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三十九話 「彼女たち -トラウマ-」

 わたしたちが揃って地元の中学に進むと、まなみは何人もの男子から交際を申し込まれるようになった。ほとんどが小見小以外の子で、半分くらいは上級生だった。まなみはその全員に対して、はっきりとした言葉で断った。


「ごめんなさい。あたしにはとっても大切な人がいます。他の人とは付き合えません」


 ある日の昼休み。私と一緒にお弁当を食べていたまなみに、クラスメートの女子が尋ねた。


「結城さんが好きな人って誰? 同級生? それとも先輩?」


 とたんに、教室内で雑談していた声が小さくなった。気になっていた子は男女を問わず多いようだ。


「この中学の人じゃないの。今は少し遠くにいて会えないけど、わたしのために書いてもらったものを毎日読んでる」

「どんな人?」

「あたしの命の恩人。あたしだけじゃなくて、あたしが大切に思ってる人たちも助けてくれた。すごく頭がよくて、あたしの好きなようにさせてくれて、あたしのために惜まず力を貸してくれた人」


 その説明だと、理想の相手を妄想してる女の子のセリフにしか聞こえない。教室のざわめきが大きくなり、尋ねた子が困ったような顔で私の方を見た。


「嘘じゃない。おおげさでもない」

「ええっ、うそっ!」


 だから嘘じゃないって。まなみの話は学校中に広まり、とんでもなくハードルが上がったせいで、まなみに告白する男子はほとんどいなくなった。




 わたしは集中力を学習だけでなく人の観察にも用いるようになった。人の行動をよく見てその後の行動を推測する。臆病だったわたしが、相手の言動をより理解できるようになると、他人に心を乱されることが少なくなった。それはまなみに絡んでくる男子からまなみを守るために役に立った。


 ほとんどなくなったと言っても、なお諦めない男子もいる。はっきり断られてもそれを受け入れないのだから面倒な相手であることが多かった。わたしやヒナはその防波堤としてまなみを助けていたが、ヒナは柔道の練習に時間を費やすことが増えて、それは主にわたしの役割になった。


 2年になったばかりの頃、昼休みになると3年の曽田という人が何度もまなみに会いに教室までやってきて、まなみを教室から連れ出そうとした。大柄な男子で体重はわたしの倍ほどあるだろう。強引な方が恋愛も上手くいくと勘違いしているようで、いつも止めているわたしに対して悪態をつくようになっていた。


「止めてください。いやがっているのが分かりませんか?」

「うるせえ、ブス!」


 頭に血が上って、友人の悪口を言われたまなみがどう思うかさえ分からないようだ。いきなりまなみの腕をつかんで教室から連れ出そうとした。わたしが後ろから曽田の腕を両手で捕まえると、彼は振りほどこうとして腕を大きく払った。

 ガンッという強い衝撃と共に視界が暗くなり、気が付くとわたしは二人から少し離れた教室の壁にもたれかかっていた。


「いっちゃん!」


 意識を失ったのは一瞬だったようだ。まなみが駆け寄ってきて、わたしが倒れないように支えてくれた。だぶん曽田の肘がわたしの顔に当たって、壁まで弾きとばされたのだろう。彼からはさっきまでの興奮が消えて、今は呆然とした顔をしている。

 わたしの顔を見たまなみは、急いでポケットからハンカチを取り出すと、それをわたしの鼻と口に押し当てた。何かと思ってそのハンカチを捲ると、鼻の下に当てていた部分が赤く染まっていた。鼻血が出たようだ。右の頬骨辺りに、ジンジンとした痺れに近い痛みと火照るような熱さを感じる。後で腫れそうだ。


 真剣な顔で心配しているまなみを見て、わたしは昔のことを思い出した。アザだらけで体中が痛いのに、逆にまなみを気遣っていたあの時のドゥクスのことだ。ドゥクスのケガと比べたら、わたしが受けたのは掠り傷のようなものだ。

 鼻の下を拭きながらハンカチを取ると、わたしを見たまなみが驚いたような顔になった。教室の他の生徒たちも、何か意外な物を見たかのようにざわついた。先生を呼ぶために教室を出ようとしていた数人の生徒も、こちらを向いて立ち止まっている。


「ケガをさせるつもりが無かったことは分かっています」


 わたしがそう言って、曽田にあと一歩の所まで近付いた。


「でも、かなり痛かったですよ」


 そう言って、わたしはゆっくりとした動きで彼の頬を叩いた。


「これでおあいこです」

「あ……、ああ」

「保健室に行ってきます。日直の人は先生が来たら、ふざけていて顔をぶつけたと言っておいてください。まなみ、ついて来て」


 廊下に出てしばらくしてから、まなみが話しかけてきた。


「いっちゃん。さっき、ドゥクスのことを思い出したでしょ」

「そうよ。どうして分かったの?」

「ハンカチを取って顔を見せたとき、すごくいい笑顔だった。あんな笑顔はドゥクスのことじゃないと見せないよ」

「え? わたし、鼻血を出しながら笑ってたの?」


 コントやアニメのギャグシーンならともかく、現実ならただの危ない人だ。


「ちゃんと拭いてたから、血はそんなに目立ってなかったよ」


 まなみはそう言ったけど、後で『鼻血女』とか言われそうだ。




 公式戦ではないが初めてわたしがプロ棋士に勝ったとき、新聞社のサイトにわたしの記事が載った。見出しには『中学生美人棋士』と書かれていた。こういう記事では美人という単語を簡単に使うものだけど、ドゥクスと離れてからの努力に少しは効果があったのだとすると悪くない。

 それ以降、わたしを美人と呼ぶ人が増えた。もちろん、記事の前後でわたしが何か見た目を変えたわけではない。世間の評価というのはこんなものなのかと思う。もちろんすぐそばに『本物』がいるから、わたしが勘違いする心配はない。




 高校の入学式。わたしは新入生代表の挨拶をするため、会場のステージに上がった。中学校では大勢の前で話したことが何度もあり、こういうことには慣れていたはずなのに、この中にドゥクスがいるんだと思うと変に緊張してしまう。

 ドゥクスの姿を見たらさらに緊張がひどくなりそうだ。わたしはドゥクスがいるはずの場所に目を向けないようにしながら挨拶を済ませた。ヒナから式の後で、挨拶の間ドゥクスはずっとわたしを見ていたと教えてもらった。ドゥクスは今のわたしを見てどう思っただろう。


 クラスの席は出席番号順の並びで、わたしの席は窓側の一番前だった。この教室は南校舎の二階にあって、玄関からグランドに向かう生徒が窓のすぐ下を通っていく。普通は歩きながら二階を見上げたりしないので、わたしは一方的に生徒たちの姿をながめることが出来る。

 今日、ヒナたちのクラスでは三時限目に新体力テストがあるため、ドゥクスも休み時間にこの下を通ることになる。いよいよその時間になり、ジャージに着替えた生徒たちが何人か通り過ぎた後、5~6人の集団のすぐ後からドゥクスが姿を現した。

 こうしてみると、ドゥクスの背丈は平均より高いけど目立つほどではない。170センチ台の後半というところかな。容姿には少しだけ昔の面影があって、ヒナは絶賛していたけど、客観的には中の上か上の下といったところだろう。すぐ前を歩いている同級生と比べて落ち着いた雰囲気を感じる。

 ドゥクスが近づくにつれて、自分がどんどん緊張していくのが分かる。なんだかドゥクスの周りだけ明るくなって、その姿が背景から浮き上がっているように見える。まだ10メートル以上離れているのに、望遠レンズで見たかのようにドゥクスの姿がわたしの視界を占めている。


「高村! いるか~っ」


 ドゥクスの前を歩いていた集団から突然大きな声がした。私の机の前に男子が一人現れて、窓を大きく開けた。


「なんだ?」


 その声に反応して、ドゥクスがわたしの方を、正確には窓を開けた高村君の方を見た。わたしと高村君の位置は、ドゥクスからだと窓枠を挟んで並んで見える。当然わたしの姿も目に入っただろう。予想しなかった事態にややパニックになりながら、わたしはドゥクスに向かって小さく手を上げ、なんとか微笑んで見せた。


 でもドゥクスは、そのわたしに何の反応も示さなかった。


 わたしにはとても長く感じたが、実際にはほんの数秒のことだろう。わたしには一度も視線を合わせず、気になることは何もなかったといった様子で顔を前方に向け、ドゥクスは振り返ることなくその場を立ち去っていった。




「……さん。歩原さん!」


 気が付くとわたしの横には先生がいて、わたしの肩を揺すりながら名前を繰り返し呼んでいた。


「どうしたの? 大丈夫? ひどい顔色よ」


 先生の言葉がわたしの頭に届くまで、しばらく時間が必要だった。


 誰かに抱えられるようにして教室を出た。廊下の窓から見えるのは、この南校舎と並んで建っている北校舎だ。その壁はほとんどがガラスに覆われて、そこに雲一つない青空が映っている。その光景に何かを感じてわたしは立ち止まった。何だろう。私は何か大切なことに気付かないでいる。


「あ……、ああ!」


 わたしは、支えてくれていた手を振り切るようにして廊下を走り出した。階段を駆け下り、上履きのまま玄関を出て、さっきまでドゥクスがいた場所に立った。ここから見える教室の窓にも明るい青空が映っている。教室の中に誰がいるかは、全く見えなかった。


 近づいてくる足音に振りむくと、保健委員になったばかりの倉本さんが息を切らしながらわたしの後を追って来ていた。


「どうしたの……急に」

「大切なものを無くして、すごくショックだったの。でも勘違いだった。……変なことを言ってるわね。迷惑をかけてごめんなさい、もう大丈夫」

「そう? 良かったわね。無くし物がここに落ちてたの?」


 教室の窓を見上げながらそう言った倉本さんに、わたしはあいまいな返事をした。




 はっきりしたのは、わたしにとって5年前の出来事がトラウマになっているということだ。なんとなくは気づいていたけど、これほどひどいとは思わなかった。今回はわたしの勘違いだったから平静に戻れたけど、本当に無視されることがあれば、わたしはドゥクスの前でさっき以上の醜態を見せるだろう。


 嫌だ。絶対に嫌だ。このトラウマはドゥクスに知られたくない。これじゃまるで、わたしがドゥクスに傷つけられたと言ってるようだ。綾香さんが死んで、わたしたちに裏切られて、あれほど酷く傷ついていたドゥクスに、もっと優しくして欲しかったと言ってるようなものだ。あまりの身勝手さに、自分に対して怒りが湧いてくる。


 わたしからドゥクスに対して行動を起こすことは難しくなった。ドゥクスが無視しないという確証が無ければ、ドゥクスの顔を見ることもできない。さっき感じた喪失感は、わたしにはあまりに辛すぎた。

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