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魔女の愛弟子  作者: 井川林檎
第四部 赤ずきん
33/77

~閑話~三枚の蛇の葉 1

ゴルデンの姿を模した水宝玉の魔女を伴い、東への旅を続けるペル。

だが、汽車がひどく遅れていた。

その4 ~閑話~三枚の蛇の葉 1


 夜がすぐそばに迫る夕刻だ。

 太陽は驚くほど大きくなり地平線に沈もうとしていた。

 禍々しい程の赤さを放ちながら、雲を染め、村を染める。

 だが夕闇は威力を増し続け、おぞましいまでの赤さを上回る濃い色で世界を包もうとしている。――じきに、夜だ。

 影が細く長く伸びている。駅から村に続く石ころだらけの道である。昼間のあたたかさが急速に薄れ、足元から這いのぼる冷気に、わたしは外套を掻き合わせた。


 汽車が、来ない。


 甘やかな香りが漂うので振り向くと、水宝玉の魔女が巻き毛をかき上げながら、空を見上げていた。その、透き通るほどの紫の瞳が無感情に夕闇を眺めている。

 次第に暗くなってゆく空気の色を白い頬に映しながら、水宝玉は呟いた。

 「ひどい、遅れだ」

 そうか、来ないのではなくて、遅れている……のか。

 わたしは一つ息を落とした。

 来ない汽車を待っても仕方がないと待ち合いを出たが、遅れているのならば、どれくらいの時間になるのかを確かめねばなるまい。優雅に佇む水宝玉の横をすり抜け、わたしは駅に戻った。

 誰もいない改札口に歩み寄り、カーテンのかかった窓を叩く。

 ずいぶん待たされてから、カーテンの奥から「なにか」と聞かれた。

 しわがれた、ひどくだるそうな声である。東行きの汽車の遅延について尋ねると、また待たされた。窓の奥で電話をかけているらしい物音が聴こえる。

 ああそうですか――では、分かり次第、かけなおしてください。

 ……チン。

 電話が切れる音がして、またごそごそと窓口に人が来る。


 「中央区で調べているそうです。電話がかかってくるまで、待ってもらえませんかね」

 

 夕闇が迫るにつれ待ち合いは薄暗くなった。

 待ち合いのベンチに座り、腕を組んで暖を取っていると、せむしの老婆がランプを持って出てきた。

 心細いオレンジ色の灯を、待ち合いの壁にかかった時計の側にかける。

 老婆が窓口の中に引っ込むと、待ち合いは静寂に沈んだ。

 開け放しの出入り口から、薄れてゆく夕日が闇色に混じりながら差し込んでいた。


 わたしは目を閉じる。


 甘い香りが漂い、目を開けると、水宝玉が横に掛けていた。

 長い足をくみ上げ、端正な横顔で時計を見上げている。

 (……ゴルデン)

 面影が重なる。


 水宝玉の魔女は、ゴルデンの姿を模している。少年の姿のゴルデンが成長したら、こうなるであろうという姿だ。

 わたしの視線を受けて、水宝玉は顔を向ける。紫の瞳の奥にちらつく、無色に近い淡い青。

 ……妖しい優しさに満ちている。

 

 「この時刻でも、遅延状況が伝わっていないということは、今夜はここに泊まることになりそうだね」

 音楽的な声で、水宝玉は言い、微笑んだ。……常に微笑んでいるようなものだ。意味のない微笑みだ。

 (なぜ、いちいち搔き乱されるのだろうか)

 時計を見上げると、夕食時を過ぎようとしている。

 つるべ落としのように日が暮れており、外はほとんど闇だった。入口から差し込んでいた薄い夕日も、もう消えた。

 わたしは、もう一度、水宝玉の顔を、姿を、瞳を見た。

 金の巻き毛も、紫の瞳も、愛嬌が混じる端正な顔立ちも、やはり東の大魔女――ゴルデン――のものなのだった。


 君には、僕がどんなふうに見えているの。

 

 ふいに思い出す。あの、夜汽車での出来事を。

 あまりにも唐突な水宝玉との遭遇だった。わたしの満たされない願望が叶うまで、彼はわたしから離れないと言った。その言葉通り、彼は未だにわたしの側にいる。

 

 赤毛の、背の高い男の人――では、ないのかな 。


 

 ……。


 吐き気がこみ上げてきて、思わず口元を覆った。

 だめだ。なぜかはわからない。わたしは封印を解かれており、本来の「魔女の愛弟子」としての力に満ちているはずである。

 おかしな思念の影響は、簡単には受けないはずなのだが、どうやら水宝玉は例外だ。

 この魔女が、途方もない力を持つ相手であることは確かだが、このわたし、魔女の愛弟子をしのぐとも思えない。だが、とりとめのなさというか、掴もうとするとするりと抜けてしまうような奇妙さがあり、水宝玉はわたしの中を好きなように探り、欲しい情報をつかみ取り、こちらの内面を揺さぶり――思うままの弄びようだ。

 (何者、なんだ)

 甘い香りをかぎ続けると、体の芯が痺れてぼやけるようだ。

 わたしは意識して、水宝玉の香りから己を防御していた。そのうえで、この奇妙な魔女に全神経を注ぎ、観察を続けていた。どうあっても、この魔女の正体を確かめ、暴き、わたしの中に土足で踏み込むような真似を二度とできないように打ちのめす必要がある。

 

 「契約、なんだよ」

 

 ふいに水宝玉が言った。

 相変わらず微笑んでいる。優雅な仕草で髪をかき上げ、横目でわたしを見つめた。

 わたしが黙っていると、水宝玉はゆっくりと続けた。

 「僕にとっての『依頼』は、満たされない思いや激しい渇望。それも、愛方面のことに関して」

 愛、わかる?

 ……少しからかうような響きを帯びる。わたしは無性に苛立ち、唇を噛んだ。

 

 「親子の愛、友愛、師弟愛――女の、愛」


 紫の瞳が細く笑った。唇が花弁のようにまくれあがり、白い歯が覗いた。

 「君からは、その『依頼』が聴こえた。僕は『依頼』を受けた……君」

 一息おいて、彼は言った。自分の言葉がもたらす効果を楽しんでいるようだ。

 「……この『依頼』は契約成立するんだよ。つまり、君は、自分の思いに素直になるべきなんだ」

 風が吹き込んできた。冷たい風だ。

 ランプの中の弱い灯が揺れ、壁を丸く照らしていたオレンジ色も揺れる。

 


 「それが、貴様の仕事ならば、仕方がないのだろう」

 魔女の愛弟子たる、ルンペルシュティルツヒェンの仕事が「依頼」を選別し、西の大魔女である師に引き渡すことであったのと同じように。

 わたしは相手を見上げた。

 「契約成立するかもしれないが、ならば、依頼主のわたしに、契約遂行するかどうか、伺いを立てるべきではないのか」

 水宝玉は、ふっと息を吐いた。笑いをこらえているようだった。

 

 コーン、と、時計が時を刻む。

 わたしの目を覗き込みながら、水宝玉は言った。

 「……実は、君はもう、契約遂行を承諾している」

 わたしは黙って相手を見つめ続けた。水宝玉は視線を逸らし、横顔を見せる。まつ毛を伏せていた。

 「願望と自意識が乖離している、君のような『依頼主』には、よくあることだね。僕には聞こえたよ、君の声が」

 「……」

 

 「愛したい愛されたい必要とされたい」


 音楽的な声で彼は言い、またこちらを見つめた。

 押し黙ったわたしに、微笑みかける。そして頷く。

 「……君は、そう言っているんだよ。そう叫び続けている」

 血の涙を流しながら、ね。

 

 ……。


 カア、カア、カア。

 ……烏が近い場所で鳴いている。既に待ち合いの外は日がくれ、濃厚な夜闇が落ちていた。

 夜烏である。

 

 

 

 不意に、わたしは頭の中が搔き乱されるような感覚に襲われ立ち上がった。

 師の姿ではない。

 常に追いかけていた師の姿ではないものが、わたしの中にある。

 

 ……違う。

 混乱する頭をおさえて、わたしは水宝玉をにらみつけた。

 「惑わすならば、貴様をこの場で闇に送ってくれる」

 低く、言った。

 額に細かい汗の粒が浮き上がっており、そのうちのいくつかは流れて鼻の横を伝った。わたしは全身を緊張させていた。

 

 師を探しているのだ。探さねばならないのだ。

 師に全ての感覚を集中させ、微かな残り香であっても手掛かりを掴まねばならないのだ。

 わずかな声であっても聴きださねばならないのだ。

 師の姿だけを見ていなくては、それも叶わない。

 

 わたしは、渦巻く思いを瞳に込めた。

 冷酷な黒曜石の怒りは強い魔法の矢じりとなり、水宝玉の心に突き立つ。

 ぐさり、と、水宝玉の中心部に怒りの矢が命中するのを、わたしは見た。

 しかし、手ごたえがまったくない。水宝玉自身も、顔色ひとつ変えずに微笑み続けている。

 この相手には、攻撃が通用しない――。


 はっとした。

 ゴルデンが、強い紫の瞳でこちらを見上げ、皮肉めいた笑みを浮かべていた。

 白手袋の手で頬杖をつき、ベンチの背もたれに体を崩して。

 

 「俺には、お前の姿がどう見えていると思う。愛弟子よ」


 ……。


 違う。わたしは目の前に落とされた幻覚のヴェールを振り払う。

 ゴルデンではない。水宝玉だ。

 水宝玉は、こう言った。


 「僕には、君の姿がどう見えていると思うの、ねえ……ペル」


 わたしは外套の中で木のワンズを握る。

 水宝玉は穏やかな表情で、まるで絵画を鑑賞するようにわたしを見上げ――言った。

 

 「君は、とても、綺麗だ――」

 官能的で、魅惑的な、ひとりの女性だ。

 (黙れ)

 「君は十分に美しい。その、蛹のような体に閉じ込められている本来の君を、羽化させることができたなら、君の願望は叶うだろう」

 (……調子に乗るな)

 「その……」

 すっと白く長い指が伸びて、外套の胸元に滑り込み、わたしの胸元に触れる。

 酔いしれるような表情で、水宝玉は言った。

 「豊満な、美しい胸元に欲しいものを抱くことができれば、君の願望はひとつ、満たされる――」


 わたしは握るワンズに念を送り、魔法を発動させた。

 水宝玉の指は弾かれ、彼は一瞬にしてベンチの背もたれに打ち付けられた。

 ちょっとした打撃を受けたはずだが、涼やかな表情で、水宝玉はこちらを見上げた。笑っている。

 むらむらっとこみ上げるままに、わたしは近寄ると、相手の胸倉をつかんでベンチから引きずり上げた。それでもまだ歯を見せている水宝玉の横っ面を、拳で張った。

 ゴルデンの姿をした魔女は、あっけなく床に倒れて顔を赤く腫らした。

 

 「僕のこの姿は、君を救うため」

 まだ続ける水宝玉に近づくと、再び胸倉をつかんだ。だらりと、人形のようにされるがままになりながら、水宝玉は微笑み続けている。

 手ごたえが、ない――。


 

 ジリリリリリ、と、電話のなる音が聴こえた。

 窓口の奥の方だ。

 電話は取られ、事務的な会話が微かに漏れ聞こえてくる。

 やがて、窓口から人が出てくる気配がした。わたしは水宝玉の胸元から手を離し、水宝玉はゆっくりと立ち上がった。

 

 非常にだるそうに、老婆が出てきた。

 丸い眼鏡の奥の疑わしそうな目で我々を見ると、聞き取りにくい声で言った。

 「汽車の遅延ですが、事故があったらしく、到着は夜更けになります」

 「……」

 「それまでここで待ちますかね。ひどく冷えますが」

 確かに冷え込んできた。足元からの冷えは凍り付きそうなほどになっており、動かずにいると全身が固まりそうだった。

 しかし、宿を取るほどの時間もない。

 せいぜいで、5、6時間か。

 「この駅は、10時で閉まるんですよ。当直が一人いるだけで」

 迷惑そうに老婆は言った。言外に、出て行けと言っている。

 「駅が閉まった後の汽車については、先に改札を済ませて頂いて、お客様にはホームで待ってもらうことになっているんですがね……寒いですよ」

 ホームには、小さな待ち合い小屋が一つあった。

 ストーブもなにもない、小さな常夜灯がついているだけの、トタンの建物である。

 そこに座って、汽車を待てば良い。

 わたしは、老婆に頷いた。

 10時ですよ、10時までに改札を済ませてくださいよ、と、しつこく念を押されてから、我々は待ち合いを出て冷え込む外に出た。

 ひどく遠くに、繁華街の明かりが見えている。

 小さく渦を巻く冷気の塊が足元を吹き抜けた。木枯らしである。

 「……食事を」

 とだけ言うと、わたしは歩き出していた。

 水宝玉が着いてくる衣擦れの音が聴こえた。

 闇夜の中へ。



 一日の業を終えた労働者の波に混じり、我々は繁華街を歩く。

 この村は、ささやかな炭鉱を持っており、多くの者が石炭掘りに携わっているようだ。

 煙突掃除夫のように黒い顔をし、すえた汗の匂いを通りに充満させながら、彼らは寡黙に歩く。貪欲な目つきで、口を引き結んで、今はひたすら一日の疲れをいやすことだけを考えている。

 人ごみの中に混じると、たちまち無数の「依頼」が舞い込んでくる。

 ぐるぐると渦を巻くような、叶う当てもない「依頼」が目の前を通り抜けてゆくのを、わたしはただ見送る。

 封印を解かれているわたしに、図々しく絡みついてくる「依頼」は、ない。

 ほとんどの「依頼」は、かさかさと病葉が風に打たれるような音を立て、恨みがましく「依頼」を呟きながら横目で通り過ぎ、見えなくなってゆくのである。


 うまいものを、喰いたい……。

 毎日、寝て過ごしたい……。

 あの女が欲しい……。

 あいつが嫌いだ……。


 ……。


 「大人気じゃない、君」


 背後から耳に息を吹き付けるように、水宝玉が言った。

 近寄るな、とわたしは肘を立てて相手の体を牽制する。むっとする汗の匂いの中でも、水宝玉の甘い香りは隙あらば神経を犯そうとする。

 わたしたちはやがて、一軒の食堂に入る。

 食堂は寡黙な男たちで埋め尽くされていたが、カウンターの隅に空いた席があった。

 かろろん、と扉の鈴を鳴らして店に踏み込むと、薄暗い裸電球の下を抜けて、席に着いた。

 かちゃかちゃとフォークを使う音が店のいたるところから聞かれる。

 隣の筋肉質な中年男が、くたびれたハンチングの下からちらっとこちらを見た。灰色の、無表情な目である。

 すぐに目をそらし、大事そうに飲んでいる一杯のコップ酒に戻ったのだが、その一瞬の交流で、わたしは全てを読み取るのだ。

 

 食堂に入ってもハンチングを取らないのは、ものぐさな性格のため。

 片方の目の視力がほとんどないのだが、仕事を失うのを恐れ、公にはしていない。

 家には子供が三人おり、妻は太っていて、ひどく嫉妬深く、がめつい――。


 (ガキは家に帰って、ママの飯でも食っていればいいんだ)

 

 鋭い、怒りにも似た思念が飛んでくる。

 この店には、子供の姿はない。ここは激務でくたびれた労働者が、僅かな酒とつまみを腹に入れ、けたたましく喚く女房や、風邪ひきの子供が泣きわめく家に戻る前に、気力を補充する場所なのだ。


 ごん、と毛深い腕が我々の前に水の入ったコップを置いた。

 カウンターの内側から、非常に愛想の悪い親爺がうさんくさそうな目つきで我々を見下ろしている。

 

 「温かいスープとあぶった肉で良い。ウイスキーはあるか」

 

 わたしの言葉に親爺は眉間に皺を寄せたが、懐から取り出した貨幣を見て気持ちを変えたようだった。ちらっと、隣席の水宝玉に視線を走らせる。

 「同じもので」

 簡潔に水宝玉は言い、貨幣を突き出したわたしの手を軽く押さえた。

 「……僕が支払いますよ、あなたは女性ですから」

 「……」

 店主は無関心そうに水宝玉の優雅な手から金を受け取った。

 奥に引っ込んだかと思ったら、すぐに料理と酒を持って出てきた。受け取った金額に見合う料理と酒を、煙草のやに臭い手で並べ、カウンターの内側の丸椅子に腰を下ろした。そのまま雑誌を眺め始め、もう店主の関心は我々にはないのであった。

 

 「『ゴルデン』は」

 と、ウイスキーを一口飲んで、水宝玉がその名を口にした瞬間、わたしは神経を逆立てた。

 感情の規制をきかせるのを忘れたため、わたしの視線を受けて水宝玉は席から転げ落ちた。

 

 寡黙な労働者たちの無関心な視線が、ほんの一瞬だけ床に転がる水宝玉に注がれたが、すぐに彼らは己の食事に戻った。

 飲み食いが終わり次第、ばたばたと立ち上がり店を出て行き、そしてまた次の客が入ってくる――。


 水宝玉は何事もなかったかのように立ち上がると、席について食事を続けた。

 端正な横顔に微笑を貼り付けせて。


 (いけない)


 目の端に、店の壁に貼り付けられている告知が映った。

 「魔女1人につき、50グルデン」

 ……。


 わたしは、肉を口に押し込んだ。


 「『ゴルデン』は、君に支払いをさせていたの」

 水宝玉が、静かに言いなおした。

 わたしは激しく手が震えるのを抑えつつ、低く返した。

 「……なぜだ」

 水宝玉は、ふふ、と笑う。


 「男が払うものだからだよ。女性に払わせるのは、ルール違反じゃないのかな」


 わたしはコップのウイスキーを飲んだ。

 半分ほどになったそれをカウンターに置くと、できるだけ無感情に答えた。


 「ゴルデンは金など気にしたことはない。気づいたら彼は大枚を振りまいていた。こんな」

 と、裸電球が吊るされた天井を見上げてから、続ける。

 「……店であっても、金貨を一枚放り出すようなところがある」

 気づいたら、彼をかばうように語っていた。わたしはうろたえ、言葉を飲んだ。

 金の話など、下卑た話題だと思う。そんな角度で大魔女を語るべきではない――。


 「非経済的な、男だね」


 と、水宝玉が笑いながら言った。

 わたしはスープを口に注ぎ込んだ。押し寄せるさざ波のような感覚が何か、つかみ取れない。わかるのは、水宝玉に翻弄されているということだ。

 

 時間だ。

 わたしは皿をそのままに、カウンターから離れて食堂を出た。後から水宝玉が着いてくる。

 人通りの多い繁華街を抜け、駅へ。

 数少ない星が瞬いていた。雲が空を覆っているらしい。


 やがて我々は、人通りのない暗い道に出る。

 小石が転がり、左右に貧しい畑が広がる村はずれの道に。

 ……駅は、まだ先だ。


 「赤毛の男の人ではなくて、どうして『ゴルデン』なんだろうね、僕の姿は」


 また、水宝玉が言った。

 わたしは足を止めた。おのれの芯とはぶれた部分で、酷く揺さぶられている何かがある。人間の残渣が、わたしの中で荒れ狂っているのだ。

 吐きそうだ。

 ……限界だ。


 「そもそも君は、赤毛の男の人を愛していたんだろう」


 愛、して。


 わたしは拳を握りしめた。全身がおこりのように震え始める。呼吸が乱れるのを感じ、自分を制御しようと試みた。

 こんなことは、初めてだ。

 (なんだ、これは)


 師よ。師よ。

 ……。


 ゴルデン。


 

 「君は、愛していたんだよ、ペル」


 心臓が張り裂けそうな勢いで高鳴る。

 こめかみが脈打っていた。

 冷たい汗が額から噴きあがり、わたしは歯を食いしばった。黒曜石の頑固で冷酷な力がこみ上げてくる。ワンズを握っていない拳に、その力が漲り始める――。


 師よ、ゴルデン、ああ。

 (いけない――)


 「……ペル、認めなくては」

 甘い香りが近づいてきた。

 わたしは浅い呼吸を繰り返し目を閉じる。

 夜の冷気よ、冷たい星の光よ。ああ。


 「君を捉えて離さない、それは嫉妬。嫉妬を昇華させるには、認めなくては――」


 するり、と優雅な腕がわたしの前に回り、後ろから抱きすくめられる形になる。

 瞬間、脳裏に蘇った映像が、わたしを弾かせた。


 妖艶な笑みを浮かべた、銀髪のオパール。

 師の首に腕を巻きつけ顔を寄せ、こちらを見て、赤い唇をほころばせた――。


 師よ……。


 何ら抵抗せず、されるがままに愛撫を受け続ける我が師の姿を、わたしは見た。

 動きを封じられ、ただ、見せつけられた。

 オパールは師を抱いた。そう、こんなふうに……。


 

 絡みつく腕を振り払うと、わたしは飛びのいて振り返り、つかみだしたワンズを掲げて水宝玉に向けた。

 制御のきかなくなった感情は渦を巻きながらワンズに充填され、凄まじい威力の黒い稲妻が吐き出される。

 「……」

 チェンバロが滅茶苦茶に打ち鳴らされ、繊細な弦が叩き切られるような声を立てて、水宝玉は黒曜石の鉄槌を受けた。

 

 肩で息をしながら、わたしは立ち尽くした。

 一瞬で飛び散った水宝玉。後には何も残っていない――。


 わたしは、額の汗をワンズを握った拳で拭う。そして、息を整えると、また駅に向けて歩き出していた。

 (二度と、寄せ付けてはならない)

 あんなもの、など。

 (二度と、二度と、二度と……)


 10時少し前に改札をくぐる。

 どこか具合が悪そうにけだるそうな老婆が切符に切れ目を入れ、咳をしながらわたしを見送った。

 暗いホームに出て振り向くと、改札口はまもなく閉じられ、老婆は窓口の中に戻った。

 ……確かに、誰もついてこない。

 わたし一人だ。

 

 やがて老婆が引っ込んだ窓口からは明かりが消え、待ち合い室の雨戸が重たい音を立てて閉まるのが聞こえた。

 完全な無人駅となったらしい。

 陰気な電球が灯るホームを、わたしはこつこつと歩いた。

 あばら屋のような待ち合い小屋があり、そこで時間を過ごすのである。

 小屋の中には常夜灯が灯されており、小さなガラス窓から揺れる光が漏れていた。

 

 ホームの空気は、しんしんと冷えている。

 息が白い。


 ホームの下には、錆びた線路が闇の中に沈んでいる。

 夜烏が、けたたましく鳴いた――三度。

 わたしは待ち合い小屋の引き戸を開けた。無人である。

 ベンチに掛ける。

 ……ひどく、神経が消耗していた。この疲労感は、あの奇妙な水宝玉の魔女につきまとわれ、翻弄され続けたせいだろう。

 わたしは溜息をつき、目を閉じた。


 ――だが、すぐに目を開いた。

 強烈な甘い香りが鼻の前を通り過ぎたからだ。

 わたしは、自分の横に誰かが腰を下ろしているのを知る。

 ……長い足と、細身の体。


 「……酷いことをしますね」

 優雅な微笑みと音楽的な声が。


 わたしは見つめた。

 水宝玉の魔女を。


 彼は巻き毛をかき上げると目を伏せ、困ったような微笑を浮かべた。

 「僕はね、何度でも蘇る」

 

 わたしは彼の姿を素早く観察した。

 黒曜石の攻撃をまともに喰らい、三つの部分に散らばったはずの彼は完全につなぎ合わされ、そこに座って微笑んでいる。

 一瞬ではあるが、わたしは捉えることができた。

 つなぎ目――わたしの攻撃を受けて砕かれた彼の体の各部分――に、淡く輝くなにかがあった。

 それは確かに葉のかたちをしており、その葉には強烈な復活の魔法が込められている。


 ざわざわと、巨大な木が風に揺れるのを見る。

 つやのある緑の葉は、一年中落ちない。

 その木は魔力を持っており、その葉には再生の力が宿る。

 そして、そのふしぎな木の幹の内部には、きらめく石が封じ込められているのだった。

 透明に限りなく近い、淡い色の宝石が。……水宝玉が。



 「わかったみたい、だね」


 僕は、僕の正体は。


 「命の、木……」

ゴルデン(もどき)が甘ったるいのが、書いていて、ちょっと気持ち悪いです。

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