~閑話~少年と魔法 1
貧しいが穏やかな自給自足の村にたどり着いたペルと東の魔女は、純朴な「依頼」に出会う。
この世界における魔法とはどんなものか。
2話編成の閑話、一話目。
その4 ~閑話~少年と魔法 1
その村は、かつては温泉の秘境とされ、それなりに賑わっていた。
だがある時から完全に、人の流れが途絶えてしまった。
乳白色の、美肌の効能の高い温泉は深緑に濁り、異様な匂いを放つようになった。
そこには魔法の契約が絡んでいた――。
「師の、仕事だ」
と、思う。そう付け加えたわたしを、ゴルデンは横目で眺めた。
汽車は既にはるか遠くに行ってしまい、無人駅の待ち合いから出たのは我々二人だけ。
降りるものが他にない村だ。牛糞の匂いがそこらじゅうに漂い、待ち合いから出るや否や、草がところどころ生えた石ころ道を、男に引かれて牛が歩いていった。
山間の村である。
空気はどことなく薄かったが、ひどく澄んで研ぎ澄まされており、空は透明に青い。
早朝の凍り付いた道端が、正午近くなっても名残を残しており、冷たい水玉が光を受けている。
んもぉー。
間延びした牛の声である。
いかにものどかであり、牧歌的とはこのことだと思われる。
その村は、かつでの温泉事業を失ってはいたが、牛を使った農業でなんとか切り盛りをしているらしかった。
滅多に旅行者は来ないが、自給自足はできているし、時には少し遠めの村に作物を売りに出ることもある。
ひなびてはいたが穏やかな活気に満ち、人々は柔和である。
飛び込んで来る思考や「依頼」の類も、他とは異なり、優しげな香りが漂っていた。
「ああ、こんなバカな契約を遂行しやがるのは、おまえと、おまえの師以外にいやしない」
口汚く言いながらゴルデンは牛の糞をまたぎながら歩いた。
「わたしは関与していない」
と、思う。また、同じことを付け加えながら、わたしはゴルデンの口汚さに耐えた。師について何かを言う時、ゴルデンは必ず癇に触る言い方を選ぶではないか?
ほう、とゴルデンは小ばかにしたように鼻で笑った。
「おまえが、まだ愛弟子として奴の元に来ていない時代の話だということか」
たぶん、そうだ。
わたしは無言でゴルデンの後をついて歩く。
少なくとも、こんな村は、わたしは初めてだ。
数えきれないほどの「依頼」を選び、師に呈してきたわたしであるが、どうしてもこの村のことは思い出せない。してみるとやはり、わたしが関与しえない遥か昔の契約だったと思われる。
一人の病人を治したいという依頼は、この村の財源になっている貴重な温泉と引き換えに成立した。
その病人は、村長の息子であったが、身体の病気だけではなく、心もひどく遅れていた。
魔法の契約では、身体のほうは治すことができたのだが、心のほうまでは等価交換が追いつかなかった。
精神を置き去りにして頑健になった息子と、濁って悪臭を放つようになった温泉のために、村はかつての栄華を失い一時はひどく困窮したようだ。
「村人全員が同情していたから成立したんだろうな」
目の前を横切ってゆく、牛の親子を見送ってからゴルデンは言った。
農夫に連れられた牛は畑の畔道で大きく重たい道具をつけられ、早速肥沃な畑をたがやし始める。
子牛はあぜ道の木にくくりつけられ、しきりに鳴いていた。
こんな晩秋でも農作業があるのか、驚いた、とゴルデンは呟く。
わたしは目を半眼にし、澄んだ空を見上げて風を受けた。
牛糞の匂いに混じり、どこか懐かしい、古い香りが微かに混じる。
師が、古い昔に、この村で仕事をした。
(その時の村長は、村人全員から慕われており、ひ弱に生まれついた長男については村全体が憂いていた)
古い契約の内容が、黄ばんだ巻物をするすると開くように、わたしには読み取れる。
だから、村のものである温泉を引き換えに、村長の依頼を受けることができた。
そうでなくては、叶わなかったことだろう。
魔法の契約は、必ず何らかの、手ひどい代償がある。
だから、人間は魔法とかかわるべきではない。
魔法は万能ではない上に、本来あるべき自然の流れを狂わせる。定められた方向に正確に回っていた歯車は、瞬間的に回る方向を変えるだろうし、それによって砕けて失われる小さな歯車もある。
精密で難解で美しい、神の芸術たる、人の運命の図形よ。
魔法はそれに、無粋な色を加え、しばしば台無しにする。
人は己を支配する、美しく正確な、過去現在未来を描きつくす運命の図形を知らない。読み解けない。
その図形を損なわないためには「依頼」など飛ばすべきではないし、知らず知らずに飛ばしてしまったのならば、決して契約してはならない。
契約可能イコール契約遂行というわけではないのだから。
だが、今までわたしは契約可能の宣言をした相手が、慎重に考え直して思いとどまった例を知らない。
……おろかな。
やがてわたしたちは石ころだらけの道から、閉店された土産屋の壊れかけた建物ばかりが並ぶ、大昔の温泉街に行きついた。
土産物屋などは当然もうなかったが、地元の村人向けの小間物屋などが細々と営業している。
色あせた天幕が山村の冷たい風に揺られた。小さな子供や穏やかな老人が店先に座り、珍しい旅人である我々を迎えた。
その中の店をひとつ選んで、ゴルデンは交渉に入った。
宿を求めていることを説明すると、腰の曲がった老婆は一も二もなく快諾した。
「ようこそ旅の人、どうぞお休みください。明日の汽車が来るまで、ご遠慮なく」
我々はあっけなく一晩の宿と食事を手に入れた。
かろかろかろかろ。
風車が回る。
この村には、いたるところに風車が飾られている。
店先や、庭などに、刺してある。
小間物屋の暗い店内から履物を脱いで屋内に上がると、そこが住居になっていた。
裏庭に面した一間が我々に提供され、ゴルデンはその離れの戸を開き裏庭を見渡す。
ちいさな花びらをつけた山野草が咲く、ささやかな花畑の中に、真っ赤な風車がさしてあった。
「もぐら除けだろう」
ゴルデンは言った。
わたしもゴルデンに並び、その裏庭を眺めた。
風車が回る音が心地よく、わたしは目を閉じ前髪で風を受けた。
それは、師がこの村を訪れた遥か昔から変わらぬはずの、穏やかな風とにおいであり、そのことはわたしをとても慰めたのだった。
ふいに、わたしは声を聴いた。
優しいが悲し気な響きを持つそれは、確かに「依頼」である。
この村の人々が飛ばす「依頼」は他とは違い、まばらな上に、たわいもなく、穏やかで、決して切羽詰まっていないものばかりなのだが、その依頼はどこか切実だった。
それでわたしは、その声に耳を傾けてみる。
魔法使いに、なりたい。
「ぷ」
ゴルデンが噴出していた。「盗み聞き」したらしい。
わたしはゴルデンには構わず、耳を澄まし続ける。
あどけない中に切なる思いを込めて、声は訴え続けた。
魔法使いになって、温泉を昔通りにしたい。
そうしたらその温泉につかれるし、おばあの腰も良くなるから。
「……だから、魔法使いになりたい、と」
ゴルデンはとうとう笑い出してしまった。
口先だけの願い事なら、魔女の愛弟子までに依頼は届かない。
どうやら心底そう願っているのだ、この依頼主は。
わたしは目を閉じ、この依頼について詳細を見ることにする。
かろかろかろかろ……。
……かろかろかろかろ。
少年だ。
浅黒い肌の、やせた少年。
とても元気が良い。
家族がいる。
母親と、妹と、祖母だ。男はその家で彼だけだから、余計に彼ははりきっている。
祖母は腰が悪い。曲がったまま伸びなくなった。でも農作業には出て行き、毎晩痛む腰を少年がさする。
「契約成立可能だ、けれど」
わたしの言葉にゴルデンが目を剥き、またげたげたと笑い転げた。
本当にかよ、とゴルデンが言った。
わたしは溜息を着いた。なにがそんなに面白いものか。
「可能だが、温泉はなおらない。可能なのは、この子が魔法を使えるようになるということだ」
相変わらず中途半端な契約だよなあ、とゴルデンが茶々を入れたが、わたしは黙殺した。
「で、代償は」
「簡単なことだ、祖母の腰痛の悪化、そして骨が異様にもろくなり、歩けなくなる。それが代償だ」
ゴルデンは腹をかかえて笑い転げ、ついに部屋の中に倒れこむと、ごろごろと板張りの上を転がった。
ひいひいと息を切らしながら笑い続け、ダンゴムシのように背中を丸めて床をべちべち叩いたりしている。
……ちっとも面白い話ではない。
淡々とわたしが眺めている中で、ゴルデンはついに涙をこぼしながらも笑い続け、喉を鳴らしながら起き上がると、わたしに向き直った。
「で、おまえそれを遂行するのかよ」
「成立可能な契約だからな、宣告する」
「ばっかおまえ、だから西の大魔女は詐欺師なんだよ」
詐欺師。
とっさに何を言われたか分からずに、わたしは立ち尽くした。
だが、笑い転げるゴルデンを見ているうちに、むらむらと突き動かされ、相手の胸倉をつかみ紫の目を覗き込んだ。
「なぜ笑う」
わたしが言うと、ゴルデンはにやにやしながら見返してきた。
そしてわたしの手を払うと、透かし模様の入った襟元を直し、ふうと大息を着く。笑いの発作が止まったらしい。
「東の大魔女について、何も教わっていないようだから、おまえをバカにする気はない」
ゴルデンは言うと、縁側に出て、柱によりかかり裏庭を眺めた。
金髪が風に揺れ、風車の音が穏やかに続いた。
かろかろかろかろ…。
「西の大魔女が遂行した契約の、監視役が東の大魔女だ」
監視役。
黙りこくったわたしを、ゴルデンは憐れむように見た。
腕を組み、柱に身をもたせかけ、急にゴルデンが大きくなったように感じた。
もう一度、彼は言った。
「依頼を引き受けて契約を遂行するのが西、その契約が魔法の規則に照らし合わせ、正しいものかどうか裁くのが東。俺は審判者なのだ、愛弟子よ」
その審判者が、師を詐欺師だと言っている。
ゴルデンは紫の目を庭に移すと、独り言のように言った。
「その『依頼』、引き受けるなら、俺は徹底的に妨害するぞ」
「成立可能は間違いがない。どこが詐欺だ」
言葉が悪かったな、とゴルデンは珍しく自分の失態を認める。
紫の瞳はどこか薄暗い。
「おまえらはおまえらの仕事をしている。確かにそれは正しい。だが、俺は別の目でそれを裁く。おまえたちが魔法の理を貫くならば、俺はその理を踏まえた上で、人間の理屈も合わせて裁く。それは必要な役目だ。そうは思わないか」
ふいにわたしは思い出す。
あの、温かな静寂に満ちた西の魔女の舘で、師が何気なく口にしたことを。
「魔法が万能でない理由が、分かるか」
即座にわたしは答える。
「魔法は人の上に成り立つから。人間のいないところに魔法はないのです、師よ」
師は否とも是とも答えず、強く無口な目でわたしを見つめた――。
かろかろかろかろ……。
……かろかろかろかろ。
魔法使いに、なりたい。
なりたいんだ。
少年の訴えは続いている。
わたしは再び目を閉じ、彼のことを探る作業に入る。
この家を裏口から出て、山側に伸びたあぜ道をまっすぐ行ったところに、小さな家屋がある。
平屋建ての貧しい家だ。
牛が一頭いて、それがそのうちの財産である。
毎晩少年は、牛が夜間飲むための水を桶に入れるために、一人で外に出る。
その時に、少年と接触する。
かろかろかろかろ……。
日が暮れかけていた。
透明な赤い斜光が裏庭を照らし、白い山野草を薄く染める。
夕食の良い香りが漂い始めている。
ゴルデンが腕を組んだまま、わたしを冷たく眺めていた。
仕事は、夜だ。
読者様の貴重な時間を拝借しているということを、改めて考えております。
いったん立ち止まり、物語の魔法観を少しだけ紐解きます。よろしくどうぞ。




