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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第四部 赤ずきん
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赤の幻想 2

ペルに「印」を授けるゴルデン。

体の内側から変化が起こり、ペルは苦痛にのたうち回るのだった。

その8 赤の幻想 2


 初夏の風が吹きわたり、遥か彼方まで続く草原が柔らかく波打った。

 振り返ったゴルデンの紫の裏地は、一瞬大きく翻る。逆光になったゴルデンは薄暗い影になっていた。瞳だけがらんらんと輝いている。


 わたしは道に尻をついたまま、ゴルデンを見上げていた。

 (逃げなくてはならない)

 魔女としての本能がけたたましく警鐘を鳴らし、わたしに逃げるよう催促している。だが――動けなかった。

 蛇ににらまれたカエルは恐怖のあまり身動きがとれなくなるというが、わたしはまさにカエルだった。愚かなわたしは、自分がどのような相手に最も弱く柔らかな感情を見せてしまったのか、嫌と言うほど気づいたのである。


 知られたら最期と思ったのは、間違いではなかった。

 ゴルデンの、これまでに見たことがないほどの狂気じみた瞳の光。それは残酷な紫の矢じりである。瞬時に射られたわたしは、すでに彼の猛毒が回りつつある。

 ……動かないのだ。体が。

 脂汗が浮き出し、鼻の横を伝って落ちた。ぐわんぐわんと振り子が揺れるような恐ろしい鼓動が、全身を支配している。おまけに、ゴルデンの視線から目をそらすことができなかった。


 読み取られている。

 こうしている今も、どんどん情報が吸い取られている。

 ゴルデンは、わたしの内部を探り、骨の髄まで観察しつくしている。


 ……。

 

 ゴルデンは全てを悟った。

 ぺろり――と、ゴルデンは唇を軽く舐めた。


 「まず断っておくが」

 凍てつきそうなほど冷たい声の響き。わたしはくっと歯を噛みしめた。

 「俺は、おまえの理解を必要としない」

 ゆらり、とゴルデンは向き直り、足を踏み出した。一歩ずつ彼が近づくたびにわたしの心臓は跳ね上がる。

 わたしは――非常に不本意なことであったが――憐れみを乞わねばならなかった。眉を寄せ、唇を震わせ、恐れおののきながら、東の大魔女を見上げていることしかできなかった。

 「西の大魔女と『母』の間の契約内容や」

 一歩、大きく近づく。影がわたしの上に差し掛かった。

 ゴルデンは真上からわたしを見下ろしている。眩しい初夏の日差しを浴びたゴルデンは、ほとんど闇のような漆黒の陰になり、わたしには彼の瞳しか見えなかった。

 「……俺がこれから行うことについて、一切、説明する気はない」


 猛獣の、目だ。

 獲物を前にした時の、狩人の輝きである。

 全身を強張らせているわたしの前にひざまずくと、ゴルデンは白手袋の右手を伸ばし、わたしの胸倉をつかんだ。ひ、と息を吐くような音を立てながらわたしは引きずられ、ゴルデンの顔を真っ向から見上げるかたちになる。

 紫の瞳の輝きが近くなり、わたしは目を見開いて、荒々しい接吻を受けた。

 接吻と言っても、ただ唇と唇がふれあった現象をそう表現しただけであり、それは決して、人間が行うようなものではない。ゴルデンはわたしの中に、彼の一部を吹き込んだのである。ウイスキーに似た熱さをもったそれは、わたしの喉を直滑降した。ゴルデンから吹き込まれたそれは、恐ろしい勢いでわたしの内部を突き進んでいる。

 

 荒っぽく、ゴルデンはわたしを突き飛ばした。

 道に転がったわたしは、体の中を掻きまわされるような感覚に呻き、のたうち回る。熱い――熱い熱い熱い。

 「ゴルデン、なにを」

 げえ、と胃液と一緒になにかが持ち上がってきたが、一直線にわたしの中を突き進むそれは、決して吐き出されることはなかった。

 口から胃液の糸を落としながら、わたしは上目でゴルデンを睨んだ。


 「『印』を受けて吐くとは、どこまでも俺を怒らせたいようだな」


 冷ややかにゴルデンは見下ろしている。

 滅茶苦茶に体の中をかき乱され、わたしは転がり――そして、唐突にその苦しみは治まった。

 体の内側を滅茶苦茶に掻きまわされる痛みは治まったが、かわりにぼんやりとした違和感が続いている。

 わたしは起き上がり、下腹部に手を当てた。ここで、なにかが蠢いている――。


 わたしには構わず、ゴルデンは懐中時計を取り出した。時刻を見て、また時計をしまう。

 にたり――と、唇の端を吊り上げると彼は言った。

 「夜明けまでには間に合うか。おまえ、あと数時間だ」

 「……」

 「あと数時間で、おまえは、おまえの師と『母』……オパールの魔女との間にかわされた契約から、無関係になる」

 だから、その気になりさえすれば、西の大魔女はおまえの元に戻るはずなのだ――と、ゴルデンは言った。


 「本当に、もっと早くにこうすれば、手っ取り早かったのだが」

 腹立ち、苛立ちを抑えるように、ゴルデンは腕を組み、息をついた。瞳の恐ろしい光は和らぎ、今はただ、呆れたような表情を浮かべている。手こずらせやがる、と、その眼は語っていた。

 わたしは黙って立ち上がり、服の汚れを払った。ついでに唇をぬぐい、ぺ、と地面に唾をはいた。さっきこみ上げた胃液が苦くて不快だったのである。

 「おまえ……」

 ゴルデンは一瞬、まるで別の表情に移りかけたが、すばやく取り繕った。


 接吻行為への反抗と受け取ったのだろう。……どうだろうと構わないのだが。

 わたしはひどく消耗し、疲れていた。痺れるほどの恐怖は去っていたが、ゴルデンにすべてを見抜かれ、自分が酷い失態を曝したことがつまらなかった。

 今となっては、もうすべて済んだことである。今更、隠したり、取り繕ったりする気は毛頭なかった。

 

 「開き直るのか。食えない女だな」

 ゴルデンは、またわたしの思考を読んでいるらしい。

 一緒にいられる気分ではなかった。落ち込んでいる、とても言うのだろうか。疲れ切り、顔を見るのも嫌なほど、わたしは憔悴していた。それに、ぐちゃぐちゃと体の内部でうごめくものが薄気味悪くて仕方ないのである。

 わたしは彼から顔を背け、草原の中に入って歩き出した。

 ざわざわと風に揺れ、青臭いにおいが立ち込める草原に膝までつかりながら。

 

 背中からゴルデンの声が追ってきた。

 何と言っているのか分からなかった。構わずわたしは歩き続けた。

 すると、途切れ途切れに言葉が聞こえ、思わずわたしはほんの一瞬だが、彼の声に注意を向けてしまったのである。


 「野苺を摘んで、届けてやるといい」


 何を言っているのか。

 振り向いた時、そこにはゴルデンの姿はなかった。ただ広い草原がどこまでも続いているだけである。

 わたしは、自分がバスケットを下げていることに気づいた。こんなもの、さっきまでは持っていなかったのだが。

 (何らかの魔法が、また働いている)

 わたしはバスケットを肘から抜き取り、捨てようとしたが、どうしてもできなかった。

 頭の中で、ゴルデンの声が鳴り響いているのである。


 「野苺を摘んで、届けてやるんだよ」

 

 じれったそうに、苛立ちを含んだ声と言い方である。

 「いいかげんにしてくれ。わたしを惑わして、あなたに何の得があるというのだ」

 わたしは怒鳴ったが、ざあっと舞い込んだ風にかきけされた。

 むらむらっと、怒りのようなものが込みあがってきて、わたしはざくざくと歩き出した。野苺を摘み、バスケットに入れたら何が起こるのか分からないが、こんな茶番はさっさと終わりにするべきだ。

 青臭い中を進むと、唐突に草原は途切れ、目の前には小さなあぜ道が横わたっていた。ここを進みなさい、と言わんばかりの登場である。

 道に足を踏み込み見回すと、野花やクローバーに混じり、ぽつぽつと赤いものが見えていた。濃い緑の弦が道の端を這っており、そこに小ぶりな野苺らしいものが実をつけている。かがんで一つ積み上げると、力の加減が間に合わず「ぷつん」と音を立てて実が弾けた。

 鮮やかな赤が跳ね飛び、掌が赤く染まった。赤く、甘い味がにじんだ指を、わたしは口に入れた。

 

 確かに野苺の味である。

 

 「これを摘めばいいんだろう」

 どこにいるのか分からないゴルデンに対し、わたしは無感情に言った。

 今は、完全に相手の掌の上である。

 (好きにするといい……)

 わたしは心で呟いた。どこかで、ククと忍び笑いする気配があり、わたしの神経を逆撫でした。

 

 ぷつん、ぷつん、と音を立てて野苺はちぎれる。

 時折間違えて実を潰し、ぎょっとするほど赤いものが破裂し飛び散る。おかげで手は真っ赤になった。

 小さなかごは間もなく苺でいっぱいになった。

 

 「誰に届けろと言うんだ、ゴルデン」

 雲一つない青空に向かい、わたしは言った。

 すると、映像が舞い降りた。

 

 小さな家が見える。赤い屋根で、ささやかな家庭菜園があり、花壇には無数の金魚草が花をつけていた。その赤い、奇妙な形が生き物のように風に揺れている。

 赤い屋根の家の木の扉をくぐると、小奇麗な生活空間になっており、小さな部屋の隅にベッドがあった。そのベッドに、誰かが横たわっている。

 パッチワークキルトの布団を深くかぶり、姿は見えないが、とにかくそこに寝ている者がいることは分かる。

 (病人――か)


 こんな明るい初夏の昼間から寝込んでいるのだ。

 病人だろう。

 この病人に苺を届けることで、何が起きるのか見当もつかないが――わたしには選択権はなかった。

 (早く終わらせなくては)

 この道を真っすぐ行けば、赤い屋根が見えるのだろう?

 わたしは足早に歩きだした。

 下腹部が、ぐずぐずと不快感を持ち始めたのもある。グチャグチャと蠢くものは、ゆったりと脈を持ち始めた。体の内部に浸透し、ゴルデンがわたしに注入した「印」とやらは、わたしの中の何かにしつこく働きかけている。

 苦痛と言うほどではないが、下腹部、そして両の乳が時折痛むのだった。

 

 「おまえの中の止まった時間を、進める必要がある。なにしろ、西の大魔女を捕まえないことには、色々とまずいのだ」

 ゴルデンは、そう言った。

 あの接吻行為は、わたしの中の時間に働きかける作用があるのだろう。わたしの時間は13歳でとまっているはずだが、それと、師と、どういった関係があるというのか。

 ゴルデンがわたしの中に植え付けた魔法が発動するまで、あと数時間だという。

 そうなれば、わたしは師と、師をわたしから連れ去ったオパールの魔女の契約から無関係になる。そうなれば師は再び、わたしの前に戻ってくるというのだが――。


 (まあ、いい)

 時間がたてば分かることである。

 わたしは野苺が実を付ける小道を急いだ。

 歩いているうちに、おかしなことにわたしは気づく。僅かな距離しか歩いていないのに、何時間も歩いたかのような疲労感を覚え、おまけに空腹になった。屈みこんで苺を摘み取り、口に入れながら、わたしは直感する。

 

 (この道は、時間を速めている)


 苺を摘んだ後の真っ赤な指を眺めた。ぬらぬらと鮮やかな赤に濡れた指は、みるみるうちに乾いてゆき、赤はぱさぱさと乾いて、そよ風に吹かれて空気に散った。手の甲で口を拭うと、やはり艶のある苺の赤い汁がついてくる。だがそれも、瞬く間に乾き、飛び散ってゆくのであった。


 ぐにゃり、と視界が歪み、思わずゆらめく。

 疲労感だけではない。確かに体の内部が変化している。倒れそうになりながら、わたしは歩いた。

 じわじわと、忍び寄る、何か。


 クク……。


 ゴルデンの笑い声が風に乗って運ばれてきた。

 青い澄み渡る空を見上げる。草の匂いと苺の甘い香り。わたしはまた苺を積み上げると、口に入れる。

 ぷちん、ぷちん。

 口の中で苺がつぶれてはじけ、赤い……赤い色を飛び散らす。その赤を飲み下す。

 

 クク……クククク……フフフ、ク、アーハハハハハ……。


 「何がおかしい」


 空に向かってわたしは怒鳴った。

 腹を抱えて笑い転げているらしいゴルデンが思い浮かび、屈辱で血がのぼるようだ。その一方、体の中のだるさは増している。微熱――というのであろうか、ぼんやりとして、やけに体が温かかった。

 

 アッハハハハハハ……クク、ハハハハハ……。


 ぎちぎち、と胸に鈍い痛みが走り、わたしは思わず息を飲んだ。

 同時に下腹部も何かを主張し始めている。全体的に感じる、この倦怠感はなんだ――。


 「ゴルデン、いい加減にしてくれないか」


 ぐったりと疲れていた。心底、疲れ切っていた。今すぐ横になりたい衝動にかられながら、何とかわたしは歩き――やがて赤い屋根の家が見えた。

 赤い金魚草の群れも見える。

 あそこに、野苺を手渡す相手が眠っているはずなのだ。


 そうしたら、この茶番も終わるのだろう。

 到着だ……。


 「おめでとう、ルンペルシュティルツヒェン」

 また、ゴルデンの声が聞こえた。笑いを含み、どこか陽気である。

 「うるさい、酔っぱらっているのか」

 限界をむかえ、わたしは怒鳴り散らした。

 「祝ってやろうというのだ。人間の世界では祝うものだからな……」

 「なにがめでたいのか、分かるように喋ってくれ」

 あきれ果てて、もうついてゆけなかった。

 とにかく早く終わらせるべく、赤い屋根の家に近づく。金魚草の花壇を通り過ぎ、ついにわたしは玄関にたどり着く。

 

 煉瓦の石段をあがり、木の扉を叩くと、中から声が返ってきた。


 「おはいり。開いている」

 

恐ろしい接吻。

……。


ネコ科は肉食ですしね。

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