かまどの番人 1
夜汽車の中で、凶暴なほどに乱れた「依頼」を受け取ったペル。
次の駅に着くまでの間、封印を解かれ、「依頼主」と対峙する。
ごうごうと燃え盛る不気味なかまどが見える「依頼」には、不正な魔法使いの影があった。
その5 かまどの番人 1
「朝が来たら、次の駅に到着する」
ゴルデンは向かい側の座席で足を組み、懐中時計を眺めた。シルクハットを取り、少しつぶれた髪の毛を片手で直している。
我々が座ると同時に汽車は気ぜわしく出発し、その閑散とした村を離れた。
降りるものなどいなかった。
乗ったものは我々だけであり、乗り合わせた車両には他の乗客が見えない。
(このようなことは、久しぶりだ。東側で、こんなにさびれた様子を見るのは初めてかもしれない)
わたしの思いを見透かしたように、ゴルデンは懐中時計をパチンと閉じながら流し目でこちらを見、言った。
「東にも、こういった辺境は当然ある」
まあ、西は全体的に辺境だけどな。
つまらなさそうにゴルデンは呟くと、窓の外を見た。
しばらくの間、寒村の景色が続く。
刈り取られた後の小麦畑がえんえんと続き、日暮れ近くの寒さに身を縮めるようにしてあぜ道を行く腰の曲がった老婆が見えた。
晴れた日だった。
日中の温かさは、日が落ちかけると急激に失われてゆき、凍るほどの夜がやってくる。
今は、そうなる前の境界だ。
強烈なオレンジ色が青空を染めて行き、やがてどんどんその範囲を広げて行く。
オレンジ色が落とされた村はいかにも寂しく、車窓から見かけるわずかな人影は、皆うちに向かい急いでいた。
やがてその風景も見えなくなり、汽車はえんえんと続く草原に出る。
荒地、といったほうが良いかもしれない。
ただ草がぼうぼうと生え、それが晩秋を迎えて大半が枯れている。枯野の中に、ぽつんぽつんと細い灌木が立ち、赤い毒の実を付けている。
それが車窓から認められる、唯一の生きているものの姿だった。
次の駅まで、汽車の中で一夜を過ごすことになるのか。
この荒野は、果てしなく続くのだろう。
我々は、それぞれ一切れずつサンドイッチを齧り、ウイスキーを交互に飲みながら、時間をつぶした。
ゴトゴトゴトゴト……。
……。
いつの間に、寝てしまったのか。
わたしは、自分が暗黒の中にいることを知る。
夜なのか、と思ったが、いや、おかしい、とすぐに気づいた。
汽車の中は照明がある。だから、このような暗闇はありえない。
「ゴルデン」
……返答がない。
立ち上がろうとして、わたしは自分の体が椅子にくくりつけられていることに気づく。
手は後ろ手に、足も拘束され、身動きが取れない。
(……返して)
ふいに、幼い声が闇の中から響く。
同時に、灼熱の苦痛が前方から近づいてきて、わたしは身をよじった。
暗闇と思っていた中に、巨大なかまどが炎を立てて燃え盛っている。
かまど、人が入れるほどの、見事な。
暗がりの中で、巨大な口を開くように(ああ――これは)、ごうごうと火をたぎらせている(これは、魔法だ……)異様な、かまどだ。
そのかまどの灼熱の炎がわたしの頬を焦がすようだった。
熱さをこらえつつ、目を凝らす。
かまどの炎は生き物のように揺らめいていまいか?
このかまどが、不正な魔法による魔法のかまどであることは明白だ。これまでどれほどの不正に使わて来たのか、この炎そのものが闇の塊である。
かまどの中に息づく闇の炎は飢えており、目の前の獲物――わたしが――を見て、ごうごうと吠えたてた。
(……返してちょうだい、返してよ)
まだ、聞こえた。
かまどの中からではない。
周囲を覆う、この暗闇のどこかから響いてくる。
悲しみ、さみしさ、不安、そして怒りを燃え立たせた、それは「依頼」だった。
(ねえ、返してよ、返してよ、はやく、はやく)
ふいにわたしは椅子ごと持ち上げられ、体がふわりと浮くのを感じた。何者かに投げられたのだ。
そしてかまどの炎が思い切り近づき、めらめらと服のはしを焦がすのを見た。
(返して、はやく返してよ、ねえったら、ねえ……)
ぱちん、と頬を打たれて正気に返った。
(ゴトゴトゴトゴト……)
見上げると、目の前に苦虫を噛みつぶしたような顔をしたゴルデンが覗き込んでいる。
「夢を――見ていた」
頬は、じんわりと痛んだ。
窓の外は夜を迎えており、荒野は暗闇の中に沈んでいたが、車両の中は明るい。
もちろん、異様なかまども、椅子ごと掴みあげて炎に放り込もうとする者も見当たらない。
……いや。
(かえし、て……)
夢で聞いた「依頼」の声が、しつこく纏わりついている。
わたしは耳を覆った。無差別に攻撃をしかけてくる、怨念のような「依頼」だ。
視線を泳がせているわたしを、ゴルデンは黙って眺めている。
コロン。
木琴の音か。
コロコロと楽し気に旋律を紡ぐ木琴だ。子供の玩具のような。
同時に鼻を覆いたくなるほどの焦げくささが顔面に吹きかかり、わたしは息を詰まらせた。
(返して、お兄ちゃんを返してよ、ねえ)
「ゴルデン」
わたしは手を伸ばした。
酒を、と言うより早く、ゴルデンはウイスキーの小瓶の栓を取り、いきなりわたしの後頭部を掴んで上向かせると、口の中に突っ込んだ。
(返してえええええええええ)
ごぶっ、ぐぶごぶ、ぐっ……。
(……えええええええええ……)
わたしはゴルデンを突き飛ばすと、激しく咳き込んだ。
気管が焼け付く苦痛はしばらく続き、ようやく落ち着いた頃、あの怨念に満ちた「依頼」は、わたしから少し離れ、疑いに満ちたまなざしでこちらを伺っていたのだった。
ごとごとという汽車の音に混じり、微かに木琴の音が転がっている。
胸を押さえて肩を上下させているわたしを、ゴルデンは向かいの席で眺めていた。
「また、えらい奴が来たもんだな」
言いながら、今しがたわたしの口に注いだウイスキーを、自分も飲んでいる。
木琴の音に合わせるように、ふわふわと宙を漂う「依頼」は、闇にまみれて姿が見えない。濃い青の瞳がちらちらと覗くだけである。
ゴルデンはウイスキーを舐めながら、ちらっとそれを見上げた。当然、彼にも「それ」が見えている。
「……何をやらかしたものだか。おまえ、覚えているか」
あの、レエの屋敷だよ、とゴルデンは片方の頬で笑いながら言う。
ゴルデンがわたしを封印し、この旅に関わるようになった、あの呪われた屋敷。
わたしは頷いた。
確かに、この感じはあの屋敷に漂っていたものと似ている。ただ、もっと強烈でもっと悪質だ。
それに、訴えかけてきている相手は、今回は生きた人間である。死人ではない。
……コロン、コロ、コロン。
木琴が、たどたどしく童謡を奏でていることに気が付いた。
ふいにわたしの目の前に、映像が浮かび上がる。
栗色のくせのない髪の毛をおかっぱにした、少年の姿だ。
濃い青の瞳が利発そうな輝きを放っており、口元はいかにも活発な子供らしく、端がちょっと上がっていた。
膝までのズボンをはき、はちきれそうな生気に満ちている。
黄金のエナジーを全身から放ち、素晴らしく元気な(……うまそうな)子供(……子だ)であった。
ゴトゴトゴト。
汽車は一定の速度で闇に沈んだ荒野を走り抜ける。
ゴルデンは木のワンズを取り出すと、わたしに差し出した。
「次の駅で、お待ちかねだろう」
この「依頼主」は。
わたしはワンズを受け取った。ゴルデンはウイスキーを含みながら、暗い窓の外を眺めている。
「汽車が着くまでだ」
パン、と小さな破裂音がした。
わたしの中心部にある黒曜石を覆っていた紫水晶が砕けた音だ。
封印を解かれたわたしを、ゴルデンは横目で見ている。
たちまち黒曜石の強固な力が全身に漲った。
「封印されたおまえでは、太刀打ちできる相手ではあるまい。汽車が着くまでの間に、『依頼』を読み解け。到着と同時におまえはまた封印される」
ぎらり、と紫の瞳が怒りの色に煌めき、氷の刃がわたしに飛んできた。
わたしはワンズを胸に当て、防御する。ゴルデンの怒りの刃はわたしに痛みを感じさせる前に、空中で溶けて消えた。
「……間違っても、俺に歯向かおうと思うなよ今回は」
わたしは頷いた。
今回は、師の気配もオパールの気配もない。
ゴルデンに逆らっても意味がないことは、よく分かっていた。
汽車が、駅に着くまで。
朝が来るまで、か。
わたしはワンズを握り直し、宙を漂っている闇にまみれた「依頼」に目を向けた。
蠢く闇の奥で光る青い目は、相変わらず疑いのまなざしでこちらを眺めている。
(……子供、だ)
直感した。
この「依頼主」は、幼い子供である。
(返してよ)
また、訴えが届いた。
だだをこねるような響きを持ちながらも、悲しみと怒りがベースになった、切実な声だ。
丸腰ではやられてしまうほど、濃く、強く、凶暴な「依頼」。
封印を解かれたわたしは、その凶暴さをたやすくかわすことができた。
魔女の愛弟子を傷つけることなど、簡単にできるものではない――。
ゴトゴト……。
ゴトゴト……ゴト。
わたしは立ちあがると、木のワンズで天井に向かい、大きな魔法陣を描いた。
黒曜石の力が作動し、車両は一瞬、夜空の輝きに満たされ、次の瞬間には結界の中にいた。
朝になるまで何人たりとも入ることができない、魔法の結界である。
わたしは改めて、闇に包まれた「依頼主」に向き合う。
激しい感情に囚われ、訳も分からずに牙を向いている「依頼主」に、ワンズを向けた。
沈着の魔法はすぐに作動し、ただ泣きわめき、じだんだを踏むだけだった「依頼主」はゆっくりと姿を現した。
とん、と、地に足を下ろす。
相変わらず闇を纏ってはいたが、落ち着きを取り戻した「依頼主」は、己の姿を見せることに成功した。
さらさらとした栗色の髪を肩まで伸ばした、幼い少女である。
貧しい恰好をしており、ぶかぶかの上着は両袖をまくってようやく白い手首を出している。同じくぶかぶかのスカートは、その年には似合わない渋い色と素材であり、白い素足がやっと覗くほど長かった。
大きな青い目が、前髪の間から困惑の表情でわたしを見つめている。
未だ疑いの晴れない表情で、視線は時々あちこちに彷徨った。
頑是ない子供の姿をしているが、この「依頼主」は強烈な魔法を秘めている。
(しかし、何かおかしい)
わたしは用心深く、「依頼主」を観察し続けた。
(ちぐはぐな感じがするのは、どういうわけか――)
「おい、来るぞ」
席で足を組んで座ったまま、ゴルデンが言った。
わたしはワンズを胸に当て防御の姿勢を取る。
(返してよ)
どん、と、空気の砲弾がこちら目がけて放たれたようだった。
ワンズの防御でそれはすんでのところで打ち砕かれる。
もわもわと闇色の煙が立ち上る向こう側で、途方に暮れたような表情の少女が立ち尽くしていた。
「力の加減が出来ないらしい」
相変わらず腰かけたまま、ゴルデンが言った。
苦々しい顔つきである。
ウイスキーを舐めながら、ゴルデンは我々の対峙を眺めていた。
わたしはワンズを構え、「依頼主」の感情の爆発がいつ来ても良いようにした。
この少女は魔法使いであるが、魔法使いではない。
何ともちぐはぐな状態である。
恐らくは、この強大な魔力の持ち主が別におり(あるいは、『いた』)、普通の子供に過ぎないこの少女の体に魔力を流し込んだのだ。
(しかし、何のために――)
わたしは更に注意深く「依頼主」を読み取ろうとしたが、あふれ出す感情を抑えきれなくなった少女は、次々に空気の砲弾を投げつけてきた。
(返して、はやく、はやくして、ねえ、はやくしてったら、ねえってば、返して、返して、返して、ねえっ)
「うるさいぞ」
ゴルデンが眉間にしわを寄せている。
わたしは空気の砲弾をワンズの防御で砕き続けた。たちまち、あちこちに闇色の煙が立ち上り、結界の中は墨汁を垂らしこまれた水槽のようになってしまった。
隙を見て、わたしは少女に向かい、ワンズの先で魔法陣を描く。
束縛の魔法がたちまち発動し、少女は一瞬にして黒曜石の塊の中に閉じ込められた。
黒曜石の中の少女の姿は、外から見ることはできない。
だだをこねるヒステリックな思念も、強固な黒曜石の力で首根っこを押さえつけられ、しばらく少女は黙り込んでいる。
この隙に、わたしは少女の前に来ると、静かに読み取り始めた。
まず、恐ろしく大きなかまどが見える。
ごうごうと炎が燃え盛っており、その炎は闇の力に満ちている。
一本の火かき棒が、突然少女の手に握らされる。
戸惑いながらも少女は受け取る。
(かまどの番人……)
かまどの、番人。
そのキーワードは酷く重く、肩にのしかかった。
少女は火かき棒を渡されたことにより、「かまどの番人」というものを何者かから引き継いだ。
(来いオレンジ色の炎が燃え続ける、魔法のかまど……)
その「何者か」が、只の子供に過ぎなかった彼女に、不似合いな魔力を注ぎ込んだのであろう。
わたしは更に集中し、目と耳に入る情報を仕分けし整理した。
無数の端切れのような(おにい……)たわいもない情景が(……ちゃん)通り過ぎては消えて行く。
(決して、火を切らしてはならない、魔法のかまど……)
子供らしく、乱雑で節操のない情報の散らばり方だ。
気づいたことがある。
黒曜石に閉じ込められた少女から吐き出される記憶には、この少女と同じ顔の少年が常に見える。
栗色のおかっぱ頭で、元気の良い少年だ。
双子、あるいは年子のきょうだいなのだろう。
黒曜石の中の少女と向き合うわたしの両脇を、無数の記憶の断片が飛んで行く。
母親らしき手から、おやつをもらう時の笑顔。
父親らしき人物の背中に飛びつく二人。
だが、ある時を境に、この両親は全く登場しなくなり、更に記憶が進むと、きょうだいの片割れ、兄の方が姿を消すのである。
繰り返し繰り返し吐き出される記憶の断片から必要なものを収集し、組み立てて解読する。
子供の訴え方は分かりづらい。
(あのね……あのね)
(でね……でね)
どうしてこういう事態になったのか、全く説明がないために、魔女の愛弟子としては読み取りに時間がかかった。
仲睦まじく育っていた兄と妹は、ある日、何らかの理由で、両親から深い森の奥まで連れ込まれ、捨てられた。
あまりにも深い森だったから、きょうだいは家に戻る道を忘れてしまい、ついに戻ることができなかった。
その兄と妹を何者かが発見し、かどわかした。
連れられて行った先は森の中の大きな屋敷であり、そこには大きなかまどがあった。
兄と妹は別々の部屋に案内され、翌朝妹が兄を呼びに行ったら、部屋にはおらず、屋敷のどこにもいなくなっていた。
(返して……返してよ)
泣き叫ぶ妹に、覆いかぶさる黒いもの。妹はその目を見上げ、視線を絡めとられてしまう。
……非常に年老いた、魔法使いの目だ。
亀のように皺だらけの顔をしている。醜い造形であり、目には白く膜がかかっていた。
その目を、見ては、いけなかったのだ。
侵略の魔法が発動した。
酷く暴力的な力が彼女の肉体と魂の間に入り込み、おかしな具合で彼女を占領してしまった。
渡された火かき棒を受け取り、彼女は完全に侵略された。
(返して、返して、返して)
受け取った火かき棒を捨てることは絶対にできなかった。
彼女は唐突に「かまどの番人」になり、永久にかまどの前から離れることができなくなった。
ふいひひひ、という、しわがれて乾いた笑い声が耳の側をかすめた。
「若い、きれいな体が欲しかった。この体ならば、もう50年は持つ。もう50年は、儂は生きることができる」
少女の体に魔力を吹き込んだ、当の本人の声だろう。
ただしこれは生の声ではない。少女の記憶の断片に過ぎない。
不気味な声は、上に、下に、ゆらゆらと漂うようにせせら笑い続けた。
(返して、おにいちゃんを返して。返して、わたしを、返して)
……。
事情は、分かった。
わたしは深く息を吐き、黒曜石の中で身動きができずにいる少女に目を凝らす。
魔女の愛弟子の読み取りの力の前では、どんな者であっても、たやすくその運命の縮図を曝すことになる。
この少女も例外ではない。硬直して動けない少女の背後に、美しく複雑怪奇な運命の図形がたちまち現れた。
それを、読み解く。
そして、判断する。
この「依頼」は――。
「この『依頼』は、成立しない……」
わたしの言葉に、ゴルデンは、らっぱ飲みしていたウイスキーをゆっくりとしまい、席から立ち上がった。
わたしは彼を振り向いた。
冷たい程に、紫の瞳が輝いている。
「成立しないのだ」
もう一度、わたしは言った。
この運命の図形には、「依頼」を叶える余地がない。等価交換の法則が使えない。
ということは、ある意味、今おかれている状態そのものが、この少女に用意されていた運命であったということになる。
不正な魔法使いに肉体と精神を蹂躙され、兄と引き裂かれたのは事実であるが、彼女自身に対しては不正な魔法は使われていないことになる。
とすると、西の大魔女の愛弟子たるわたしの、仕事の範疇を超えている。
強大な闇の魔法は、確かにある。
この「依頼主」は、結果として闇に埋もれてしまっているが、そうなる経緯に不正な魔法は使われていない。
……だから、粛清する理由もない。
黒曜石の中の少女は沈黙の中に沈んでいる。
ゴルデンは、頭痛がするように片手でこめかみを覆いながら歩いてきて、わたしの前に立った。
苦々しい表情でわたしを睨むと、こめかみをかばっていた片手を伸ばし、ふいにわたしの胸倉をつかんだ。
「へりくつは、もうたくさんだ」
紫の炎が燃え上がる瞳がまじかにあった。
息が詰まりかけ、わたしはゴルデンの拳を両手で握り、締め付ける襟元を緩めようとした。
容赦なくゴルデンは力を籠め続け、つま先立ちでこらえるわたしの体を前後に揺すぶった。そうして、蛇の這うような低い声で言った。
「等価交換の方程式は、そういうふうに使うものではない。おまえはそんなだから、永久に愛弟子止まりなんだ」
苦しい息の下で、わたしは相手を睨んだ。脂汗が鼻の横を流れてゆく。
「何が間違っている。これが等価交換の法則だ。引き受けることができない『依頼』であるし、粛清対象でもない。不正な魔法を使う魔法使いは存在していたようだが、もう実体はないんだ。それに奴は、この『依頼主』の運命を捻じ曲げたわけでもない……」
「そんなことは解説しなくても分かっているんだよ」
ついに両手でわたしの首を締め上げながら、ゴルデンは吐き捨てた。
ほとんど憎悪といっていいほどの邪悪な目つきで、片時もわたしから視線を逸らさない。
わたしは、それを跳ねのけるように睨み返し、相手の脛を力いっぱい蹴った。
どさり、とゴルデンの手が急激に離れたせいで、わたしは尻もちを着いた。
ゴルデンはわたしを放り出し、離れた場所で腕を組んでいる。
はっとした。
ゴルデンは黒曜石に閉じ込められた少女に向かっている。
金のワンズを取り出すと、黒曜石の結界に軽く触れた。
たちまち黒曜石は砕け散り、中の少女が躍り出る。
「おい、うるさいぞ、ガキが」
自由になった途端に木琴の調べを奏で、またも感情が吹き出すままに「依頼」をぶつけようとする少女に向かい、ゴルデンはワンズを向けた。
紫水晶の魔法が発動し、少女は瞬時に紫の光に包まれた。それはすぐに濃く凝縮され、やがて小さな紫色の透明な結晶になり、ゴルデンの前に落ちてくる。
ころん、と足元に転がった紫色の欠片をゴルデンは拾い上げ、わたしを振り向いた。
「これは、俺が引き受ける」
眉間を険しくひそめ、ゴルデンはもう一度同じことを言うと、金のワンズをわたしに向けた。
あっという間にわたしに許された時間は終わった。
元通り、わたしの黒曜石は紫水晶により封印され、わたしの手から木のワンズは消滅する。
同時に車両に張った結界は消え去り――汽車の外は、朝を迎えていた。
ゴトゴトゴトゴト……。
我々は、向き合って座っていた。
乗車券を確認するために車掌がやってきて、我々しかいない車両を歩き去ってゆく。
窓の外は相変わらず荒野が続いていたが、朝日を浴びて、不毛の土地も白く輝いていた。
「俺が、やる」
ゴルデンは白手袋の手を突き出し、人差し指と親指でつまんでいるものを見せた。
紫水晶の破片である。
その中に、あの少女の「依頼」が濃縮されているのだ。
「依頼」の紫水晶をズボンのポケットにしまうと、ゴルデンは皮肉そうに笑った。
「よく、見ておくんだな」
西と東の違いを。
まもなく、駅だ。
「魔女の愛弟子」版のヘンゼルとグレーテルでございます。




