第三話 『反撃の狼煙』――学園の影の支配者である「孤高の令嬢」と手を組み、文化祭のステージを処刑台に変える
私立神楽坂学園の文化祭は、県内でも有数の規模を誇る一大イベントだ。
校舎の至る所に極彩色の垂れ幕が下がり、グラウンドには無数の模擬店が立ち並ぶ。焼きそばの香ばしい匂いと、クレープの甘い香りが入り混じり、行き交う生徒や来客たちの熱気で溢れかえっていた。
「さあ、続いては『神楽坂・ベストカップル&ティーチャーコンテスト』の結果発表です!」
放送部員のハイテンションな声が、特設メインステージの巨大スピーカーから響き渡る。
グラウンドの中央に設置されたステージの周りには、全校生徒だけでなく、保護者や近隣住民、さらには招待された地元の名士たちまで含め、千人近い観衆がひしめき合っていた。
ステージの袖で、蛇神錬次はネクタイを整えながら、満面の笑みを浮かべていた。
「緊張してるかい? 璃々花ちゃん」
「ううん、先生が一緒だもん。全然平気」
隣に立つ姫川璃々花は、弓道着ではなく、フリルのついた可愛らしいワンピースを身にまとっていた。その可憐な姿に、観客席からは「可愛い!」「アイドルみたい!」という黄色い声援が飛んでいる。
彼女は今、まさにこの学園のヒロインだった。横領事件の「被害者」であり、正義のために恋人の罪を告発した「悲劇のヒロイン」。その健気な姿と美貌は、周囲の同情と賞賛を集めるのに十分すぎる材料だった。
「では、栄えある『理想の師弟部門』の優勝ペアの登場です! 蛇神先生と、姫川璃々花さん!」
割れんばかりの拍手と歓声の中、二人はスポットライトを浴びてステージ中央へと進み出た。
蛇神はスマートに手を振り、璃々花は恥ずかしそうに俯きながらも、その瞳には優越感が滲んでいた。
「蛇神先生、一言お願いします!」
司会者がマイクを向ける。
「えー、このような賞をいただき光栄です。教師として、生徒と真摯に向き合ってきた結果だと思っています。最近、悲しい事件もありましたが……私たちはそれに負けず、前を向いて歩んでいきたい。そうだろう、姫川さん?」
「はい! 先生のおかげで、私も強くなれました。……悪いことは悪いって、ちゃんと言える勇気を持てましたから」
璃々花が潤んだ瞳でそう答えると、会場からは「感動した!」「頑張れー!」という温かい声援が巻き起こる。
蛇神は満足そうに頷き、璃々花の肩に手を置いた。
その光景を、ステージからはるか遠く、校舎の最上階にある放送室から見下ろしている二つの影があった。
「……反吐が出るわね」
天城夜空が、モニターに映る二人のアップ映像を見て、心底軽蔑したように呟いた。
彼女は放送室の機材デスクに座り、複雑な配線をノートPCに繋いでいる。本来なら放送部員が詰めているはずのこの部屋は、理事長の孫娘という権限と、「特別放送の準備」という名目で、一時的に無人となっていた。
「ああ。でも、あれももう終わりだ」
俺、九頭竜咲夜は、メインコンソールの前に立ち、最終チェックを行っていた。
手元のタブレットには、ステージ上の大型スクリーンへの割り込みプログラムが起動待機状態になっている。
「咲夜、緊張してる?」
夜空がふと手を止め、俺を見上げた。
俺の手は、微かだが震えていた。恐怖ではない。武者震いだ。
「いや、楽しみで仕方がないよ。あいつらが積み上げてきた嘘の城が、音を立てて崩れ落ちる瞬間がな」
「ふふ、いい顔よ。……じゃあ、始めましょうか。私たちのショータイムを」
夜空がEnterキーを押す。
同時に、俺はマイクのスイッチをONにした。
***
ステージ上では、表彰式がクライマックスを迎えていた。
校長先生が満面の笑みで賞状を渡そうとした、その時。
『キィィィィィン……』
不快なハウリング音が会場をつんざいた。
観衆が耳を塞ぎ、蛇神と璃々花が驚いて顔を見合わせる。
「なんだ? 音響トラブルか?」
司会者が慌ててマイクを確認するが、スピーカーからのノイズは止まない。
そして唐突に、ステージ背面の巨大スクリーン――今まで『神楽坂学園へようこそ』というロゴが表示されていた画面が、ブラックアウトした。
ざわめきが広がる中、真っ暗なスクリーンに白い文字がタイプライターのように打ち込まれていく。
『真実を知る準備はできているか?』
「な、なんだこれは! 放送部、どうなってるんだ!」
教頭が怒鳴る声が聞こえるが、放送は止まらない。
そして、画面が切り替わった。
映し出されたのは、エクセルで作られた見慣れた帳簿のデータだった。
だが、その内容は一般に公開されているものとは違う。赤字で修正された痕跡や、『使途不明金』という項目、そしてその振込先として『R.H』(蛇神のイニシャル)の個人口座が紐づけられている証拠画像だ。
「これは……弓道部の会計データ?」
「おい、あそこの口座名義、蛇神って書いてあるぞ?」
観客席の生徒たちが異変に気づき始める。
蛇神の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
『ナレーション:九頭竜咲夜』
俺の声が、変声機を通さず、はっきりとスピーカーから流れた。
『皆様、こんにちは。そして、お久しぶりです。弓道部部費横領の濡れ衣を着せられ、停学処分中の九頭竜です。今日は、この場を借りて、本当の“犯人”を紹介したいと思います』
「く、九頭竜!? なぜあいつの声が!」
蛇神が叫ぶ。
「放送室だ! 今すぐ放送室へ行け! 電源を切れ!」
教師たちが動き出そうとするが、夜空が事前に校舎の電子ロックを操作しており、放送室への通路は遮断されている。そう簡単にはたどり着けない。
『まずは、こちらの音声をお聞きください。事件当日の、弓道部更衣室での会話です』
スクリーンには波形が表示され、クリアな音声が再生される。
『……ねえ、錬次さん。本当に大丈夫なの? 咲夜くんに全部なすりつけるなんて』
『大丈夫だって。あいつは馬鹿だから、僕たちが付き合ってることにも気づいてない。金庫の鍵は僕が持ってるんだから、あいつのカバンに札束を突っ込んでおけば、一発でクロだよ』
『でも、かわいそう……』
『かわいそう? 誰のおかげで、君が欲しがってたブランドのバッグが買えたと思ってるんだ? あの横領した金があったからだろ?』
『う……それは、そうだけど。……分かった。私、協力する。咲夜くんより、錬次さんとの生活の方が大事だもん』
会場が静まり返った。
あまりにも生々しい、悪事の相談。そして、何より衝撃的だったのは、その声の主だ。
「これ……璃々花ちゃんの声?」
「嘘だろ? ブランドバッグって……」
「蛇神先生、錬次さんって呼ばせてんの?」
生徒たちの視線が、ステージ上の二人に集中する。
賞賛と憧れの眼差しは消え失せ、軽蔑と疑念の色が濃くなっていく。
璃々花は顔面蒼白になり、ガタガタと震え出した。
「ち、違う……これ、合成よ! AIで作った偽物よ!」
彼女は必死に叫ぶが、マイクを通したその声は、震えすぎていて説得力がない。
『偽物だと思いますか? では、映像もご覧いただきましょう』
俺の操作で、画面が切り替わる。
それは第二話で俺が見た、部室での情事の映像――の、さすがにR18部分はカットし、決定的な「密会」と「共謀」のシーンを繋ぎ合わせたダイジェスト版だ。
蛇神が璃々花の腰に手を回し、札束の入った封筒を渡しているシーン。
二人が抱き合いながら、俺の悪口を言って嘲笑っているシーン。
『あんな陰キャ、早く消えればいいのに』と璃々花が言い放つシーン。
決定打だった。
もう、誰も二人を擁護する者はいない。
「うわっ、引くわ……」
「最低じゃん、あいつら」
「九頭竜、マジでハメられただけだったのか」
ざわめきは怒号へと変わっていく。
保護者席からも非難の声が上がり始めた。
「どういう教育をしてるんですか!」
「娘をこんな教師に預けていたなんて!」
蛇神は脂汗を流しながら、後ずさりをした。
「ち、違う! これは誤解だ! この映像は捏造だ! 九頭竜が私を恨んで作ったフェイク動画だ!」
見苦しい言い訳。だが、彼はまだ諦めていない。教師という立場にしがみつこうとしている。
その時、放送室のドアがドンドンと激しく叩かれた。
「開けろ! 警察だ! ……じゃなかった、生活指導だ!」
教師たちがついに辿り着いたようだ。だが、もう遅い。
「咲夜、仕上げよ」
夜空が俺に合図を送る。
俺は頷き、マイクに向かって最後の言葉を放った。
『蛇神先生。捏造だと言い張るなら、今すぐあなたのスマホのロックを解除して、LINEの履歴を見せてください。削除しても無駄ですよ。僕の手元には、サーバーからバックアップした過去一年分のログがありますから』
スクリーンに、二人のLINEのやり取りが高速でスクロールされる。
『今日のパンツ何色?』
『部費でホテル代浮いたねw』
『九頭竜の親呼び出されるの楽しみw』
卑猥で、下劣で、悪意に満ちた文字列の羅列。
「ひっ……!」
璃々花はその場に崩れ落ちた。もはや立っていることすらできない。
蛇神は呆然とスクリーンを見上げ、口をパクパクさせている。
『これで証明は終わりました。……ああ、それと』
俺は一呼吸置き、さらに冷たく告げる。
『この映像と音声データ、および横領の証拠資料は、すでに警察と教育委員会、そしてマスコミ各社に送信済みです。もう、隠蔽は不可能です』
その言葉と同時に、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
一台や二台ではない。複数のパトカーが、学校に向かってきている音だ。
「け、警察……?」
蛇神の顔から、人間としての尊厳が完全に抜け落ちた。
俺は放送室の機材をシャットダウンし、ヘッドセットを外した。
静寂が戻った放送室で、夜空が拍手をする。
「ブラボー。最高のショーだったわ、咲夜」
「……ああ。すっきりしたよ」
俺は大きく息を吐き出した。
胸のつかえが取れたような爽快感。だが、それと同時に、少しの虚しさもあった。
あんなに好きだった璃々花が、あんなに惨めな姿を晒している。それを俺自身の手でやったのだ。
「同情する?」
夜空が俺の心情を見透かしたように尋ねる。
「いや。……自業自得だ」
俺はきっぱりと答えた。
その時、放送室のドアの鍵が電子音と共に解錠された。
「九頭竜! いるのは分かってるぞ!」
教師たちが雪崩れ込んでくる。
しかし、彼らは俺たちの姿を見て、動きを止めた。
俺の隣に、理事長の孫娘である天城夜空が優雅に座り、紅茶を啜っていたからだ。
「あ、天城さん……? なぜここに……?」
生活指導の教師が狼狽える。
「あら、騒々しいわね。私が彼に頼んで、学園の不正を正すための『特別授業』を放送させたのよ。何か文句でも?」
夜空が冷ややかな視線を向けると、教師たちは蛇に睨まれた蛙のように縮こまった。
理事長の孫娘には、教師といえども逆らえない。この学園の絶対的な権力構造だ。
「さあ、咲夜。行きましょうか。主役がカーテンコールに応えないと」
夜空が立ち上がり、俺に手を差し伸べる。
俺はその手を取り、教師たちの間を堂々と通り抜けた。
グラウンドに出ると、そこは修羅場と化していた。
パトカーが到着し、制服警官たちがステージ上の蛇神を取り囲んでいる。
「蛇神錬次、業務上横領および未成年者略取誘拐の疑いで任意同行を求める」
「ま、待ってください! 私は何も……!」
蛇神は無様に抵抗するが、警官たちに取り押さえられ、手錠をかけられた。その姿に、生徒たちからは「ざまぁみろ!」「犯罪者!」という罵声が浴びせられる。
一方、璃々花はステージの隅でうずくまり、泣きじゃくっていた。
彼女を取り囲んでいるのは、かつての取り巻きたちではなく、冷ややかな視線を向けるクラスメイトたちだ。
「信じてたのに、サイテー」
「私たちまで騙してたのね」
彼女が築き上げてきた『アイドル』としての地位は、粉々に砕け散っていた。
俺と夜空がステージの近くに姿を現すと、群衆がざっと道を空けた。
まるで、モーゼの十戒のように。
誰もが、恐れと敬意の入り混じった目で俺を見ている。
俺はまっすぐに璃々花のもとへ歩み寄った。
彼女は俺の足音に気づき、顔を上げた。化粧は涙で崩れ、かつての美しさは見る影もない。
「さ、咲夜くん……」
彼女は縋るような目で俺を見上げ、手を伸ばしてきた。
「ご、ごめんね……私、先生に脅されてて……本当は、咲夜くんのこと……」
まだ、そんな嘘が通じると思っているのか。
俺は彼女の手を冷たく見下ろした。
「……触るな」
短い一言。だが、そこには絶対的な拒絶が込められていた。
璃々花の手が空を切り、力なく垂れ下がる。
「二度と俺の前に現れるな。……君の顔を見ると、反吐が出る」
俺はそれだけ言い捨てると、彼女に背を向けた。
背後で、璃々花の絶望的な泣き叫ぶ声が聞こえたが、俺は一度も振り返らなかった。
隣を歩く夜空が、そっと俺の手に自分の手を重ねてきた。
その温もりが、冷え切った俺の心を少しだけ溶かしてくれた。
「終わったわね」
「ああ。終わった」
空は抜けるように青く、文化祭の喧騒は、新しい時代の始まりを告げるファンファーレのように聞こえた。
俺たちの復讐は、完璧な形で完遂されたのだ。




