5話 黄金の涙
さて、この輝く蝶たちは、どうやって消したらいいのだろう。
とまどったクナであったが、繰り出した蝶たちは、護国卿の勘気が収まるとともに、徐々に薄れていった。
ウサギはかつて、知己の龍蝶がこの技を行使するのを見たことがあるらしい。
彼曰く、敵意を抱かなければ蝶たちは刺激されることはなく、何もすることなく、自然に大気の中へ戻っていくという。だが、攻撃してくる相手には容赦しない。瘴気の粒と化し、相手の体をじわじわ破壊するそうだ。
すなわち蝶たちの正体は、大気の精霊であるというのだった。
「こんなにあっさり、大量の精霊を顕現させるとか。やっぱり龍蝶はさすがだよな」
クナの蝶を見たウサギは、それにしてもすごい数だと舌を巻いていた。
「もとから髪が白いし、スミコちゃんって純血種に近い血筋なのかもしれないねえ。龍蝶って、ものすごく古い種族なんだよ。青の三の星から来た人間よりもはるかに、種として成熟してる。だから純血種はほぼ不老不死でさ、神霊とか精霊とかと、親和性がはんぱないんだよね」
龍蝶の体には、甘い蜜に引き寄せられるがごとく、ごく自然に精霊たちが集まってくるのだという。まさに磁石みたいなものであるらしい。
「砂の中をくぐらせたら、砂鉄がいっぱい引っ付いてくるような感じさ。人間は一所懸命、魔法の気配をおろして、自分の魔力濃度を高めなければ、そういうことはできないんだぜ。だから俺が召喚できる精霊って、水たまりの精ぐらいのもんなんだよなぁ」
まあなんだ、要するに精霊は塩辛いのより甘いのが好きってことだと、ウサギは変な論理でオチをつけた。
いつもたくさんの精霊が自分のもとに集まってきたのは、おのれが龍蝶であったせいだったのか。
得心するクナの腰に、獅子を警戒する黒髪様の腕が回ってきた。クナは優しく引き寄せられて、またもや黒い衣を被せられた。
「精霊たちが集まってくれるからといって、油断は禁物だ。黒き衣を脱がないでいてくれ」
「そうするのが賢明だ、龍蝶の娘」
身を囲む胡蝶の消滅をじっと待つ獅子が、くくっと笑ってきた。
「白綿蟲から織られた黒き衣は、あらゆる呪いをはじく。黒の導師が韻律を唱えながら、その布を織りあげるからな。俺が放つ呪いもことごとく、はじくことだろう」
「ちょっ、だからってどんどこ、呪わないでくださいよ?」
「心配するな、クソウサギ。そこの黒髪が着ているのなら、容赦なくそうしてやるところだが」
静かな唸り声が、太陽のように輝く人から流れてきた。
「かつてレクリアルは、俺の子の目を作るのを手伝ってくれたことがある。そのよしみで、今回だけは見て見ぬふりをしてやろう。だが娘よ、おまえが持つその目を、ゆめゆめぞんざいに扱うでないぞ」
ウサギがこっそりクナに恐ろしい義眼を渡したことを、獅子はしっかり見通していたようだ。
びくりとするクナを、獅子はきつい声で刺してきた。
「その瞳は、聖炎の金獅子を御する、類まれなる御子のもの。ひと目見るなり俺が何たるかを見抜き、強引に選びとった恐ろしい子が、何十年間も俺を見つめ、慈しむのに使った目だ。中をのぞいて一向に構わぬが、一日五回、感謝の念を以てその目を捧げ持ち、我が帝国の帝都、スレイプニル神殿のある方角に向かって跪拝することを命じる。導師の中の導師、この世にまたとなき魔導帝国の神帝、紅の髪燃ゆる太陽、すなわち、だれよりも美しく賢い俺の子を、平身低頭、崇めるのだ!」
嫌だ断ると言いかけた黒髪様をどんと押して、前に出たウサギが、「もちろんです!」と叫ぶ。
白い蝶はもはやすっかり消え失せていた。獅子の機嫌を保つべく、小さな獣の輪郭が護国卿をかたどる輪郭のところへ飛んでいき、彼の袖を引っ張った。
「神帝陛下の栄光は、とことわに、大陸中に輝き渡ることでしょう。さあ、閣下が陛下にお贈りになるものをお渡しいたしますので、どうかこちらへ。その目でまずは、ご注文の品をご確認ください」
瞳の中身を少し見てしまったことは黙っていよう――黒髪様の動揺を肌で感じたクナは、義眼をまた強く握りしめた。黒髪様の穿つような視線が、義眼に注がれたからだった。
「獅子がああ言うからには、義眼に蓄積された記録はあらかた消して、返品しているのだろうな。だが……田舎娘、それはとても危険なものだ」
「中に何が入っているかは、分かってます」
「持っていてほしくない」
義眼はやけどしそうなぐらい熱い。魔石の中はごうごうと、大いなる力の嵐が吹き荒れているのだろう。
「あたしも、どこかに永遠に封印するべきだと思います。黒髪様が、ご自身の中にこの力を戻したいと思わない限り。でも、どこに封じるべきでしょうか? 人に決して見つからないところって……」
「それなら――う……!」
心当たりがあるそぶりで口を開いた黒髪様は、いきなりクナの目の前から吹っ飛んだ。
脇を通った金獅子が力任せに腕を伸ばし、波動を放って彼を壁に叩きつけたのだった。
「黒髪様!?」
「ぐ……」
ウサギが慌てて、獅子たる人の袖を引っ張る。
「ちょっと護国卿! ここで暴れるのはもう――」
「黒いシミったれが目についたから、どかしただけだ。ゴミを片付けて何が悪い」
「ごっ……ごめん黒髪! 閣下が船に帰るまで、塔の外から出てて! 視界に入っちゃだめだ!」
クナは、肩で息をする黒い輪郭に駆け寄り、腕を抱え込むように抱いて支えた。
ウサギが送った伝信で、外に避難していた赤毛の妖精たちがわらわらと中に戻ってくる。
ウサギのもとへ集まる彼女たちとすれ違いながら、クナたちは塔の外へ出た。
「息が苦しそうです。護国卿は思いっ切り、力をぶつけてきたんじゃないですか?」
「仕方ない。獅子には、これ以上ない酷なことをしたからな。伴侶の魂を害するなんて、百度殺されて当然だ。仕返しに君を害されてもおかしくなかったのに……くそ、あいつの方が大人だ。むかつく」
黒髪様は不機嫌そうにそうぼやいた。塔の外がとても暗いので、クナは驚いた。夜になったのではなく、万年杉がうっそうと林立しているせいだ。空を突く塔だけが燦然とまっしろに輝いており、そのてっぺんから立ち昇る光は、雲を刺している。
「なんてまぶしい……まっ白な塔なのね」
「黒の塔が在ったところに建っている」
「まったく反対の色合いのものが……ああ、なんて高い……」
獅子の帰り際にまた視界に入れられるのは困るからと、クナは黒髪さまと共に白い塔をぐるりとめぐり、ほぼ裏口にあたる場所で壁を背にして腰を下ろした。隣に座した黒髪様が、クナの頭をそっと撫でてきた。まだ柔らかいと、心配げなため息が口から洩れる。
「羽化して間もないのに、無理をさせた」
「無理なんかじゃないです」
「その義眼は、北の果ての封印所に入れるのがいい。そこに在った岩窟の寺院は廃されたが、封印所はまだ機能している。危険きわまるから、ピピ技能導師に預けて任せよう」
「いえ……」
クナは艶やかで熱い義眼を指で撫でた。
「あたし、自分でそこへ持っていきたいです。なんだかあの……ここに入っているのが、黒髪様の一部分だと思うと……」
不思議なことに。熱い宝玉に触れているうちに、とある想いが沸いてきているのにクナは気づいた。
「だれにも、渡したくないって……なぜか、そんな気持ちが出てきてしまって……」
頬が火照ってくる。義眼から発する熱がすごいですと、クナは慌ててはぐらかした。
「こんな小さな石に、ものすごい力が収まってるなんて。とても信じられないことですけど」
「星々またたくこの世界は、小さな一粒の欠片から開闢したという。我々とてすべてそうだ。目に見えぬほどの小さな卵から、大きく成長するんだ」
「ああ……あたしたぶん、これを卵のように感じているんだと思います。母さんになったような気分っていうか……」
それは慈しむべきものではないと、黒髪様は固い口調で言った。嫌悪し、叶うならば消し去るべきものだと。
「君にそんな思いを抱かせるなんて、危険極まりないな」
「大丈夫です。黒髪様の力だから、そう思うのであって……他の人の力だったら、きっとそういう風には思わないです」
「田舎娘……」
厳重に箱に入れてもらい、ガチガチに結界を張ってもらって、急いで封印所まで運ぶ。黒髪様の妻として、その作業を他人任せにしたくない。少なくとも、見届けたい……
クナがそう願うと、黒髪様はしばらく押し黙った。森の中から、鳥たちのさえずりが聞こえる。時が進んだ森の中には暖かな風が舞っていて、春の芽吹きを促していた。
そっと手を伸ばして風に触れながら思案していた黒髪様は、ついに何かを思い切るように、口から洩れたため息を殺した。
「妻に尻ぬぐいさせるぐらいなら……自分でやる。その目に入っているのは私の一部なのだから、私がけりを付けるべきだ」
義眼を持つクナの手を、黒髪様の手が包み込んでくる。もはや少しも冷たくない、ぬくもりのある手が、クナの手を抱きしめた。まだ柔らかい体を慮って加減された優しい握力が嬉しくて、クナはたちまち微笑んだ。
「あたし、一緒についていきます」
「いやそれは」
「どこかで待ってろとか、そういうのは無しです。夫婦って、なんでも分かち合うものだと思うんです」
「その気持ちは嬉しいが……」
「足手まといに、ならないようにしますから。だってもう、離れたくない……」
黒髪様の口からぽつりと、すまないという囁きが漏れた。
「ずいぶん寂しい思いをさせた。それは認める」
「これからはずっと一緒にいたい……だから、ついていきます」
二人で北の果ての封印所に義眼を持っていく。
話がそのようにまとまり、義眼がクナから黒髪様の手に渡された。
覚悟を決めたように、息をつめて差し出された黒髪様の手は、かすかに震えていた。
熱い、という囁きとともに、義眼がグッと握られたとき。カシャカシャ鎧の音を立てる者たちの足音が、塔の壁を回ってきた。
「おい……この塔、赤の砂漠に建ってしまったのより、ずいぶん高くないか?」
「アズュール卿、感心して見物している場合では……」
「うちの国境に置いてみるか。百基ぐらい、ピピ殿に発注しよう」
黒髪様は即座に、あたりに魔法の気配を降ろして結界を張った。近づいてくる者は二人。まばゆい塔に照らされているがため、クナの目に彼らの輪郭がはっきり見えた。すらりとした人と、ずんぐりむっくり、背の低い人。共通語を話すその声からすると、どちらも男のようである。
「アズュール卿、急ぎ船に戻られるよう、護国卿閣下にお伝えしませんと」
「しかし余は、大将殿の咆哮で消し炭になりたくないのだ、コジモ卿」
「帝国最高顧問官にして、今まで再三あの方にどつかれてきたあなたが、何を怖気づいているのです。そうなることを想定して、我らは、対神獣用の鎧を着込んできているではないですか」
「いや、今回我らは、まこと生命の危機に瀕しているぞ。大将殿は我らの報告を聞くなり、きっと、1億デナールかけて特注したこの魔導鎧などガン無視の力で、我らを吹っ飛ばすに違いないのである。ゆえに、どう奏上すれば単純骨折ぐらいで済むか、二、三周回って、文言を考えたい」
いいから早く塔の中へ参りましょうと、すらりとした方の鎧男が、いかつい声を出す相方をたしなめた。
「ありのままを。神帝陛下はご危篤なのですから、一刻を争いますぞ」
鎧男たちは、塔のすぐ上にいる船より降りてきた、魔導帝国の者たちであった。
二人は結界の中に隠れたクナたちに気づくことなく通り過ぎ、塔をぐるりと壁伝いにめぐりて、塔の中へ入っていった。
そうしてほどなく、二人は彼らの懸念通りに、恐ろしい神気によって塔から吐き出された。
「ぎゃあああ! やっぱりー!」
「耐えるのです!」
彼らの悲鳴がクナの耳に入ると同時に、大地が揺れた。中にいる獅子が恐ろしい咆哮をあげたのだった。
白の塔の壁が割れ、そこから光の矢のごとき塊が、空に向かって飛び出していく。それは流星のごとく一直線に、塔のそばにいる真っ白い船へ向かっていった。
獅子なのであろうその光の矢が、船の中へ消えるやいなや。
長い長い、空を引き裂くような轟音が、船から降ってきた。
「俺の子! 今すぐ卵の中に……! 拒否するな!」
吠え声だけではなく、その中には言葉があった。
「死ぬことは許さぬ! 俺の光……俺のすべて……俺の……ちくしょう、返事をしろ! 目を開けてくれ……! ランジャディール!! 俺のランジャディール!!」
ごうごうと獅子の嘆きが地を襲った。
立っていられぬほど大地は揺れ続けた。塔が倒れてしまうのではないかと、誰もがおののくぐらい獅子の神気はすさまじく、金の雨となりて万年杉を焼いた。
細やかな金色の針のごときそれは、しゃらしゃらちりちり、美しい音を立てていた。
塔の壁面にも、見る間に無数の穴が開いていく。
だが、白の塔は崩れなかった。壁が壊されるそばから修復されていると、黒髪様が驚きの息を吐いた。この塔は生きており、今だ成長し続けているので、自分で我が身を治しているのだった。
「生きてるなんてすごい……!」
「中に戻ろう。少しは、あの嘆きの声が聞こえなくなるだろうから。あの気持ちは……伴侶を亡くした時のあの感覚は、よく分かる……叫ばずにはいられない……」
獅子はウサギから伴侶の延命法を聞きだしたが、それは実質生まれ変わりと変わらない。神帝の体は、冷たい骸と化してしまう。しかも魂が修復されるまでは、新しい体に移すのを待たなければならないのだ。ウサギは明言しなかったけれど、神帝が復活するには、それなりの時間がかかるだろう。
獅子はそれまで、言葉に出来ぬほど辛い喪失感に耐えなければならないのだ。
「大地が裂けそうです……護国卿も、黒すけさんみたいに暴走が止まらなくなるんじゃ……」
「いや獅子は、私のようにはならないだろう。あいつは私より強いから……むかつくことに」
――「ゆっくり! 大箱を浮かすから、慎重に!」
塔の入口に急ぎ戻ったクナたちは、ちょうどそこから出てきたウサギと鉢合わせた。
「アズュール卿にコジモ卿! 生きてますよね? 贈り物を船にサルベージしてください! 大丈夫です、神気放出はすぐ収まりますから! 俺は先に船に行って、閣下に請求書……あういえ、お世継ぎ誕生のお祝いを申し上げてきますね!」
「お世……継ぎ?!」
「なんですと?!」
がしゃがしゃ鎧の音を立ててウサギのもとへ這い進む二人の男が、そろって驚きの声をあげた。
塔の入口から慎重に、大きな金色の箱が押し出されてくる。その中身をおそるおそる確かめた二人はさらに驚いた。
「な……筒の中に、御子が……!」
「赤毛の子?!」
詳しい説明は娘たちから聞いてくれと口早に言い残し、ウサギは小さな機械鳥に乗って、真っ白な船へ飛んで行った。
ウサギが光の点となり、船の中へ消えて、いくらもたたぬうち。獅子の咆哮が止んだ。
船に入ったウサギはおそらくまた、色々言葉を尽くして、嘆き悲しむ神獣を宥めたのだろう。
船を仰ぎ見る黒髪様が、遠い昔を懐かしむような口調で言った。
「獅子はウサギが好きだからな……セイリエンという名の導師だったころは、弟子たちに使い魔にするようにと、ウサギを与えていたぐらいだ」
「ウサギを使い魔に?」
「岩窟の寺院には、ウサギだの毛ネズミだの、かわいらしい動物を飼う者が多く居た。俗世間と隔絶された寺院に住まう者たちにとって、そういうものは大いなる慰めだったんだ」
金の雨が降り止んで、万年杉に暗さが戻ってきた。とはいえ、葉がだいぶ焼けてしまって、痛々しい姿と化してしまっている。
赤毛の妖精たちはすばやくせわしく動いた。船に送る箱を準備する一団とは別の一団が、木の延焼を食い止めようと、薬剤が入った噴霧器をもって森に繰り出していった。
塔の中に戻ったクナたちは妖精たちのひとりに迎えられ、食事を勧められた。
剣の爆発や獅子の来訪で上を下への大騒ぎだったが、ウサギは娘たちに、クナたちの面倒をしっかりみろと言い置いていったらしい。
「二階部分が食堂と簡易厨房になってます。そこで焼きパンをどうぞ。飲み物は葡萄酒と、それからすめらの豆酒、ザクロとか果物もろもろの果汁があります。お好きなのを選んでください」
そこでようやく、クナは自分のお腹が減り切っていることに気づいた。
ひと月以上も、飲まず食わずで繭の中にいたのだから、当然と言えば当然である。
塔の二階へ昇ってみれば、焼きたてパンの香ばしい匂いを醸す食卓には、先客がいた。若い男の輪郭が、木の椅子らしきものに座っていた。
「花売りさん!」
「スミコさん、黒髪さん、ご無事でよかった!」
開口一番、花売りはありがとうと、安堵の吐息を混ぜて礼を述べてきた。剣の望み通りに義眼がクナの手に渡ったので安心したという。
「剣もきっと、浮かばれるでしょう。あの、それから……色々ご報告したいことがあるんです。まずはですね、光の神獣を食い消してからほどなく、行方不明だったイチコさんから伝信が来ました。すめらの中枢近くに監禁されていたらしいのですが、なんとか無事に脱出できたそうです」
「イチコさんが! よかった……!」
「現在は彼女から逐次、色んな情報をもらっているところです」
やはり塔の中は眩しすぎて、クナの目には花売りも黒髪様も、輪郭しか見えない。声の調子からすると良人たる人は微笑んでいるようだが、表情は全然分からない……
人間の赤子は、生まれてしばらくは目がよく見えないというが、自分もそんな状態なのだろうか。
もっと見えるようになりたいと願いつつ、クナは花売りからイチコの話を聞いた。
イチコが墳墓の地下に囚われていたこと。シガが救い出された場面に彼女がでくわしたこと。今はそれに関わった者たちが一緒に、とある船に乗っていること……
「リアンさまが大活躍したのね。すごいわ……! コハクさまや大姫さまたちまで、金獅子家の船に乗ってるなんて。よかった……みんな無事で……!」
とくに、妹のシガが無事でいるとは、なんとありがたいことだろう。
ホッとしたら派手にお腹が鳴った。花売りや黒髪様に笑われたクナは、笑顔でもりもりパンを食べだした。黒髪様も手を伸ばしてパンを取ったが、あまり食が進まないようだった。
一息ついたら、やるべきことをやらなければと、彼は遠慮がちにパンを口に入れながら嘆息した。恐ろしい力を封印し、それから、龍蝶の帝を復活させてしまった責任をとらなければならないと。
ああそうだったと、クナは真顔になって男たちに聞いた。
「復活した帝は……まだ暴れているんですね?」
「それは今、黒い悪鬼とすめらの当局から呼ばれています。宮処から消え去ったようなことをすめらは宣言してますが、僕はここに向かっていた途中、船から降りるときに、不可解な〈大陸公報〉を耳にしました。それは宮処ではなく別の大きな都市から発せられていて、なんと、〈古くて新しい帝〉が即位したというんです」
「ピピ技能導師もその公報を受け取っていた。どうやら龍蝶の帝は古都に移りて、そこで復位を宣言したらしい。しかも厄介なことに、ミカヅチノタケリを従えているようだ」
「な……タケリ様を?!」
黒髪様の声が陰った。
「私の悲しみが帝を起こしてしまった。全く私は、この世に迷惑をかけてばかりで……」
顔をうつむける彼の体が、ゆらりと横に傾いでいく。クナは気づいて彼の手をとっさにつかんだが、暖かな手はするりとクナの手を抜けていった。
「黒髪さま!?」
「え? ちょっと、大丈夫ですか?!」
音もなく倒れた黒い人に、クナはすがった。その体は暖かいどころではなく、まるで燻る炭のように熱かった。ゆすっても何度呼んでも、魂が抜けたように反応がない。黒髪様は息が止まったかのように動かず、わずかな呻きさえ発してこなかった。
異変に気付いて、すぐさま赤毛の妖精たちが周りから駆け寄ってきた。ひどい熱だと、花売りが黒髪様の額を確かめてうろたえる。慌てて担架を持ってきた妖精たちが、不眠不休で繭を守っていたせいかもしれないと漏らしたので、クナはたちまち青ざめた。
「弱っているところに神獣の神気を受けたので、さすがに疲れ切ってしまったのでは……」
「そんな……飲まず食わずでなんて……!」
いったいどれだけの覚悟で繭を守ってくれていたのか。
少し休めばきっとすぐに回復する。妖精たちはそう見立ててくれたが、クナは気が気ではなかった。
黒髪様は、妖精たちが寝室にしている三階に運ばれた。付き添うクナは、ふわりとする敷物に寝せられた黒髪様が、堅く左の拳を握っているのに気付いた。手の中にあるのはおそらく……
「あたしが渡した義眼……まさかずっと、握りしめていたの?」
拳をこじ開けようとしても、石のように硬くて動かない。もしかしたら……
いや、そんな気配はなかったはずだ。石に魂が吸い込まれるとか、そんなことは決して。
「黒髪さま……いくら不死身の魔人だからって……」
黒髪様の熱い手を両手で包み込んで、クナは彼の回復を念じた。
まだよく見えない目に、甘くて白い涙を浮かべながら。
「どうか、無理しないで。お願いだから……」




