私の痴人
カッパ祭りの朝が来た。
淫夢の一番良い所で目が覚めた私は、興奮しない訳にはいかなかった。
しかし、こんな穢れた身体で昨夜手に入れた綺麗な浴衣を纏っては浴衣が腐ってしまう―――もしくは可憐な朝顔柄が、なんか土留め色の毒々しいものになってしまう様な気がして、急いでシャワーで水を浴びた。
多少頭を冷やさなくてはならない、お清めだ。
清らかな里緒奈でカパ郎に会うのだ。
昨日の様な失態を犯してはならない。
私は町娘パンツを装着し、ネットの『浴衣 着付け』画面を見ながら肌襦袢(着物の下に着る下着)に袖を通した。
浴衣の着付けは昨夜遅くまで練習したかいあって、何とかぐちゃぐちゃに着れる様になっていた。
昨夜はぐちゃぐちゃにしか着れないので、朝になったら綺麗に着れる気がする、と諦めて寝たけれど、もう逃げられない。
なので、なんて言うか、ぶっちゃけ本番なのだった。
落ち着け、画像通りに、ああして、こうして……。
浴衣を着るのに何が難しいかって、帯が難しいのだ。帯は盲点だった。画像見ても全然わからない。しかも、帯、結構重いのだった。
しかし帯が締まらなきゃ浴衣姿にならない、という事くらいは私にも判る。
判るから、頑張っているのだけれど、もうにっちもさっちもいかないのだった。
必死で帯と格闘していると暑くなって来て、せっかくお清めをした身体からは汗が吹き出し、顔なんかもう、皮脂とか塩気でドロドロで、綺麗になりたいのにドンドン汚くなって行く。そうなると何もかもが崩れていく気がして、気ばかり焦る。
マズイ、これじゃ本末転倒だ!
なんなんだ浴衣!
貴様女の敵じゃないか!!
ああもう、暑っつい! 肌襦袢暑っつい!
カパ郎が来ちゃう、カパ郎が来ちゃう! 来ないかもしれないケド、カパ郎……!!
「ふ・ぬおおおおっ」
行き詰った私、縛りゃいいんだろ、縛りゃ、と吹っ切れて、強引に蝶々結びをしてみた。
「お?」
蝶々結び、結構イケた。
しかも、後々『浴衣 帯の簡単な結び方』で検索したところ、この苦し紛れの蝶々結び、一番最初に掲載されていて、超ポピュラーだった。
汗と皮脂返せコノヤローなのだった。
*
さて、バッチシ☆ とはいかない間でも、なんとか浴衣を着れた私は必要最低限に持ち出して来たメイク道具の力を絞りつくして顔を作り、肩まで伸ばした髪をアップスタイルに纏めた。
髪飾りも何もないので、貧相な事この上ない。
おのれ、手持ちの武器が少な過ぎる。
小さめバッグ女子を好む男の視線なんて気にするんじゃなかった。
今後は、いついかなる時も戦闘の前線に立てる様、武器は多めに持たねばなるまいと心に決めて、私は川へ急いだ。
既に日は登り切っていた。
下駄は無いから足元はスニーカーだったけれど、むしろ上等だった。
毎朝カパ郎が私を待っていた岩場へ着くと、そこには誰もいなかった。
サラサラとコバルトブルーの水流が流れて行く。
「……」
いない。
マジか。マジでウーパールーパーは無理だったのか。
それとも頬にスタンガンを押し付けられて「もう懲り懲りじゃ」なのじゃろうか。
ガックリ来ながら、私は岩にしゃがみ込む。
夏の終わりの爽やかな風が、首筋の後れ毛を撫でて通り過ぎていくのを感じながら、私は「盛ってるのがバレタのだろうか」とか「いやらしい目で見過ぎたのだろうか」とか「あの股広げしゃがみは良かった」とか、爽やかじゃない事ばかり考えて川面をジッと見詰めた。
神様……私は調子に乗り過ぎましたか? 「ウチのカッパ返せ」なのですか?
しゅんとしていると、「もし……」と男の声がした。
心当たりがある展開に私がパッと顔を上げると、水面にカッパが目だけを出してこちらを見上げていた。
目だけでなんでカッパと? と、思うかも知れないけれど、ノン。そのカッパは正しくカッパで、大変言いにくいけれど、世に伝えられているカッパのメジャーな髪型をしていた。
あと、眉毛が繋がっていたので軽く嫌悪感を覚えた。
そして、一番不味そうなのはこちらを見上げている目だ。
口ほどに物を言い過ぎそうな暑苦しい二重瞼の目をしていた。
眼光が「かまって」の色をしている。
絶対に構ってはいけないタイプの目だった。
けれど、もう目はバッチリ合ってしまっていて、強力な眼力に捉えられて逸らせない。
逸らしたらこちらが一方的に悪者になりそうな、そんな予感がした。
神様……「このカッパ、やる」なのですか? いりません。凄くいりません。
「な、んですか?」
「でへへ、デヘ……ウィッウィッ……さっきからの……大事なところ」
私は逃げた。
今度は足を滑らせて岩から川へダイブしない様に、最新の注意を払って冷静に立ち上がると、早鐘の様に鳴り響く心臓を「落ち着け止まれ。命を守りながら止まれ」と叱咤しながら駆け出した。
変な人に遭ったら、まず逃げる。先生もお母さんもそう言ってた。
その次は、大きな声を出す事。
そうすると、竦み上がった心に勇気が湧くのだとか。
「わあーーーっ!! わあああああああっ!!」
追われる者の心理なのか、背後に邪悪な気配がピッタリついて来るようで、私はパニックになりながら「そ、そうだ! 犬! カッパは犬が苦手だ!」と思い立ち、
「ワンワン! ワン! わあああああん!!」
とワンワン吠えながら川からロッジまでの道を駆け抜けた。
なんか足りない気がして「わおーーーんっ」と遠吠えめいた吼え方も加えて走っていると、行く先に聡が見えた。
聡はロッジの庭先辺りに紙袋を持って立っていて、遠吠えをしながら浴衣を乱して全力疾走して来る私を目を丸くして見ていた。
『都会から来た嫁候補、衝撃の犬人間! 日中一人でワオオーン!』とでも思っているのだろう、果たして聡のテンションは上がるのか下がるのか……否、どっちでも良いや。
「さ、聡さん……!!」
私は、取りあえずマトモであろう聡に駆け寄って、へたり込んだ。
聡はかなりの困惑顔で、私に噛み付かれない程度の距離まで近寄り、紙袋を差し出した。
「り、里緒奈さん……あの、お袋が下駄渡すの忘れたって言うんで……」
「げぇぇた……ゼハーッ!」
「ど、どぞ……」
「ハア、ハアァ……あ、ありがどう……ござい……ます……」
わぁぁい……下駄だぁ……。
「ど、どうしましたンの?」
「あの、変なッ、カッ、……人が!」
聡からしたら変な人は私以外見当たらないのだろうけれど、違うもん、変な人見たんだもん!!
「へ、変な! カッパみたいなカッパが……!! い、いぬっ犬が嫌いなんです!!」
あああ、ドキドキがまだ収まらなくて上手く伝えられない。
浴衣が今じゃないのに、はだけまくって長襦袢もブラジャーも聡に見えていたけど、そんな事はこのドキドキに比べたら、もうどうでも良いのだった。
聡はただ事では無いとようやく察してくれたのか、ちょっと私と距離を詰めた。
「里緒奈さん、落ち着いてくんさい」
「は、はい……すみません……」
「変質者に出くわしたんだな?」
「あの……はい、そんなところです」
「この辺はそういうヤツはおらんのだけんど……よし、見て来る」
おお、聡、意外と漢気があるのね、と私はちょっと聡を見直した。
聡は川の方へ大股で歩いて行く。
聡……。山の男聡……。村一番の、もじゃくり毛……。
ハッ! でも、もし聡があの変質者カッパを見つけたら、大騒ぎになってしまう!?
村を巻き込んでのカッパ狩りが行われたら、カパ郎達まで……!!
「ま、待って聡さん! 待って!!」
私は慌てて聡の背を追って駆け出した。聡を止めなければ。
もしも時すでに遅しだった場合、聡が「見た」と振れ回る前に、私は何としても「聡が変なキノコを食べているのを見た」と振れ回らなければならなくなる。
それだけは、ばっちゃんの為に避けたい。
本当はもじゃもじゃ頭のもやしみたいなオッサンなんか追いかけたくない。
けれど、やらねばならぬ時というのは、人生に一度や二度必ず来るものなのだ。
私が聡に追いつくと、聡が「しっ、里緒奈さん! こちらへ!」と私を草むらへ引き込んだ。
なっ!? 襲!? と一瞬警戒したものの、川の方から誰かがペタペタやって来た。
まさか、アイツが!? と私は思わず聡の服の裾をギュッと握った。
でも、川の方からペタペタ歩いて来たのは、顎の所で縛った帯で、畳んである浴衣を頭に固定させた全裸のカパ朗だった。片手には濡れそぼったブリーフ、もう一方には小さな花束を持っている。
私には何となく彼がどうしてそうなのか色々解るのだけれど、他の人には難解な謎々に違いなかった。
幸い、カパ郎は既に人間の姿になっていた。この場合、幸いなのかどうなのか分からないけれど。
我が愛しの人ながら、怪し過ぎる出で立ちで現れた彼を、聡が怪しまないワケが無い。
聡は思い切り腰が引け出していた。
カパ郎偉丈夫だもんね、もやしの聡にはそれだけで脅威だよね。
「な、なんだぁアイツは。外国人か!?」
デカければ聡にとって「外国人」らしい。
聡の目は、ある一点に釘付けだった。
表情には、畏怖の念すら浮かべている。
「わ、私が見たのはあの人じゃないです! あの人は……ええと、あの……知人です」
ヘタに隠すより、正直に言おう、と私は聡に言った。
「痴人……?」
「はいっ。私の知人です。あ、ホラ、私のロッジに入って行くでしょう?」
「里緒奈さんの、痴人……!?」
ロッジに入って行く時点で、もうどんな関係かバレちゃいますよね♡ きゃっ! と内心照れつつ、私は頷いた。
「はい。多分、川にでも落ちたのだと思います。この辺は人もいないし、油断してあんな恰好で……後で注意しておきますから。私の知人が本当にすみません! あの人がいれば、変質者も怖くないですし、もう大丈夫ですから聡さんもお帰り下さい」
正直、カパ郎が来てくれた嬉しさですぐにでも彼の元へ飛んで行きたい私は、かなりハッキリ「お帰り下さい」を強調して言った。
聡、ごめんなさい。もうアナタに用は無い……。
騒がせてごめんなさい。
聡も何を思ったのか、それとも余程空気が読めるのか、そそくさと立ち上がり、何故か私に怯えた様子で「わ、わかりました。ほんなら、カッパ祭り楽しんでくンさい……」
と目を合わさずに言うと、私が「はい、聡さんも」と言い終わる前に、一目散に去って行った。
なんてゆうか、下駄ゲット、なのだった。
そして、カパ郎が来た!!
私は草むらの中、はだけた浴衣や乱れた髪を大急ぎで整え、「わーい!」とロッジへ駆けて行った。
変質者カッパの事は、嬉しさのあまりかショックのあまりか、頭の片隅に追いやられていた。
変なの見ちゃったけれど、まぁああいうのもいるよね、位にしか思わなかった。
あの変質者カッパが後に、私にどんな災いをもたらすか、私は全然わかっていなかったのだった。
ようやく次話はお祭りです。
イベントまでが長すぎて大変申し訳ございません。
今後もどうぞ【あなたはカッパと恋に落ちます】をよろしくお願い致します。




