そうして、外套をひるがえし、こつこつと歩き去った。
血玉石は、どこか楽しそうにその後姿を見送ると、しゃがみ込んでいるわたしに手を伸ばし、引っ張り上げて立たせた。
体を寄せると、なおさら懐かしい香りが鼻につく。
どこかで嗅いだ記憶があるのだが――あまりにも微かで、いつどこで嗅いだものかわからない。
「大丈夫よ」
励ますように血玉石は言うと、わたしの肩を抱くようにして歩き始めた。
「明日の朝までに、教えてあげる」
にっこりと笑っている。
それを見て、わたしはまた、心の琴線が震えるのを感じた。
これは、切なさ。それと、甘え――甘え?わたしが?――だった。
「東の大魔女がいくら強大な力をもっていても、こればかりは、ね」
くつくつと血玉石は笑い、いとし子を見るようなまなざしでわたしを見下ろした。
「その、変わりたての体と心の扱い方を――」
教えて、あげる。
血玉石=ブラッドストーン
魔女の愛弟子では、保健室の先生的な立ち位置でございますm(__)m




