第一話 『信頼の崩壊』――部費横領の罪を着せられた俺は、愛する彼女の冷徹な一言で地獄へと突き落とされる
「よし、中り(あたり)」
弦音と呼ばれる、空気を鋭く切り裂くような清冽な音が道場に響き渡る。放たれた矢は美しい放物線を描き、二十八メートル先の安土にある的の中心を射抜いた。
張り詰めていた空気がふわりと緩み、道場の板張りの床を踏みしめる足音が戻ってくる。
「すごい! さすが璃々花、今の完璧な射だったね」
「ほんと、インターハイ予選も近いし、璃々花がいれば女子団体は安泰だよ」
部員たちから称賛の声を浴びて、はにかんだような笑顔を見せているのは姫川璃々花。
艶やかな黒髪をポニーテールに束ね、白の道着に黒の袴という凛々しい姿は、まさに大和撫子と呼ぶにふさわしい。彼女は弓道部のエースであり、この学園の誰もが認めるアイドル的存在だった。
そして、俺、九頭竜咲夜の自慢の恋人でもある。
俺たちは中学時代からの付き合いで、高校に入ってから交際を始めた。もう一年半になる。
俺は彼女のような華やかな才能はない。弓の実力も平凡で、どちらかと言えば裏方として部の運営やデータ管理を任されることが多かった。それでも璃々花は、「咲夜くんが支えてくれるから、私は安心して弓が引けるの」と笑ってくれていた。そう信じていた。
「咲夜くん、見ててくれた?」
練習の合間、璃々花が小走りで俺の元へ駆け寄ってくる。上気した頬に汗が伝い、甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「ああ、見てたよ。さっきの射、残心まで完璧だった。体の軸がブレてなかったし、調子良さそうだな」
俺がタオルを手渡すと、彼女は嬉しそうに受け取り、その白い首筋の汗を拭う。
「えへへ、よかった。……あ、でも、最近ちょっと顧問の蛇神先生に指導してもらってるおかげかも。先生、すごく熱心に教えてくれるから」
蛇神先生。その名前が出た瞬間、俺の胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が走る。
蛇神錬次。今年度から弓道部の顧問になった数学教師だ。二十代後半と若く、爽やかなルックスと物腰の柔らかさで女子生徒からの人気は絶大だった。しかし、俺はどうしてもあの男の、爬虫類を思わせるねっとりとした視線が好きになれなかった。
特に最近、璃々花を見る目が、教師が生徒を見るそれの範疇を超えているように感じていたのだ。
「……そっか。まあ、熱心なのはいいことだけど、あまり無理はするなよ。二人きりの個人指導とか、遅い時間までは控えたほうがいい」
俺がやんわりと釘を刺すと、璃々花は一瞬だけ視線を泳がせ、不自然なほど明るい声で答えた。
「も、もちろんよ! 咲夜くん心配性なんだから。……あ、ごめん、ちょっとLINE来ちゃった」
彼女は袴の腰板のあたりに隠し持っていたスマホを取り出すと、俺に画面が見えないように素早く体を翻した。
以前なら、俺の前で堂々とスマホを操作していたし、パスコードすら共有していたはずだ。しかしここ数週間、彼女はスマホを肌身離さず持ち歩き、俺が近づくと画面を伏せるようになった。
(考えすぎだ。璃々花に限って、そんなことはない)
俺は湧き上がるどす黒い疑念を、理性で無理やり押し込める。彼女とは結婚の約束に近い将来の話までしている。お互いの両親も公認の仲だ。そんな強固な関係が、ぽっと出の顧問教師ごときに揺らぐはずがない。そう自分に言い聞かせ、俺は矢取りのために的場へと向かった。
しかし、その日の放課後。俺の日常は音を立てて崩れ去ることになる。
部活が終わり、片付けをしていた時のことだ。
道場の入り口に、蛇神先生と、強面で知られる学年主任の教諭が立っていた。蛇神先生はいつもの爽やかな笑顔を消し、ひどく沈痛な面持ちを浮かべている。
「九頭竜咲夜、ちょっといいか。話がある」
学年主任の低い声が道場に響く。部員たちがざわめき、不安そうな視線を俺に向けてくる。璃々花の姿を探したが、彼女はいつの間にか更衣室の方へ消えていた。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。俺は無言で頷き、彼らの後について職員室……ではなく、人気のない生徒指導室へと連行された。
重厚な扉が閉められ、密室の圧迫感が俺を包む。
長机を挟んで向かい側に座った蛇神先生は、芝居がかったため息をついてから、一枚の封筒を机の上に放り投げた。
「九頭竜。単刀直入に聞くが、これに見覚えがあるな?」
それは、弓道部の部費を管理している茶封筒だった。
俺は部の会計係も兼任していたため、当然見覚えがある。今月の部費や、これから購入する予定の備品代、合わせて五十万円が入っているはずのものだ。
「はい、部費の管理袋ですが……それがどうしたんですか?」
「とぼけるな! 中身が空なんだよ!」
学年主任が机を叩いて怒鳴り声を上げる。
俺は驚いて目を見開いた。空? そんなはずはない。昨日の夕方、確かに確認して金庫にしまったはずだ。
「ありえません。昨日の部活終わりに確認しました。鍵だって、僕と先生しか持っていないはずです」
俺が反論すると、蛇神先生は悲しげに首を横に振った。
「九頭竜くん。君が優秀な生徒だということは知っている。だからこそ、私は残念でならないんだ。……まさか、君がこんなことをするなんて」
「何の話ですか。僕は盗んでなんかいない!」
「往生際が悪いぞ! 証拠は挙がっているんだ!」
学年主任が俺の通学カバンを乱暴に掴み上げ、中身を机の上にぶちまけた。
教科書やノート、筆記用具が散乱する中、一際異質な存在感を放つものが転がり落ちた。
百万円の帯封がついた、札束の塊。正確には、五十万円分の紙幣だ。
俺の思考が停止する。
なぜ、俺のカバンから現金が?
「こ、これは僕のものじゃない! 誰かが勝手に入れたんだ!」
「自分のカバンに入っていたものが自分のものじゃないだと? そんな言い訳が通用すると思っているのか!」
「本当です! 僕はやってない! これは罠だ!」
俺は必死に訴えた。誰が、何のために。
脳裏に浮かぶのは、鍵の管理者であるもう一人の人物。蛇神先生だ。彼を見やると、彼は口元を歪め、嘲るような、それでいて勝利を確信したような冷たい光を目に宿していた。
(こいつだ……こいつが仕組んだのか!)
しかし、動機が分からない。なぜ一介の生徒である俺を陥れる必要がある?
混乱する俺をよそに、蛇神先生はゆっくりと口を開いた。
「九頭竜くん。君が罪を認めないなら、証人を呼ぶしかないね。……入ってきなさい」
その言葉を合図に、生徒指導室のドアが控えめにノックされる。
ガチャリ、とドアが開き、入ってきた人物を見て、俺は呼吸を忘れた。
「……璃々花?」
そこにいたのは、俯き加減で、顔色を悪くした姫川璃々花だった。
彼女は震える手でスカートの裾を握りしめ、俺と目を合わせようとしない。
「璃々花、なんでここに……まさか、璃々花も疑われてるのか? 違うよな、俺たちは何もやってないよな?」
俺は縋るような思いで彼女に呼びかけた。
彼女なら分かってくれるはずだ。俺が部費を盗むような人間じゃないことを。一番近くで俺を見てきた彼女なら、俺の無実を信じてくれるはずだ。
しかし、璃々花は俺の言葉に反応せず、蛇神先生の方へと歩み寄る。
蛇神先生は彼女の肩に優しく、しかしどこか所有物を扱うような手つきで手を置き、耳元で何かを囁いた。璃々花が一瞬ビクリと肩を震わせ、そして意を決したように顔を上げた。
その瞳に、俺への信頼の色はなかった。
あるのは、罪悪感と、それを塗りつぶすような冷徹な拒絶。
「……先生。私、証言します」
「ああ、お願いするよ。君の勇気ある行動が、正義を守るんだ」
璃々花はゆっくりと俺の方を向き、その美しい唇を開いた。
「ごめんね、咲夜くん。私……あなたが部室の金庫からお金を抜き取って、自分のカバンに入れるところ……見ちゃったの」
時が止まった気がした。
耳鳴りがする。心臓が早鐘を打ち、全身の血液が逆流するような感覚。
何を言っているんだ? 見た? ありもしないことを?
「な……何を言ってるんだ、璃々花? 俺が盗んだ? そんなことしてないし、君が見たなんて嘘だろ? なんでそんな嘘をつくんだ!」
俺は思わず椅子を蹴って立ち上がろうとしたが、学年主任に肩を力任せに押さえつけられた。
「嘘じゃないわ! 私、昨日の夕方、忘れ物を取りに戻ったの。そうしたら、咲夜くんが金庫を開けてて……止めようと思ったけど、怖くて……」
璃々花の声が震えている。まるで、本当に恐怖を感じた被害者のように。
その演技力の高さに、俺は戦慄した。いや、これは演技なのか? 彼女は何かに怯えているようにも見える。だが、その口から紡がれる言葉は、俺を社会的に抹殺するための鋭利な刃だった。
「璃々花……どうして……俺たち、恋人だろ? 信じ合ってたはずだろ?」
「恋人だからって、犯罪を見逃すわけにはいかないでしょ! 最低よ、咲夜くん。部員のみんなが必死に集めたお金を盗むなんて……私、あなたのこと見損なった」
彼女の言葉が、俺の心をずたずたに引き裂いていく。
信じていた。誰よりも、何よりも。
世界中が敵に回っても、彼女だけは味方でいてくれると思っていた。
その彼女が、今、決定的な嘘をついて俺を地獄へ突き落とそうとしている。
蛇神先生が、満足そうに目を細めた。彼は璃々花の腰に手を回し、守るように抱き寄せる。璃々花は抵抗するどころか、彼の胸に寄りかかるようにして、俺から視線を逸らした。
その瞬間、俺の中で何かが「パチン」と弾けた。
あの距離感。あの慣れた手つき。そして、璃々花が俺に向けたことのない、服従と依存の色が混じった瞳。
点と点が線で繋がる。
彼女の最近の不自然な態度。スマホを隠す仕草。蛇神先生への過剰な信頼。
そして、この完璧すぎるタイミングでの冤罪と、嘘の証言。
(ああ、そうか。そういうことかよ)
俺は理解してしまった。
俺はただ金を盗んだという濡れ衣を着せられただけじゃない。
俺の恋人は、この男に奪われたのだ。心も、そしておそらくは体も。
そして二人は、邪魔になった俺を排除するために、この茶番劇を仕組んだのだ。
「……もういい、座れ九頭竜」
学年主任が冷たく告げる。
「姫川の証言もある。物証もある。これ以上の言い逃れは無駄だ。警察沙汰にしたくなければ、罪を認めて素直に反省しろ。学校側としても、公になれば評判に関わるからな。退学まではさせん。だが、無期限の停学処分は免れんぞ」
「……認めませんよ」
俺は震える声で、しかしはっきりと告げた。
俯いていた顔を上げ、蛇神先生と、その腕の中にいる璃々花を睨みつける。
「僕はやっていない。絶対に認めない。……そして、嘘をついた人間を、僕は絶対に許さない」
俺の眼光に、璃々花がひっと息を呑んで身を縮める。蛇神先生は余裕の笑みを浮かべたまま、「反省の色なしか。怖いねえ」と肩をすくめた。
「まあいい。処分は追って通知する。今日はもう帰れ。明日からは自宅謹慎だ」
追い立てられるように生徒指導室を出された俺は、重い足取りで廊下を歩いた。
窓の外はすでに日が落ち、校舎は不気味な静寂に包まれている。
握りしめた拳に爪が食い込み、血が滲んでいるのが分かった。
スマホを取り出すと、クラスのグループLINEが凄まじい勢いで更新されているのが見えた。
『九頭竜が横領だって』『マジ? 最低だな』『璃々花ちゃんがかわいそう』『あいつ前から陰キャでキモかったしな』
情報はすでに漏れていた。おそらく、蛇神が意図的に流したのだろう。
校門を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
俺は空を見上げる。星ひとつない、漆黒の空。今の俺の心と同じ色だ。
怒り、悲しみ、絶望。様々な感情が渦巻いていたが、不思議と涙は出なかった。
代わりに、腹の底から冷たくて硬い、黒い炎のようなものが燃え上がってくるのを感じた。
俺はこのまま終わらない。
無実を証明するだけじゃない。
俺を陥れた蛇神。そして、俺を裏切り、あろうことか俺を犯罪者に仕立て上げた璃々花。
奴らに、必ず報いを受けさせてやる。
俺が弓道部のデータ管理をしていたことを忘れているのか?
俺が、ただの「地味な生徒」だと思っているなら、それは大きな間違いだ。
俺には、奴らが想像もしていない武器がある。
道場の防犯対策のために、部費ではなく自費でこっそりと設置していた、超小型の集音マイクとカメラの存在を、奴らはまだ知らない。
「……覚えとけよ」
闇に向かって呟いたその時。
「あら、随分と無様な顔をしてるわね」
凛とした、鈴を転がすような声が聞こえた。
驚いて振り返ると、校門の街灯の下に、一人の少女が立っていた。
色素の薄い銀色のロングヘア。宝石のような蒼い瞳。制服の着こなしは完璧で、まるで夜の闇から切り取られたような幻想的な美しさを持っていた。
天城夜空。
この学園の理事長の孫娘であり、誰もが恐れる孤高の令嬢。
彼女は俺の顔を覗き込むと、ふふっと楽しそうに笑った。
「泥棒の汚名を着せられて、恋人には裏切られ、学校中から爪弾き者。……最高の喜劇ね」
「……冷やかしなら帰ってくれ。今は誰とも話したくない」
俺が背を向けて歩き出そうとすると、彼女の声が背中に突き刺さった。
「でも、その目は嫌いじゃないわ。絶望に沈む豚の目じゃなくて、獲物を狙う狼の目をしている」
夜空は優雅な足取りで俺の前に回り込み、挑戦的な笑みを浮かべて手を差し出した。
「復讐したいんでしょう? 力を貸してあげてもよろしくてよ。……九頭竜咲夜」
その手を取るか迷ったのは一瞬だった。
今の俺には、悪魔の手でも必要だった。
俺は彼女の細い手を強く握り返す。その冷たい体温が、俺の復讐心の炎をさらに煽るようだった。
これが、俺の反撃の始まりだった。




