3話 聖朱衣
御所へ上がる前夜、クナは鬱々そわそわ。どうにも寝つけなかった。
シガの無事を確かめたい。そんな希望がふくらむ一方、また神おろしをしなければならなくなったからだ。
(前にやってから、一週間もたってない……)
即位の儀のときは、選抜戦の直後から準備をした。
神が入る体を清浄にするため、断食を行い、何度もきんきんに凍った清水で身を清め。長いこと瞑想して力を蓄えた。
しかし恥ずかしながら、断食修行はそれまでほとんどしたことがなく、クナは空腹に慣れていなかった。おかげで当日、腹はぐうぐう、頭はぐるぐる。いやな匂いのお香に拍車をかけられ、ひどいめまいに襲われた。神が入ってきたことに、よくぞ耐えられたものだと思う。
儀式の最中、意識を落とさず、なんとか神託を言えたのは……
(あの衣のおかげだわ。炎の色をしてるっていう、女王の衣)
聖朱衣。
それはまさしく、龍蝶の繭糸から織られた錦。龍蝶をひとり殺して、作られたものだ。
クナはまとうことを躊躇したが、怖い師弟が拒否することを許してくれなかった。曰く、これこそ、太陽の巫女王の証であるというのだった。
『お嫌ならば、普段は身に着けずともよろしいですが。公の儀の時や神おろしの際には必ず、お召しいただかなくてはなりませぬ。聖衣をまとうことは、義務でございますので』
有無を言わさずビン姫が衣をかぶせてきたので、クナはがくがく、身が震えた。
しかしとっさに、その場に脱ぎ捨てることはできなかった。ひとりの命の結晶を、無下に扱うことはできないと思ったからだ。
だからクナは、覚悟を決めた。
どうしても、着なくてはならないのなら。この身を衣に預けようと。
ごめんなさい。ごめんなさい。どうかあたしと、一緒に舞ってください。
両袖を抱きしめるようにして、そう祈ったら。ふしぎなことに、聖なる衣はリーン、リーン。
祭壇前で舞うクナが倒れかけるたび、堅い金の鈴のような鋭く美しい音を立ててきて。すんでのところで何度も、沈みかけた意識を掬い上げてくれたのだった。
(またあの衣が、助けてくれるかも。でも万が一、シガが皇后さまの候補になってたとしても……あたしはたぶん、神託を受けるだけでせいいっぱい。きっと他には、なんにもできないわ)
腹の苦しさを思い出すなり、全身が粟立つ。日中、支度をする従巫女たちに、いきなり明日なんてと、ぽろっと不安を口にしたら。てきぱき錦や神楽鈴を長持ちに入れていたビン姫が、即座に鋭い釘を刺してきた。
『その地位にふさわしい巫女ならば、見事務めを果たせましょう。きよらで、神霊力も十分。真紅の瞳をもつ乙女ならば』
――まさしく、我が姫のような巫女ならば。
続く言葉を、老女は口の中で殺したけれど。クナの耳はしっかと、そう囁く吐息をとらえた。
『遺憾なことに。即位の儀の折、大姫様の口から出ましたご神託は、ろれつが回らぬものでした。非常に情けないこの状況を改善するには、極限まで体を浄めることが肝心です』
ビン姫曰く。体が不浄だと、入った神が怒って暴れるらしい。すなわち、男に穢された体など、もってのほか。人一倍どころか、三倍五倍体を清めても、処女の巫女にはかなわないという。
『体内の神霊玉を成長させれば、処女でなくともどうにか、神の宿りに耐えることができます。ですからどうか一刻も早く、瞳が赤く染まりますよう、禊ぎと修行に励まれませ。瞳が赤くない女王など、ありえませぬ!』
それゆえに。本日のクナの夕餉は、清水を沸かした白湯のみ。明日の朝もたぶん、それだけしか出されないだろう。
クナの食事は普段でも、かなり控えめだ。
巫女王専用の厨房で作られる御膳の量は、茶わんに半分、お皿にぽつん。食材は選りすぐられ、清水で洗われて聖別されたもの。そのせいか、豆の味も汁物の味も、気が抜けたように無味に近い。先代のときは、アオビお手製の甘いものが、毎日のように出されたけれど。今はこわいお目付け役によって、間食は厳禁にされている。
――「失礼いたしますわ、大姫さま」
どうにも落ち着かず、身を起こしてため息をつくと。ふすまが開いて、今宵の当直を務めるリアン姫が、すすっと中に入ってきた。
「もう真夜中ですけれど。お腹が鳴る音と、ひっきりなしのため息が、廊下に聞こえてきてますわよ」
「えっ。すみませんっ」
リアン姫は、明るくころころ笑ったが。まったく困ったものだと、突然、声をひそめて報告してきた。
「大姫様、あたくし、この部屋の前で、ずうっとクソ真面目に座禅を組んで、廊下を見回してないといけませんの。だって従巫女の部屋から、ビン様がちろちろじろじろ、しょっちゅうふすまを開けて、こっちを伺ってくるんですのよ」
「そ、それって、ビンさまは、眠ってらっしゃらないって、ことですか?」
「どうやらあたくしが、黒すけにほだされて部屋に入れたりしないよう、見張っているみたいですわ」
一位の大神官より、ミン姫の世話役を仰せつかって以来、かの老女は自意識過剰で常に全力。いつ何時も、力を抜くことがない。
だからミン姫は、めったに笑わない子に育ちあがったのだと、リアン姫はぶうぶう。声が外に漏れないよう気を配りながら、クナに白湯を出してくれた。
「あ、これって」
「しーっ。これは白湯ですわ。無味無臭の、清水を沸かしたものですわよ」
「ありがとうございます。いただきます……!」
湯呑みにたゆたう白湯は、どこからどう味わっても蜂蜜湯で、甘くてとろりとしていて。情けない音を出しているお腹をたちまち黙らせた。
「黒すけを入れてやりたいけれど、それはちょっと無理ですわね。ビン様がガッチガチに、奥殿に結界を張ってますもの。でも白湯なら、いつでも運び込めますわ」
心をこめて、ありがとうをもう一度。そうして甘い湯を飲み干したクナは、たちまち満ち足りた心地になった。布団をかぶれば、やわらかな吐息とともに、ほのかな眠気がおりてくる――
かくてまどろみに沈んだクナは、翌朝すっきり目覚めることができた。
着付けのときは、どれだけ錦を重ねられても、ずしりと重たい黄金冠を載せられても、よろけなかった。起き抜けに一杯、リアン姫がまた、甘い白湯を持ってきてくれたからだった。
けれども最後に怖い師弟によって、聖朱衣が被せられると。その衣が醸す甘い香りを吸ったクナの体は、がくがく震えた。
(龍蝶のにおい)
一瞬、息が詰まりそうになったけれど。クナは即位の儀のときにしたように、両袖を合わせてぎゅっと衣を抱きしめた。
(あたしはまた、あなたに身を預けます)
念じたとたん、リーンと、衣が返事を返してきたような気がして。クナは思わず、袖に耳を当てた。
(今のは、いいよってこと? 嫌ってこと? どっち?)
庭園のそこかしこで鶏が鳴く中。首をかしげるクナはミン姫に手を引かれ、かつて百臘の方も乗ったことのある鉄の箱車に乗り込んだ。
――「あまいやつ! きをつけろ! たたかえ!」
そのとき、影の子の声が庭の奥から飛んできたのだが。びゅうと吹き抜ける風に千切られて、散り散りに消えてしまった。
ビン姫がとっさに結界を張ったからだった。影の子の言葉を伝えようと駆けてきたアオビも、車の扉をばしんと勢いよく閉められ、乗車を阻まれた。
「待ってください! アオビさんは、後宮に詳しくて――」
「なりませぬ! なにゆえ内裏で神おろしが行われるか、考えなされませ!」
厳しい老女は狼のように、いらいらと吠えてきた。
「どなた様も、龍蝶の巫女王に懐疑的です。即位の儀のときに神おろしできたと、太陽神殿が発表したことを、とても信じられぬのです。ゆえに急遽、陛下はあなたさまの力を確認なさろうとしているのに、違いございません!」
「あたしの……力を? 確かめる?」
「陛下は大姫様の力を見極めるおつもりなのです。ですからこれより、不浄なものとは一切、接触してはなりません。できるだけ御身を清浄にし、万全の状態で神おろしに臨まねば、失敗いたしますぞ!」
(ああ……ぜんぜん、自由じゃないわ。巫女王って、自由じゃない)
クナはがっくりうなだれた。
百臘の方が大姫であられたときは、周囲の誰もがかしこまっているように感じた。だれにでも命令できて、思う通りにできる。巫女王とは、そんな身分であるように思えた。
だが、ふたを開けてみれば……。
(肩書きじゃない。御三家のご出身であるという、ご血統。それだけでもない。他の人たちもあたしと同じように、百臘さまを尊敬してたんだわ。ご経験や強い神霊力。偉大で素晴らしいご性格に、一目置いていたのね)
地位にふさわしい力がない。クナは多くの人々から、そう思われているのだろう。
たしかに。山奥生まれの龍蝶で、宮処に来てからまだ、たった一年。そんなえたいのしれない娘を、一体だれが信用してくれるだろうか?
(力を示せば、みんなはあたしを認めてくれる? ビンさまの言う通り、陛下は力試しの場を作ってくださったの?)
老女にとっては、クナが失敗した方がよいに決まっている。クナになにかあれば、一位の従巫女が女王の代理を務め、そのまま位を継ぐこともありえるからだ。
だからクナには、老女の言葉が何か腹の底で企んでいるような、意地の悪いものに聞こえて仕方なかった。大体にして、影の子が穢れたものだなんて。夫である黒髪様や、彼を食らった神獣を侮辱するにもほどがある。
(あたし、ビンさまを信じられない。嫌いだって気持ちが、邪魔してくる……)
打ち沈み、両袖で顔を覆うと。朱衣がまた、リーンとかすかに囁いてきた。そっとやわらかく、とても澄んだ音色で。
(もしかして、慰めてくれてる……の?)
御所に着くまで、クナは聖なる衣の両袖に顔をうずめて、美しい音色を聴いていた。
元気を出せ。まるでそう言っているように感じられて。クナはなんとか、ビン姫への嫌悪を呑み込むことができた。
(ありがとう……。あたし全力で、このお務めを果たすわ。ほかでもない、自分のために。もっと、自由になるために)
クナを載せた車は、ガラガラとけたたましく車輪の音をたて、宮処の大路を昇っていった。一度も止まることなく、速やかに。
車窓からわずかに入り込む風はまだ凍っていて、春は遠かった。
雪解けなど、まだまだ考えられぬほどに。
車窓から入ってくる御所の空気は、前にいたときと少しも変わっていなかった。
御池がいくつもあるせいか、空気は湿っぽく、ずしりと重い。敷地全体に、冬のお香の匂いが漂っている。だれもがお手製の練香を焚き、衣に焚きしめているせいだが、おかげでクナの鼻はムズムズ。きんと冷えた寒気もあいまって、何度もくしゃみが出た。
「大姫さま、お池に鳥がいっぱい! わああ、白鳥ですっ! あっ、すごい! なんて立派な塔!」
「ちょっと、メイ! あなたうるさいですわよ!」
始めて御所に入る幼いメイ姫は、大興奮。しまいには車窓から身を乗り出したらしくて、リアン姫にぺしりと頭をはたかれた。
車は東西を分断する大路を昇り、内裏のすぐ前まで進んだ。
ミン姫に手を引かれて車から降りたクナは、わらわら迎えてきた鬼火たちによって台座に載せられ、どっこいしょとかつがれて。しずしず、陛下がおわす太極殿へ運ばれた。
控えめにさわさわ燃える音からするに、鬼火の炎はおそらく緑色。内裏専用に作られた者たちに違いなかった。
太極殿の入口近くの部屋に入れられたクナは、ずっと台座に載ったまま。太陽が、天にいと高く昇る直前まで待機した。
太陽の巫女王が行う神おろしは、おそれおおくも、天照らし様を喚ぶもの。ゆえに南中より始めることとされている。日没までに神託を得られなければ、その儀は失敗とみなされる。もしそうなったら……
(いいえだめ。そんなこと考えたら、ほんとに失敗するわ)
クナは時間になるまで祝詞を唱え、できるかぎり集中力を高めた。
それに没頭して、ミン姫の説明も半ば、耳に入らないほどに。
「皇后様のご選定は、三色の神様にのみ、お伺いを立てるもの。ゆえに今回、龍の大姫様はいらっしゃいません。ちなみに月の大姫様も星の大姫様も、共に在位十年。公式の記録では、神おろしに失敗したことはございません。大姫様もどうかまた、成功されますよう。そして決して、月神殿の利になる神託は、お受け取りになりませぬよう。大神官様より、そのようなお達しが……」
月と星の巫女王は、正午までにお越しになられて、並びの部屋に次々と入られた。鬼火たちが台座をかついで運んでいたようだが、気を高めていたクナはまったく気づかずにいた。
すぐ隣の部屋に入った月の巫女王の一団から、どっと笑い声が沸き起こったとき。クナはようやく、その耳をひくりと動かし、壁一枚へだてた向こうに誰がいるのかを知った。
(月の大姫さまと、従巫女たち?)
月の巫女たちはぺちゃくちゃ喋って和気あいあい。ずいぶん仲の良い一団であるらしい。クナはやれやれと肩をすくめ、また集中しようとしたのだが。
「大姫様の新しい聖白衣の、見事さといったら。なんと照り映えていますこと」
そのとき。さとい耳に、恐ろしい言葉が飛び込んできたのだった。
「やはり織りたては、違いますわねえ」
「月紋模様が、とても繊細ですわ」
「我が月神殿は、十分に龍蝶を調達できますものね。おまえたちにも、繭糸の衣を作ってあげようかしら」
「まあ、大姫さま……! それはもちろん、ぜひ欲しいですわ!」
「まとえば寿命が延びるのでしょう? ええ、わたくしも欲しいです!」
クナはぞっと青ざめた。新しい聖衣? 十分に、龍蝶を手に入れられる? それはつまり……
(うそ……もしかして、あたしの故郷の……村の者の、だれかが……犠牲に!?)
月神殿はクナの故郷を知っている。そこからシガを連れ出して陛下に献上したのだから。
クナは思わず腰を上げて、隣の部屋に問い質しに行きたくなった。けれど。
「まったく。月の者は、節操がございませぬ!」
ビン姫が隣の喧騒にひどくいらついて、結界をずんとひと巻き。音をすっかり遮断する膜をはりめぐらしてしまった。
「ビンさま、あのっ――」
「まもなく南中です。集中なさいませ!」
老女が叱咤するのとほぼ同時に、鬼火たちがわらわら部屋にやってきた。クナの台座はあっという間に、太極殿の裏手に広がる庭園へと運ばれた。そこに、祭壇があつらえられているからだった。
(だれの糸が、取られたの?)
村人の名前とその声が次々と、クナの頭の中に駆け巡った。
まだ大人になっていない子供か若者。月神殿はそのうちのだれかをとらえて、繭の糸を取ったのだろう。どろどろになる「中身」を打ち捨てて。
(いったい、だれが殺されたの?!)
他の巫女王たちは、クナと同時に祭壇にお立ちにならなかった。
星の大姫は、宵の明星たちがあらわれる日没直後に。月の大姫は、月女さまが北極星に一番近づくときに、神おろしをするべしと、定められているからだ。
神々は、天に顕現なさっているときにしか、降りてきてくださらないのである。
鬼火たちが祭壇の前にクナが載った台座を降ろすなり。濃ゆい香りの渦が襲ってきた。
動揺するクナは、くらっとめまいを覚えた。
(もしかして、鎮龍香?!)
いや――ちがう。甘露を消すあのお香の匂いは、かけらもない。これは、ここにいる多くの気配が醸しているもの。それぞれがまとう練香の香りが、異様な空気を作っているのだ。
いったい何人いらっしゃるのか、左右からひそひそざわざわ、多くの声が聞こえてくる。
まるで祝宴のときのごとく、太極殿の西側には、後宮の夫人たちが。東側には、神官族の公達が勢ぞろいしているらしい。
「大姫どの、招聘への礼を」
「ささ、礼を」
「そうです、礼を」
太陽の大神官たちもそろい踏みだ。おそらく、他の色の大神官たちも揃っているだろう。
――「ようこそ、お越しくださいましたな」
正面より響いてきた声に、クナの体はどきりと固まった。
聞き覚えのあるその声は、皇太后様のもの。あいも変わらず、ご健勝であられるらしい。
クナはぎくしゃくと聖衣の袖を前に出し、声がした方向に平伏した。
(シガはどこ? 陛下もまだ、おみえでは……ああ、いらっしゃったわ)
背後で笙の音色が流れ出すと同時に。すめらの帝がすすすと、太極殿の奥からおでましになられた。
耳を澄まし、クナは妹の気配を探した。シガは喉を潰されたから、声が出せない。しかしここで一緒に過ごした妹の匂いや息遣いは、たちどころに分かるはずだった。
(……いない?)
陛下のそばに、シガはいないようだ。誰か別の人が、ついている。その人は、あーあーと幼い声を出すものを抱えていて。それが泣きださないよう、優しく揺すってあやしていた。
(赤ちゃん? じゃあ、そばにいるのは……!)
「これなるは、湖黄殿の女御。月の第一位の大神官、トウイ殿の御養女です」
皇太后さまの声は、気味が悪いほど朗らかだった。
「女御の腕に在る皇子は、月昇君。陛下はこの御子を、東宮にとお望みです。ゆえに、湖黄殿の方を国母と定めてよいものか。天照らし様の神意を、伺いたいのです」
(御子を世継ぎに……だからそのお母さんを、皇后にしたいのね。でも、シガは、どこ?)
声を発してくるのは、皇太后様だけだ。陛下もコハク姫も、ひとことも喋ってこない。
二人は今、一体どんな顔をしているのだろう?
「ではさっそく、神おろしを……おや? そなた、どうしましたか? 泣いているのですか?」
「え……? あ、いえ、これは」
ハッとうつむいたクナの目から、ぽたぽた滴が垂れた。
動揺のあまり、知らぬ間に涙があふれていたらしい。
「あの、これは……これは……」
だれが殺されたの?
シガはどこ?
聞きたいことは、そのふたつ。今知りたいことは、そのふたつ。
ああ、でも。知りたいことはもっとある。
イチコはどこへ? 光の塔はどうなった? タケリさまの快進撃は続いている?
それから。それから――
怒涛のように、頭の中に疑問が押し寄せて。クナの喉をぐっと詰まらせた。
「だめよ、答えて……! 」
ずいぶん後ろの方から、リアン姫の囁きが聞こえてくる。左右からは、たくさんの視線が、ぶすぶす我が身を刺してくる。
痛い。なんて痛いのだろう……
「何をしているの、しろがね!」
気が気でないと心配する叱咤が、背中を押してくる。
と同時に。
リーンと、聖朱衣が鳴り響いた。太く芯のある音で、しっかりしろと言いたげに。
クナは驚いて、思わず両袖で顔を覆った。歌う衣はすでに、クナの涙でしとどに濡れていた。
甘い芳香が匂いたつ。薬湯で抑えているはずの、甘露の香りが立ち込める――
「あ……」
リリーンと今一度。朱衣は雄々しく啼いた。
「……ごめんなさい。大丈夫。ええ、大丈夫です。喋れます。ちゃんと」
衣の音を聴いたクナは、そっと両袖を顔から下ろし。キッと面を真正面に上げた。
「失礼を……いたしました。何も見えぬ私の耳に、無垢でいとけない赤子の声が飛び込んでまいりましたゆえ、心が緩んでしまいました。わたくしは、陛下がめでたく御子を授かりましたことに、感動してしまったのです。なぜならば皇子さまの御声は、とてもお元気でかわいらしく。神託を得ずとも、帝家はこれで安泰であろうと、思ったからです」
「まあ……まるで、孫を得たお婆様のようなことを言うのですね」
ほほほと、皇太后様が機嫌よく笑ってくる。
「わたくしのこの想いと、天照らし様の思し召しが一致しますよう。
心より、お祈り申し上げます」
これからどんな神託がこの口から出ようとも。
それは、神意。クナ自身の意志ではない――
真正面に向かって、ぐさりと太い釘を刺し。クナは台座からすっと立ち上がった。
「なるほど。前置きは完璧です。では、始めなさい。太陽の巫女王よ」
「はい……!」
これは、力試しなのか。
わからない。
だれが殺されたのか。
わからない。
シガはどこにいるのか。
わからない……。
なれどクナはすっと前に手を出して探り、祭壇から榊の束を取った。
半円を描くようにゆるりと振り上げれば、笙の音色が後ろから漂いだす。
(どうか、共に舞ってください)
クナは朱衣に願った。「負けるな」と、強く啼いて励ましてくれたものに。
(どうか、共に戦ってください……!)
終わったあとに立っていられるだろうか。
わからない。ただ、全力を尽くすのみだ。
舞い始めたクナは歯を食いしばり、一気に強い風を起こした。
つむじ風から最速で花音へ。そして……
「来たれ! 天照らす、大御神!!」
天女となった娘は、榊を持つ手を高く振り上げた。
霊光燦々。晴れ渡っているのであろう天に向かって、勢いよく。
神を喚ぶ声は、朱い衣をまとった体とともに跳ね飛んで。ぐんぐん、空高く舞い昇って行った。
あたかも。空を貫く矢のように。




